自惚れ

この29年間、割と自分は「聴き上手」なほうだと思い込んでいた。それなりに友達もいるし、それは「聴き役」に徹しているからだとずっと思っていた。しかし、最近衝撃的な事実が発覚した。私は人の話を聴いている振りは出来ているが、決して聞き上手という訳ではないということだ。むしろ、人の話の最中に全く別のことを考えて、上の空ということの方が多い。気づいたきっかけは、妹と電話していて「お姉ちゃんは同じ話を何度もする」ということを言われて、あれ?私って聞き手じゃなかったっけ?同じ話を何度もするってめっちゃつまらんやん。。。と軽くショックを受けたことだった。直接、話聴いてないよね、と言われたことも何度かあるが、なぜかそんなに気にしていなかった。しかし、今回は直接言われた訳ではないけど、なぜか、自分が思っていた自分像と違う風に相手に受け取られていることにすごくショックだった。母は聴き上手で、誰のどんな話でも話している相手の立場や位置に自分を合わせて話を聞くことができる。私の中では、「聴き上手」な人の代表といえば母なのだが、残念なことに私はそういう点では母に似ていない。というか、これは後天的なスキルだから、磨こうとしなかった自分の責任だなとも思うが。子供のころは、黙って話している人の方を向いているだけで「話しを聴いている子」という扱いを受けるから楽だった。実際話を理解していたかというと、いつも上の空だったような気がする。小さい頃から空想することが好きだったこともあって、他人の話はノイズであって、耳を傾けるという重要な姿勢は全く身についていない。ラジオが好きなのも、ノイズのように聞き流しながら自分のやりたいことに没頭できるからである。要は脳内に他人の話を聴こうという相手中心の考えが育っていない。このことに気づいてから、ちゃんと話を聴こうという姿勢はどうやって育つのか、果たして30年近く他人の話を聴いてこなかった人間にそんなことできるのか、途方に暮れている。もう無理なのかもしれないという諦めのような、楽したいなというまた自分中心主義が立ち上ってくるが、どうしようもない。家族の話までも聴けないというのは人としてどうなんだろうか、と思ってしまう上、20代前半は人の話を聴く仕事「カウンセラー」を目指していたという嘘みたいな話に自分でも呆れてしまう。ただの話下手で聴くこともままならない、要はコミュニケーション下手な私が、高いコミュニケーション能力を必要とされる職業に憧れていたし、当然なれるという自信があったのは、自己分析に失敗していたんだなと今更気づく。人に興味があると思っていたから、「人間社会学部」を大学でも選択したけれど、思ったほど人に興味がなかったことに最近気づき始めた。雑学レベルで人間のことを知るのは「へぇ」という感じで好きだが、それ以上でも以下でもない。この人を深く知りたいという欲求が沸いたことが人生で一度もない。その代わり、自分がどういう人間なのか、という点においては世間一般のそれより強い気がする。自己愛が強いということなのかもしれない。自分という人間が掘るに値する深い人間だと思い込みたいのかもしれないが、30年そこそこで堀ったところで出てくるものは、そこにただ穴が開くだけだ。何もない。自己に向けるエネルギーをもっと誰かのために使えたら、自分の生きている意味もわかるのかもしれないと思うと、今のままの自分はただ、鏡の前でその中にいる虚像の自分とじゃべっている「自惚れ」だ。30年もの間、ずっと鏡だらけの部屋に閉じこもっていたような気がする。映る自分は何重にも重なって、どこに本当の自分がいるのかもわからず、ただ、ぼーっと鏡を見つめていた。誰かが部屋をノックするが、私は完全に無視していた。耳はただの飾り。そう思えるほど、自分に溺れていた。

最近、カウンセラーの先生に話を2週に一回程度のペースで聴いてもらっていた。主に「自分」のこと。ここでも私は、先生を鏡にして独り事を喋っていたような気がする。ただ、違うのは反応が返ってくるということ。反応によって、あ、あんまり響いてないな、とか、眠そうだなとか、微妙な身体的なことが気になってくる。でも仕方ないな、とも思う。どうせ「独り事」である。眠くなってくるのもそりゃそうだよなと思う。でも話を聴くプロに対して失礼だなとも思ってしまう。最初っから話なんて聞いてもらえると思っていない。自分の話なんて聞くに値しない話だと思ってしまう。聴く価値のある話ってなんだろう。価値のない話ってなんだろう。聴く価値という響きが気持ち悪くもある。価値のある無しで人の話に線引きをすることが非常に下品なことのようにも思える。そんなに自分は品のある人間なんだろうか。正直、本来の自分は品格とはかけ離れたところにあるような気がしていて、そう思うのは、品のあるものや人に強く憧れの感情を抱くからだ。またも、無いものねだりである。品の無い、下衆なものに成り下がっている自分を認めたくないのである。高尚な自分を演出するために色んな鎧をかぶっている。「センスいいね」と言われたくて仕方がない。本当にセンスのある人は自分から求めたりしない。下衆な「承認欲求」の塊である。いつもは自分を肯定したくて、されたくてこういうところに文章を書くのだが、今回は少し違っている。ネガティブなことをそのまま吐き出すこと。それが綺麗なものでなくてもいいやと思っている。到底、「下衆な自分」は肯定できそうにない。美しさとは対極にある自分にどう折り合いをつけるか。一生折り合いなんてつかないのかもしれない。許せる日がくるんだろうか。他人の話に耳を傾けている自分が想像できない、いつも独演会、独り芝居で舞台の上で右往左往している。よく見る夢がある。自分だけ集団のダンスから外れてしまって、大恥かく夢である。どうも毎回上手くいかなくて、夢の中で泣いている。このままでいい訳ない、でもどう打開すればいいのかもわからない。ぐるぐる独りで考えていても仕方ないのは、何度も何度も繰り返していて知っているはずなのに、また繰り返す。この自惚れがいつ終わるのか、終わらせることが果たして自分でできるのか?一回死んで生まれ変わるくらいのショックを味わう?そんなこと簡単に言っても実際はそんなことめんどくさい。めんどくさい自分、めんどくさい他人、人間のめんどくささに付き合ってられねぇという気持ちもある。でもそれが人間だよね、みたいなことを軽く言う人がいるが、面倒くさいのはもう懲り懲りなのだ。人間関係、特に女性同士の人間関係は面倒くさい。私の感受性は私のもの、邪魔しないでほしいと思ってしまう。あと、お節介な人も苦手。必要以上に干渉してくる人も嫌い。私を決めるのは私だから、邪魔しないでほしい。どうか、自分のことは自分でなんとかしてほしいし、他人の意見なんてどうでもよい。冷たい人間なのかもしれない。でもその距離感がちょうどいい。私がいいと思ってるから、それでいいじゃないか。他人にとやかく言われる筋合いはない。つまらない人間なのかもしれない。でもそれが今の自分。つまらないなりに生きている。

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