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「私」は正確には「私」ではない。

突然だけど、「時間」はあると思いますか?
私は、こう思う。

時間は流れていない。
ただ、点と点として存在しその瞬間瞬間を飛んでいる。
だから今、未来を経験することもできるし過去を呼び起こすこともできる。
そもそも、未来も過去もない。
その地点から見て、前にあるか後ろにあるかの違いでしかない。
横にあるか、もしくは縦にあるか、かもしれない。
『今』という地点を今経験しているだけで、過去と連続して繋がっているわけではない。
こういう考え方をなんて言うんだったか、忘れたけどこれを知って私の時間の感覚が腑に落ちた。
なんとなく、未来がわかるような気がしたり、ここにいるのにここにいなかったり、夢で違う世界線にいたり。
理屈や理論ではたくさんの説があったりわかっていることもあるんだろうけど私の感覚で腑に落ちないと意味ないからね。
とにかく、うまく言えないけど『時間は流れていない』と思っているからこそ、その点一つ一つを楽しむことができる。
そして『その点を眺めているもの』の視点があるからこそ、全体を俯瞰することができる。

私は「エルハワリ愛実」だけど、正確には「エルハワリ愛実」ではない。
「エルハワリ愛実」の体を借り、人間を体験しているもの。
この体で、この目からしか見れない世界を体験するために入っているもの。
このキャラクターを、楽しんでプレイしているもの。
『人間としての私』はいろんなことに揺れ動き、楽しみ苦しみ生きている。
でも『入れ物として私を使っているもの』は、どんなことがあろうが何をしようが傷つかない。
映画で主人公が怪我をしても、映画を見ている私たちは怪我をしないのと同じ。
ただ見ているもの、だから。
それを根底でわかっているから、思い切り安心して「人間としての私」が生きられる。

私は、私であって私じゃない。だからこそ、私が好きだ。

ここに集約できる。
そして、こういうことを表現していきたい。
私は、「人間としての私」を「下界」、「入れ物としての私」を「天界」と呼んでいる。

「天界」と「下界」を結ぶもの。
「世界」と「世界」と繋ぐもの。
「わたし」と「あなた」を留めるもの。

そういうものを、壮大だけどとても繊細なものを、どこまでも誠実に作ってみたい。
どうなるのか。どう見るのか。どう感じるのか。
楽しみで仕方がない。

言葉を綴ることで生きていきたいと思っています。 サポートしていただいた分は、お出かけしたり本を読んで感性を広げるのに使います。 私の言葉が誰かに届きますように。