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紅茸ゼロサム その7

今宵は月が出ました。
夫が仕事から帰ってくると、
妻はいつものように微笑んで、珍しい酒が入ったと夫に勧めます。
夫もいつものように生返事をしながら、
やがて鼻をしかめ、
香を焚きすぎではないかと呟きます。
そのうち、酒に酔ったか香に焚きしめられたのか、
ふらんふらんと眠りについてゆきました。
妻は顔をそっと覗き込んで、
夫が夢の底へ落ちたのを確かめると、
部屋の隅から、隠しておいた絹糸の束を取り出しました。
真新しい縫い針に、糸の先を通します。
昼のうちに煎じておいたクサノオウの汁。
その汁を椀に入れてくると、夫の右手を浸し、それから自分の左手を浸しました。
しばらく置きますと、軽い痺れがやってきて、
汁を浸した方の手の、
皮膚の感覚がだんだんなくなってまいります。
妻はすっかり麻痺した自分の左手と、夫の右手を引き寄せて、掌を合わせました。
皺のひとつひとつまでぴたりと合わせると、
まず、夫の親指の付け根に、針をひと刺し。
ぷちと穴が空き、その穴を、絹糸がずずずと通っていきます。
次に、自分の親指の付け根にひと刺し。
また夫の皮膚にひと刺し。
合わせた掌が、もう二度と離れぬよう、その縁を、丁寧に縫いあわせてゆきます。
親指が終わると、次は人差し指。
ほつれぬように、かがり縫い。
ひと針、また、ひと針。
絹糸が皮膚を通るたび、滲み出したふたりの赤い血が、糸に染み込んでいきます。
二枚貝のように合わさったふたつの手を、
血染めの赤い糸が、徐々に縁取ってゆきます。
やがて最後のひと針を終えると、
妻はすっかり満足した顔で、
すうっと眠りに落ちてゆきました。

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