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紅茸ゼロサム その2

春夏秋冬を、600回ほど巻き戻してください。
舞台は堺の港。
異国との貿易で賑わう町の、
その貿易商人の家です。
後に会合衆のひとりであったとかなかったとか、
勢いあまるこの家には、娘がひとり、おりました。
裕福な家庭の例にたがわず、この家の主人も娘には贅沢三昧の甘やかしっぱなし。
産みの母親は、とうに死んでおります。
若い継母がおりまして、娘にとっては優しい姉のような存在。
父親には面と向かって言いづらいことも、この継母にはひそひそと持ちかけてまいります。
ある日、娘は継母に恥じらいつつも告白を致しました。
好いた男がおります、と。
それは誰じゃと訊ねる継母に、娘がひそりと呟いた名は、先日の宴の席にも来ていたある男の名前。
継母はその名を聞くなり、眉をひそめました。
あの男…?

先日の宴の晩。
朧月に羽虫も浮かれる、生暖かい晩のことでした。
賑やかなさんざめきの中心から、ふと見渡した庭の先、
かがり火の炎がボウッと、その傍らに佇むひとりの男の顔を照らし出して、継母はドキリとした胸の鼓動にあやうく手の盃を取り落としかけたのでした。
…さて、これはちと御酒を過ごしたか、
と笑いながら今一度眼を凝らしてみ、
…やはり夢ではありません。
その男の顔は、なんと我が娘と瓜二つ。
娘がひょうげて男の出立ちでおるのかとも思えましたが、
くるりと頭を座敷へかえせば、
当の娘は父親の隣で微笑んでおります。
継母は、彼方此方と見比べて、まるで鏡を見るようじゃと、狐につままれたような心地すらしてまいりました。
周りの者にそれとなく男の在所を訊けば、西外れにこじんまりと居をかまえる商人の家とか。年老いた夫婦の、ただひとりの跡継ぎよと、人の噂にかまびすしい魚問屋の奥方が、もういくつめかの菓子を頬張りながら申します。
さても、例えきょうだいというてもあそこまで瓜二つの顔があろうものか、継母は今一度、かがり火の向こうを窺いました。
するとその男、継母の視線に気付くや、
何やら色目を使ってまいります。
「そういえばなかなかの好き者という噂じゃ」とは、
先ほどの魚問屋の奥方。
粘りつく視線。
我が娘に言い寄られたような居心地の悪さを覚え、継母は逃れるように席を立ったのでした。

ところが今、目の前の娘はようやく膨らみかけた胸を押さえ、その瓜二つの顔と夫婦になりたいと訴えております。

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