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紅茸ゼロサム その9(最終話)

救われた思いで男は汁を受けとり、寝ている娘の口元へ流し込んだ。
一瞬、胸を浮かせてから、娘は眠りよりも更に深い深い闇の底へ。
男は震える手で糸を引き、縫い目をひとつずつ、ほどいてゆきます。
ず、ずず。ず、ずず。
解放される喜びに比ぶれば、糸を引き抜く痛みなど一瞬にしかず。
血走った目を凝らし、抜く度に長くなる糸をもどかしく手繰りながら、
ず、ずず。ずずず。
ようやく最後の縫い目をほどき終えると、掌をべりべりと引き剥がし、男は娘を振り向きもせず、朝焼けの彼方へと逃げてゆきました。

間の悪かったのは、そのとき娘が目を覚まし、出ていく男の後ろ姿を見てしまったこと。
クサノオウの汁は、塗れば薬にもなりますが、決して飲んではなりません。
飲めば毒薬、体中が麻痺したあと、幻覚、吐き気、強い目眩、それからのちは泡を吹いて苦しむまま、永遠の眠りへつくばかり。
男への強い想いが娘の目を開かせたのも一時のこと、娘もまた、泡を吹いて息をひきとりました。
手には赤黒い糸を握りしめたまま。

よく働く婿殿に逃げられたのはまだしも、可愛い娘に先立たれ、
さすがの豪傑も目に涙。
悲しみを顔の皺に刻み込んで、前にも増して仕事に精を出しております。
継母は、りんどうの花を娘の墓前に供え、手厚く経を詠む毎日。
蘇芳襲に日は暮れて。
しみじみと雁のゆく空を眺める夫に、
まるまると太った我が息子を見せながら、継母は、
娘が欲しゅうござりますかと訊ねました。
そうじゃのう、と夫が曖昧な返事するを跳ね返すように、
「良い良い、くびられぬような、まともな子をまた産みますゆえ、可愛いがってくださいまし」
継母は、朗らかに微笑むのでした。

…とまあ、こういう次第で。
お察しの通り、この娘さんをまぁ、喰わしてもろうたわけなんですけれども。
当然のことながら、喰うまで事情は知らんわけですから。
喰うたあとでえらいこっちゃ、ですわ。
この娘さんの男への想いいうたらもう、…未だに消化できてまへんね。
…実はなぁ。この辺りに埋まってるみたいなんですわ。その男が。
どんな暮らししてたのかは知りまへんけどな。
まぁ、もう埋まってるいうたかて骨だけですやろし、どうでもええ話ですけど。
けど、まだ一緒になりたいんやろなぁ。
娘さんの記憶が男を捜して、捜して捜して、
とうとうここまで辿り着いたいうこっちゃ、なぁ。
…何かの縁で喰わしてもろた娘さんですし、このしつこい記憶もどうにか消化しますわ。
ほな、そろそろこの身体も返さんとな。

 ーーー立ち去ろうとして、表情がかわる。一所に目を輝かせ、

お前様!

 ーーー駆け寄り土を掘り返そうとする。やがてハッと紅茸に戻り、

やれやれ。
これやからもう。
難儀なこっちゃ。
骨は喰わんちゅうのに。
…皆さんもな、オモロい記憶はええけど、あんまり執着心残したまま死体にならはるんはやめといてください。
大変迷惑するんで。
…ずうっと、引き摺っていかな、ならんのです。」

 溜め息をつきながら、退場。
                          終

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