【まとめ】100de名著(エチカ)
概要
本文はタイトルの番組を見てまとめたものです。あくまで私の主観によるまとめですので、より正確に知りたい場合は番組をご覧になるか以下書籍で内容をご確認ください。
詳細
プレゼンターは国分功一郎さん。
第一回 善悪について
【本の解説に入る前のトーク】
国分さん「(アプリのたとえで)スピノザはOSが違う」
エチカはエートスから来ている。エートスはすみかって意味。すみかにいることによって自然とできる基準とかルールがある。
【神について】
スピノザは哲学に幾何学の公理や定義の手法を用いた。
出発点は「神」
神は無限→神に外側はない→すべては神→私たちも神の一部
スピノザの言う神は「宇宙」に近い
スピノザの考えは「汎神論」
無神論に近い
アインシュタインもこの考えに影響を受けた
【スピノザの「善」と「悪」】
国分さん「エチカは5部あるけれど、順番通りに読まなくていい。4部が具体的なのでオススメ。」
良い悪いは命令に結びついている。それっていいのって?」いうのがスピノザの発想。
完全・不完全について、見たもの(一般的観念)に対してしか判断できない。
でも完全って偏見ではないか?
善悪もこれと同様ではないか?
善悪は比較によってしか存在しない。
善悪は組み合わせの結果。
国分さん「トリカブトは人と相性が悪いので、悪とみなされてしまう」
善悪については「活動能力を増大させるか否か?」
活動能力が高まっているときは「楽しい」
善悪は感情と直結している。
賢者とは「いろいろな楽しみ方を知っている人」
第二回 本質について
国分「力をスピノザは重視していた」
国分「自分を維持しようとする努力(コナトゥス)こそが人の本質」
力を本質としたのが大転換。それまでは形だった。
馬の例え。農耕馬と競走馬は同じ馬の形だけれど、力と使い方は違う。
前回の正義の話と組み合わせて考えてほしい。
農耕馬にとっていいことと競走馬にとっていいことは違う。だから「形が馬なのだからこうあるべきだ」としているのはおかしい。
それって人の場合も同様。
「欲望」という本質
「欲望とは人間の本質が与えられたそのおのおのの返上によってあることをなすように決定されると考えられる限りにおいて、人間の本質そのもの」
コナトゥスは原理。
欲望は本質。
変状とは「刺激を受けて変化すること」(陽に当たり続けると肌が黒くなることとか)
欲望はそれまで否定的だったけれど、スピノザは中立的にみた。
欲望がいいかわるいかはケースバイケース。
人間の感情を見つめる
「感情とは心体の変状」
喜びは完全性がアップすること。悲しみが完全性がダウンすること。欲望と、その2つだけが感情。他の「気持ち」はそれらの組み合わせ。
「全ては完全、不完全なものはない」というのがスピノザの主張なので完全性って言葉を使っていると思われる。
嘲弄と笑いは別物だとスピノザは強調した。
第三回 自由について
国分「スピノザは一般的な自由というものを疑ってみた」
意志を持つのはなんらかの原因があるから。だから、自由な意志なんて存在しない。
国分「欲望の原因は認識できない。行為は意志で一元的に決定しているものではない」
事故の本性の必然性のみによって存在し、事故自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われている。
これに反してある一定の様式において存在し、作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる
国分「例えば魚は水の中でしか生きられない。水の中から出るのではなく、水の中でいかにうまく生きるかが自由」
自由の反対は強制
国分「自由の逆はその人の力 必然的な法則が踏みにじられた強制された状態」
【強制の果ての自殺】
自殺する人々は無力な精神の持ち主であって自己の本性と矛盾する外部の諸原因に全く制服されるものである
国分「スピノザは自殺する人を非難しているわけではない」
「人が自殺と読んでいる現象は外部の原因によるもの」と知ることよって何かが変わるかも。
受動と能動
行為が外部の原因 自分以外の力を表現 受動
行為がその人の力を十分に表現しているとき 能動
国分「カツアゲについて考える。カツアゲって能動? 受動? 行為の原因はカツアゲしているヤンキー。だから受動。逆に例えば困っている人にお金を出すことは能動。お金を出す行為だけ見れば全部能動だけれど、スピノザの定義だと別物」
自分の感情について理解することで、自由を獲得できる。
人間は完全に自由にはなれないでも、感情について理解することで少しだけ自由を獲得できる。
現代はものすごく「意志」への過信がある
不登校の子は意志が弱いわけではない
第4回 心理について
國分「スピノザは真理を別の捉え方をしている」
真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有していることを知り、かつそのことの真理を疑うことができない(第三部 定理四三)
國分「物事を正しく認識するとそのこと自体が正しいと教えてくれる感覚」
伊集院「俺、子供いないんだけれど、子供は可愛いってこととか?」
実に光が光自身と闇とを顕わすように、真理は真理自身と虚無との規範である(第二部 定理四三 備考)
國分「真理が真理の基準だって言ってる。真理の基準を真理の外側に立てられない。真理の基準は真理の中になければいけない」
スピノザの「真理」は正しさを検証できない!
國分「スピノザはOSが違う」
スピノザはデカルトに影響を受けた。
「我思う、故に我在り」
他者を説得するデカルトの「真理」
対してスピノザは「私にとって真理がどう語りかけてくるか」を考えた。
フーコー曰く「真理の捉え方が変わった。それを『デカルト的契機』と呼んだ。それまで、真理はレベルアップして理解できるものだった。しかし、デカルト以降、真理は教えられる対象になった。ただ、例外がいるそれはスピノザだ。スピノザは真理を獲得するには自分も変わらないといけない」
主体の変容が真理・自由への道!
この人生において、我々は特に、幼児期の身体を、その本性の許す限りまたその本性に役立つ限り、他の体に変化をさせるように務める。
すなわち極めて多くのことに有能な身体、そして自己・神および物についてもっとも多くを意識するような精神に関係する身体に変化させるように努める。 第五部 定理三九 備考
國分「人間は最初自由ではない。少しずつ自由を獲得していく。例えば10代で理解できなかった小説を大人になって理解できるようになるとか」
伊集院「小津安二郎さんの映画とか捉え方が変わった」
真理は自分で体得 体験するしかない!
國分「水泳とか。自転車の乗り方とか。言葉では説明できるけど、説明したからって相手ができるわけではない」
伊集院「落語とかもきっとそうですよね」
國分「スピノザは『認識することも認識する』って言っている」
國分「他を知ることは自分を知ること。自由になること」
■スピノザと公共性
個人と社会の理想的な関係とは?
人間にとっては人間ほど有益なものはない。
(...)
すべての人間がともどもにできるだけ事故の有の維持に努め、すべての人間がともどもにすべての人間に共通な利益を求めること、そうしたこと以上に価値ある何ごとも望み得ないのである。 第四部 定理一八 備考
國分「簡単な例は助け合うとか」
理性に導かれる人間は恐怖によって服従に導かれることがない。むしろ彼は、理性の指図に従って自己の有を維持しようと努める限りにおいて、言いかえれば(...)自由に生活しようと努める限りにおいて、共同の生活おっよび共同の利益を考慮し(...)国家の共同の決定に従って生活することを欲するのである。 第四部 定理七三 証明
國分「恐怖によって人間を服従させなければダメだって考えもある。スピノザの同世代のホッブスとか。でもそういう考え方じゃダメだってスピノザは考えた。一人一人のコナススを大事にし、一人一人の自由を尊重すべきだ」
國分「個人の本姓を抑圧して押しつぶすようなことを国家がする限り、周りに対して慮る気持ちを人は持てなくなって社会はダメになる」
國分「個人主義の意味を考え直す必要があるかも。自分のことを大切にできる人は他人のことを大切にできるということ」
伊集院「おばあちゃん子なので介護職で食べていける社会」
國分「今の日本には暇が必要」
國分「哲学が身近であると聞いて嬉しい」
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