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生き泊まり

わたしが子供のころ、実家は街はずれの住宅街にあった。
その住宅街は古い家がぽつぽつと点在している、いわゆる団地で、周囲には商店や会社のような、住宅以外の建物は一切なかったので、便利な立地とはいえなかった。


実家をでて、大通りに向かうのと反対側の道は、その住宅街の奥地になっている。進んでも見ず知らずの他人の家があるだけで、普段は行くこともない。散歩とか、回覧板をとどけるぐらいだろうか。さらに先にいっても行き止まりにあたるので、結局引き返すしかなかった。

行き止まり手前の道路わきには、古い一軒家がぽつんとひとつあった。庭にはどころどころ土のついた軽自動車があり、行き止まりの先は、数メートルもある高い草が茂っていて、視界を遮っていた。その奥には水田と雑木林が広がっていた。

とても人が入っていけるようなところではなかった。子供にとってはとくにそうだったが、子供だからこそ、大人なら見向きもしないような行き止まりに、なぜか当時のわたしは興味をひかれていた。

「この行き止まりの先にはいったい何があるのだろう」

今思えば、それは子供らしい純粋な将来への希望や不安を、身近なものに投影していただけなのだろう。わたしはときどき、その行き止まりを見に行っていた。

ある日、その行き止まりの手前、道の真ん中に、花柄のシートをしいて、腰をおろしている少女がいた。

小学生くらいだろうか、少女は膝をかかえて、じっと行き止まりのほうを見ている。眉一つ動かすこともなく、頬を緩めることも一切なく、眼光鋭く、にらみつけるように、行き止まりの先を見据えていた。

ここは行き止まりだから車やほかの通行人が通ることもほとんどない。道の真ん中を占有していても、問題はないようだ。

何をしているの?と、臆病なわたしは気軽に声をかけられなかった。ただ、わたしもつられて、食い入るようにその行き止まりを見続けた。

わたしは親から、行き止まりの先にいくことを禁止されていた。道もまったくないし、視界もきかないので、遭難の危険もある。安全面を考えると当然だろう。だからその先に足を踏み入れることはできず、じっとここから見ることしかできなかったのだ。

わたしはたまに行き止まりを訪れたが、少女はそのたび、道にシートを敷いてそこに座っていた。そして鋭い眼光を送っていた。わたしが見る限り、何時間でもそこに居続けていた。

ある日、雨が降った。

わたしが気になって行き止まりにいくと、少女はやっぱり、シートに腰を下ろしていた。片手に傘を握っているが、風も強く、体の一部は雨に打たれすっかり濡れてしまっている。

わたしは思わず、自分のもっている傘を少女の頭上にさした。少女は驚いたのか、目を丸くして、傘と、それをさしているわたしを見上げた。普段見せる鋭い眼光の横顔とは、別人のような、あどけない、おだやかな表情だった。

それから少女とは少し話すようになったが、結局名前を聞くこともなかった。ずっとここにいてだいじょうぶ?と聞くと、すぐそばの行き止まりのところにあるのが家らしいので、だいじょうぶと答えたのは覚えている。

その雨の日から、どのくらいたっただろうか。ある日を境に、行き止まりにいっても、少女の姿を見かけなくなった。何度か見に行ったが、姿を現すことはもうなかった。道路わきの少女の家には、かわりに、トラックやら黒塗りの高級車がとまるようになり、やがて売家の看板がかかげられた。

少女はいなくなった。どこにいったのかもわからず、突然すぎて別れをいう機会もなかった。道路には、彼女がしいていた花柄のシートが残っていた。

それから数十年後がたった。それ以降、彼女をみかけることもなかったので、存在さえすっかり忘れていたが、実家の掃除をしていたら、当時の花柄のシートをみつけた。ふと気になって、行き止まりにいってみた。

彼女―もう大人になっているはずの少女―の家だった、売家になっていたところは、すでに跡形もなく空き地になっている。ただ、行き止まりの先の草木は、ところどころまばらになっていたので、なんとか足を踏み入れられるようにはなっていた。大人になったら、こんなに簡単に入れるものか、とどこか驚きながら、この先に一歩を踏み出した。

当時まったく見ることもできなかったその先には、古い家があった。事故か何かあったのか、壁の一部は崩れ、部屋の中が外からでもあらわになっている。小さな小屋のようで、住居というよりは物置に近いだろうか。

ただ、家の中には机椅子や冷蔵庫など、少しばかりの家具や生活用品はあった。作業部屋といったところだろうか。絵具のつぶれたチューブが毛先のばらばらな筆、やぶれたスケッチブックなどが乱雑に落ちていたので、誰かが絵をかいていたのかもしれない。いずれにしろ、十数年は放置されていたようだ。

机の上には最近したためたような、きれいな便箋がたたんであった。

だれかが最近、ここにいたということだろうか。わたしは数十年來の記憶をとりもどしつつあった。少女の顔がぼんやりと、脳裏によみがえっていく。突然消えてしまった、名前も知らない、あの鋭く、穏やかなめつきをした少女が、小さな膝をまるめてかかえている様子を。

手紙を拾うと、ころんと、何かが落ちる音がした。手紙に何かが挟まっていたようで、周囲をさがしたが、なかなか見つからない。手紙が気になったので、先に読んだ。

…ここにそのすべての内容を書くような無粋はしない。手紙には宛名も何もなかったが、両親や友人、家族に対する感謝が、しっかりとつづられていた。

『思い切って、思い出の場所にかえってこれて、ほんとうによかった』

そう手紙には書いていた。わたしはこれを読んで、少なくても、もう彼女は、2度とここにはこないような気がした。ひととおり手紙に目を通して、床に転がったものをようやく探し当てた。それは指輪だった。結婚指輪だろうか。にぶいわたしはようやく気付いて、周辺の草を必死にかきわけて探した。幸いなことに、ヒトのそういった気配のようなものはなかった。

わたしには少女がそのあと、どこへ行って、どういう人生を送ってきたか、知る由はなかった。しかし、子供のころ、この先はどうなっているだろうという希望と不安を共有していたのは確かだったし、いまこうして、この手紙をしたためた、彼女の気持ちが、痛いほどに伝わった。

「こんなところに、こなければよかった」

そんな絶望を必死に覆い隠そうとしている彼女の気持ちが。

「どうせだれも、わたしの気持ちなんてわかってくれない!」

わたしの記憶のなかで、小さいころの彼女は背中をまるめて、そう叫んでいた

「そんなことはないよ」

わたしは思い切って、記憶の中の少女に、そう声をかけた。少女は、あの傘をさしたときと同じように、あどけない、不思議そうな表情をして、そして、やっと、笑ってくれた。

わたしは廃屋に残っていた便箋で手紙をしたため、その上に、拾った指輪を置いた。

『もしあのとき、わたしに声をかける勇気があったら』

家をでて、ふとふりかえると、草木の隙間から、細い光がさっとわたしの視界を覆った。

そうかと、おもった。わたしたちが求めていたのはこの先ではなくて、かすかな光のようなものではないか。絶望しか見えない中で、蜘蛛の糸のように垂れているはずの、細い細い希望という光。そういうものが、この道のない先に踏み出して、手に入れたかったのではないか。やっぱり、すこしこの行き止まりに踏み出すが、遅すぎたようだ。

廃屋はしばらくしてとりこわされた。新築の家がたち、とある夫婦が住む予定らしい。彼女は再婚らしいが、他人のことなので知る由もない。



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