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30年ぶりのキリスト降誕劇(遠くの国で苦しむおともだちのこと)

孫が娘と同様キリスト教系の保育園にお世話になっている。私はキリスト教ではないので全くの偶然だが、30年振りにクリスマスページェント(キリスト降誕劇)を鑑賞することになった。祖母として幸せなことではある。

登場人物はヨゼフ、マリア、天使達、羊飼い達、東方の賢者3名、宿屋の主人達と多く、おまけに今回はヨゼフもマリアも二人づついるという豪華版。数年前は人前で体を動かして披露することを飲み込めなくて、小さく丸まっていた彼も今日は元気に歌声を響かせていて、成長を感じさせられた。

幼い人たちに覚えられるように歌が7割、台詞は3割で構成されているこの歌劇は、どうやら定本があるらしく30年前に娘が覚えていて私も共に口ずさんでいたものと寸分変わらない。なんで知ってるの?と孫には驚かれた。

楽しんで帰宅して娘が言う。台詞にあったじゃない、祈りのことばが。わたしたちを神様を喜ばせる子どもにしてくださいって。ああ、あった(プログラムにも印刷されている)。あれ、おかしいよね?彼らは既に存在だけで神様を喜ばせているじゃない?この上どうしろって言うのよ?

キリスト教の教えについて詳しくない我らだが、大方の近代国家の憲法の精神である「天与の権利」つまり幸福に生きる権利は、これを肯定するところから我らの民主主義は始まっている。本当にね。神さまを悲しませているのは大人だよ、と応じた。

もちろん、アジアの果ての地で今日も血生臭い爆撃が続いていることに、私も彼女も日々心を痛めている。神さまでなくても、そもそも破壊行為、暴力行為は生命の法則に背く。大人達は、宗教問題だとか、政治的な絡みだとか、さまざまなことを言っては問題を直視しないできたが、これはごく単純な人権問題、命の問題だ。

歌劇は「昔ユダヤの人々は」で始まる。紀元前から彼らは差別に苦しめられて来たのだ。それで救い主を待ち侘びて「何百年も経ちました」。ところが今、彼らの一部は自分達の被害者である面を重く用いて、新たな加害の歴史を作っている。

孫たちがお世話になっている保育園には感謝しかない。その理念は素晴らしい。障害児も一緒に学び育つことができるようだし、年齢を越えて触れ合えるし、私の好きな垣根のごく低いこども園である。

それなのに、穏やかに終わった劇の後、私は少し寂しい気がした。思い起こせば、娘がお世話になった神愛保育園ではクリスマス会にはいつでも献金箱が回ってきた。そうだ、もう少し敬虔な雰囲気だった。私は当時シングルマザーで日夜孤軍奮闘していたし、貧しかった。いつでもへとへとに疲れていた。

けれど、それでも自分が困難の中にある人々への援助の手を差し出せる側であるのだ、と思わせてくれた。幼い人々の暮らしと成長に責任を持ち、社会にも小さな影響をもたらせることができる、と思えることは誇りだ。保育園は献金できる機会と共に、その誇りを与えてくれていたのだ。

私の好きだった新澤先生を始め、歴代の園長先生達だったら、なんとおっしゃっただろう。小さい人々にやさしい言葉で、この海の向こうには苦しむおともだちがいることを伝えなかったろうか。小さい人々はわからないながら、そのことについてあるいは心を痛めることがあったかもしれない。

それを宗教に携わる方に期待するのは無理だろうか。イエスの生誕を祝う日、神さまの愛について語るときに、大人がこの問題を避けてしまうのはやっぱりどうも嘘くさい。愛や信仰にはどこかに固い背骨が必要なのだ。

お世話になっている園を批判したりする前に、国境なき医師団への寄付箱でも作って持っていったら良かった。後から思いついても遅いのだけど。何か、できないか。いつでもそう思っている。

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