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多様性とハラスメントの境目って何だろう??

今日はこれについて書いてみます。

一定のルールに基づいてこれまでも行ってきたイベントに対してその内容が不適切であるという指摘があり、それが一部の政党からの指摘であったことから、会場運営を行っている県の外郭団体が炎上を恐れてこの手のイベントの開催に対して会場を貸し出すことを不許可にしたという話で、そこでいったんネットで炎上騒ぎになっていて、それに対して県知事が「それはちょっとおかしくない??」という話をしているというのが現在の状況です。

定められたルールに基づいて適切な運営が行われているのなら特に問題がないんじゃない??という話のような気がするのですけどどうしてこんなことになってしまったのでしょうか?
私なりにこの問題のステップをまとめてみます

炎上を仕掛けてどや顔する人達


「これっていかがなものか??」
という問いを立てることによってSNSの炎上を仕掛け、それが思った通りに燃え上がってどや顔する人たちの存在があります。いやこれって別にダメだとは思わないのです。そもそもジャーナリズムってそういう事なのではという風にも言われていますので。
でも、それって炎上が目的でなく、まさにあるべき姿はどうあるべきかという問いを立てるということが目的なのではと思います。社会の様々な矛盾や課題に光をあて、より良くするという視点で問うべきものであるはずなのに、なんというか批判して炎上することでマウントしている感があります。
文句を言うだけでは世の中良くなりません!!

何かあったらどうするんだ症候群の人達


そしてこういう炎上騒ぎに対して、どうあるべきかを考えることをせずに、とりあえず火を消すことにしか頭に浮かばず自分の責任を追及されることを恐れ「なかったことにしてしまえ!」と思考停止の行動に走る残念な人たちがいきなり中止という行動に出ます。まさに「なにかあったらどうするんだ症候群」です。

風見鶏そして漁夫の利を狙う人達


そしてこうして騒ぎが拡大していく中で、様子を見ながら、落としどころを捜してうまく立ち回ろうとする人たちの出番がやってきます。SNSの中での論調を見極め、落としどころに誘導するような発言で自体の終息を図るような立ち居振る舞いをとる人たちです。うまく立ち回れると評価が上がるのでどや顔できるという美味しい役回りを狙っています。
ハマるとめっちゃ良い意味で目立つことができるのですが、最近は、そうした人たちに対するSNS界隈の風当たりが強く、かえって火に油を注ぐことになることも多いようです(笑)

外面でなく内面と向き合った議論を!

今回の件も含めてこの手の炎上騒ぎを見ていて思うのは皆、他人からの視線ばかり(SNSでよい反応を得ようと)を気にしていて、あまり問題の本質に入っていっていない気がします。どうあおると受け(炎上も含めて)が良いのかばかりを気にしていて何が問題なのか?そしてどうありたいのか?に対しての論点が深まっていかない印象があります。

何かあったときの議論こそ大事なのでは??

でも、こういう問題提起を行うことは良いことだと思います。ネットの時代はその普及と活用範囲の広がりの過程の中でいろいろな問題を生み出し、それらに向き合って議論を深めることで問題を乗り越えながらより良いマナーやルールを作ってきたと感じているからです。

 非難や批判があるからといってそれを禁止するというのは最後の手段であり、そこでより良くするための議論と思考を止めてしまうという点はできるだけやらないほうが良いと思っています。非難や批判を受け止めつつ、でもそれを行うことに対して何らかの意味性があるのだとすると改めてそれを掘り下げて確認しつつ、やり方を工夫する方法に議論を集約していくべきではと思っています。
水着撮影会というのは昔から行われているイベントで、もちろんそこには性的対象としてとらえる問題も内包しています。でもそんなこと言ったら、女性のヌードは芸術の対象にしてはいけないという話になってしまうわけで、過去の芸術を否定することになりかねません。さらに言うとそれでお金を稼いでいる人もいるわけで、そいう職業そのものを否定するというのもなんだかなあという側面もあります。少なくとも今回のイベント主催者はそうした問題に向き合っていろいろ工夫と改善を重ねてきているようでもあり、それをいきなり開催を許可しないというのもなんだかなあというのが私の所感です。

日本人はレミングス化しちゃうよ~

日本人って単一民族なのでこの手の多様性に関する議論は本当に苦手だなあと感じています。論理的にこうだと理解していても、あるいは本当は自分はこう思っているんだけどなあ?とか思っても、自分の考えを表明する前に周囲の反応をうかがってしまう。あまり受けないなあと思うとその意見や考えを言うのをあきらめてしまう。
本当は違うんだけどなあと思いながらなんとなくその他大勢と思われる意見に黙ってしたがってしまう。
結果的に「その他大勢」というよくわからないものに皆引きずられて誰も望まない方向に集団で暴走してしまう・・
昔PCゲームで暴走するレミングスの群れを全滅させないようにどうやってコントロールするかのがありましたけど、日本人ってまさにそんなレミングスの群れになったしまうのでは?という危惧を抱きます。

嫌いとNOを使い分けたい

「私はあなたの意見には反対だが、それを主張する権利は命がけで守る」フランスの哲学者ヴォルテールが言った言葉として知られています(実はそうでもないらしいと最近分かってきたようです(笑))。
でもハラスメントって相手(受取側)が不快に思う行動と定義されるので不快に思った瞬間にアウトになってしまうという難しさがあります。
では受け取り手が不快に思うことをすべてハラスメントにしてしまうとそれはちょっと違うことになってしまい、結果的に主張する権利と機会をどんどん奪ってしまうことになってしまいます。嫌いと不快の境目をもっと明確にするとよいという事かもしれません。
どちらかというと「嫌い」=「NO(不快)」という画一的な捉え方に私たちは陥っているように思います。

直観的に感じるものを大事に!!


嫌いなものは生理的に否定してしまいがちだし、ある意味それが自然な感情なのかもしれないと思ったりもするのですが嫌いはその人の感情であり好みの問題、OKかNOかは論理と知性の問題なのではと思います。人が長い歴史の中で気づき上げてきた文明とはまさに論理と知性の集合体ではないでしょうか?
SNSはそんな中で直観的に好きと嫌いという分別で情報をセグメントするツールなのです。このツールが一般化しているのは私たちがそうした感性を大事にする生き方に価値を求めるようになってきているという背景(アートパラダイム)があると思います。
※アートパラダイムについては下記のnoteで少し説明しています

が、SNSの中で発生する様々な課題に論理と知性でまさに立ち向かうべきだと思います。
「反対」だけど「否定」しない。問題に真摯に向き合い、より良い解決方法を探る。
口で言うほど簡単ではないと思いますがそんな当たり前の原理原則に大切にすることの重要性が高まっている時代を生きているんですよね、きっと・・

そういえば同じようなことを2年前に書いていました。
この手に話題に反応するのが好きみたいです(笑)



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