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エレガントに白い道を歩んでいく

私は「年越し」に力が入ってしまう傾向があります。

0:00の瞬間はアレをやるぞー!

とか

コレをしながら年をまたぐんだー!

という具合です。

それは家族といようが1人でいようが昔から変わりません。

1人暮らしになったこの数年も

(淡々と"普通"にすごすんだもんね)

(大晦日のうちに寝ちゃうんだもんね)

と、普段と何ら変わりませんよ〜、浮かれてませんよ〜と誰へのアピールなのか謎の気合いが入っていました。

そして、見事にそれを達成したときには誇らしくてしょうがなかったのです。

今年の元旦には起きてすぐにコンビニへ行ってレンチン味噌ラーメンを買ってきました。

コンビニでラーメンを買うようになったらオシマイだわ〜というこれまた謎のマイルールがありました。

(ラーメンは自分で作るものよと手作りにこだわっていたの←あ、サッポロ一番のことね。むふふっ)

その「マイルール」を「元旦」に破ってやったという勇者のような心意気があって、そのことをいつまでも自慢していたのでした。ハズカシー。

そしてその

「年越しスペシャル思考」

は今年も根強く残っていました。

クリスマスが明けてから

(今年の年越しは何しようかなぁ)

と考え始めます。

そして決めたのが

(ヨガの太陽礼拝をひたすらやる!)

というものでした。

数を決めてもなかなかカウントが曖昧になっちゃうので時間を決めてチャレンジしようと思ったのです。

なぜかって?

「私の年越しは太陽礼拝をしました」

ってドヤ顔になりたいから。

あとはせっかくの機会だからどのくらい出来るのか自分自身にチャレンジしたいという気持ちもありました。

ですが、今朝瞑想をしていて別の案が浮かんできました。

(そーだ。私はヒーラーよ。こんな時こそ新年をまたいで地球に向けて祈りを捧げるのがよいかも)

、、、と、思ったとたん面倒くさくなりました。

つまりこれはうわべだけの考えであって、私らしい行動ではなさそうだというのが明らかだったのです。

「心からソレをやりたくてしょうがない、早くその時間が来ないかな」

ぐらいの気持ちじゃないと私の場合には「義務感」が伴ってしまいます。

義務感はあとあとから無理がたたって疲れたり、褒めてもらおうと人に自慢しかねません。

そして決断しました。

「年越しに力を入れる癖から卒業しよう」

と。

わーい。

大きな殻が破れて嬉しいな。

(アレ?結局のところは年越しに殻を破る的な発想は変わってないのね。むはは)

やっぱりお花がある暮らしはいいなぁ

今朝もなかなか起きられず5度寝はしてしまいました。

最後はあえてうつ伏せになりました。

腰が痛くなれば起きるだろうとワンパクな行動に移ります。

大晦日とか年越しは何としても充実した1日を過ごしたいから必死に起きようと頑張るのでした。

でもそんな過酷な手段でさえも起き上がれません。

すぐにグーグー寝てしまうのでした。

再びハッと目が覚めて強硬手段。

うつ伏せからモゾモゾと四つん這いまで起き上がります。

(まだ目は閉じたまま)

枕に顔面を埋めてなんとかそこから這い上がるタイミングを狙い、せーのっ!で顔を上げて目を開けました。

はぁ。やっと起きられた、、、

時刻は12:30ぐらいでした。

そこからいつものルーティンをやり、一段落したら瞑想タイムです。

いつものようにオーラの中や体の中に残っている不要なエネルギーを洗い流しました。

その時、もっとキレイさっぱりとして新年を迎えたいという思いが湧いてきました。

私はこのように意図しました。

「今年あった喜びも悲しみもすべて洗い流します」

そうです。

「喜び」も一旦洗い流すのです。

これは以前なら出来ないことでした。

喜びもなくなってしまったらイヤダーとビビってしまい、その文言は言えなかったのです。

スピリチュアルでは喜びも一旦手放しすと、さらにグレードアップした喜びがちゃんと戻ってくることは聞いていました。

手放した喜びのエネルギーの中に混ざっている不純物のようなものが宇宙で濾過されてピッカピカになって自分へ再び入ってくるイメージです。

でも今日はスルリと手放すことができました。

宇宙や自分を信頼できる強さが増したからだと思いました。

醤油で煮て最後にゴマ油を回しがけ

瞑想はさらに続いて私のアカシック神殿に行くことにしました。

私の神殿は以前は色んな装飾やステキな部屋がたくさんありましたが何ヶ月か前にただの白い床のみにリニューアルされました。

四方八方に壁も窓もドアもない、ぽかーんと空中に20畳くらいの白い床だけがあります。

欲しいものはそこでなんでもダウンロード出来るというシステム(?)に変わりました。

早速その白い床の上に立ちました。

しばらくは転がったり踊ったりして遊びます。

(そういうビジョンが見えてくる)

いつもはここで門番さんからギフトをもらうのですが、今日は2024年の私の魂の記録を見てみることにしました。

アカシック神殿にはその人の魂の記録が保管されている「自分図書館」です。

私は未来の記録をみるのがどうも怖くて苦手。

なのでよほど行き詰まった時にしか見ません。

大きめの分厚い本の背表紙に

「○○年○月」

と書いてあります。

それを取り出して開いて読みます。

過去に見た時はどんなに行き詰まっても、そこにはいつも素晴らしいことが書いてありました。

「開く」

「前進」

「出会う」

など、その瞬間に希望になるようなエネルギー溢れる言葉が綴られていました。

今回はそれを信じながら、でもドキドキしながら2024年の言葉を見ます。

スーッとどこからともなく分厚い本が開いた状態でやってきます。

(門番さんが持ってきてくれたのは分かるけど最近は姿が見えません)

私は両手を出して開いたままの本を受け取りました。

そこには

「白い道」

と書かれていました。

(ん?白い道って??)

と思うやいなやその意味が理解できてきます。

私の2024年は真っ白な道しかありません。

手っ取り早く言えば

「自分の好きなように歩きなさい」

というものです。

(このことを書いている理由はアナタ様にも当てはまるかもしれないと思ったのでシェアしています。当てはまらなければそのままスルーして大丈夫です)

ビジョンが見えてきました。

真っ白な道が広がっています。

私が薔薇が欲しいと思えば道の左手から真っ赤な薔薇が出てきました。

その先には何があるのか全く見えません。

ただただ真っ白な道が続いているだけ。

私が愛を求めると右側や左側から仲間と笑い合ったり、思いやり合ったりしている光景が見えてきます。

ワンちゃんや猫ちゃんと交流したいと思えば出てきました。

(あぁ、そうか!)

と腑に落ちました。

「これからの地球はすべて自分の意思や選択が必要になる」

この言葉はずっとキーワードとして私の中にありました。

今までももちろんそれぞれ自分の意思で歩んできたかと思いますが、今後はさらに決めることが大切になるというものです。

今までは世間や社会がお膳立てしてくれました。

その流れに沿っていればそこそこの安心や安定も得られていました。

「こうすればああなる」

というセオリーもあってある程度の未来は手に入れることが出来ました。

(例えば、貯金をすれば老後安泰とか。極端な話ですけど)

今後はそういうセオリーは次第に崩れていきます。

これからは目の前にある事象に対して、

自分自身で「勝手に」判断して

「好きなように」選択していく

ことがより深い喜びの人生となっていくのだと思います。

自己責任というと堅苦しいですが、自分のありのままの価値観を基準にしていく「自分物差し」をちゃんと持つことが大切。

そんなことの点と点がパチーン!
と繋がった『白い道』でした。

欲しいものを意図しなければ白い道のまんまです。

もちろんそこには苦しみもないし、凸凹道もイバラの道もない。

(苦も望めばちゃんと出てきますけどね)

でもせっかく白い道を喜びや安心や笑いで彩ることができるのならそちらを望んだほうがいいですもんね。

道の先は何も見えません。

なぜなら私たちの喜びは先にあるのではなく、ココにしかないからです。

私には目標があります。

『困っている人がいない世界』

になること。

その先の目標もあります。

私にふさわしい星々へ行って宇宙の拡大の一部として愛のエネルギーを放っていくことです。

でもそのためには目の前のコーヒーを美味しく飲んだり、

noteで日記を書いて楽しんだり、

あなた様とこうして何かを分かち合うのが目標達成への近道なのです。

もっというなら、今からお菓子を買いに行って1人宴会を楽しむことだって夢への近道。

(そーなのか??)

あらら。

急に文章の温度が変わっちゃいましたね。

うん。

でも。

「ココにある喜び」

を望んで選択しました。

それが私の夢に一歩近づくんだもんね。

今年はあなた様と長い長いご無沙汰にて再会を果たすことが出来て本当に嬉しかったです。

あの時も今も変わらずに暖かい愛情をありがとうございます。

どうぞよいお年をお迎えくださいませ。

家計簿/今週の食費集計【¥9,335】
コンビニで年明けコンビニで締める年。


私は今日もエレガント。

2024年はもっとエレガント。

3個パックのカニ缶はカニの味がしない。
こういう無駄遣いをなくしたいわよね

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