見出し画像

生まれ変わる時に、もう感情はいらないと思った。

夜の投稿は、たいてい後悔するのだけど
後悔を恐れて生きていたら、何も進まない(特にわたしの人生は)と気づいたので今日はやってみる。

娘が外で思いっきり遊んできてくれて、ぐっすり宇宙に行ってくれてるから書けるんだけどね。正確には打てるんだけどね。

ほんとはペンで書きたい。
机に座って書きたい。だけど、今の私にはスマホ画面に指で打つのが1番はやくて、1番慣れてる。

手書きはどんどんなくなっていくのだろうか。文章を考えることもなくなっていくのだろうか。なくなるものを嘆くのは自動反応なので、あまり気にしない方がいい。目の前にきたものに流されていくほうが楽だし、自然だ。

抗うのはよくない。私はこれまで自分にあらがってきた。今日はそんな話を書きたい(打ちたい)本当の欲望を叶えたら、私は裸で洞窟に絵を描いているのだろうか。(あぁ、これが夜の投稿だから許して欲しい)湧き出るイメージを何かに残したい。ただ、それだけだからだれが見るかわからなくても、自分の目にそれが映れば良い。本当の欲望はそうなのかもしれない。

だけど人間から生まれて、人間たちと人間として生きていくのだから、欲望を願望という名に変えて、それなりに夢とか成し遂げたいことに置き換えて生きてきた。これからもそう。それでいいし、そうした方がきっと楽しいし、喜怒哀楽も楽しめる。

ただ、他人の喜怒哀楽に振り回されて、イメージをカタチにするときのバイアスになるのはイヤだ。どこまでも澄んだ表現をしたい。そんな時に私は、人との関わりが億劫になる。それが私であるはずだったのに、人間の中に人間として生きていくためには、関わりを億劫がってはいけず、楽しまなければいけない、スムーズに運ばせなければいけない、相手を喜ばせなければいけない、嫌われてはいけないにすり替わっていた。

苦しいのに、笑っていた。
あーしんどかったわぁ。

かなりキツいぞ。

魂は表現することだけで良いはずなのに、裸で洞窟に絵を描いても1980年生まれの私は生きていけないから、親や親戚、生まれた時代の期待に応えたカタチで命を全うするためには、欲望は忘れるのが良いと思っていたし、忘れた方が幸せになれると誰かが言ったような気がするのに、全然そんなことはなかった。

最近はもう、「次に生まれ変わるときは、感情のない草でいい、いや草がいい」と夫に言って心配された。感情の板挟み。あっちを立てれば、こっちが立たず、その前に自分はどこいったのよ? 的になる。

もっぱらの課題は、私は一人で生きたいのか、それとも誰かと分かち合いたいのか。答えは出てる。バランスよくどっちもやりたい。感情ってめんどくさい。だけどやめられない。だから書くしかない。

ありがとうございます! ひきつづき、情熱をもって執筆がんばりますね!