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ふとん文学 第3章~自分の嫉妬深さに驚いた日々があったこと~

昨日は雨の中、中華へ。
憧れの人。なぜかわたしがその人のエゴサをしたりして、気持ち悪いことしちゃう。
改めて人気がある人と知ると、私もファンと同じ気持ちなので、より誇らしい気持ちになる。
本人はこわくてできないとのこと。可愛らしい方である。

憧れが強すぎて、朝は急いで準備していたら靴下の毛玉すら憎くなる。
ドキドキしすぎて、遅刻するし、散々である。走ったため丁寧にといた髪の毛はくしゃっとなり意味をなさず、汗のかおりがしてないか…とそれどころではない不安との戦いであった。

とても滑稽なことに、ニットにセーターを着ていて、毛玉だらけだったし全体的にも、ひどいのに靴下に対して生まれた気持ちにその人へ向けている感情を表してるようで微笑ましさを感じた。

わからぬ地域で、インテリアだけ目当てに行ったから、何が名物かも知らずに、骨董品のように食べ物を眺めた。

緊張しすぎてしばらく、砂の味だった。香ばしいはずの炒飯には申し訳ないが、メンタルが味になる。そんなことが36才にもなると、初々しく感じる。

思春期の私に出会えたみたいで、懐かしい。

来る途中、電車に乗りながらTwitterでみた一言で
会う人を浮かべた。素敵な部分を勝手に種をまいて耕したくなる。

他の人には無い部分、自分にないものに触れてしまうと、今まで見た事無いあたたかな景色に行けそうな気持ちになる。どうやらそこに、惹かれてしまうらしい。

それをどう、守ってきたのか、水を与えて、寂しく傷ついてきたのか。考えてしまう。

きっと特殊で大切なもの守ると
少しつらい目にあうとおもう。
それを知っている気がする。

それに対して気づいてるから、会話で光を当てたくなるんだろうね。

じんわりと、今まで守ってきていたものに手を添えて守りたくなる。
嫌な人もいるだろうな。

万年男女、食べ物、景色、知らぬ人に恋してるのはそのせいか、とふと、自分の惚れてしまいやすさに呆れた。

多分大勢の人が言ってる恋とは違うと思うんだけど。なんとなく気の多さは、それに似ている気がする。独占欲のない恋。 

ある種のこの、気持ち悪さにも似たものは、わたしの守りたいものなのかもしれない。

人を描いているのは好きだからだとつくづく思う。

他人の事を書くのは絵だけにしておく。私が、ミュージシャンか画家なら、景色や、あたたかな彩について書いておきたいのだけれども。言葉や絵にはなにもかもしたくなるけれど、自身についてはすごく一般人だと感じる。

恐らくそんなことを書いてほしい人などいないと思っているので、友達がいなくなりそうで怖い、心にとどめていたい。

いつか書いてと言ってきた人が居たり、家を作って、訪れた人の事を書きたいと思う。それまでとっておくデザートみたいなものですね。

なので、心の中に起きた事象を描くこととする。
お話していて私はどうやら人の良い部分を見すぎてしまうので心配させてはないか?とふと思った、

これが他人だったら『汚い部分をみせてがっかりさせてしまうんじゃないか...』と不安になりそうだ。

今の所、周りは言ってくれていると感じるので安堵している。
言葉にしてうつくしく感じる時を、たくさん見てきたもの。

たいていのことについて2面~100面くらい考えていることや、
闇や、暗闇にさえ、純文学や絵画の絵具のような美しさを感じてしまう時があるので、ひくってことがよくわからない。

されど、昔は他人に抱いてしまう、汚れているようなものが言葉にならず、コントロールできずに、それが否定すればするほど、私を包んだことがあることを思い出した。
恐らく大きな嫉妬心へ飲み込まれやすかったのだろう。

全身が無きものを求め、他人を恨み、知らない顔に支配された貧しい時間だった。

今は、容易く大きくかぶさってきた、幼き子はどこにいってしまったのだろう?とさえ思う。

歳を重ねたという気分よりも
前世みたいである。

今は恐らく、『いいな』が発生したら、なるべく今日できる材料で実現しようとするからかもしれない。

思えばエッセイも『いいな』と思ってやっていることである。

【お金が発生しなければ、できない事、やらなくていい事】
と思うから、ほっとかれた寂しがりやなあの子に取り込まれてしまうのだろうと思う。

少しでも飲み込まれることのないよう、私は小さな事柄で、芽を摘んでいるのだ。

恐らく人よりそのキラキラが沢山みえてしまっていること、恐らく普遍的な幸せを抱えることができないので、より憧れるんだろうね。

最終的には、『いいな』に気づいて取り払えないときに嫌いになりたくなくて、相手に話してしまう。

その時、とても困った顔をされますが、「そういう風にみえてるんだ」と言われたり、悩みを話してもらったり、「みえてない部分」を教えてもらい、鎮静剤にさせてもらえた。
全てが見えるほど超人ではないことを知る瞬間、なにかが弾けて、こなごなになるね。

聞けない人は超人と思い込んでるからかな、とおもう。全部がみえたことなどないはずなのに。

皆よく、この嫉妬深い時期に友達でいてくれていたと思う。

他人と比べやすいこの国で、SNSでいいね!ボタンが指標になってるこの時代に、女性の30代で、とても珍しいものを守っているのかもと感じる。

今は、あの子のおかげで、誰でもない成りたい自分への近道を知った気がする。これからも、なるべく気づいてあげたいと思う。

嫉妬心は消えたのではなく、恐らく汚いものではなく、きれいな私の奥底の声だったことを
気づいたから自然にそこにいるのだとおもう。

それを受け入れたら、他人の色々も受け入れられて、誰にも気づかれることなく、毎日軽やかに瞬いている気がする。

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