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マルチスピーシーズの光と影

河﨑秋子『肉弾』(2017年、角川文庫2020年)を読み始めてすぐ、私はこれまでマルチスピーシーズの光の部分しか見ていなかったと実感した。多種が絡まりあい、食い食われ食わせて・・・と連なるいのちに着目してきたはずなのに、人間を食われる側のものとして捉えていなかった。「安全な場所」からマルチスピーシーズという概念を考えていたに過ぎなかったのだ。

ニートのキミヤが父親に言われるままに北海道での狩猟に連れ出され、宿の老主人から聞いた開拓時代の話――冷夏で作物が全滅し食べるものがなく、飼っていた豚が赤子を食べ、その豚を殺して集落の人たちが食べつなぐーーは、豚を食べることが赤子を食べることでもあるわけで、被害と加害の二項対立から完全にはみ出た生存のリアリティを突きつける。

それは小説の中でのことというよりも、大正生まれの祖母が子どもだった私に独り言のように話してくれた戦後の山麓の様子と重なった。自然の恵みを享けもすれば自然の脅威に翻弄されもした時代、人は好むと好まざるとにかかわらず多種と共にあった。

翻って私は、数年前までの山麓生活で畑仕事に精を出していたとはいえ、うまく野菜が育たなくても店で買えばいいや、と気楽だった。「安全な場所」から畑とお付き合いしていたにすぎなかったのだ。

『肉弾』という小説は、現代の「安全な場所」を一つ一つ剥ぎ取り、野性――野生動物の、かつてペットとして可愛がられていたが捨てられて再野生化した動物の、そして人間のーーに迫る。河﨑の描く野性は、道路建設をはじめとする人間の都合によって撹乱された生態系を映しており、人新世的状況を踏まえたものだ。

目の前で父が熊に襲われたキミヤは、父の死と自分の生を、ときに瞬時に、ときに時間をかけて、淡々と受け入れていく。その過程に、マルチスピーシーズの光と影のバランスをみる思いがした。