YUKI Masami 結城正美

エコクリティシズム(環境文学研究)を専門としています。ここでは、日々の生活で考えたこと…

YUKI Masami 結城正美

エコクリティシズム(環境文学研究)を専門としています。ここでは、日々の生活で考えたことなどを、備忘録的にざっくり書いています。

最近の記事

多種のいるところ

 5月上旬の連休を白山麓の本宅で過ごした。鳥の囀りで一日が始まり、田んぼに鷺が降り立ち、庭で蛇や蜥蜴がそろそろと動き、暗くなるにつれカエルの大合唱が大きくなり、暗闇に星が輝く。山沿いのかつては田んぼだったが桜や梅など樹木を植えて休ませてある実家の土地には、木漏れ日を受けて野生のミツバが群生していた。ところどころに十二単(ジュウニヒトエ)の紫色がアクセントを添え、野生ミツバを採りながらなんとも言えない安らぎを感じた。  東京を発つ前、誹謗中傷されて凹んでいたが、畑の草取りをし

    • 恐るべき緑ーーモア・ザン・ヒューマン対談の余白

      小林エリカさんとの対談「〈人間以上〉(モア・ザン・ヒューマン)の展望」(2024年4月24日、隣町珈琲)で、時間切れのため話せなかったことを書き留めておきたい。 エリカさんの近著『彼女たちの戦争ーー嵐の中のささやきよ!」が、歴史-history-his storyに埋もれた、あるいは消された、her storyを掘り起こそうとしていることは対談でも述べた。Her storyというよりも、herもtheirも含む、つまりhisではない物語・歴史を体現する28の個人やグループが

      • 白、ロゼ、赤のポテサラ

        単身用ワンルームの極小キッチンでよくつくるのがポテトサラダ。サンドイッチによし、そのまま食べてもよし、なんか足りない時の一品によし。高血圧によいと言われるビーツを料理に取り入れてからは、ビーツを混ぜ込んだピンクポテサラも定番になった。 この前、美大に通う娘が上京した。ピンクポテサラのサンドイッチを出したところ、「これってビーツの配合によって、ロゼにも赤にもなるね」と。なるほど、おもしろい発想だと、早速つくってみた。 ということで、potato salad bianco,

        • 信頼できる定点

          息の長い活動を続けている「白山麓僻村塾」は、作家・高橋治さんによって設立され、現在は池澤夏樹さんが理事長を務める。年10回ほど講義があり、白山麓に住んでいた頃はよく通った。 霊峰白山を望む会場は、公共交通機関では行けない辺鄙な場所にあるが、見方を変えれば、純粋に僻村塾への参加だけを目的にそこへ行くという「巡礼」めいた場所でもある。こじんまりとした会場で、池澤さんはじめ、辻原登さん、塩野米松さん、湯川豊さん、そしてかれらが連れてきてくれるゲスト(伊藤比呂美さん、角田光代さん、

        多種のいるところ

          「はんぱもの」として全力で生きる

          河﨑秋子にハマっている。前回の『肉弾』に続いて、『ともぐい』(新潮社 2023年)を読んだ。帯に「熊文学」と書かれているとおり猟師と熊の死闘が物語を縁どってはいるけれど、熊vs人間、山vs.里といった二項対立図式などどこ吹く風といった趣。圧巻の迫力で、熊も犬も人間も含めて〈いのち〉の罪深さと尊厳が身体にビンビン伝わってくる小説だ。 この小説には、獣の、生身のにおいが充満している。それは、仕留めた動物の肝臓を「食べる」とか、動物同士、人間同士、動物と人間が「まぐわう」といった

          「はんぱもの」として全力で生きる

          マルチスピーシーズの光と影

          河﨑秋子『肉弾』(2017年、角川文庫2020年)を読み始めてすぐ、私はこれまでマルチスピーシーズの光の部分しか見ていなかったと実感した。多種が絡まりあい、食い食われ食わせて・・・と連なるいのちに着目してきたはずなのに、人間を食われる側のものとして捉えていなかった。「安全な場所」からマルチスピーシーズという概念を考えていたに過ぎなかったのだ。 ニートのキミヤが父親に言われるままに北海道での狩猟に連れ出され、宿の老主人から聞いた開拓時代の話――冷夏で作物が全滅し食べるものがな

          マルチスピーシーズの光と影

          お椀の中の長い時間(ロングタイム)

          富ヶ谷の山手通り沿いにある半地下の京料理店「阿うん」は、目立たないけど潔い佇まいで、通り過ぎるたびに気になっていた。ふと行ってみようかと思い立ちネットで調べたら、完全予約制のランチが6000円。こんな贅沢してよいのだろうかと悩んだが、たまには自分へのご褒美だと甘やかし、勤労感謝の日に行ってみた。 すっぽんの茶碗蒸しに始まりデザートの黒胡麻プリンに至るまですばらしかった。京料理を代表するお椀はクロムツ。七年熟成させた利尻昆布で引いた出汁は、目立たないけど潔い店構えの由来かと納

          お椀の中の長い時間(ロングタイム)

          戦時下の薔薇

          レベッカ・ソルニット『オーウェルの薔薇』川端康雄/ハーン小路恭子訳(岩波書店、2022年)を読み終えたとき、生涯にわたって木を植え、庭をつくり、小説やエッセイを書いたジョージ・オーウェル(1903-1950)に、ふと、グレートベイスンで暮らす義母の姿が重なった。日々のパンを得るのに精一杯の都市生活者だったときも、人里離れた荒野に移り住んだ後も、義母は丹精込めて木々や花や野菜を育てていた。薔薇の花が咲くと、すばらしい香りだよ、そばにきてごらん、と微笑んでいた。 表紙の見事な薔

          原子力とダイアローグ

          日本では「核」(兵器)と「原子力」(発電)は別個のものと捉えられがちだけど、英語では両方ともnuclear。広島で生まれ育ち、福島に暮らす安東量子著『スティーブ&ボニー 砂漠のゲンシリョクムラ・イン・アメリカ』(晶文社、2022年)は、原爆(核兵器)と原発の同じ根っこであるnuclearという問題を、異文化体験というナラティブに織り込んで、わからないことは多いけど考えつづける、というスタンスで書かれたエッセイだ。 この本の異文化体験には大きく分けて二つのレイヤーがある。一つ

          原子力とダイアローグ

          思考としてのダゲレオタイプ

          新井卓『百の太陽/百の鏡ーー写真と記憶の汀』(青土社、2023年)を読み、ダゲレオタイプ(銀板写真)の奥深さに感じ入った。感度が低く、数十分にわたる露光が必要なダゲレオタイプは、はいチ〜ズ、パシャと表情を切り取るタイプの写真ではない。被写体は数十分もの間カメラに向き合うことになる。だから、ダゲレオタイプに記録されるのは「彼女/彼らの「真顔」」であり、身体と魂の一部である。これは写真黎明期だけでなく21世紀の今も変わらない、と新井は語る。 「身体と魂の欠片を内蔵したダゲレオタ

          思考としてのダゲレオタイプ

          お返しという行為

          山麓の家には畑があって、時期が来るとエンドウ豆、トマト、キュウリ、ナスなど食べきれないほど一気に実る。不思議なことに、自分で収穫した野菜は冷蔵庫で保存することがためらわれる。採れたてを食べないと野菜に申し訳ないという気持ちになる。採ったらすぐに食べるなり加工したりすることが自分の責任であるように思えるのだ。 これは、いわゆる自然からの贈与に対する気持ちなのだろう。アメリカ先住民ポタワトミ族の生物学者ロビン・ウォール・キマラー著『植物と叡智の守り人』に、木を伐って籠を編む人た

          お返しという行為

          庭園という方法(モード)

          津久井五月『コルヌトピア』(早川書房 2017年, ハヤカワ文庫 2020年)の舞台は、2084年の「緑のメトロポリス、東京」。植物の計算資源化や緑地発電システムというヴィジョンは、最初、化石燃料の代わりに植物を技術的に利用して便利で快適な生活を求める未来を描いたNetflixの"The Future of Houseplants" (2022)と重なるように思えた。けれども途中で、それは違うと気づいた。どちらの作品もクールな未来を描いているようにみえるが、"The Futu

          庭園という方法(モード)

          レポートの書き方

          大学で環境文学を教えている。文学には正しい読みというものはない、レポートでは授業で取り上げた作品について自分なりの視点から分析しなさい、と学生に言っているが、作品の表面をなぞっただけのものが少なくない。近年はその傾向に拍車がかかっている。それで、分析とはどういうことかを学生に理解してもらうために、料理の比喩を使って説明することにした。 レポートの題材である文学作品を、玉ねぎとじゃがいもとニンジンに喩えると、分析とは、これらを料理することなのです。作品を要約しただけでは、いわ

          レポートの書き方

          大きな木

          児童文学とも長編詩とも言える、シェル・シルヴァスタインの『The Giving Tree』(1964年)が、日本語訳で『大きな木』とされていることに、最初は違和感を抱いた。けれども、大きな木だったからこそ、「木」は「少年」の成長過程に応じて、遊び場を、木陰を、リンゴを、材木を与えることができた、ということに思い至ったとき、大きな樹木から私たちが受ける恩恵のはかりしれなさが腑に落ちた。 2023年夏、明治神宮外苑再開発が反対の声をかわして進められ、樹齢100年を超える大木をは

          共食

          月並みな言い方だけど、人は食べなければ生きていけない。戦争で死と背中合わせの日々でも、人は食べていた。食べるのをやめたら死ぬ。 共食が再評価されている。農林水産省のサイトには、共食のメリットとして、心身の健康がうたわれている。そして、孤食が多い人はストレスが多かったり体に良くない食生活に陥りがちだと示唆されてもいる。 たしかに共食はよい。でも、共食を「誰かと一緒に食事をすること」だとするなら、単身生活の私はいつも孤食だよ。 コロナ禍で同僚や友人と食事することが憚られる状

          いわきの干物

          小名浜に数十年、店を構えている魚屋さんを訪れた。店に面した通りで、魚を干している女性がいた。一枚一枚、丁寧に返す手つきとまなざしに引き込まれた。寒風にさらされた鯛の身はふっくらとし、子持ちの本やなぎカレイはふくよかな淡い桃色を放っていた。 「常磐もの」とよばれる地元の魚は、いわきのアイデンティティの源だという。原発事故後、海も魚も土も作物も人も計り知れないダメージを受けた地元では、放射能汚染の測定が定着している。汚染されたから捨てる・離れる、のではなく、「あたりまえ」だった