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【雑記】ゼノス造形論4.0

4.0をクリアしたので、これを書いておかないとな~と思い「ゼノスは多分こういうキャラなんだな」という個人的意見を考えてまとめています.意見が異なる人もいると思うので、こう思うんだよ~というご意見があればぜひコメントください。

どこかで「ゼノスが嫌い」という人の記事があったり、twitterのフォロワーさんに「ゼノスって気持ち悪いキャラだよね」と言われたことがある。私もゼノスはきもいと思う。

にも関わらず「ゼノスが普通に推しだな」と思っている私が、いったいどうしてゼノスが嫌われるのか、なぜゼノスを気持ち悪いと表現する人がいるのかを、4.0までクリアした段階で大真面目に考えてみた。

いつも通り長いです、ほぼ9500字です。あほか。


ゼノスの気味の悪さはどこから来るか?

個人的にゼノスは「エオルゼアという構造に存在しないから気味が悪い、気持ち悪い」のではないかと思っている。
またこうした違和感や気味の悪い感覚は、ライターが意図して作り出したものだ。

ゼノスは正気で、頭がおかしいわけでも狂人でもない。どちらかといえば観察眼に優れ、思考も明晰だ。だが基準とするルールが私たちと違う。大事なのは正義が違うのではなく、ベースになるルール、「構造」が違う点だ。

では構造とは何か。
簡単に言えば、その人の所属する組織みたいなものだ。出身の国、住んでいる場所、働く内容、いつの時代に生きているかなど組織という形に見えないものもある。
属性と表現した方が、もっと分かりやすいのかもしれない。

このような歴史や国という巨大な「構造」は、個人を形成する要素であると同時に、個人もまた「構造」を形成する要素なのだ。

構造の良しあしはさておき、属していると恩恵もある。だから皆構造の中に入っていることが多い。
例えば会社という構造の中に属してれば、毎月お給料が出るし、年金や保険料を自分でいちいち支払うこともしなくていい。肩書的にも安心できる。その見返りとして我々は働く。それが会社に求められている行動だからだ。

ところが個人があまり長く構造の中にいると、やがて構造が求める存在となり、次第に自分の意志と乖離した行動をとるようになる。
これが「構造に取り込まれる」ということだ。
この話をメインに扱っていたのが暗黒騎士のジョブクエ(lv30〜50)だった。フレイが怒っていたのは構造に取り込まれることに抗う行動なのだ、と思っている。

ストーリーを進めると、ヒカセンはエオルゼアの歴史を語る際に切っても切れない存在となる。ヒカセンはエオルゼアという構造に求められ、英雄や光の戦士という役割をこなす。

ところがゼノスは最初からこの構造から脱出している。
本来ならゼノスはガレマール帝国やエオルゼアという構造の中に収まっているはずだ。ゼノスはガレマール帝国の皇太子であり、軍人としてのキャリアも持っている。
だがその立場は、彼自身にはほとんど影響を及ぼしているように見えない。

たとえばゼノスは「ドマの提督」という構造に求められる立場や行動を放棄し、ヨツユに任せている。またルキア曰く「ゼノスは政治に興味を示さず、戦いと狩りに夢中」だと本国でも評判だったそうだ。
つまり本来ゼノスは政治に興味を持ち、内政外政問わず関わっていかねばならない立場にあるのに、それを放棄している。恐らくだが、政治以外でも求められる振る舞いのほとんどに興味を示して来なかったのではないだろうか。
このようにゼノスはエオルゼアにおける自分の地位や立場に執着しておらず、また同様に縛られていない。せいぜい父親であるヴァリスから抑圧される程度で、そのほかのことが彼に影響をもたらすことは、ほとんどない。

ゼノスのように大きな構造から脱出してしまうと、その中で作用するルールから逃れることができる。このルールとは一般常識とも言えるし、普通にみんなが信じていることなどと言い換えることができる。
たとえばエオルゼアの中で「戦うこと」はコミュニケーションの最終手段であり、できるだけ対話を続けようとする。また基本的に戦いに意味が無いことはほぼあり得ない。

だがゼノスにとっては戦いがただ快楽を得る方法に過ぎないし「狩り」と称することもできる。

そもそも誰もゼノスを殺すことができなかったのは、強さ以上に戦うことに対する根本の概念・ルールが異なるからだと思っている。

「戦い」と「狩り」はコミュニケーションの違い

先ほど書いた通りゼノスは「戦う」とは言わず「狩り」と呼ぶ。「狩り」とは互いの剣を交える行為ではなく一方的に追い立てる行動だ。ゼノスにとって戦いとは一方的に消費する娯楽であり、コミュニケーションを図る手段ではなかった。

ところがゼノスはヒカセンが自分と同じ「ゼノスの構造」に入ることがありうると理解した。「狩り」を「お互いが戦うこと」にすればコミュニケーションツールにすることができると気づいた。
これが「ゼノス暗殺計画」のカットシーンの意味だ。

ゼノスの兜に傷がつけられたのは、ここで初めて「同じ世界・構造を共有できる可能性ができた」という表現ではないか。この一瞬、ヒカセンとゼノスは世界を共有したから傷をつけることができた。
あの瞬間、ヒカセンはゼノスを殺す権利を得たのだ。

孤立した世界は「気持ち悪い」

さて、せっかくゼノスと構造を共有したが、ゼノスの考えは相変わらず分からない。というのも大きな構造から孤立したゼノス行動原理は、大きな構造の中にいる我々には理解できないからだ。
またヒカセンはゼノスの構造に入りたいとは思っていないので、結局エオルゼアの中にとどまっている。そのせいで、ゼノスのことを理解することができない。

フランツ=カフカの「変身」にはこうした構造の違いの話が出てくる。主人公ザムザは大きな虫になってしまってから、食事の好みがすっかり変わってしまう。

半分腐った古い野菜、固まってしまった白ソースにくるまった夕食の食べ残りの骨、一粒二粒の乾ぶどうとアーモンド、グレゴールが二日前にまずくて食えないといったチーズ、何もぬってはないパン、バターをぬったパン、バターをぬり、塩味をつけたパン。なおそのほかに、おそらく永久にグレゴール専用ときめたらしい鉢を置いた。(中略)彼はチーズ、野菜、ソースと食べていった。ところが新鮮な食べものはうまくなかった。

「変身」フランツ=カフカ作
原田義人訳

完全に虫になってしまった彼は、日ごろ虫がたかるようなものばかりを好んで食べるようになってしまった。この描写がかなりキモイ。
グレゴールの持つ「虫」という構造は、私たち人間が属する構造とは全く違う。だから「気持ち悪い」と感じる。
グレゴールが虫になったことそのものも気持ち悪いが、人間だったはずの彼が理解できない行動をとるようになるからもっとキモいのだ。

つまり「気持ち悪い」という感覚は「理解しがたいもの」「理解しようとも思えないもの」に対して発露する感覚であるといえる。

極端な例ではあるが、恐らくゼノスを「気持ち悪い」「キモイ」と思う人はこれに近い感覚なのではないか。彼の考えや発言を理解しがたいと思うからこそ、気持ち悪いと思ったり、嫌いだと思ったりする。
いつでもだれでも、普遍的に感じる感情であるはずだ。

構造を同じくする人々は、一般常識などを共有する。
しかし構造を同じくしない人々は常識が共有できない。共有できなくなると、簡単に他人を気持ち悪いと思えるのが人間だ。
おそらくアラミゴの民衆が髑髏連隊へ抱く感情もこれに近い。

「気持ち悪い」の正体は対話ができないことにある

戦うことはエオルゼアにおける対話の最終手段だ。
ところがゼノスにとっては娯楽でしかない。だからゼノスに戦いはコミュニケーションになりうると知ってもらうことが重要になる。

そもそもゼノスはコミュニケーションを取ろうという意識がない。そのため自分の世界へ誰も招き入れてこなかった。それだけでなく周囲がゼノスを理解しようと勝手に努力をしてくれたから、ゼノスが努力する必要がなかった。

しかしヒカセンが現れ、以前よりも力をつけた姿を見て初めて「自分と対等に対話できる可能性」を見出した。ここで初めて、ゼノスは自発的にコミュニケーションしようと考える。
そのことを表すように、物語終盤のカットシーンまでゼノスとヒカセンが言葉を交わすことはない。言葉を発してもあくまでも彼の独り言だ。眼中になかったから声をかけてこなかった。
それはゼノスの構造がヒカセンに向けて開かれていないからであり、故にすべて彼がひとりで発し、ひとりで納得する言葉でしかなかった。

それが「ゼノス暗殺計画」のイベント後、はじめて「ヒカセンならば同じ理由で意味なく戦うことを肯定してくれるかもしれない」とゼノスは考えた。
だから初めてゼノスからヒカセンに話しかけるし、それ以降もゼノスはヒカセン以外眼中にない。

カストルム・アバニア後、フォルドラを通じて自ら宴と称する場所にヒカセンを招待する。
もうここまで来ればわかりやすい。ゼノスはヒカセンに対して心を開き、彼こそ自分の世界を共有する仲間に相応しいと判断したのだろう。
アラミゴ城でゼノスの表情が途端に豊かになり饒舌に物を語るのも、ヒカセンが自分の構造に入ってくることができる人間だと理解し、心を開いたからだ。
つまり彼なりにかなりしっかり考えた結果、「友」と呼ぶようになった。自分の世界にヒカセンを招き入れ、さらにはその価値観へ引きずり込もうとするためにはこの言葉を使うことが最適だと考えたのだ。

これがゼノスが嫌われるもう一つの理由だ。彼は話を一切聞かず、常に自分本位だ。
ゼノスは違う構造に生きているので、エオルゼアという構造のルールはどうでもいい。だからコミュニケーションをエオルゼアのルールにのっとって取ろうとはしない。大事なのは彼自身のルールなので、ゼノスのルールで対話することを求められる。
なのに、肝心なゼノスの構造のルールを私たちやヒカセンは教えてもらえない。そのため、たとえ声をかけるようになってもヒカセンにとって対話不可能だ。だから怖いしキモイ。

こう書くと「それではヒカセンとゼノスが対話できないのでは?」と疑問も浮かぶのだが、ゼノスにとってはこれでいい。なぜならゼノスは「ゼノスのルールで対話したい」のであって「エオルゼアのルールで対話したい」わけではないからだ。
ゼノスは自分のルールで対話してほしいと求めている。たとえヒカセンにその手法を拒否されても、そうでなければ対話しないと言っている。
なのに対話方法やルールを教えてくれない。

この一方的なコミュニケーションこそが、ゼノスの気持ち悪さの真骨頂だ。
個人的には「友」という言葉にこのゼノスの気持ち悪さが集約していると思う。

「友」という言葉のチョイスがゼノスらしい

ゼノスにとって自分の世界を共有できる可能性のある人間を指す言葉こそ「友」だ。だからヒカセンがゼノスをどう思っているかはどうでもいい。
一方的なコミュニケーションの象徴に「友」という言葉が使われているところがゼノスっぽい。ゼノスにはこれまで友と呼べる存在がいなかったからこそ、こんなに歓喜して「友」と呼ぶ。

しかし本来は「友」も上述した関係も、本来は互いにそうだと認識しているからこそ初めて構築できる関係性だと感じる人が多数のはずだ。
にもかかわらずゼノスは一方的に友であると言い出し、その役割を押し付けようとしてくる。

もちろん、片方が相手を友達だと思っていれば友達になりうる場合もある。
だが片方が拒否している関係なので、ここでは友という役割を押し付けていると表現する。

自分のことを理解してほしいからこそ友と呼ぶのに、ヒカセンのことを1ミリも理解しようとしないからこれもまた気持ち悪いのだ。

とにかくゼノスは独りよがりで、根本的に戦いを狩りと呼んでいた時と何も変わっていない。
やっぱりゼノスはある意味、赤ちゃんなのだ。こっちが理解してあげようと心を砕かないと、何を言っているか分からない。だが彼の方は何も言わなくても全部理解してくれるものだと思っている。

しかし本来の赤ちゃんは、だんだんと自分だけの世界にこもっていてもコミュニケーションできない、相手を理解できずまた理解してもらえないと気がつく。そうして大きな構造のルールに従うようになっていく。
一般社会という構造において、親や身近な大人たちが子供にその構造のルールを教える。例えば人を殺してはいけない、傷つけるようなことを言ってはならない、悪いことをしたら謝るなどなど…。

だがゼノスという構造は、ゼノスのためだけにある。だからどういうルールなのか、彼がいったい何を考えているのかちゃんと伝えてもらわないと分からない。
なのに教えてくれないので交渉がうまくいかない。
赤ちゃんの頃から全くコミュニケーション方法が変わっていない。

ゼノスが自害するのは「自分が作った構造を守るため」じゃないか

個人的にゼノスがアラミゴで自害することを選んだ時「だよね、やっぱりそうするよね」という納得がかなり強かった。
多分彼がアラミゴで自害を選んだのも「ゼノスのルールで対話したい」からであり、ヒカセンが「ゼノスの構造を選ばなかったから」だと考えた方が納得できる。

ヒカセンの手にかかるのは、ヒカセンの世界に入るか同じ世界を共有した者だけだ。つまりヒカセンと「エオルゼアのルールで対話」しなければ、ヒカセンに殺される権利を得ることができない。

ところがゼノスはヒカセンの世界に入ることを拒否したし、ヒカセンもゼノスの世界に入ることを拒否した。同じ世界を共有しないので勝者であるヒカセンの世界、エオルゼアにゼノスは存在することができないし、ヒカセンに殺されることもできない。
だから自分の世界を守るためには(あるいはこれまでの自分の生き方を貫くためには)、ヒカセンの手にかかることはできず自害するしかない。

またリセはゼノスの友になり得ないため、彼の自害を止める力を持たない。
それに対してヒカセンが一言「やめろ!」とでも叫べば、多分ゼノスは自害するのをやめただろう。
ヒカセンは唯一、エオルゼアにおいてゼノスへ影響を与えられる存在なのだ。

そもそもこれまでのボスとの戦いは「エオルゼアの未来についての対話」だった。
ところがゼノスはずっと自分の話しかしていない。「自分とヒカセンは友かどうか」という話なので、エオルゼアとは関係ない話をしている。
そのためエオルゼアにいる誰かから影響を受けることはないが、ヒカセンからだけは影響を受ける。

こういう行動原理でゼノスは自害を選んだと思った方が個人的にはしっくりくるし好きだ。

こここそ、私がゼノスが好きだと一番強く思う理由だ。
自分の持つ世界に生き、孤立していた人間が強烈に理解者を求め、それが叶わないなら潔く死ぬ。
死ぬところまで自分の立ち位置をちゃんと理解しているのがすごい。

だがそれこそが、彼が孤立していた証拠でもある。
彼はたくさんの部下を抱えながらも、誰とも理解しあうことが無かった。父親も理解者ではなかった。
だからこそ理解者になる可能性のあったヒカセンの手を掴むチャンスを逃した結果、自分で死を選ぶ。

自分だけの構造・世界を持つということは、すなわち孤立しているということでもある。

ヴァリスがムービーでゼノスのことを「己の快楽を求めすぎる」と表現したのは自分の息子が、自分の世界や生き方を守るためならば、手段を問わないことを理解していたからだ。

ゼノスの欲求(狩り)をヴァリスが満たせなくなればヴァリスはゼノスにとって用済みとなる。つまり、アラミゴの外に出せば当然エオルゼアを攻めつくしてしまい、結果的にゼノスの欲求をヴァリスが満たすことはできなくなるのだ。ここでゼノスが死んだことは、ヴァリスにとって間違いなく幸いだったはずだ。
自らの息子の性質を最も理解しているのは間違いなくヴァリスなのだから、欲求を満たせなくなれば彼に殺されることも考えていたかもしれない。

そういう意味では、ヴァリスはゼノス最大の理解者であるといい方もできる。

まとめ:ゼノスが気持ち悪いのは構造を共有しないからだ

最終的にヒカセンを含めたエオルゼアがゼノスを拒絶したように、ゼノスもまたエオルゼアを拒絶する。そしてエオルゼアにはそこで遊んでいるプレイヤーも含まれている。
ヒカセンが拒絶されるのを通じ、ゼノスはまたプレイヤーも拒絶している。
お互いを理解しあおうと思っていないことは、当然ながら拒絶ということになる。

ゼノスが気持ち悪いのは、彼が自分一人の世界で満足していてお互いを理解できないからというだけではない。普通ゲームにおいて必要とされるはずのプレイヤーすらもゼノスは拒絶するから、気持ち悪く感じるのだ。

普通の作品なら拒絶された側はあんまりいい気持にならないので「拒絶してませんよ~受けいれてますよ~」というポーズくらいは、とりあえず取る。
だが、4.0におけるゼノスは最後の最後までそうしない。
ところがよくわからないうちに、急に一気に自分の世界にヒカセンを引き込もうとしてくる。挙句突然「友」と形容したり、一方的に自分と同化するよう強要してくる。
これはこれでゼノスの思考回路が理解できないので、恐ろしく思える。
彼の思考回路が全く理解できず(彼なりに考えてはいるものの、それは伝わらない)、故に恐ろしく気持ち悪い。

そう言うわけであんまりいい気持にならないし、考えていることが独りよがりで内向的なので、その考えや発言の急な変化もあって彼は気持ち悪いと形容されるのだと思う。

理解できないものは、皆気持ち悪い。
どんなに見た目が良くとも、地位が高くとも、相手が自分を求めようとも、相互理解ができなければ気持ち悪いものは気持ち悪い。
ゼノスはそういうキャラクターだ。

意図的に「キモイ」を作る、シナリオライターさんはすごい

こうしたゼノスのキャラクターは意識的に作り出されたもののはずだ。
超然的な立ち位置のキャラクターを作るとき、人は無意識に尊敬する方向に設定するか、あるいは気持ち悪く感じる方向に設定するかになる。
つまり読者から見た時に憧れられるシガー(ノー・カントリー・フォー・オールド・メンの悪役)を作るか、あるいは気持ち悪がられるグレゴール・ザムザを作るかのいずれかになり、ゼノスは割と後者のポジションを目指して作られたのではないかな、と思う。
(FFで言えばセフィロス何て代表格だと思うのだが、未プレイなので比較できない…。)

気持ち悪いキャラクターは、ホラー系作品やサスペンス作品との親和性が高いのでそちらではかなり見かける。たとえばハンニバル・レクター博士もそうだ。だがRPGではなかなか見ない…というか途中で和解してしまうパターンが多い。

全部の軸が自分の中で完結しているキャラクターほど、理解しがたく気持ち悪いと思わせる存在はない。

こう感じるので最初に書いた通り「ゼノスが嫌いだ、気持ち悪いやつだ」と思う人の方が、シナリオライターさんの意図した印象を抱いているのではないか、と思うのだ。

舞台装置としてのゼノス⇔キャラクターとしてのゼノス

ゼノスと初めて遭遇し、「つまらない」と言われた時に「すごい!!ゼノスはヒカセンを拒絶するんだ!!」となんだかすごくうれしくなった。その瞬間に心臓を掴まれたと言っても過言ではない。

これまで遭遇した人々はどこか理解しあえる空気があった。イルベルドすら、お前はそんなやり方してどうするんだよ!と説得する機会がどこかに存在していた気がする。ガイウスや教皇たちもどこかで理解し合えるかもしれないと、途中までは思っていた。

だがゼノスはそんなことを、最初から1ミリも感じさせない。
メタ的な言い方をすれば、ゼノスはヒカセンを物語に引っ張り込む巨大な舞台装置だからなびかない。ヒカセンは本来アラミゴやドマにルーツを持たない思い入れのない者であり、戦う理由が無いと言われてもおかしくない。
だがそこにゼノスという存在があり、ゼノスと闘うこともひとつの軸となることでアラミゴやドマで戦う理由ができる。
蒼天におけるオルシュファンの死のように、物語でその相手と闘う理由を与えてくれる存在だ。

また物語の登場人物として見たときに、好意的に見れば極端に寂しがりなのではないかとも思えるから面白い。
ゼノスは自分が同類を探していたり、理解者を欲していたことに気が付いていなかっただけだ。実際には理解者を求める普通の人間としての側面も持ち合わせていた。
あれだけたくさんの人間と繋がりがありながら、実際は孤独だった。違う構造を持つということは、特定の構造から疎外されるということだ。
彼もまた、ヨツユやフォルドラと同族なのだ。

対して暁のメンバーや同盟軍、反乱軍は「みんな一緒に」「全員がそろって」と繰り返す。彼らはエオルゼアのなかの、暁という共通の構造を持った強固な仲間たちだ。
基本的にエオルゼアでは、国単位の場合いがみ合っても手を取り合って共存関係を結ぶ方向にシフトするので、対話してみんなで足並みをそろえる。

暗黒騎士のジョブクエのように、この仲間たちがいるからヒカセンはゼノスの誘いを突っぱねることができる。構造の中に存在し、そこに自分の存在意義を感じているからこそ外側への誘いを断ち切ることができる。
まさに暁の存在意義はここにある。それぞれがやりたいことをやるが、それでも帰ってくる場所である。互いに理解しあおうとする努力が重なった場所なんだろう。
こういう部分でも対比が重ねられていて、丁寧に世界観を作っているんだなあと驚かされる。

つまり紅蓮の物語で大事なことは「構造に取り込まれること、構造からはじき出されること」でもあるのかもしれないと思えるのだ。だからいろんなパターンを提示するために、群像劇になっているのかもしれない。
自らその巨大な構造から出ていくか、気づいたら疎外されるか、甘んじて受け入れるか。紅蓮の物語は人々の選択が結果として次々に提示される物語だったなぁ

ゼノスが好きなのは「理解しあえないことが普通だ」と思い出すから

ゼノスの言動を見ていると誰とでも理解しあえるなんて幻想だ、必ずどこかで衝突が起こる。理解しあえない存在は必ず存在するのだと思い出させられる。
私ならそれまで生きていた世界が破壊されても、仕方がないとあきらめてだらだらと生きるだろう。

だがゼノスはそうしない。
とっとと死ぬのだ。それもどうでもよくなってしまって死ぬというよりも、気が済んだから死ぬ。

おそらく私がゼノスのことが好きだな~と思うのは、こういうところだ。自分勝手で自己完結しており、自らの主軸を外に置こうとしない。ブレないから自害することに違和感がない。
彼は誰かの手にかかるならヒカセンだが、今のヒカセンは彼を拒絶した。故に世界を共有せず、ヒカセンが彼を殺すことはできない。ゼノスはそのことを理解して、友の手にかかることができないから自分で死ぬことを選んだのだ。
やっぱり好きだ。

だが同時にめちゃくちゃ嫌う人には嫌われるタイプには違いないので、人気はあると思うが好き嫌いは分かれそうだ。
ゼノス本人はそういう人も私のことも、まったく気にしないだろうが(我々の世界は彼に影響しないので)。


コミュニケーションあかちゃんが成長する物語といえばこれ。ノートルダムの鐘。


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