西北辺境異類婚姻譚始末 【前編】

第一段
 潮の香りが漂う窓辺で年の離れた女が二人、見るからに質の良い亜麻布に刺繍を施していた。二人のうち、若年の方はこの土地を治める辺境伯の娘で十四歳になるダユー、年配の方はダユーの侍女で乳母でもあるアインダール。
 針仕事に倦んだダユーは手を止め、窓の外に目を遣った。そこには彼女と父エベルの目の色さながらの海が広がり、はるか沖で空と交わっていた。荒れやすい海も今日は凪ぎ、夏の終わりの陽射しを浴びた海面は、どこまでも穏やかである。数艘の舟が網を打つ上には、海鳥の群れが風に代わって高く低く白波を立てていた。いくら目を凝らしても、海と空の境を見定めることはダユーにはできない。彼女は思う。そもそも海と空を分つ必要はあるのだろうかと。もし、必要がないのだとしたら、魚と鳥を区別する必要もないのではないか。魚は海の鳥にして、鳥は空の魚なのだから。
「お疲れのようでございますね」
 向かいに座るアインダールがダユーを気遣う。
「大事ない」
 ダユーは乳母に微笑むと、再び針を動かしはじめた。
「そのように根をお詰めにならずとも…」
「いや、巡幸までもう幾らもないゆえ」
 新たな統治者として氏族会議で選出されたダユーの父を、辺境伯として叙任するために皇帝がこの地に来臨するのだ。新任者を伺候させるのではなく皇帝の方から出向いて来るのは、道中その威光を臣民に見せつけ、彼らに畏怖の念を植えつけるためであったが、東方の遊牧騎馬民族を出自とする支配者層にとって、移動するということこそが常態であって、一ヶ所に定住することの方がむしろ苦痛といえる。数ヶ所に拠点を置きそれぞれに王宮を構えてはいたが、皇帝を戴く宮廷は常に移動していた。ダユーとアインダールが刺繍しているのは、その皇帝一行を歓待し、エベルの叙任を祝う宴で使う卓布であった。
 亜麻で織られた純白の布に、色と素材を同じくする糸で、一族の紋章を少し盛り上がるように刺してゆく。図柄はドラゴン。後にドラゴンはこれを知らぬ人々の想像によって、時に口から火を吐く翼の生えた巨大な蜥蜴のような生き物として想定されるが、本来ドラゴンとは有翼の海蛇であった。少なくともダユーたちが刺しているのはそのような姿をしているものである。ダユーの一族はドラゴンを祖とする伝承を有していたからだ。母のタルティウもまた、ドラゴンに深い想いを寄せていたことをダユーは憶えていた。
 その母タルティウは、ダユーが七歳の時に突然姿を消した。タルティウが失踪した当初、エベルは人前でこそ気丈に振る舞っていたが、心の中では幼い娘に勝るとも劣らぬほど悲しみに打ちひしがれていた。エベルを立ち直らせる方策として、周囲は彼に新しい妻を娶らせた。もちろん彼は拒んだが、一年ほどの攻防の末に屈服させられ、従妹のケバンと結婚した。ケバンの腹からはダユーにとっては異母弟になる五歳のミリャと異母妹になる三歳のエスナッドが生まれていた。
 中庭のほうが騒がしい。ダユーもアインダールもそれらの物音を意識の端で捕らえただけで、そのまま針を動かし続けていた。 
 ダユーの集中力を途切れさせたのは、入り口の帳を勢いよく撥ね上げて飛び込んできた無邪気な足音だった。
「お姉さま、孔雀です。孔雀が来ました」
 ミリャが息を切らせながら訴える。少し遅れてエスナッドも兄に遅れじと長衣の裾に足を縺れさせながら走ってきた。
「孔雀、孔雀」
 エスナッドが突進してきたので、ダユーはとっさに針を持つ手を挙げた。
「ね、お姉さまも見に行きましょう」
 ミリャが言えばエスナッドも、
「青いの。孔雀、青いの。とってもきれい」
と、二人してダユーを引っ張る。
「わかりました。だからちょっと待って」
 ダユーは笑顔で観念すると、アインダールに目配せして立ち上がった。


 厨房前の庭は荷下ろしでごった返していた。荷は皇帝を饗応するために買い入れた食材や、蜜蝋の蝋燭などである。まるで戦支度でも始めるのかと思えるほどの資財の山で、立ち働く召使いたちは身動きもままならぬほどである。それもあってか男たちの眉間には皺が刻まれ、怒号が飛び交う。重い荷を運ぶ長旅で疲れ果てているのは馬も同じ。軛を外されて厩へと引かれてゆく彼らの大きな瞳には、安堵の色が浮かんでいる。
 いつもは広いと思っていた中庭の狭さにダユーは驚く。家令や執事、料理長らが帳簿を見ながら荷の検分をしている。そこから少し離れたところで、侍女たちを従えた領主夫人のケバンが満足そうにその様子を見守っていた。ダユーは膝を折って継母に会釈する。それに気づいたケバンも応えてうなづく。
 孔雀はそれが命の尾羽根を傷めぬように、細長い籠に入れられていた。鳥番の男たちが丁重に籠を運んでゆく。ダユーの幼い弟妹たちが、見えない紐に引かれるように後を追う。ダユーも彼らに従った。
 孔雀は専用に整えられた小屋に放された。長い間籠の中で動きを封じられていた孔雀は、躰が凝り固まっているのかすぐには動かなかったが、目に精気が戻ってくるにつれ、土の感触を確かめるように、一歩二歩と歩きはじめた。
 ミリャとエスナッドは鳥小屋の格子の前にしゃがみ込んで、孔雀の動きに目を凝らしている。その後ろで、板の上に細く削った木炭で孔雀を描いている少年がいた。一族のウェンブリットだ。若くして黄泉へと旅立ったダユーの許嫁の弟である。ダユーより三つばかり年下のこの少年は、むつきの頃の熱病のせいで、耳が聞こえない。それゆえ話すこともできない。しかし、失われた聴力を補うかのようにものを見る力には確かなものがあった。彼は板の上に木炭で、あらゆるものを生けるがごとく再現することができるのだ。
 ダユーたちが孔雀を見るのはこれが初めてであった。その躰を覆う羽毛は七色の輝きを秘めた青で荘厳されている。鷹狩りの際に何度か捕らえたことのある雉子も尾の長い派手な色合いの鳥だが、美しさでは孔雀に遠く及ばない。空と海の青の最も深い色で染め上げたようなその色に、ダユーは神の恩寵を見た。
「この鳥を、皇帝陛下の御食膳に供するのか」
 ダユーの口からこぼれた嘆息まじりの言葉を、たまたま傍らを通りかかった執事のファラナムが聞きつけた。
「左用でございます。姫さま」
 微かな敵意をにじませた目が執事を捕らえる。
「孔雀の肉は硬いと聞き及ぶが」
 姫君の敵意を察知した執事が慇懃無礼な笑顔で答える。
「いかにも仰せの通りでございます。されど食べて楽しむものというよりは、見て楽しむもの。皇帝陛下のお目を楽しませ参らすには欠かせぬ食材と存じます。肉の硬さについてもご懸念には及びませぬ。我らが料理長の腕をもってすれば、定めて皇帝陛下のお口にも適う一皿に仕上げて御覧に入れことでございましょう。姫さまもご陪食の際にお確かめ下さいませ」
  ファラナムの流暢な説明を聞き流しながら、ダユーは権力者を饗応することの空虚な仰々しさに呆れていた。それでも自分たちが生きてゆくためには必要なことと観念する。弟妹たちに気づかれぬよう、そっと踵を返し中庭を後にする。乳母も養い君に従って無言のうちにその場を離れた。


 ダユーは礼拝堂へ向かった。領主館の他の建物と同じく柿葺の木造建築である。この建物の中に入ると、巨大な樹の”うろ”か母の胎内にいるかのような不思議な感覚に包まれる。温かなものに肯われていると言えばいいのだろうか。ダユーの視線の先、内陣の奥には海を渡ってきた人々と、その子孫によって”我らが母”と崇められている大地母神が祭られている。この聖祖母の膝の上には娘である聖母が座り、母は娘の肩をそっと抱き寄せている。母に守られた聖母は産衣に包んだ御子神を膝の上に抱いている。入れ子構造になった母子三代の神々が、この礼拝堂の祭壇に祭られていた。
 古い言い伝えによると、万物を生み出した始祖女神の娘である大地は、天空神との間に太陽神を産んだ。冬至の日、死した太陽は大地の女神によって再び産み出されるのだ。皇帝たちは天空神を天地創造の唯一神、御子神は父なる唯一神が人間の女に産ませた半神半人として信奉しているが、ダユーたちが最も篤く敬っているのは”我らが祖母”であった。
 ダユーは”我らが祖母”の前に進み出て跪拝した。面を上げて木造の尊顔に胸の中で語りかける。半島の民は半島の民だけで生きられぬものかと。狭量で妬み深い唯一神と契約した者たちは、何かというと伝道と称して彼らが謂うところの”異教徒”の魂を殺害する。屈しない者たちに対しては、聖戦という名の殺戮の挙に出るのだ。
(我らは御身らの御恩みに生かされて、この地に代を累ねて参りました。異国の神を奉ずる者たちの狂信と猜疑の網に掛からぬため、御身らに異国の神の衣を着せ参らせて、今日までお護り申し上げて参りました。それもいつまで続きますことやら。我らが祖母よ。我らを覇王の威より護り給え)
 ダユーの祈りを彼らの聖なる祖母が聞き届けたか否かは定かではなかったが、祈ることで彼女の心は幾らか軽くなった。
 彼女が礼拝堂を退出する時、祭具室から出てきた礼拝堂付きの老司祭と出会った。何代もの領主に仕え、この地の民に対する神の加護を祈り続けてきた老人の頭は剃髪の必要がなくなって久しい。皺に埋もれた柔和な目が、穏やかな笑みを湛えてダユーに会釈する。定時の礼拝の合間に来たダユーを、可愛くてたまらない曽孫を迎えた曽祖父のようにうっとりと見つめている。
「姫君には我らが祖母に、何やらお話ししたいことがおありだったようですね」
 お伽噺でも語り出すように、ゆっくりと司祭はダユーに語りかけてきた。
「はい。今日は何かと騒がしく、わたくしの心まで騒がしくなりましたゆえ」
「御心は鎮まりましたか」
「はい。お陰様をもちまして」
「それはようございました」
「それでは、わたくしはこれにて失礼させていただきます」
 老司祭は、無間断の笑顔で退出してゆくダユーを見送った。
 喧騒と静謐の場を過ぎ、ダユーは海を望む私室に戻って、卓布の刺繍を仕上げるべく針を取る。皇帝の一行は、この館から二日行程の地点まで迫っていた。


第二段
 濃い空色の長衣に流れる豊かな黒髪を、乳母のアインダールが丁寧に梳る。腰に余るその髪に、長衣と同じ色の地に金の組紐模様を織り込んだ細帯を巻き付けてゆく。巻き終わると、アインダールは磨き上げられた青銅の手鏡を主に差し出した。「ご覧あそばせ。如何でございましょう」
 手塩にかけて育て上げた養い君を盛装させ、満足げなアインダールに対して、ダユーの態度はそっけないものだった。
「いらぬ。そなたの手が整えたものに、何の不具合があろうぞ」
「恐れ入りまする」
 何と言われようとも、アインダールは満足の体である。
 入り口の帳が上げられた気配に二人が振り向くと、侍女が掲げた帳の陰から長衣の裾を翻しながら、意気揚々とケバンが入ってきた。しかし、娘の衣の色を見た途端、彼女の晴々とした顔はにわかに曇った。
「青、にしたのですか」
「はい」
 ダユーは膝を折って答えた。ケバンの眉根が寄せられたのを見て、ダユーの後ろに控えていたアインダールは心配そうに主を窺う。
 青の染料はこの地に産する油菜の一種から採取される。止血薬にもなるので盛んに栽培されている植物だ。青は神聖な色であると同時に、この頃では弔意を表す色とも考えられるようになっていた。ケバンの懸念はそこにあったが、青が神聖な色であることもまた広く知られていることであれば、無用な波風を立てる必要もなかろうと彼女は判断したようだ。
「それもよくお似合いですね。あなたの目の色とお揃いで」
 ケバンが愁眉を開いたのを見て、アインダールはそっと安堵の溜め息をついた。


 本来は正餐であるはずの午餐を、領主夫妻は彼らの私室で早目に取った。ダユーも同席していたが、幼い弟妹はまだ同席することを許されていない。正餐は大広間で家臣や訴訟ごとなどで館を訪れた領民たちと共に取るのが慣いだが、この日大広間は皇帝臨御のもとに行われる認証式に使われるため、通常の午餐会は中止となっていた。
 空色の晴れ着をまとった娘を見て、エベルは妻とは異なる反応を示した。懐かしげにも悲しげにも見える眼差しで、娘のからだを手で触れることなく撫でた。何か言いたげに唇を動かしたが、声を発することなく言葉を飲み込む。
 この日の午餐はごく簡単なもので、胡桃と干し林檎を入れた燕麦の粥、糊状に煮詰めて塩を加えた海藻の他は乳酪、塩漬けの豚肉などであった。飲み物はもちろん林檎酒である。エベルが酒を飲み干すと、給仕の小姓がすぐに酒杯を満たす。酒杯に満ちゆく林檎酒を見ながらエベルがつぶやく。
「皇帝陛下にも我らが美酒うまさけを召し上がっていただきたいものだ」
 夫の言葉をケバンが笑顔で否定する。
「皇帝陛下は葡萄酒しかお召し上がりにはなりませんわ」
「それは存じておる。それゆえ陛下にご満足いただけるような葡萄酒を買い付け他のではないか。されど我らが林檎酒も、葡萄酒に劣るものではあるまい」
「わたくしも左様に存じます」
 妻の意外な言葉にエベルの顔に期待の色が浮かぶ。
「しかしながら、もし勧め参らせてお気に召さぬことあらば、お館様への陛下の御覚えめでたからぬことにはなりはせぬかと懸念する次第に存じます」
 エベルの顔に浮かんでいた期待の色は速やかに消えた。二人の遣り取りを傍で聞いていたダユーには、父が蜘蛛の糸に絡め取られてゆく獲物の虫のように思えた。 
 継母の言うことは正しい。皇帝などと称する蛮族の頭ごときに飲ませる林檎酒などない。葡萄酒でも飲ませておけばよいのだ。父上もなんとお人の良いことか。ダユーは我と我が身を励ますように、酒杯を一息に空にした。その娘らしからぬ振る舞いを一瞥したケバンもまた酒杯に口をつけた。その様は領主夫人らしく、どこまでも優雅で余裕のあるものであった。 


 午餐の後、ダユーは領主夫妻の部屋を辞して物見の塔に上った。館は小高い丘の上にある。北には遠く海が見渡せ、南には畑や牧草地が広がっている。この季節、麓の集落の先には刈り入れが終わった畑や実をつけた林檎の林、羊が草を食む牧場、さらにその先には豚を放牧している森が領地の境まで続いている。農地を縫う一条の道が館から森の中へと消えてゆく。ダユーは森に消えた道に目を凝らす。ダユーだけではない。彼女の後ろで見張りの任に着いている衛士もダユーの頭越しに同じ場所に目を凝らしている。堅果を降らせて豚たちを肥やす橅や楢の深い森は、一見したところ秋の澄んだ空の下で静まっていたが、この日の森は千に余る群行を孕んでいた。
 背後の気配が微かに乱れた。日頃から異変の一速い察知を務めとしている衛士が反応したのだ。皇帝を護衛する群行はまもなくその姿を現すであろう。ダユーの胸の深奥が引き締められる。脳裡に遠祖の女王に倣って巨大な敵に立ち向かう己の姿が浮かぶ。しかし次の瞬間、彼女のからだは無数の矢を受け疾駆する馬から落ちてゆくのだ。
 樹々の間に目を射る燦めきや血の色が見え隠れするようになってきた。森が尽きた道の上に、ついに長大な赤い旗を掲げた先導の儀仗兵の一団が現れた。燃え上がるような緋色の地に金色に輝く双頭の鷲が、にわかに開けた視界を端から端まで睥睨している。鷲はそれぞれの頭に王冠を戴き、右足の鉤爪には剣を、左足の鉤爪には十字架の付いた宝珠を掴んでいる。ゆらめく真紅の皇帝旗の後には、流旗をなびかせた騎兵の一団が続く。皆、鎖帷子の上に臙脂と白の段違いの戎衣を付け、見るからに精悍な鹿毛に乗っている。
 ダユーの予想を越えて騎兵の列は延々と森から繰り出してくる。二百騎は越えたであろうかと思われた時、遠目にも一段と装いを凝らした騎兵の一団が黄色の地に赤で鷲を描いた派手な流旗を手にして現れた。その騎兵たちの隊列は、先の騎兵たちが二列であったのに対して鼠を呑んだ蛇のように横に膨らんでいる。やがて騎兵たちに囲まれて、神馬の趣のある大柄な青毛に乗った皇帝がついにその姿を現した。騎兵たちの透き影にそれを見たダユーの心の臓は、皇帝旗の鷲の鉤爪で掴まれたかのような最早痛みとすら思えぬ衝撃を覚えた。心の臓から血が滴り落ち、ダユーの顔が蒼ざめてゆく。
「姫さま」
 控えめな、しかし有無を言わさぬ強い意志を含んだ声が彼女を呼んだ。振り向くと小姓が目顔で父の命を伝えてきた。ダユーは少年に従って物見の塔を後にする。塔を降りる時、振り返ってもう一度皇帝を見た。


 館の表門の前には、領主をはじめ夫人や重臣たちが緊張の面持ちで皇帝の一行を待っていた。ダユーは夫人の後ろに身を隠すようにして形ばかりに連なった。
 館の前の坂道は、防衛上の配慮から大きく蛇行している。張り出した下の曲輪にさえぎられて表門から群行は見えないが、蹄鉄と軍靴が地を響もす音は徐々に大きくなってくる。坂道の下から地を突き破るかのように旗を吊るした鉾の頂の飾りが見えるや、領主が右手を挙げた。
 合図を受け、喇叭が高らかに鳴り響く。見る間に旗は全貌を現し、その威容は迎える者を畏怖の念で圧倒した。誰もが黄金の鷲の巨大な鉤爪に我が身を掴まれる様を思い描いて戦慄する。ダユーもまた恐怖しつつも黄金の鷲から目を離すことができない。覇者の威は波いる者すべてを踏みしだいた。
 巨大な黄金の鷲を戴く儀仗兵が、家令に先導されて館の中へ入ってゆく。その後に騎兵が続いたが、二十騎ほど入ると後続のものは、布を裂くように道の左右に分かれて整列した。騎兵が威儀を正して居並ぶその先から派手な流旗に護られた皇帝が姿を現した。遠目に垣間見るのではなく、今度は真正面から見るのである。黒い禍々しいものが大きさ増しながらダユーたちに近づいてくる。
 彼の祖先の故郷は遥か東方の草原であった。うち続く旱魃を契機として西征した騎馬の民は、行く先々の民をあるいは殺戮しあるいは服属つつひたすら西を目指した。当初は彼らにとっての好ましい土地を手に入れるためであった征服も、いつしか所期の目的を失い、征服のための征服になるまでさほど時間はかからなかった。馬を追う民、羊を追う民、土を耕す民、森に獣を狩る民、果ては海に漁る民まで従えて、彼らと血を交え、姿形や戴く神を変えながらも他に優越する民であることの自覚だけは揺らぐことはなかった。とりわけ、かつて広大な地域を領有した大帝国が栄えた地に到来したことによって、彼らの征服のための征服は終わりを迎えた。目的が征服から帝国樹立に変わったのである。先進地域の衰退に乗じて短時日のうちに一大帝国を築きながらも尚武の気風はそのままに、西へ南へ版図を拡げた。 その征服者の血を色濃く受け継いだ覇王が今、辺境の民のもとに現れたのである。 
 乗馬の青毛に装着した金の鎧を踏み締める長靴が黒なら蛮族風の外衣も黒で、身を飾るものといえば、その広い胸元に弧を描く金の板を繋ぎ合わせた胸飾りくらいであった。首は白い顎鬚と頬髭に覆われ、肩もまた白い頭髪で覆われている。血煙の中を掻い潜り、風雨に晒されてきた深い皺の中で、寒風吹き荒ぶ北の空を映したかの薄青い目が冷たい光を放っている。峨々たる岩山のように突き出た鼻も、美醜を越えて見る者の目を引きつける。この威辺りを払う老人こそが、皇帝マグフリートその人であった。
 皇帝が通りかかると出迎えの者たちは一様に頭を下げたが、ダユーも周囲に倣って形だけではあるものの膝を折って深々と頭を下げた。近侍の衛兵に護られた皇帝が通り過ぎると出迎えの者たちも中に入って行ったが、ダユーは今少し行列の見物をした。皇帝の一団に続いて目深に被り物をして騾馬に乗った女が数騎続いた。被り物でよくは見えなかったが、いずれも若く美しい女たちのようだ。皇帝の侍妾であろうと思われた。その後に騎兵や歩兵、輜重隊が続く。
 それにしても人も馬も多い。彼らの食事や飼い葉の手配はいかばかりであったことかと、ダユーは父たちの労を想って心中ひそかに頭を下げた。人馬の糧食は基本的には官衙領によって賄われていたが、『訪問先』で提供されたものを謝絶することはない。提供といっても自発的な好意によるものではないことは言を俟たない。これは『訪問先』にとっては蝗害にも等しい災難であった。


 大広間で新しい西北半島辺境伯に対する叙任の儀式が行われている間、ダユーは再び物見の塔に上った。収穫が終わった畑にはいたるところにに天幕が張られはじめ、すっかり巡行の随員たちの宿営地に様変わりしようとしている。天幕が張り終えられたところから、日没に先駆けて篝火が焚かれ、夕餉の支度も始まっているようだ。
 領民たちはこの時期、収穫した春小麦や黍の乾燥に苦労する。雨の降る日が多いので晴れ間は貴重なのだ。常に空の機嫌を伺っては、収穫物の干したり取り込んだりを繰り返す。大勢の言葉も通じぬ異邦人に畑地を占拠され、晴天であるにもかかわらず収穫物の稲架掛けができないことに苦虫を噛み潰しているだろうが、辛抱してもらうしかない。日々の暮らしに直結した迷惑千万な話だが、ダユーは二日間の隠忍を彼らにこいねがった。
 天幕の群れが闇に溶け、篝火が星の光に抗うように地を照らし出した頃、ダユーは物見の塔を後にした。


 枝分かれした鉄製の燭台に灯された蜜蠟燭の明かりで、食卓に掛けられた亜麻の卓布が目映く輝いている。綴織の壁掛けを背にした大広間の正面奥、基壇の上に貴賓席が設けられ、広間の両翼の壁に沿って主客の家臣が序列に従って席に着いている。
 貴賓席中央のひときわ高い背凭れの付いた椅子に主賓である皇帝が座り、両隣りの席にダユーとケバンが着いた。主人のエベルは貴賓席の端、妻の隣りの席に着く。卓を覆う亜麻布の盛り上げられた刺繍の図柄が照明の下で微妙な陰翳を描いている。
 貴人たちが席に着くと、給仕たちが水盤と手拭きの布を持って入場してきた。揃いの衣装を身につけた彼らは、貴賓席には銀の水盤を、家臣たちの席には錫の水盤を置いて回った。天井桟敷の楽人たちが音楽を奏ではじめると、酒壺を抱えた召使いたちによって葡萄酒が配られる。貴賓席の後ろに控えているのは執事のファラナムで、給仕長として料理の提供全般に問題がないか目を配っている。
 給仕人たちが料理を運んで来る。去勢鶏の澄んだ汁物、兔を白葡萄酒で煮込んだ羹、黒い腸詰、香草を芯にして豚の胎児の肉で巻き込んでから蜂蜜を塗って焼いたもの、揚げ鰻の煮込みなどが卓布が見えないほどに並べられる。とりわけ最後の鰻料理は皇帝の好物として知られたものであった。一度油で揚げた鰻を葡萄酒や東方の国で産するという砂糖を加え、とろみを付けるためにパンと煮込み、薫衣草や砂糖よりもさらに遠方から運ばれて来た桂皮や丁子で香り高く仕上げた逸品である。当然この料理は皇帝の真正面に置かれた。
 食事が始まると、吟遊詩人たちが南方の言葉で恋歌を唄って興を添えた。恋の喜びを晴れやかに唄ったかと思えば、恋の苦しみを切なげに唄う。異国の言葉ではあるが、ダユーたちの階級に属する者には理解が可能である。辺境と位置付けられている地域の貴族たちにとって、父母より習い憶えた言葉の他に複数の言葉を習得することは、被支配者として生きてゆくための欠くべからざる術であったからだ。
 最初に運ばれて来た料理がそこそこ食べ散らかされると、楽の音に合わせて第二段の料理が運ばれて来た。皇帝の前に、大皿に載せられた孔雀が尾羽を広げた姿で置かれた。ひとしきり生前に劣らぬ美しい姿とそれを可能ならしめた料理人の腕前を叡覧に供すると、ファラナムが青い羽根の下から肉を切り出す。孔雀と若い雌鶏の肉を細かく挽いて混ぜ合わせた生地の中に、鶉が詰めてある。香芹、紫蘇、薫衣草、立麝香草などの香草も練り込んであるので、肉に刃を入れると辺りに芳しい香りが広がった。
 ファラナムが切り分けた肉を、皇帝の若い近習が銀の皿に取って主人の前に置く。ふと視線を感じたダユーが目を上げると、皇帝の前に皿を置いた若者が笑みを含んだ目でダユーの愛を求めていた。若者にとっては残念なことに、せっかくの見た目の良さもダユーの嘉納するところとはならなかった。彼女は毛並みの良い若い雄牛を一瞥すると、すぐに所狭しと料理の並べられた食卓の、皿の陰のわずかばかりの卓布に目を休めた。
 貴賓席に連なるダユーたちも、孔雀料理の相伴に与った。エベルが皇帝から料理の出来を褒められると、エベルとともにケバンも晴れやかな笑顔で一礼する。儀礼状、ダユーもそれに倣う。料理の出来の良し悪しよりも、さして美味でもない鳥をその姿の美しさゆえに食膳に供することを異とせぬことを、ダユーはどうしても受け入れることができなかった。口の中に広がっているのは鳥本来の味などではなく、料理という技術を駆使したこの世ならぬ紛い物の味だった。食べる喜びを見出せないのだ。
 苦行のような咀嚼をしていた時、先ほどの若者に視線によって食されたことに気づいて思わず眉根が寄ってしまった。
「姫は孔雀は口に合わぬか」
 皇帝の声がダユーを不快な物思いから不快な饗宴に引き戻した。己の立場をわきまえ平静に答える。
「このような”美しき鳥”は口にしたことがございませぬゆえ」
”美味なる鳥”ではなく”美しき鳥”と言った。
「わたくしどもの口に入りますものといえば、卵を産み終えた老いた雌鶏くらいのものでございます」
 ケバンがダユーの後を引き取って愛想笑いを浮かべる。継娘に余計なことを言わせたくないのだ。
「日頃、美食に流れぬは人の上に立つ者の務め。貴家の家風、誠に質実剛健、北の護りを任せるにふさわしい」
 孔雀を喰らった口でよく言えるものだとダユーは呆れる。珍奇なものに散財することで、己の富と権力を示すことに血道を上げる貴族たちに最も遠いものが質実剛健なのではないか。
「恐れ入りましてございます」
 父のエベルが頭を下げる。
「時に姫はまだ嫁がぬのかな」
 己の身の上に触れられて、ダユーに緊張が走った。
「良いご縁さえあればと思っております」
 エベルが答える。
「許嫁は」
「亡くなりましてございます」
 エベルの言葉通り、ダユーの許嫁は一昨年亡くなっていた。彼女の従兄だったが、彼亡き後、ダユーの婿選びは難航している。ダユー自身はこのまま地元の修道院に入ってもよいと思っていた。
「姫のごとき見目佳き乙女にふさわしい男を、鄙にて見出すは難しかろう。縁組については朕が心に掛けておくゆえ、心安くまつがよいぞ」
「御心を煩わせ参らせ、恐縮の至りに存じます」
 エベル一家は深々と頭を下げたが、エベルとダユーは面倒なことになったと密かに眉をひそめた。ただ、ケバンは夫や継娘とは異なる想いにその緑の目をきらめかせた。
「姫の健康と幸福に」
 皇帝が酒杯を挙げた。エベルたちも酒杯を挙げる。蜂蜜と香料の入った葡萄酒が、ダユーの喉を滑り落ちていった。

 
 普段着に着替えたダユーは、寝台に腰掛け細帯を外した髪を乳母の手を借りることなく自らの手で梳かした。傍らの小卓に置かれた青銅の鏡に疲れた顔が映っている。未婚の子女の私室に当てられている部屋は幼い弟妹の部屋でもあった。いつもなら疾うに寝ているはずの弟妹が、この夜はまだ起きていた。二人は宴の残り物の姫茴香入りの凝乳の焼き菓子を美味しそうに食べている。館のただならぬ雰囲気にすっかり興奮した二人は、ダユーが帰ってきた時も眠るどころか走り回るなどしてはしゃいでいた。乳母たちがなだめすかしても一向に寝ようとしないので、切り札として持ち出されたのが凝乳の焼き菓子である。これを食べたら寝るという約束が乳母との間で交わされたのだ。
 夜食で腹のふくれた二人は藁布団に入ると疲れが出たのかすぐに寝息をたてはじめた。炉に掛けた鉄鍋からアインダールが蜂蜜酒を入れた酒杯に湯を注ぎ、ダユーに勧める。櫛を置き、酒盃に口をつける。ほのかな甘味と酸味が抑え込んでいた緊張をほぐす。ダユーが酒盃を置くと、アインダールは寝台の足元に置かれていた丸椅子を引き寄せて腰を下した。被り物からのぞく栗色の髪に白いものが混じりはじめた乳母は、養い君の弟妹が眠ったのを見て言った。
「何か物語りでもいたしましょうか」
 浮かぬ顔の主が憂いに囚われたまま眠りに落ちぬよう、アインダールは伽を申し出た。ダユーは拒むことなく目を閉じている。
「昔々、ある国を慈しみ深い王様が治めておりました。お妃様はすでに亡くなっていましたが、お二人にはそれはそれは美しい姫君がおりました……」
 幼い頃から幾度となく語り聞かされてきた昔話の抑揚は、心地よい旋律となってダユーを眠りへと誘う。行き先は、物語の姫が父王に頼んで造ってもらった海辺の都だ。
 姫の生母は人魚であった。姫が海辺に都を造ろうと思い立ったのは、父王の都に異国の神を奉じる輩が増えたためである。寛容や共存と縁のない新参の神は、己の配下の信者を扇動して地元の天神地祇を一掃しはじめた。郭公の雛が宿主の卵を巣から押し出し、己のみが宿主の庇護と養育を受けるようなものだ。古き神々の聖域は破壊され、巫女や信者は迫害された。姫にとって最大の不幸は、愛する父王がこのおかしな神を狂信する司祭に洗脳されたことであった。
 異教の祈りの文言を聞くことに耐えられなくなった姫は、母を偲んで海辺に造った都に移り住む。しかしこの都は地震で海に沈んでしまう。姫も都と共に沈む。王を操っていた司祭は、都が沈んだのは不信の輩に対する神の怒りによるものだとして、姫が沈んだのは海底ではなく地獄だと息巻くが、娘を失った王は悲しみに暮れる。それを悪魔に与する所業と断罪する司祭の言葉に聞くに及んで王はついに回心し、何もかも捨てて森へ去る……。
 夢の中でダユーは都と共に海の底へ沈みつつあった。すると青い水の彼方から何者かが近づいて来る。朧な意識の中で彼女の目は、海藻のように揺らめく黒髪と深い慈しみを湛えた瞳をとらえた。
(母上…)
 人魚の母は、沈みゆくダユーを抱えて何処かへ連れ去ってゆく。

 
 秋も深まり、夜が明けるのが日々遅くなっている。東の森の稜線に曙光が射し初める頃、ダユーとその家族は朝の祈りを捧げるため、館の礼拝堂に会していた。いつになく外は騒がしく、犬の吠える声に蹄の音、馬具の擦れあう音や人の話し声が館の中でも最も奥まったところにある礼拝堂にまで響いてくる。司祭の唱える祈りの言葉が辛うじて日常を支えている。
 祭壇に安置されている母子三体の木像は、いずれもダユーに穏やかな眼差しを注いでいる。ダユーは司祭の言葉を唱和しながら、聖像と夢に見た人魚のそれを生母の眼差しに重ね合わせていた。
 司祭の祝福を受けて退出する。他の建物同様、精巧な木組みで造られた礼拝堂の棟飾りに朝陽が射している。簡略化されてはいるが、それは正しく翼を有する大蛇で、上半身は女人であった。ダユーは眩しさに目を細めながらも夢で見た人魚をありありと思い出していた。

 
 館の中庭は人馬でごった返していた。美々しく飾られた馬が厩から引き出されてくる。ダユーの乗馬の連銭葦毛も凝った馬装を纏わされ、馬ながら何やら晴れがましげである。馬丁の助けを借りて鎧に足を掛け、長衣の裾を翻して馬上の人となる。左右に馬蹄と鷹匠が付き従う。
 皇帝歓待の一環として行われた鷹狩りには、皇帝と廷臣、接待側の領主とその家族に高位の家臣が参加した。騎行する貴人の傍らには、主の鷹を止まらせた止まり木を捧げ持った鷹匠が従っている。鷹は興奮しないように目隠し帽を被せられ、足緒で止まり木に繋がれている。その周囲を警護の近習、犬飼や勢子たちが群れをなして狩場を目指す。道の両側に連なる藁葺き屋根の下の小窓からは、領民たちが皇帝一行のきらびやかな行列を、好奇と警戒の入り混じった目で窺っていた。
 一行が狩場に到着すると、勢子たちが森に入って銅鑼を叩き、角笛を吹いて獲物を追い立てた。犬たちも兎の巣穴に鼻面を突っ込み盛んに吠え立てる。人と鳥獣の戦が始まった。ダユーは革手袋を着けた拳に灰鷹を据えた。ケバンも灰鷹を据えていたが、エベルは蒼鷹を据えていた。
 棲家を追われた鳥や獣が森から溢れ出してきた。巣穴から兎が跳び出してきた兎に気づいたエベルが鷹を据えた腕を大きく振る。その動きに合わせて鷹が飛びたった。兎は右へ左へ俊敏に跳ねて上空から狙い来る鷹を躱そうとしたが、熟練の技を有する鷹から逃れることはできなかった。鷹が兎を押さえつけると、駆けつけた鷹匠が兎とそれに代わる餌を素早く取り替える。これで兎は鷹の主の所有に帰した。ダユーは草地から飛び立った鶉に鷹を放った。鷹は空中で見事に鶉を捕らえた。鷹匠が走る。
 ダユーが鶉を手にした時、離れたところからエベルが仕留めた兎を掲げてダユーに笑顔を送ってきた。すると、その間にケバンが割って入るかのように馬を進め、獲物の雉を掲げた。
 一行が狩りを楽しんでいると、勢子たちの間ににわかに動揺が走った。彼らは何者かに道を空けるように左右に分かれて後退る。森の奥から疾風のように飛び出して来たのは若い狼であった。この狩場には鷹狩りの獲物としては不向きな猪や鹿などの大きな獣はいなかったので、それらを捕食する大きな肉食獣もまたいない筈であった。にもかかわらず狼が現れた。狼に限らず家畜でもない獣は容易には人里に降りて来ない。何らかの理由で群れを追われたのかもしれないが、ダユーたちが狼の姿を認めた時、大きな黒い影が彼らの頭上を過った。見る間に巨大な褐色の塊が、狼めがけて急降下してきた。これに気づいた狼は、姿勢を低くして敵を迎え撃つべく身構える。仰向いた狼は、白い牙を露わにして上空から襲い来る敵に備えていたが、敵は巧みに狼を躱して背後から狼の首を掴んだ。輪のように湾曲した鋭利な黒い鉤爪が、狼の肉に食い込み頚椎の神経を切断するや、狼の躰は地面に崩れ落ちた。草の上で動かなくなった獲物を押さえて勝ち誇っていたのは、皇帝が放った犬鷲だった。
 駆けつけて来た鷹匠たちが獲物の代わりに与えた肉を、引きちぎっては顔を上げて嚥下する。警戒を怠らないその目は周囲を広く遠く窺っている。馴致されているとはいえ、野生の風格を失わぬその姿には、人間よりも格上であることが誰の目にも明らかであった。
 犬鷲の快挙に歓声が上がる。皇帝が狼を掲げる。ダユーは皇帝など物の数とも思わぬであろうこの鳥に心の中で快哉を叫んだ。

 
 その夜の宴では、皇帝の食膳にエベルの兎とケバンの雉が供された。陪食のダユーたちも賞味する。昨夜の孔雀料理のような凝った細工は施されてはいなかったが、少なくとも孔雀よりは遥かに美味であった。料理人は手の込んだ料理の対極とも言える素材の持ち味を活かした一品で、己の技倆の幅の広さを披露した。ダユーの鶉はというと、蜂蜜を塗って炙り焼きにされた仔豚の腹の中から出てきた。
 宴果てて自室に退がったダユーの許に、一通の書状が届けられた。書状を受け取った侍女見習いの少女がアインダールへ渡し、アインダールがダユーに差し出す。織り模様のある平打ちの紐を解く。高価な羊皮紙には女文字で次のように認められていた。
『皇帝陛下にお仕えしておりますヒルデガルトと申します。御母堂様と思しき御婦人のことでお耳に入れたき儀がございます。わたくしは陛下の御座所からあまり離れることが叶いません。姫君様には御座所の裏までお出ましいただければと存じます』
 母という文字を目にした途端、ダユーの胸が大きく波打った。一面識もない皇帝の侍妾の言に、軽々に信を置くべきでないことなど彼女自身よく承知していることではあった。が、胸はたとえ片鱗なりとも母の消息に触れたい一心で高鳴る。
「どなたからでございます」
 アインダールが保護者然として訊ねる。
「ヒルデガルト殿とやらからじゃ」
「ヒルデガルト様とは如何なるお方でしょうか」
「皇帝陛下のお側近くにお仕えしておられる方じゃ」
「そのようなお方がなんと」 ダユーは書状をアインダールに渡した。書面に目を走らせたアインダールがダユーに不審の目を向ける。アインダールが地元の言葉の読み書きしかできないことを思い出したダユーは、口頭で内容を伝えた。
「このお方のお言葉を信ずるに足る証しはありましょうか」
「ない」
「では、お運びになるには及びますまい」
 ダユーは肘掛けに頬杖をつき、アインダールから顔を背けた。養い君の頑なな態度に語気強く言い放つ。
「姫さま。なりませぬぞ、お運びになっては」
 不満げなため息混じりに姫君が言い捨てる。
「ヒルデガルト殿は皇帝陛下に従って各地を巡っておいでじゃ。我らより見聞も広かろう」
「では、私が参りましょう」
「ヒルデガルト殿は私に話があると仰せじゃ。私が行かずして何とする」
 今にも部屋を出て行きかねないダユーの剣幕に、アインダールが折れた。彼女とてダユーの母を慕う強い思いを知らぬ訳ではない。それを思うと不憫でならないものの、いかがわしい女の許へ命よりも大切な養い君を一人で行かせる訳にはいかない。
「ならば私もお供仕ります。よろしゅうございますな」
 ダユーは拒絶せぬことで諾と答えた。


 月のない夜で星明かりも薄い。警護の兵の目を盗みながら、足下を照らすアインダールの手燭の灯りを頼りにダユー主従は皇帝の寝所の裏手に回った。林檎の樹の前に、手紙の主と思われる女が立っていた。女はダユーたちの姿を認めると、歓迎するような素振りで近づいて来た。と、急に小走りで建物の陰に姿を消すと、入れ替わるように男が姿を現した。闇の中で男の顔をしかと見定めることはできなかったが、ダユーはその男が昨夜の晩餐で自分に疎ましい視線を投げかけてきた無遠慮な男に相違ないと確信した。
「姫さま、帰りましょう」
 アインダールがダユーの手を引いて足早に立ち去ろうとした。男が駆け寄って来てダユーに手をかけようとする。
「退がりゃ」
 鋭い声がアインダールから発せられた。
「姫さまの御身に触れるでない。立ち去れ、下郎」
 主の身を守らんとする女の気迫は、一瞬男の動きを止めはしたものの、元よりその程度のことで怯むような男ではない。辺境の言葉で自分に歯向かう中年女を蔑むかに冷笑を浮かべ、かまわずダユーの軀にかけようとした男の手をアインダールの手燭が払った。
 鉄製の手燭は男の右手を傷つけた。男が左手で傷の痛みを抑え込む。手燭はアインダールの手元にあったが、蠟燭は男の手を打った時に抜け落ちていた。
 闇の中で男がアインダールに憎悪の目を向ける。アインダールがダユーを背に隠し、助けを呼ぶべく声を上げようとした刹那、男は彼女の胸を懐剣で一突きした。アインダールの軀から力が抜け、滑り落ちるように地面に両膝を突くとそのまま倒れ伏した。
 ダユーは乳母の軀を抱き起こし、名を呼びながら激しく揺さぶった。が、目と口を開けたまま息絶えた乳母が、ダユーの呼び掛けに応えることはなかった。
「下女の一人や二人、お気に召さるな。我が母は皇帝陛下にお仕えする宮女の中でも随一の寵姫。その腹に生まれた私は皇后陛下御腹の諸殿下にも劣らぬ御慈しみを皇帝陛下より賜る者、陛下も仰せになっていたではありませんか。あなたの縁組は任せよと。陛下も私があなたを望めば必ずやお聴しになることでしょう」
 男は立板に水の勢いで口説いてきたが、必死にアインダールの名を呼び続けるダユーの耳に男の言葉など入らない。男は苛立ってダユーの腕からアインダールを引き剥がそうとした。
「何をしやる」
 ダユーは怒りに滾った目を男に向けた。ダユーの姿は有翼の大蛇に変じた。少なくとも男の目にはそう映った。ここに至って初めて男はたじろいだ。さすがにまずいことになったと思ったのか、男は二、三歩後退ると踵を返してその場から逃げ出したが、ほどなくアインダールのように地に崩折れた。
 異変に気づいて駆けつけて来た衛兵の足下に、男の首が落ちて鈍い音をたてた。衛兵が飛び退く。おもむろに顔を上げ、首が飛んで来た方向に目を遣ると、大柄な黒い影が刀に付いた血を振るっていた。血刀を提げた影が何者であるかを悟った衛兵は、直立不動の姿勢を取って影に敬意を評した。


 巡幸の一行は二日間の滞在を終えて、予定通り西北辺境伯の館を後にした。農地から天幕は一掃され、再び刈り取られた穀物の束が稲架掛けされた。三日前の光景と何ら変わるところはないように見受けられる。ただ、集落から離れた場所にある、通常の墓地とは異なり不浄とされている墓地に、新しい塚が作られていた。皇帝の庶子で、供回りに加えられていたまだ少年と言ってもよい若い男と、その男と通じていた皇帝の侍妾が塚の主であった。侍妾も侍妾腹の庶子も、ひとたび失寵すれば柩にも入れられることなく冷たい土の下の骸と成り果てる運命にあった。
 隠亡たちが塚に土をかけ終え鋤鍬を担いで墓地を離れた頃、集落の教会堂ではアインダールの葬儀が執り行われていた。深い青の喪服に身を包んだダユーは、アインダールの叔母に当たる老侍女と執事のファラナムに伴われて、忠義な乳母に最後の別れを告げるために訪れていた。
 ダユーの胸のうちには、長年にわたって忠実に仕え、愛情深く育ててくれた乳母の諫言を容れなかった己の浅慮が赦しがたく、後悔の念が真冬の海よりも激しく荒れ狂っていた。しかし、どれほど己の非を悔いたところでアインダールが生き返ることはない。穏やかな褐色の瞳が温かくダユーを見守る日はもう二度と来ないのだ。慚愧と後悔に耐えきれず、ダユーは想像の中で自刎した。
 アインダールは独り身であった。十六で嫁ぎ、四人の子を産んだが、死んで生まれたり生きて生まれても育つことはなかった。四人目の子を妊っていた時夫を亡くし、生まれた子もひと月も経たぬうちに泉下の父や兄姉の許へ旅立った。子を失った後、乳で張った胸の痛みに耐えかねていたところ、館に仕える叔母を通じて一両日中に生まれるであろう領主夫妻の子女の乳母にとの内意が下った。領主夫人が産んだ女児、ダユーと名付けられた姫君に仕えることにアインダールは生きる希望を見出したのである。
 以来、ダユーはアインダールの胸に抱かれ、母と父に見守られながら育った。母が失踪してからも、アインダールの支えがあればこそここまで無事に育つことができたのだ。その余人には代え難い乳母を失ったことは、鳥が翼を失ったに等しい。内臓を抜き取られたような喪失感に包まれながら、ダユーは教会堂の戸口でアインダールの柩が墓地へと運ばれて行くのを見送った。

         (続く)
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