雨と無知

「飴と鞭」とは、支配や懐柔の方法で、甘い扱いをして譲歩する一方で厳しく締め付けること。権力者の人民懐柔策で、弾圧法規を制定すると共に、一方では、生活に役に立つとされる政策を実施することである。
 鞭を前者に、飴を後者に例えた言葉であり、ドイツ帝国鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクによる政策を評価した言葉が定着ものである。
ドイツ語でZuckerbrot und Peitsche(ツッカーブロット ウント パイチェ)。
Zuckerbrotは、厳密には菓子パンをさす。英語では同じ意味で人参と棒(carrot and stick)という。
 
 タイトルである「雨と無知」はその「もじり」であることは、書くまでもないが書く。昨日に続いて、意味ありげで特に意味のない言葉。思いついたのだから仕方がない、ということでやっていこう。
 どの程度の知識があったら博識で、どこまで知らなければ無知なのか。例えば医師なら、自分の専門分野を中心に医学の知識や臨床の見識はある。その他にも、医学部に合格するぐらいなら、人よりも勉強して、博識かもしれない。また、異分野に関しても膨大な知識を生かして、物事の輪郭を掴むのも容易い。私はただの高卒なので、ひとつの事をしっかりと学んでいないし、まともに受験もしていない。故に無知ということか。無知であるがゆえに、損をして、遠回りをして、脇道にそれる。王道の中心をいく人からすれば、嘲笑の的どころか、意識にも入らないだろう。
「雨と無知」
 耳をつんざくノイズな豪雨。世間と自分を隔てるベールは、重く、強く、皮膚を突き破る勢い。ベールの外は快晴で、にこやかで一寸の曇りもない笑顔を張り付けた人々が、楽しそうにしている。仲間に加わるために、豪雨に打たれて傷つく気にはなれない。湿気で傷んだスペースで、薄汚れた安全地帯に安住して、連綿とつづく停滞期を続行している。
 優しい言葉を信じることができない。その場限りの戯言に耳を傾ければ、安きに流れて、さらなる愚鈍の渦に身を投じ、地獄に落ちる。無知を脱して博識になり、利益を世間に与えれば、曇りのない笑顔を張り付けて、仲間にいれてもらえるか。孤独を望まずとも、自然に今があります。変わることは不自然なのか。これが運命なのか。あらかじめ決められた、道筋に沿っているだけで、無駄な抵抗か。単なる見せかけか。
 無知の雨が、外界と自分を隔て、一方で自分を護っている。傷づくことを恐れちゃいけないと言う人は、常に傷だらけで、前進のみの人生なのか。そんな立派な人に、愚図の気持ちはわからない。分かってもらおうとも、共有しようとも思わない。ただ、希望の光を、世間と自分を隔てるベールの外に見ながら、万年床に横たわりつつ、無意識を反芻するだけだ。

 日曜日の夕方に、湿気て黴臭く、暗く、とりとめのないことを書いてしまった。来週から、ショートショートが週三回に増加するというのに、こんなことで大丈夫か。ネタ作りに勤しむ週末。もうクオリティを上げていかなくてはいけない季節。残暑厳しいなかでの、本稿だった。

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