すべての犬を飼う人間に捧ぐ

 私は怒っている。人知れず、はらわたを煮えくり返らせ、身悶え、小気味よく震えている。私の住む家は旗竿地(道路の隣にある敷地の間口の狭く、奥にある敷地が広い土地。旗に似ている)になっている。両隣には家が建っていて、ギリギリ再建築可の2メートル程の道を奥にいくと、庭、家とある。問題が発生するのは、間口である。
 端的に言って、糞だ。
 犬の、糞。深い茶色の物体。
 ああ、やられた。やりやがった。どうしてくれるんだ。発見したその瞬間の落胆たるや、筆舌に尽くしがたい。それを尽くしていく所存です。はい。
 常識。散歩中、犬が射出した糞は回収し、燃えるゴミの袋を二重にして捨てるか、異物を取り除いてトイレに流す。これが、当たり前のことだ。
 しかし、それが出来ない人間がいる。私はそのヒトを軽蔑する。間口とはいえ、他人の私有地に糞を放置するとは恥知らずにもほどがある。築年の古い家と見て、空き家と勘違いしていたとしても、許されるわけではない。正面から見て右側の隣家は、玄関が間口のすぐとなり。隣家にも迷惑千万。
 ペットを飼う財力がありながら、常識のないお前さん風情はきっと、一事が万事、他にも愚行を重ねていることだろう。人に迷惑をかけているなんて考えもせず、愛玩犬とヨロシクやって、なんたる破廉恥。
 その、糞を、私は、どうしているか。落ち葉でくるんで、地面を掘って埋めたり、はす向かいの空き地に投げたりしている。みじめな気持ちでその作業をこなしている。糞はいつか風化するかもしれない。が、怒りは風化せず鍾乳洞の鍾乳石のように形作られている。
「他人の私有地に犬の糞を放置する」
 この巨悪は決して裁かれることもなく、この日本に跳梁跋扈し、のさばっている。巨悪を成敗するイコライザーが必要だ。しかし現実には存在せず、私は無力な一般男性だ。たとえば、監視カメラを設置し、個人を特定して、注意しにいく。トラブルは面倒だ。金も手間もかかるのは御免だ。常識知らずのこんこんちきのために、時間をつかうなんて地獄の所業。
 犬を飼う人よ。颯爽と、糞を拾ってくれ。飼い主としての責任を果たしてくれ。さもないと、草葉の陰でおじさん泣いちゃうよ。他人の犬がした糞を処理しながら、枕を濡らすよ。ああ、そうだ。思い出した。親戚の叔父のお見舞いにいこうと、最寄りの駅に向かう途中、犬の糞を踏んだことがある。ちかくの公衆トイレで靴の裏の糞を流し、もっていたレシートで拭いて電車に乗った。しかし、僅かに糞の香りが残って、帰って結局捨てることになった。そんな嫌な思い出もあった。あの時は殺意の波動を帯びたものよ。
 出来る限り、筆舌は尽くした。
 そんな私は、犬を飼うつもりは毛頭ない。金を払って、責任を負い、手間をかけても意味がない。猟犬や犬ぞりや警備など、使役目的でない限り。ペットなんてものは贅沢品の極北。文明人の証。人間のエゴ。
 あぁ、犬を飼える身分になりたい。ボルゾイを3匹ぐらい引き連れたい。

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