競争と真実

 真実、本当らしい、確からしいこと。そういったものに私は執着している。それは裏返せば「嘘」に対する嫌悪でもあると言える。私は虚偽に敏感であり、それは真実というものが確かに存在することへの盲信と、隠されたことに対する不安とでこしらえられた檻である。
 例えば、「本当は私のことなど関心がなかった」という人がさも関心があるように振る舞う様や、「楽しい」ということが後々聞けば、実はしんどかったのだということに私は心底恐怖しており、過剰なサービスや、それに伴う心労はその恐怖を紛らわすために生まれているのである。「必要とされることこそが存在だ」という迷妄をとうに私は打ち払ったと思っていたが、それこそがまさに私の勘違いだったのだ。
 そもそも、真実などというものはあるのか。おそらくそんなものはないのである。確からしいことが積み重なり、それはさも真実のような顔をして、私たちはそれに安堵する。そこには一切の保証はないにもかかわらずである。もちろん物理的な真実はあるであろう。しかし、事象は全て形而上、認識の上で成り立つのだ。ある事件に対する整合性は別の整合性と奇妙に同居しながら、複数の解釈は重なり合っている。そこにいったいいかような固有の真実を見出せるであろうか。人間の気持ちは全くそういったものの上に成り立つのであり、そのような不安定なものを基盤にすることは、大地に猛々しく立つ姿というよりはむしろ、水の中を泳ぐ姿に似ているのだ。ばしゃばゃと音を立てて騒ぎ立てるよりは流麗なフォームによって、絶えず運動し続けること。それが不安定な中で安定を保つ唯一の方法なのである。
 にも関わらず、何故真実に固執するのか。そのメリットは。いかなる欲望が。
 私はこれが「競争の遊び」における決着への希求から生まれているのではないかと考える。競争はどちらかが優れているかを決めるものである。求められるのは差異を優劣で断定することだ。そこでは厳密に任意の差異を取り出さなければならず、それ以外の差異は極力なくならなければならない。そうしなければ、任意の差異のおかげで優劣がついたのか、別の要因があったのか確認することができないからである。
 ゆえに競争では平等という確固たる足場が必要となる。平等でなければ、どちらが優れていたかを決めることができない。もっといえば納得。納得を両者がするために平等のもとに優劣がつかなければならないのだ。「遊びの構造」はおそらく、究極的には納得、頷きを得るために必要なのである。
 そして、その平等を担保するものこそが真実なのである。もし仮にどの視点から見ても非の打ち所がない究極の真実があったとしよう。その真実は誰にとっても真実であるならばまさに完全な平等なのである。そして、その真実の鏡、真実の物差しで測るのであれば全ての事柄は平等に優劣がつくのである。仮に凸凹だったり、長さがまちまちな物差ししかなかったとして、それで飛距離を競ったらどうなるか。毎回まちまちの違う物差しで測って決められた勝敗に貴方は納得できるだろうか。
 競争は「平等」、そして究極的にはそれを担保する「真実」によって成り立つのである。真実のレベルは競争のレベルによって、変わる。命懸けの闘争であれば、同じ現実に生きているという平等と、それは真実である、ということによって。トランプであれば配られたカードに作為はないのだという平等と真実によって。イカサマという遊びを破壊する行為を、同じく現実においても糾弾するのはこういった「競争の遊びの構造」で捉えられたことによってなされるのである。(ちなみに何かの本で読んだのであるが、南米のある地域ではゲームのイカサマはむしろ推奨され、バレないということも競争の一つとなっているという。競争を担保する平等はイカサマはバレなければしてもよいというレベルでも成り立つのが面白いと思う)
 以上で見たように、私がもし真実にこだわるのであれば、それは私が競争の観念の中で生きていることの証左になるのである。「平等が良い」は聞こえは良いが、実は競争の土台とそれに対する納得を求める希求なのだ。つまり競争の観念の上であれがよい、これが良いと行ったり来たりしているだけなのである。
 そして私が過度に恐れるのは「嘘」を含んだ世界という競争に巻き込まれること、そして、そこで私が実はしていたイカサマがより大きいイカサマに飲み込まれて無為にになることなのだ。
 私は実に大いに競争をしており、それを隠蔽していたにすぎないのである。まさにその隠蔽こそが、私のこのゲームに仕掛けたイカサマなのである。
 私が越えなければいけない壁とは、この「本来は負けたくないと思い続けていること」と「思い通りにならないことへの癇癪」というまったくもっえ幼稚な幼児性なのである。それゆえに、そういったものを他者に見るとき(これは心理学における転移である)、私は辟易し、うんざりした気持ちになるのだ。
 私が見出した彼らの幼児性は私の抑圧した亡霊の復讐であるわけだ。私は彼らを自宅に招き入れ、そして彼らと夕食を食べ、固く閉じた地下世界への入り口の錠前を破壊し、「いつでも訪ねて来なさい」と声をかけてあげるべきなのである。
 我々はいかなる方法をもってしても、保存された精神を飼い慣らすことなどできない。先の例えのように、水は固まらないし、固めたつもりでいることが真の原因なのである。
 この記述が真実であるかどうか、ではなく、ほんとうのことであることを私は願う。

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