WiFi貸してください(詩)

 「あら、珍しい!」
最近よく行くバーにいくと、喫茶店の店主の嫁が1人で酒を飲んでいた。
 「いや、珍しくもないよ、この人たまに1人でくるのよ、アイツいないとき」
長髪に髭のマスターが私に教える。嫁はどうもーという顔。
 「そういう〇〇さんこそどうしたんですか?最近よく来るんですかぁ?」
「家にいて落ち着かない時来るんですよね、最近。避難所?みたいな」
「ああ、例の」
「そう例の」
「追い出せばいいのにぃ」
「そうもいかないですよ。でも今日は違ってwifi借りに。うちwifiないから」
「なにかするんですか?」
「いや、ちょっと急遽xxxxにサポートギターで出ることになって、データ送らなきゃで。YouTubeのライブ生演奏する番組?」
「え、あのxxxx?ほんとに?凄いじゃないですか、いつ?」
「明後日です。」
「急だ!」
「急だし、僕ギタリストじゃないし、マジで上手くないし、そのシンガーソングライターの子会ったことないし、でも面白いからって受けちゃいました。僕誘ってくれた友人が平謝りするところ見るんでしょうね、なんでこんな奴呼んだんだーって!たのしい!」
「〇〇くん、ほんといつも訳わかんないことしてるよねぇ」
髭のマスターがタバコに火をつけながら言う。どこか似たところがあるとマスターは私を見ているらしく、それ以来なんとなく仲が良い。
「ところで旦那は何してるの?」
嫁はスマートホンをすっと差し出す。位置共有アプリのマップ上の中心に青い点が明滅している。場所はお台場を指している。
「お台場」
「なんかバイクでお台場いってるんですって」
「はあ、あの人も相変わらずフラフラしてますねえ」
「いつものことだから」
「全然動かないじゃないですか」
「なんか話し込んでるんじゃないですかあ、海とか見ながら」
 横ではバーの常連がメンズエステに言った話を続けている。髭のマスターはカッカッカッと形容できそうな抑制的な笑い声。私はパソコンを立ち上げて、先程収録したデータを書き出し、メッセージアプリで転送する。
 「いや、でもすごいですね」
「本当はそんなんより、彼女が欲しいんですけどね。」
「求めてるときってこないんだよねえー」
薄暗い店内、カウンター越しにマスターは今度は抑制的でない笑い方で笑う。
「あ、動いた!」
嫁のスマホの画面を見てみると、先程まで動かなかった点がお台場の海中に浮かんでいる。
「海中」
「バイクで飛び込んだんですかねえ」
私は馴染みの喫茶店店主がバイクの勢いに任せて夜の海に飛び込むところを想像する。相変わらずニヤニヤとした顔で、バイクと体は海中に沈み、そのまま店主はヌッと海から顔を出して岸まで泳ぐのである。黒々とした海にお台場の夜景が白い筋となって映り込む。
「明日は喫茶店休みですねえ」
「ずぶ濡れで帰ってくる旦那なんて僕は真っ平だけど、よく一緒にいるもんですね」
「それなあー」
その後嫁はバイクで迎えにきたりするんじゃないかということを諦めて帰路につく。終電はもうないから歩いて行くのだと。

 


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