悪霊から花を生成する思案。

幼少の頃から、私は人を傷つけてしまうのが恐ろしかった。私が何かを言ったことで、行ったことで、誰かが傷ついてしまうのではないか。間接的にでも私のせいでそれは起きたのではないか、行動の果てには罪があるのでらないか。そのような懸念がいつも頭にあったように思う。
 また私のせいではなくとも傷ついた人を見るのも恐ろしく辛く苦しいことであった。何もできなくてごめんなさい、という気持ちが生まれ、いてもたってもいられなくなりただただ問題の悪化を防ぐために耐える。
 世界は私にとって耐える場であった。それは勝手に傷つき、勝手に苦しんでいる、全ての悪霊を受信し続けること。そして、その悪霊を私が生み出してしまったのであれば、その面倒を見なければいけないということ、それが全く恐ろしかったのだ。
 「原因があなたにないのであれば関係ないではないか」と言う問題でもなく、ただ、辛そうな悲しそうな顔をしている人がいることそれ自体が私には毒であり、私の無能力と罪を証明する。私は悲しみの含まれる空気を吸うことを拒絶し、それがいかなる快楽であろうと悲しみを排気ガスとして吐き出す装置ならば起動させなかった。
 もちろん、この世界は誰かの悲しみにより作られている。私はそれを見ないこと、目に届かない場所にいることによって生き延びたのである。例えば、搾取される人、社会、私の使用するあらゆる文明が搾取から成り立つとして、私とそれらの悲しみまでの距離に薄められた罪悪感を享受していたのだ。距離によって忘却する。これが私が愚かにも生きる知恵と呼んでいるものなのである。
 グレゴリーベイトソンが発見したダブルバインド理論というものがある。かいつまんでいえば、言葉と行動があべこべになるコミュニケーションパターンのことである。例えば、母親が「さあ私を抱きしめて愛してるわ」といって、子供が抱きつこうとした時。もし、抱きついてきた子供に母親がビクッと恐れたような反応をしたとする。このとき、母親は愛してるという受容を言葉で表現し、身体反応で拒絶を表現している。受容と拒絶という相反したものが、ひとつのコミュニケーション上にある場合、子供は混乱しどちらを受け取っていいかがわからなくなる。これがダブルバインド(二重拘束)である。どうしていいかわからない子供に対し、母親は追撃をするであろう。「なにをまごまごしているの、私を愛していないの?」。そして子供はさらにどうしていいかわからなくなってしまうのだ。
 こうしたダブルバインドのパターンは様々なところに生じる。愛してるといいながら殴る彼氏、期待をしていると言いながら出世の枠から外す上司、1番の親友だよと言いながら遊びにいくことのない友達。少し拡大解釈のしすぎが否めないが、この世界は言葉と行動の不一致に満ちている。
 そしてそれに答えを出すこと、つまり拘束されない回答を出すことが大人になるということではないだろうか。
 私はいまだ、このダブルバインドに納得のいく回答が出せていないのかもしれない。悲しみを見据え、それにイエスもノーでもない、新しい回答。それが私の求めるものである。言葉通りにうけとる。行動通りにうけとる。どちらもできない私はただただ沈黙し、黙りこくって時間がすぎるのを耐えているだけである。
 空気中の悲しみからエネルギーを合成し、我々が生きるための酸素を吐き出すような、それはおそらく美しく、そう花のような。それを芸術と呼ぶのならば私は芸術になりたい。
 私は花となりたい。所作は花となりうる。人はおそらく咲くことができるのだ。

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