西田幾多郎 「意識の問題」現代的改定+補足

このnoteは、西田幾多郎の著作を現代語的に書き換えることを意図したものです。書き換えを行う筆者は大学等で哲学を学んだことは無く、哲学的素養に関しては完全に素人です。読解の助力になることを願い書いたものですが、私の誤読が介入してる可能性があります。読まれる方は、このnoteを鵜呑みにされず、必ず現本を読まれてください。誤読と思われる箇所があればご指摘いただけると助かります。また、没後70年を経過しているため著作権は失効していますが、同一性保持権に抵触すると判断される可能性があり、その場合すぐ削除することを宣言します。

※筆者の独断により、“~”、「~」等の記号を付け加えています。
※西田自身が補足としてつけているかぎ括弧は、【】で表しています。
※筆者が分からない部分は?をつけています。お判りになられる方がいたらご指摘いただけると幸いです。

前著「自覚に於ける直観と反省」の現代的改定+補足

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意識の問題




 この書は私がかつて著した「自覚に於ける直観と反省」の終において達した立場から、主として意識の問題を論じてみたものだ。私はかかる問題を攻究することによって、精神科学の基礎概念を明らかにしたいと思ったのだが、なお徒に問題を提出したというに過ぎない。
 この書において、私が実験心理学に反対するもののように思われるならば、それは誤解だ。実験心理学が厳密にその立場を守る限り、私はこの学の価値と功績を認めるのに躊躇するものではない。ただ、この学がどこまで、精神科学の基礎として、すべての深い問題を解決し得るかは疑いなきを得ない。それだけでなく、私は心理学は他の科学にもまして、哲学的反省を要するではないかと思うのだ。
 この書、固、一つの習作に過ぎない。思想の未熟なるは言うまでもなく、あるいは前後一致しない様な所もあるだろう。偏に読者の同情ある理解を冀う(こいねがう)のである。
大正九年一月 西田幾多郎

改定の序


 カントが一度、形而上学を排斥し、事実の問題と価値の問題を峻別して以来、一途に形而上学は過去の学問と思われ、体験の内省は、なべて心理主義に陥るの恐れあると思われる傾がないでもない。しかし形而上学が爾く容易に葬り去ることができるや否やは疑問であり、またいわゆる新カント学派の人々があまりに論理に偏して、深い体験の内省を欠いていたということは、殊更に問題を局限し、明らかにすべきものをも明らかにしなかったという弊がなかったかと思う。    
東都大震災(大正十二年)の後再刻の日 著者

意識とは何を意味するか


 我々は自ずからある物とかある事柄とかが自分に意識されているとかいったとかいうことを知っている。従ってこれらの物(意識されるもの)と意識されなかったものを区別する。物が意識されるとはどのようなことを意味するのだろうか。
 物が我々の意識されると否とは物自身に何らの変化もないと考えることができる。例えば数理とか物理現象とかいうものが我々に意識されると否とは、数理とか物理現象とかいうものに何らの関係もない。これらの対象が意識作用と関係ないのみならず、意識現象の性質として考えられている赤とか青とかいうものも、表象自体として意識作用を超越していると考えることができる。赤とか青とかいうものも意識されることによってその性質を変じない。意識作用は表象自体に何物も付加しないのだ。
 普通には色とか音とかいうものは精神現象の性質であると考えられている。エーテルの波動が眼底を刺激して色と感じ、空気の振動が内耳に入って音と感じられる。色とか音とかいうものは外界刺激が感官に触れて生理的刺激を起こし、この刺激が脳中枢に伝わり、これに伴って起こる精神現象の性質と考えられる。精神と物体の間に因果的関係を考え、甲の物体の作用によって乙の物体に変化を生じるように、種々の感覚的性質は外界刺激の作用によって起こされた意識現象の性質に過ぎないと考えられるのだ。赤とか青とかいうのは意識現象そのものの性質であって、これらの性質を離れて意識現象というものはない。赤の感覚とか青の感覚とかいう外に意識というものがあるのではない。これらの具体的意識現象以外に意識の性質とか意識作用とかいうものを考えるのは、物体現象の背後に物力を考えるのと同じく、抽象的思惟の作用に過ぎないと考えることもできる。
 青の感覚、赤の感覚、空間知覚、時間知覚等その他種々なる個々の意識現象を離れて意識と言うものはない。あたかも電磁気の現象を離れて電磁気がないと一般であると考える人もある。しかしこれらの語は厳密に考えて見なければならない。我々は赤とか青とかいうものを感じることもできれば、これを記憶表象として想起することもできる。またこれを思惟対象として考えることもできるのだ。これを以って見ると、赤とか青とかいうのが直ちに赤の感覚、青の感覚ではない。赤の感覚には赤の外に何物かが加わらねばならない。すなわち意識の対象(赤いもの)と作用(赤の感覚)は区別されねばならない。赤の感覚作用とか知覚作用とかいうものが赤ではない。むしろ知覚されるもの、想起されるものが赤いのだ。赤と言うものは意識の対象の性質であって、意識作用の性質ではないと言ってよい。無論、斯く意識の対象と作用を分かって考えるのは思惟の所作に過ぎない。具体的意識現象にはこのような区別はないとも言い得るだろう。意識現象は物理現象と同じく、具体的出来事と考えられる。しかし今赤の経験が青の経験に変じたとする。我々はこれを赤の感覚(作用)が青の感覚(作用)に変じたと解することもできれば、外界において赤の光が青の光に変じたと解することもできる。これを感覚(作用)の変化と考えれば、すべてが直接経験の事実として誤りなきものと思い、これを外界における物体現象の変化として説明するのは推論であって、時に誤ることがあると考える。しかし物理現象とはいわゆる客観的立場から我々の経験を統一したものとは言え、我々の感覚的経験を離れて物理現象があるのではない。物理現象とは感覚的経験の変化に対する一種の解釈だ。翻っていわゆる心理現象というものを考えてみて、それが果たして心理学者の考えるように直接経験の事実そのままで何らの思惟の加工も混じないと言い得るだろうか。赤の感覚が青の感覚に変じた場合、我々はこれを意識内の現象としてこれについて十全な知識を有する直接経験の事実と考えているが、外に対して建てられた内(意識内の現象)はいわゆる外(物体現象)と同じだ。(この場合)いわゆる我は物と同じく外界的だ。勿論現今の心理学者は我というような実在を考えないだろう。一々の精神現象をその時その時の出来事と考えている。しかしもしこの考えを徹底するならば、精神現象の再起ということは完全に不可能とならねばならない。記憶とか意識統一とかいうことは、いかにして説明することができるだろうか。赤の感覚が青の感覚に変わったという意識は、いかにして可能であるか。厳密な意味において一度限りの出来事は、何らの実在性を帯びることはできない。その間に何らの結合も考えることはできない。心理学的法則を考えるのも無意義となるだろう。
 赤の感覚が青の感覚に変じたという場合、これを単なる一度限りの出来事の連続と見るならば、心理的実在とはどのようなものだろうか。出来事とは何物かの上においての出来事でなければならない。何物かがその基礎とならねばならない。現象の背後にいわゆる実体のようなものを考える必要はないとしても、これらの現象が何らかの意味において独立し、それ自身の法則を有するならば、出来事の単なる連続以上のものでなければならない。物理学においても種々の現象を出来事と考えるのだが、その背後に種々の力とかエネルギーとかを考えることによって物理的実在が成立するのだ。かりにも客観的実在として我々の認識対象となるものは、自然科学的実在のように現象間の不変的関係というようなものか、歴史的実在のように種々の現象を個性的に統一するようなものかでなければならない。もし個々の要素を実在と考えるとしても、物理学者のいわゆる原子のようなものか、ヘルバルトのいわゆるRealen(実在?)のようなものを考えねばならない。ヴントによれば現今の実験心理学は主意説であって、個々の精神現象を出来事と見なし、物理現象と同じく実験法を用いてこれを研究すると言うが、それにしても現象と現象を関係させるものがなければならない。これらの現象を統一する根本概念がなければならない。物理現象においては空間、時間、運動というようなものがこれらの根本概念となるのだ。空間的延長というものが物理現象の根本的性質となるのだ。心理現象を考えるにも、何らかの意味においてこのような根本概念がなければならない。そうでなければ心理現象の関係を考えることも不可能だ。心理現象というものを他と区別して考えることもできないだろう。
 意識は誰かの意識である。ある人に意識されるということが意識現象の特徴と考えられる。これが意識現象の我々に直接と考えられる所以だ。しかしこのある人というのは何を意味するか。現今の心理学では、現象の背後に我というような実在を考えない。自己同一の意識は、統覚作用に伴う一種の感情と考えられている。この感情が不変であるが故に自己も不変と考えられる。この感情が失われれば二重人格の如き現象を呈するのだ。右のように考えるならば、我というのはいわゆる意識現象の結合点であって、ある人に意識されるということはある一点に結合されるということとなる。意識現象がある人に意識されるということは、一つに統一されているということとなる。しかしこのような統一と言う語の意味も厳密にしなければならない。意識現象はいかなる意味において統一であるか。意識統一とは何を意味するのか。意識現象の統一とは物体の原子のような実質的一者であるとは、今日は何人も考えないだろう。しかし単に意識現象が相互に関係するというのに過ぎないのならば、物理現象も互いに相関係するのだ。一つの現象が他の現象に影響を及ぼす所に、物理的法則が成立するのだ。意識統一とは単なる相互作用以上のもの(物理現象以上のもの)でなければならない。精神現象においては(相互の)関係そのものが実在的であるのだ。精神現象は多にして一、一にして多であると言われるのはこれによるのだ。
 物体現象は空間、時間の上において相働くのだが、空間、時間は物体現象にあらざることは言うまでもない。かつて考えられたように物質はエーテルと言う連続体の渦動であると考えれば、物体現象の背後においても一つの連続体(この場合、物質に対するエーテル)が実在すると考えることもできるだろう。しかしこのような統一は実質的一者だ。一原子の実在性と同様だ。精神現象においては、これに反し、要素の実在性と共に、全体の実在性が保たれ得ると考えられる。例えばジェームスの言ったように、我々がある一つの文章を順序的に意識する時、その一語一語の意識において全体(文章全体)の意味が含まれていると考えることができる。またヴントなども意識現象においては、新たな総合的意識現象(全体の意識)が成立するも、要素的意識現象(部分の意識)はなおその実在性を維持すると考えている。氏が心理的因果律を自然科学的因果律と区別して、創造的総合となすのはこれによるのだ。いかにして精神現象においては総合的全体が構成的要素に対して実在性を維持することができるか。総合者(総合的全体)が被総合的要素(構成的要素)と同列の実在として、自己の実在性を維持すると共に他に対して総合的位置を取ると考えることはできない。例えば前に言ったジェームスの考えにしても、文章自体(総合的全体)ともいうべき意味の意識は、一語一語の意識(構成的要素)に比べて一層高次的と考えられねばならない。ジェームスは根本的経験論の立場からはtoとかfromとかいうような関係語によって表される意識も経験であると言うが、単に意識されると言えば同じように思われるかもしれないが、その意識内容の異なるように、意識されるということの意味が異ならねばならない。ブレンターノ学派のいわゆる作用において異ならねばならない。ヴントの考えにしても氏のいわゆる精神的要素と(精神的要素を統一する)表象と、または表象と(表象を統一する)連想や統覚などはその次位を異にするものでなければならない。右のように考えるならば、意識現象において全体が部分に対して有する実在性は、高次的なものであるということができる。すなわち意識においては一層高次的なもの(統一するもの)が実在となるということができるのだ。無論多くの心理学者はこの意識(統一の意識)を単に強度において弱きものと考えるだろう。自覚されない一種の意識(無意識)と考えるだろう。しかし単に強度において弱いということは、他に対して総合的地位を取るという理由にはならない。単に弱き感覚と見る外はないだろう。無意識的意識(統一の意識)というのは、単に強度の弱いものではなく、(部分の意識と)性質的に異なった意識でなければならない。一般の心理学者に承認されない説ではあるが、私はいわゆるヴェルツブルク学派の説のように、意味の意識は決して不明瞭な意識ではないと思う。無論一般の心理学においても、無意識的意識がそれだけとして総合的地位を取るというのではなく、無数な過去の経験内容を代表するものと考えるのだろうが、いかにして斯く一つの要素(無意識的意識)が無数な他の経験内容を代表することができるか。もしこれを連想の法則によるというならば、表象と表象を結合するミーディヤム(媒介者)となるものは何であるか。普通に考えられるようにこれを脳細胞の作用に帰すならば、精神現象においては自然現象と異なった統一が実在であると言われなくなる(自然現象と同じだ)。これを表象そのものの力に帰すならば、ヘルバルトの表象力学説Vorstellungsmechanismusのようなものとならねばならない。しかしヘルバルトの考えたように、表象がそれ自身の力を有し互いに相制すると考えるならば、このような表象力というのはいかなる意味において、物力よりも一層我々に直接的と考え得るだろうか。物力と表象力は力の性質を異にするとしても、共に我々の経験内容を対象界に投射して相互の関係を統一するため、その背後に考えられた一種のミーディヤム(媒介者)に過ぎないのではないだろうか。対象界に投射して考えられたいわゆる無意識(この場合表象力)は、その実在性においては物力と同一だ。総て量別的関係は性質的なものに対して、外界的(対象界に投射されたもの)でなければならない。量別的関係によって内界経験を説明しようとするのは、すでに(内界経験の事実を)外界的実在と認めることだ。ヘルバルトの表象力学はこの種に属するものだ。これに反し多くの心理学者の考えるように、意識の強度というものも一種の性質と考えるならば、それは内界経験に属して性質的となり、単に記述されるべき事実となると共に、事実を説明する原理となることはできない。これにおいて我々はディレンマの上に立つ。内界経験の事実として現れるものは統一の原理となることはできず、統一の原理となるものは内界経験の事実として現れることのできない実在でなければならない。このディレンマを脱し得るには、意識現象において高次的なものが実在でなければならない。統一作用そのものが意識の事実となると考えねばならない。精神現象においては統一作用がかえって直接だ。これその自然現象と異なる所だ。
 右のように考えてみるならば、ある人に意識されるとは何を意味するだろうか。いわゆる自己同一の感情というようなものは統一作用の符牒であって、統一作用そのものではない。意識された自己同一の感情が統一するのではなく、この感情の対象である自己が統一するのだ。この感情はその(自己の統一作用の)結果に過ぎない。しかし意識現象においては統一作用の外に統一者があるのではない。働き(統一作用)の外に働くもの(統一者、我)があるのではない。働くもの(統一者、我)なき働き(統一作用)だ。働きが働き自身を維持するのだ(統一作用が統一作用自身を維持するのだ)。このような現象はいかにして可能であるか。このような作用そのものと見られるべき現象は、その変化の理由を内に持っているものでなければならない。一つの状態から他の状態へ内面的必然によって移り行くものでなければならない。もしその推移に何らかの間隙があるとすれば、我々はこの現象を統一するに、外界的結合者の力を借りねばならない。すなわち働き(統一作用)の外に働くもの(統一者、我)の仮定が必要となってくるのだ。右のように作用が作用自身を維持すると考えられる実在においては、その全体(統一作用)の内容が個々の部分(作用の内容)に比べ、一層具体的と考えられねばならない。精神現象はこのような内面的発展であるが故に、その総合的全体(統一作用)は要素に対して一層高次的な実在と考えられるのだ。否要素(作用の内容、例えば「赤いもの」)よりも全体(統一作用、例えば「赤い物」に対する「視覚作用」)が実在的と考えられるのだ。意識現象は誰かに意識されている。誰かの意識でなければならないというのはこれ(意識の統一作用が実在的であること)によるのだ。ヴントが意識現象を出来事と見なし、意志を以って精神現象の根本的形式と考えるのも、同一の理由によると考えることができる。物体現象においては、その統一者は現象の背後に、すなわち経験の外にあると考えられる。これその間接経験と考えられる所以だ。これに反し精神現象においては、統一作用そのものが経験に現れるのだ。思惟の対象自身が経験の内に働くのだ。精神現象において対象が内在的と考えられるのはこれによるのだ。精神現象は恐らく価値関係(意味関係)というものを離れて考えることはできない。精神現象においては規範(意味、価値。当為の意識)が直ちに動因となる。精神現象を単に自然科学的法則によって考えるのは、その本質(価値関係)を否定するものだ。(精神現象においては)永久真理の法則が直ちに充足理由(どんなことがらもそれが生ずるのにはそれなりの十分な理由がある、というその理由)となるのみならず、作用が作用自身を維持し、外に本体論的統一(実質的一者)を要しないのだ。例えば数学的証明の過程(思惟作用)において一つの命題から他の命題に移る時、他の力の助けをかりる必要はない。それ自身に十分な内面的必然によって推移するのだ。勿論可能なるものが実在的となるには、何物かが加わらねばなるまい。実在的作用の説明には矛盾律の外に*充足理由の原理le principe de la raison suffisanteを必要とすると言い得るだろう。
※引用 充足理由の原理とは

しかしとにかく精神現象においては可能なるもの(意味)の中に直ちに充足理由を含むと考えられねばならない。意識現象はある人に意識されておらねばならないという「ある人」とはこのような作用の統一者でなければならない。我々の真の自己とは理想と現実の結合点だ。ライプニッツの言うような永久真理(現実)と充足原理(理想)の結合点だ。ライプニッツのモナドはこのような意味において真に精神現象の根本的方式だ。我々が意識現象を内的とか直接とか考えるのもこの性質によるのだ。(統一)作用そのものの中に(統一)作用の原因(充足理由)を寓することが、この現象をして内面的とか直接とか考えしむるのだ。このような内面的推移が少しでも断絶する所には、意識は両断して二つの意識と考えられるのだ。
 精神現象は内面的必然によって推移する作用の現象であるというには、多くの反対を考えることができるだろう。思惟作用においてはあるいは右のように考え得るかもしれないが、我々の精神現象の推移は必ずしも内面的必然によってのみ推移するものとは考えられない。我々の精神現象の推移には多くの偶然性があると考えることができる。そしてこれらの現象がある人に意識されるということによって統一されているのだ。我々がある物を見、次にこれと全く関係のない他のことを考えた場合にも、これらの出来事は「私の意識」によって統一されているのだ。斯く言い得るならば、意識とは意識内容に付加される何らかの性質であるとも考えられる。例えば光に照らされることによって種々の色が明らかとなるように、意識は種々の内容を照らす光のようなものとも考えられるのだ。しかし右のような意味において意識されたものとそうでないものを区別するのは、いかなる性質によるのだろうか。意識は往々説明のできない単なる感覚のようなものと考えられるかもしれないが、我々は感覚作用を意識することもできれば、思惟作用を意識することもできる。否感覚も意識であれば思惟も意識だ。これらの作用がすべて意識であると言うならば、意識というのはこれらの現象に共通な性質でなければならない。そしてこれらの作用に共通な性質は、それぞれの立場(アプリオリ)においての内面的必然の推移ということだ。だがこれにも拘わらずこれらの作用の背後における偶然的統一(私の意識、我)が一つの意識として考えられるのは、意志の作用によるのだ。意志においては互いに偶然的な内容が内面的必然を以って結合されるのだ。意志(作用)は偶然的なるものの必然的統一だ。この場合にも意識は内面的必然の推移であるという考えを改める必要はない。我々が互いに偶然的と思われる作用を統一して「私の意識」と考えるのは、意志作用の内面的統一によるのだ。一から他に移る時、偶然と考えられるのは立場(アプリオリ、作用)が異なる故だ。いかにして偶然的なものが必然的に結合し得るか、偶然的なものの必然的統一とは矛盾ではないだろうかという疑問も起こるだろうが、意志的統一の必然は、道徳的当為(意味、価値)の必然だ。道徳的規範(意味)が充足理由の原理として働く所に、意識現象の根本的事実がある。他の意識現象もこの姿(道徳的規範が充足理由の原理として働くこと)を映したものと考えることができる。この事実が我々には意志自由の確信として現れてくるのだ。斯く可能(意味)から直ちに現実(実在)に移る自由の作用を除去すれば、感覚は物質的性質となり、思惟は永久の真理となるのだ。
 意識を右のように解するならば、意識されなかったものがある人に意識されるとはどのようなことを意味するか考えてみよう。現今の純論理派の主張に従えば、意味とか存在とかいうものは完全に我々の主観的作用を超越して、ある主観者がこれを意識すると否とは意味自身、存在自身に何らの関係もないと考えねばならない。しかし一方から考えてみれば、斯く客観的と言われるもの(意味、存在)も、我々の思惟の対象だ。無論これらの対象(意味、存在)と思惟の対象は別物であると言い得るでもあろうが、これらの対象との関係を離れて思惟作用というものを考えることができるだろうか。前に言ったように要素的感覚の単なる結合は思惟作用となることはできない。時間、空間を超越した意味が、統一作用として働くと考えることによってのみ、思惟作用というものを理解することができるのだ。純客観的な意味とか存在とかいうものと思惟作用は、完全に離して考えることはできない。意識されなかった純客観的の意味とか実在とかいうものが意識されるということは、これらのものが思惟作用として我々の意識内に働くということだ。主観的には我々が思惟作用に移り行くことだ。感覚的経験によって外界を知ると考える時、実際は我々は感覚の作用から思惟の作用に移り行くのだ。現今の新カント学派の考えるように、感覚とか事実とかいうことがすでに思惟の所作(思惟により要求されたもの)と考えねばならないならば、我々の意識の根底には感覚以上のある物を認めねばならない。心理学者が具体的な意識現象は単なる知識ではなくて、知情意の三方面を具すると言うのもこれによるのだ。かくして我らの意識の真の起源は、いわゆる自然科学的因果関係よりも一層深き所に求めねばならない。意識の起源にはいわゆる物体の世界があるのではなく、意味の世界、可能の世界があるのだ。意識現象は意味の因果律によって起こるのだ。もしこのような(意味の)因果の形式を意志的因果律と言い得るならば、意識は意志的因果律によって起こると言い得るでもあろう。意識は感覚の形において始まるのではなく、意志の形において始まるのだ。意識の起源には可能(意味)から現実(実在)への直接の推移がなければならない。ライプニッツの神においてのように、(意識においては)可能的なもの(意味)が直ちに実在的でなければならない。充足理由の原理はこれを現すものと考えることもできる。勿論このような考えを認めるには種々の困難もあるだろうが、我々が赤の感覚を意識するには色の世界がなければならない。色の理念(純粋に理性によって立てられる超経験的な最高の理想的概念=意味)が働かねばならない(色の意味が即実在的となることによって、色の感覚を意識することができる)。色の感覚の背後にはエーテルの波動の世界があるのではなく、色の本質の世界があるのだ。いわゆる自然科学的存在の世界は、意識の世界に比べて第二次的だ。我々が存在の世界(自然科学的存在の世界)を知るということと意味の世界を知るということは、その意義を異にしていなければならない。後者(意味の世界)は意識の根底となり、前者(自然科学的存在の世界)はかえってその上に建てられるのだ。意識の真の起源を右のように考えるならば、意識されなかったものが意識されるとは何を意味するか。意識作用と意識対象の間にいかなる関係があるか。現今の純論理派の言の如くならば、対象と作用の結びつき様はないのだが、このような分析の前に総合がなければならない。意識の直接の背後は無限なる可能の世界(意味の世界?)だ。ライプニッツの※極微知覚petites perceptions(微小知覚)もこのような可能の世界を意味していなければならない。
※ 引用 極微知覚とは (微小知覚が極微知覚に該当


可能(意味)と実在を分かつのは意識された世界においてだ。意識界においては可能(意味)は直ちに実在でなければならない。我々の意識は意志として無限なる可能の世界に連なっている。モナドが極微知覚において宇宙を知るというように、我々は意志においてすべての可能界を知ると考えることもできるのだ。意志は意識の具体的基礎だ。意識は意志の基礎においてのみ可能だ。意志は意識の極限点だ。意志において主客合一し、意識は真実在である物自体(認識の根底として認めねばならない直接の実在)に接触するのだ。例えば我々が一直線を意識するとせよ。極限点とは我々の分析によって達することのできない、超感覚的である思惟対象だ。しかも我々が一直線とか運動とかいうものを意識するのだ。この場合、(一直線や運動における)一々の点が極限点として意識されねばならない。一々の点において理想(意味)と現実(実在)が相接触していなければならない。一々の点の意識は(理想+現実である)意志でなければならない。勿論純論理派の考えのように、連続というようなものは純なる思惟対象としてそれ自身に独立し、思惟作用として意識されると否とは対象自身(この場合、連続)に何らの関係もないと考えることもできる。永久真理の中には充足原理を含んでいない。永久の真理が実在的となるには、ライプニッツが“De rerum originatione radicali(物事の根本的な起源について?)”において言っているように、inclining reason(傾向の理由?後述される、意識されるべき傾向?)が加わってこなければならない。永久の真理と永久の真理の結合は、私の考えでは知識のアプリオリとアプリオリの結合であって、そこ(結合)に限定があり、実在がある。実在はこの意味においての compossible(共立。異なるアプリオリの共存)だ。純論理派のような考え方では、このような結合にはライプニッツの充足理由の原理のようなものが外から加わってこなければならないと考えるのだが、ライプニッツが“Monadologie 44”において言っているように、永久の真理の中において何らかの実在性があるならば、ある存在においてその基礎を有しなければならない。勿論これ(基礎を有すること)を自然科学的存在の意味に解するならば大なる誤謬に陥るのだが、ある一つの真理が真理として己自身を維持するには、ある一種の力を持たねばならない。そして斯く一つの真理が他に対して己自身を維持するには、すなわち一種の実在性を有すると言うには、これ(ある真理を)を他と関係させるもの(基礎)がなければならない。我々は真理の力を認めると共に、真理の体系を維持する一種の主体subjectum(基礎、真理を他と関係させるもの)を認めねばならない。ある一つの命題が真理として立せられるには、すべての命題の主語としていかなる意味においても術語とならない主体がなければならない。この意味において真理はそれ自身において立つ生きた一つの個体だ。すべての命題の真の主語を“Reality(実在?)”と考えねばならないというのもこれによるのだ。ライプニッツにては永久真理の原理と、充足理由の原理との内面的関係が明らかでないが、種々なる真理のアプリオリを結合するものは意志のアプリオリだ。換言すれば種々なる作用を結合するものは意志の作用だ。意志のアプリオリの上において他のアプリオリは成り立つ。永久真理に実在性を与えるものは、充足理由の原理だ。compossible(共立)は単にpossible(可能=意味?)の無限なる和ではなく、可能をして可能たらしめる基礎(主体)でなければならない。ライプニッツがスピノーザに逢った時、「最も完全なるは存在す」と論じて無限なる性質は一主体に結合することができる。なぜなら二つの物が incompatible(矛盾する)というには、二つの物を分けて見なければならない。だがこのような性質(主体)は分かつことができない(術語となることができない)と言ったと言うが、このような主体(基礎)は絶対無限の意志でなければならない。
 以上論じたように意識作用とは意味から意味への内面的推移だ。意味の内面的推移というのは、意味その者が一つの力として他の意味を惹き起こすのだ。意味はすべて実現(限定)されるべき傾向(inclinding?)を持っている、すなわち意識されるべき傾向を持っている。これなければ意味は意味自身を保つことはできない。このような傾向が我々のいわゆる精神作用と言われるものだ。しかし意味が他の意味を惹き起こすということ、すなわち意味の内面的推移ということは、無限なる意味が一つの主体に統一されていることを意味しなければならない。限定されたある一つの意味から他の意味が出てくることはできない。ある一つの意味が限定されるには、その背後に他の限定の可能を含んでいる。すなわち一層具体的な基礎(意志)において限定されるのだ。オン+メー・オン(内容+作用、具体的実在、主体)の上において限定されるのだ。このような可能界の主体の上に立つということが意味自身が力を有することであって、内面的推移というのはこのような基礎(主体)において含蓄的であったものが顕現的となるのだ。意味はこのようにして内面的に推移するのだ。これが意味の働く方式だ。意識現象においては統一作用が実在的であるというのはこれ(主体の上に立つことにより意味自身が力を有すること)によるのだ。意識されたものと意識されないものの区別は、actual(実在?)とpossible(可能=意味?)の区別となる。そして現実はcompossible(共立)だ。我々は極微知覚においてはすべてを意識するということもできる。我々が一つの直線を意識した時、極微知覚において無限なる分析の可能を含んでいると考えることができる。我々の現実の自我は、何時でも可能界の主体である先験的自我に連なっているのだ。いわゆる「意識の閾(心理学で、刺激によって感覚や反応が起こる境界。無意識から意識へ、また、意識から無意識へと移るさかい目)」のような考えによって無意識から離された意識(対象化された意識)は、考えられた意識だ。具体的意識はライプニッツが現在が過去を負い未来を孕むと言うように、無意識の部分(可能=意味の部分)を含んでいなければならない。意識の中に無意識(可能=意味)を含むのが内面的推移だ。我々が意識と無意識を区別するのは、両者統一の立場によるのだ。しかしpossible(可能=意味?)とcompossible(共立?)は単なる程度の差ではない。これにはinclining reason(意識されるべき傾向?)が加わらねばならない。単に思惟対象である意味と作用として働きつつある意味は、区別しなければならない。現に働きつつある意味とそうでないもの(意識されてない意味)を区別しなければならない。意識現象において直覚(現に意識されている意味)が根本的と考えられるのは、これによるのだ。多くの心理学者が感覚(直覚的なもの=意識されているもの)を意識の根本作用と考えるのもこれ故だ。思惟にてもその全体がまず直覚的に現れ来るのだ。このような直覚は内面的推移の根底である具体的全体、すなわちオン+メー・オン(具体的全体)を表すものだ。意味が意志の支配の下に来ることを示すものだ。永久の真理と充足理由の原理の結合を示すものだ。意志作用の原理である充足理由の原理が、意識の根本的原理でなければならない。これによって有限の中に無限を含み、意識の中に無意識(可能=意味)を蔵し、作用から作用に移ることができるのだ。
 私が今一種の色を経験する。否そこに一種の色の経験がある。これを「私の経験」であると考える時、この経験は主観的と考えられざるを得ない。しかしここに一種の色の経験が現存するということは、単に主観の力によるのではない。我々はまたこれにおいて外界に光線というものを想像せざるを得ない。それだけでなく、色を単に主観的と見るも、その性質は多くの主観に共通と考えられねばならない。すなわちフッサールの本質というようなものが考えられねばならない。色の経験は主観的と言うも、色の経験の存在及び変化(色の本質)に対して、いわゆる自己は何らの力を有するのではない。経験それ自身が一種の客観性を持っている。物理的現象と言うもこの(経験の)変化を離れてない。我々はこれらの経験の変化を時間、空間、因果の範疇に当てはめて自然界を構成するのだ。真に与えられた直接の経験そのものは、意味そのものの内面的発展だ。客観の中に主観を含み主観の中に客観を含む Tathandlung(事行)だ。この意味において(主観+客観という意味において)精神現象は物理現象に比べ一層直接であり具体的であると言える。物理界というのも主観を離れたものではなく、カントのいわゆる先験的自我の統一によって成る一つの意識対象界と考えることもできる。いわゆる自然界というのは一般的ではあるが抽象的な認識主観(思惟作用)の統一によって成立するものであって、意識現象というのはこの立場(自然界)から翻って具体的な直接の経験(思惟によって統一される前の世界)を見たものだ。ある一つのアプリオリの上に立つ対象界(自然界)から、翻ってアプリオリ(作用)を対象とする意志の世界を見たものだ。ある一種の価値(意味)の上に立つ客観界から翻って価値即実在の世界、意味即事実の世界を見たものだ。ここ(意志の世界)には目的論的原因(充足理由の原理)と道徳的必然とが支配するのだ。このような方向を遂げて自然界から具体的経験の世界に至る順序は、物力の世界から生命の世界に至り、生命の世界から意識の世界に至り、意識の世界から歴史の世界に至り、更に時空を超越して絶対意志の対象界に入るのだ。心理学者のいわゆる意識界とは、絶対意志の対象界と自然科学的世界との接触点だ(意識界は絶対意志の対象界と自然科学的世界の共立の世界だ)。
 純粋直観の世界(意志の対象界)は、完全に客観的でもなければ完全に主観的でもない。すなわち完全に物体界でもなければ完全に精神界でもない。それ自身に動的な具体的経験はおのずから主観、客観の両面を備えている。我々は経験内容について区別することができるだけ、それだけ種々の対象界を有すると共に、種々の精神作用を有するのだ。思惟内容と感覚内容を分かつことによって、一方に命題自体(思惟)と表象自体(感覚)の対象界ができると共に、一方に思惟(作用)とか感覚(作用)とかいう作用が考えられねばならない。作用というのは種々なる経験内容をその結合点から見たものだ。しかし斯く種々のアプリオリの上に立つ経験を作用として、これらの作用を結合する一層根本的な経験(作用を統一する作用の経験)もまた一つの具体的経験として主観客観の両方面を持つのであるから、その対象界(意志の対象界)はおのずから二重となり、直接(主観的)には意識界すなわち人格的歴史の世界となり、間接(客観的)には自然界となり、そして自由の意志がその主観的作用となるのだ。なぜなら意識界はすでに作用の結合として自然界(作用の内容の世界)に対しては主観的だが、更に絶対自由の意志(作用そのものを統一する作用)の立場から見れば客観的だ。絶対自由の意志は人格と人格の結合点だ。このような絶対自由の意志の対象界が我々のいわゆる直接の実在界だ。ライプニッツのモナドの世界とはこのようなものと見ることができるだろう。意志の立場から見て、いわゆる作用の結合に無限の仕方がある。無限のモナドがあると考えられるのはこれによるのだ。このような作用の結合の仕方の無限なるように、そこに無限のモナドがなければならない。ライプニッツはモナドは皆同一の世界であるが、その見方によって互いに異なるという。例えば一つの円の射影が無限な円錐曲線の変化を起こすようなものであると言っている。作用の種類は同じとしても、これ(作用)を結合する仕方が無限にあると考えることができる。すなわち意志は自由だ。無限な意志のtype(型?)は無限なモナドの見方として、これによって無限のモナド、無限の実在界が成り立つのだ【ライプニッツのモナドは私のいわゆる意志の対象界の実在だ。私はかかる考えから、タルドの“Monadologie et Sociologie”中にある toute chose est une societe, toutetphenomene est un fait social (すべてのものは社会であり、すべての現象は社会的事実である?)という考えに興味を有するのだ】。我々がある物を意志するというのは、一つのアプリオリの上においてするのだ。すなわち一つの作用においてするのだが、作用の束である一人格の意志としては、他の無限なる作用との関係において立つ。すなわち極微知覚として他の無限の作用と関係するのだ。
 以上論じたような訳であるから、物体現象の特徴を延長とすれば、すなわちいわゆる空間的であるとすれば、これに対して精神現象の特徴を意味即作用である自足的発展と考えることができるのだろう。物体現象の空間的というに対して精神現象は単に時間的と言われるのだが、時間というも、単に無意義の連続というような形式はベルグソンのいわゆる同質的時le temps homogeneであって、これ(無意義な連続)を以って精神現象を物体現象から区別することはできない。真に具体的な時間は(意味即作用である)自足的発展でなければならない。種々なる経験の変化及び相互の関係の物理的解釈は言うまでもなく、※マイノングの対象論Gegenstandstheorieのようなものも、単に対象間の客観的関係と見られるだろう。
※ 引用 マイノングの対象論とは 

意識現象はこれらの経験内容(精神現象と物体現象)の共立関係composible relationでなければならない。この意味において意識現象は実在的であり、心理学は実在の学だ。そしてこのような共立関係を現すものは、意識の統一unity of consciousnessだ。意識現象は意識の統一において成り立つ。少なくとも(意識現象は)統一の可能的傾向を有していなければならない。ある経験が意識現象と見なされるのは、この傾向(統一の可能的傾向)を有することによるのだ。純なる一つのアプリオリ(作用)の上に立つものは、単なる対象界だ。他の意味との結合(作用と作用の結合)において意識現象となるのだ【心理学者が意識は誰かの意識でなければならないとか、意識においては対象が内在的であるとかいうのは、これを意味するのだ】。心理的法則というのは右のような約束の下における意味の関係の法則でなければならない。このような意識統一も、身体という物体的条件の下に立つというのが普通の考え方であるが、我々はかえって意識の方が一層根本的な実在と考えねばならないのだ。無論右のような統一点(作用と作用の結合点)はあたかも極限点のように到達することのできない点だろうが、これなくして意識の成立はできない。意識成立のsine qua non(必須条件)だ。前に言ったように意識の根本的形式が意志と考えられ、また直覚的と考えられるのはこれによるのだ。
 私は純粋心理学ともいうべきものは、右に述べたような立場の上に立つものでなければならないと思う。この点において心理学は自然科学とその立場を異にしていると言い得る。無論このようなことは心理学者は疾くにこれを知ると言うでもあろうが、今日の心理学はその説明において十分その立場を明らかにしていないのではないだろうか。例えば連想と統覚の区別を統一的表象の明瞭と不明瞭によって考える如きも、厳密に考えれば精神現象を外から見たものであって、真に意識現象としての内面的区別が考えられていないと思う。精神作用の区別の如きは、かえってブレンターノやマイノングなどの考え方が純心理的と言うべきではないだろうか。情緒の説明の如きもいわゆる実験的研究と言われるものよりも、スピノーザのエチカにおける情緒の説明のようなものがかえって真に意識としての情緒の本質に触れているのではないだろうか。いたずらに経験といい、事実というも、すべての実在の経験とか事実とかいうことが同一意義において論じ得るや否やは深く考えて見なければならない。しかし私は決して現今の実験心理学の価値について異議を挟むのではない。ただ、現今の実験心理学を以って唯一の心理学となすことに対して、なお多くの疑いを存し、かつ今日の心理学における立場の混淆について厳密なる批評を要すると思うのだ。



感覚

一 
 精神現象は通常、縦に知情意(知識、感情、意志)と分かち、横に精神的要素とその結合に区別するようだ。その(精神的要素の)結合には直覚的なものと意識的なものを区別することができる。例えばヴントの精神的化合物と連想及び統覚の区別のようなものだ。縦の区別は精神現象の性質的区別というべく、横の区別はその単複(単一と複雑)の程度的区別というべきだ。横の区別において従来の心理学では、精神現象の意味内容に対し価値的見方を混えていると思われるが、現今の実験心理学では完全に自然科学者が自然現象に対するのと同一の態度を以って精神現象に対しようとする。従って心理学的研究には一切の価値的見方や概念の実体化的傾向を去らねばならない。ヴントが主知主義の心理学を排斥するのもこれによるのだ。氏に従えば、連想心理学もヘルバルトの「表象力学」も要するに表象の実体化を免れないが、氏のいわゆる主意主義の心理学は精神現象をどこまでもその具体的状態において見ると言うのだ。氏の精神現象の区別もこの見方に基づくものだろう。しかし精神現象の本質を形成すると思われる意味的関係を棄てて、精神現象の深い理解ができるものだろうか。精神現象の深い理解は内省的考察によらねばなるまい。精神現象の分類においても斯く言い得るだろう。 精神的要素とはいかなるものか。ヴントの言うところによれば、一つの要素aが第一の場合においてbcdと共存し、第二の場合においてb'c'd'と共存するならば、aという要素を独立と考えることができる。例えば一つの音がある時はある方向に、またある時は他の方向に聞かれ、またある時はある音と主に、ある時は他の音と共に聞かれた場合、この音を抽象して一つの要素と考えることができるというのだ。精神的要素とはこのような分析をどこまでも進めて得た結果だ。このような分析の仕方は、化学者が化合物を分析するのと何らの変わりもないようだが、精神的要素とは物質的元素のように独立した実体ではない。ある人の意識として、すなわち“einem bewust(ある意識?)”としてその実在性を有するのだ。単に経験内容を区別するというのみでは、その区別された経験内容を客観的と考えることもできれば、主観的と考えることもできる。区別された一種の音が時と場所の関係を離れ、単に他の音に対して己自身の性質を維持する点において、一種の客観的実在と考えることもできる。今日の物理学では音を空気の振動と考えるのだが、空気の振動というのも、要するに右のような考え方によって経験内容を客観化したものに過ぎない。ある一つの表象的経験についても、ボルツァーノ学徒の考えのように、三つの物を区別しなければならない。すなわち主観的作用としての表象、表象自体、及びこれに対する客観的存在というようなものを区別することができる。独立として区別された一種の経験内容が、感覚として精神的要素と考えられるのは、ある個人の意識として意識統一に属するものとしてでなければならない。ある経験内容が一つの意識中心に属するというのは、いかなることを意味しているのだろうか。意識されるということは、意味が直接に働くということだ。意味と意味の関係が直ちに実在的となるということだ。意識作用とはsubstratlose Tatigkeitすなわち本体なき働きだ(働くもの(統一者、我)なき働き(統一作用)だ)。我々が内界経験というのはこのような統一の範囲を指すに過ぎない。経験内容の変化が内面的必然の理由によらず、少しでも外から動かされたと考えられる時、もはや精神現象ではなく、物体現象と考えられねばならない。青い色が赤い色に変化した場合、我々はこれを青いものが赤いものに変わったと言えば物体現象となるが、斯く考えられる前に色は色自身によって互いに区別されねばならない。これが意識現象だ。物体現象においては、性質は隠れた本体の性質(隠れた本体が有する性質)として実在性を有するのだが、意識現象においては性質そのものが実在性を有するのだ。意識は主体(統一者、本体)なき実在だ。ブレンターノがスコラ学者に倣って、精神現象の特徴を die intentionale Inexistenz eines Gegenstandes(物体を意図的に存在させないこと?) すなわち immanenteGegenstandlichkeit(内在的な客観性?)となすのも同様の意義だ。この(精神現象の)対象というのは外界の実在であってはならない。外界の実在が精神内に入りようはない。要するに意味だ。経験内容を意味するのだ。対象の内在とか内在的対象性とかいうことは、要するに意味が働くということに外ならない。意味が内にあるとか外にあるとかいうのではない。意味が生きているということだ。意味がそれ自身で実在となるのが意識現象だ。ある人に意識されるというのはこのような(意識における)意味の共存的関係 compossible relationに入り込むことに過ぎない。ある人とはこのような関係の中心だ。我々の直接経験においては、一々の経験内容が実在であり力だ。例えば一種の線とか色とか言っても、芸術家の眼には直線はその各点において eine Durchdringung der Geraden und der Kurve(直線と曲線の錯綜)であり、すべての色は eine Tendenz nach Weiss und Schwarz(白と黒の傾向)を含んでいる。それだけでなく、一々の線や色はそれ自身に固有な感情を持っているのだ。直接の経験においてはその一々の点が意味の共存的関係において立つのだ。これ故に多くの人々の言うように、意識現象が直接の具体的経験だ。一々の内容が即作用となり、主体なき働きであるが故に、意識現象は内界経験だ。意識現象を右のようなものとして、これを分析して意識的要素を得ようとするには、どこまでも右のような立場を守らねばならない。赤とか青とかいうものがある物(自然科学的存在)の性質としてでなく、それ自身において実在性を有するものとして見られねばならない。ここに物理的分析と心理的分析の区別がある。物理的分析においては赤いもの、青いもの、鳴るもの、響くものとしてこれを実質的に分かつのだ。いわゆる分割だ。心理的分析はこれに反し、これらの性質そのものを実在としてこれを区別するのだ。心理現象は本体なき性質、働くもの(統一者、我)なき働き(統一作用)だ。物体の原子は空間における不可入性においてその実在性を維持するが、精神的要素は区別性によってその実在性を維持すると考えられるのもこれによるのだ。物質的要素の独立を維持するため空間的関係というものが考えられるのもこれによるのだ。物質的要素の独立を維持するため空間的関係というものが考えられ、その相互の変化を説明するため物力というようなものが考えられるように、精神的要素の成立する舞台として意識というものが考えられ、その相互の関係を説明するため種々の意識作用が考えられるのだ。区別性も意識の一作用と考えられるのだが、経験内容がそれ自身によって互いに相分かつこと(例えば、見えるもの、聴こえるものなど)が直ちにその区別性だ。Unterscheidbarkeit(独自性?)とは内容自身が力を持つことだ。このような場合、これをSubstantialitatsbegriff(実体概念)によって赤いものとか、青いものとかいうように考えるから、このように本体(実体)と現象と互いに相分離し、これを統一するため、空間というような外面的形式が考えられると共に、外面的作用である物力というものが考えられるのだ。これに反しAktualitatsbegriff(実在概念)によって内容そのものを実在と考えることから、ある人の意識というような内面的関係の形式を生じ、意識作用というようなものが考えられるのだ。精神現象と物体現象が分かれるのは、経験内容をSubstantialitatsbegriff(実体概念)によって考えるか、Aktualitatsbegriff(実在概念)によって考えるかによるのだ。一つは経験内容の背後にxを考えることによって統一し(実体概念)、一つは統一を経験内容そのものの中に求めるのだ(実在概念)。すなわち、内もなく外もなくゲーテの言ったように beides mit einem Male(両方同時に?)だ。我々が意識作用として考えるものは、現実概念の種々なる範疇だ。識別作用というのもその一つに外ならない。
 Substantialitatsbegriff(実体概念)とAktualitatsbegriff(実在概念)の関係は、根本的にはこれを「甲は甲である」という自同律の体験において求めることができる。考えられた「甲」が実体概念の基となるのだが、このような思惟対象は判断作用の体験と離れて考えることはできない。後者の体験(判断作用の体験)がAktualitatsbegriff(実在概念)の基となるのだ。後者においては一即多であって、内容そのもの(一)がそれ自身において変化する(即多)のだ。すなわち一層具体的な実在の形式を取るのだ。識別作用とは経験内容そのもののこのような内面的発展だ。カントは“Analogien der Erfahrung(経験の類推?)”において、Grundsatz der Substanz(物質の原理)よりGrundsatz der Kausalitat(因果律)に行き、更に後者からGrundsatz der Gemeinschaft(社会の原則?)に至っているが、ヘーゲルの論理において示唆されるように、Gemeinschaft(社会?)すなわち Wechselwirkung(相互作用?)の極は、内面的必然の因果律、すなわち意味の実在に達しなければならないと思う。ロッツェが相互作用を実在の形式と考えることから、遂に精神現象を実在となす唯心論に達せざるを得なかったのも、同一の理由に基づくのだ。これ故に精神現象においてはいつでも統一が実在であり、全体が実在であるのだ。
 物体現象と精神現象の区別を右のように考え、前者は実体概念によって現象の背後に隠れているある物を考えるということは、多少誤解を受けるかもしれない。今日の物理学者は現象の背後に不可知的なる何物も加えない。因果関係というものは現象と現象との間における函数的関係に過ぎないと言うだろう。私も勿論これを知らないのではないが、これが為に精神現象も物体現象も同一性質の函数的関係によって考え得ると思うならば、それはかえって誤りだろう。物理学におけるような函数的関係が考えられるには、まず経験内容が量化されなければならない。量的に考えるというのは、これを外から統一することだ。経験内容を純粋思惟の対象と変じることだ。経験内容を離れて見ることだ。内容を離れるということはこれを無視するというのではないが、内容の変化を他の語によって言い表すのだ。勿論自然科学的知識は必ずしも数学的であることを要しない。単なる経験的法則empirical lawsの程度にあるものも多い。しかしこの場合(経験的法則)においても、我々はこれを単に経験内容の性質的変化の法則とは考えない。ある性質を持った物と物との関係と考えるのだ。精神現象においてはこれに反し、その変化は完全に内容そのものの変化でなければならない。従って純粋に性質的と考えられるのだ。経験内容を対象化して「赤いもの」と言えば内容は物の性質となり、赤の感覚と言えば性質そのものが実在的となるのだ。しかし厳密に言えば精神現象が性質的であるというのは、なお実体概念の考え方を脱していない。意識現象とは経験内容の純なる動的状態だ。ある一つの経験内容が他の束縛を脱してそれ自身の自由に還った時、すなわち(ある経験内容が)自覚した時、それが精神現象であるのだ。あるいは精神現象もこれを反省して見た時、すでに我々の認識対象の世界に属し、他の自然現象と何らの区別もないと考える人もあるのだろう。しかし私は内容を物の性質として考えるのと、内容自身を実在として考えるのは、その間に相違があると思う。無論以上のように論じるものの、意識現象を意味の実在として物体現象から区別すると共に、これ(意識現象)を単に意味というようなものと区別しなければならない。我々の感覚とか思惟とかいうものと、表象自体とか命題自体(意味、価値)とかいうものは同一ではない。精神現象は一種の実在だ。単なる内容(意味、価値)ではなく、働く内容だ。精神現象の心理的分析と意味の分析は、その性質を異にすることは言うまでもない。


 普通には感官によって種々の感覚を区別するかのように思われるが、感官が精神現象の区別の基となるのではない。心理学者は厳密に経験内容そのものの性質によって精神現象を区別しなければならない。色と音はその眼によると耳によるとに関せず、経験内容そのものの性質において完全に相異なっている。心理学者は厳密に右のような立場を守って、我々の経験内容を分析しいわゆる精神的要素に達するのだ。斯くして今日の心理学において、まず光覚、音覚、香覚、味覚、圧覚などに大別し、更に一々の感覚について精細な区別を立てるのだ。光覚の如きに至ってはその数三万五千を下らぬと考えられる【ティチェナー】。これらの区別はどこまでも経験内容そのものとして考えられたのであって、外界刺激の性質によって考えられたのではない。例えば灰色は白と黒の混合であり、菫や紫は赤と青の混合であるかのように考えらえるが、厳密な心理学の立場においては、このような考えを許すことはできない。灰色は白や黒と同じく単一な感覚だ。橙色や紫は、赤や黄と同じく単一なる感覚でなければならない。ただ、白と黒というような著しい対立を成すのが、Orientierungspunkt(ランドマーク)として選ばれるまでだ。ヴントの言うように一々が性質的単位qualitative Einheitenでなければならない。その背後に何らかの外界的統一を考えれば、もはや精神現象ではなくなるのだ。
 しかし単に性質的単位というのみでは、いわゆる表象自体(価値、意味)のようなものと区別することはできない。精神現象の本質は、内容そのものが働くにあるのだ。すなわち内容そのものが力を有するにあるのだ。私はフェヒネルの感覚的識別sensible discriminationのようなものが、単一なる内容そのものの働く形式であると思う。物体現象の要素である原子間において物力的関係を考えるように、精神現象の要素である性質的単位は互いに識別的関係において立つと考えねばならない。単なる性質的単位ではなく、一々がfunktionelle Einheiten(機能単位?)でなければならない。内容そのものが内容そのものとして純粋にそれ自身から働くのが識別作用だ。精神要素とは識別力を持った表象自体(価値、意味)だ【ヘルバルトのレヤーレンとはこのようなものを本体として考えたものだろう】。キュルペの言うように、識別は内容の外に立つ比較の能力ではない。ただ“We have different experiences and experience them differently(私たちは異なる経験を持ち、それらを異なる形で識別する?)”ということだ。我々が同一の経験内容から出立して一方に物体界を構成すると共に、一方に精神界というものを構成するのだが、その第一歩は識別の範疇だ。識別は内面的作用の最初の段階だ。感覚と識別は離すことのできない概念だ。我々の精神が感覚において物体と接すると考えられるのは、それ(感覚)が一方において物体界の構成に向かうのに反し、一方において精神界の構成に向かう出立点であるが故だ。勿論感覚的識別においては内容はなおAussereinander(互いに離れた?)の状態においてある。ヘーゲルの語を以って言えば統一が消極的だ、しかし物体現象においては内容は全く無力であるが、感覚としての内容は内容そのものが力を持っているのだ。すなわちそれ自身の中に統一の可能性を持っているのだ。ライプニッツがすべての表象がcomplex(複雑)であるというのはこれ故だ。小知覚(微小知覚=極微知覚)においてはすべてを含むと言ってよいのだ。我々は直接の経験について種々の内容的本質Wesenを区別し、一方にこれを対象化して物の性質考えると共に、一方にこれをその原形のままに感覚と見るのだ。動的静、静的動(発展即限定、限定即発展)である具体的体験は、何れの点においてもこの両方面を持っている。「甲は甲である」という自同律の判断について見ても、その「主語甲」と「術語甲」の対立の状態が識別の状態であり、かく見られたものが意識内容すなわち感覚だ。これに反し「同一的甲」は物だ。
 表象自体(意味)は直ちに精神的要素ではない。感覚とは表象自体がそれ自身の中に識別力を持ったものだ。単なる表象自体(意味)の研究はマイノングのいわゆるSoseinの学すなわち対象論となるだろう。心理学は内容を識別的関係において見たものでなければならない。この意味において心理学は作用(例えば、視覚作用、聴覚作用、思惟作用など)の学だ。このような識別作用に影響するものは、心理学において感覚論の研究対象となる。例えばキュルペのあげた(1)attention(注意) (2) expectation and habituation(予想と慣れ) (3) practice and fatigue(練習と疲労)のようなものだ。もしマイノングが、“Bemerkungen uber die Farbenkorper und das Mischungsgesetz(色体と混合物の法則に関する考察?)”において言ったように、意識の中にも先験的部分があり、色の先験学というようなものが成立し得るとするならば、色そのものの性質的関係の研究は心理学ではない。心理学の問題とは色の性質をどこまで識別し得るとか、この識別にいかなる原因がいかに影響するかというようなものでなければならない。あたかも幾何学は純粋直観の学として心理学と完全にその基礎を異にするものだが、種々の線や形の意識の問題が心理学において論じられるのと同様だ。勿論幾何学と同一の程度において色の先験学というようなものが成立することは不可能だろうが、アプリオリ(作用)というのはプラトーのイデヤの如く経験の構成力であるとすれば、色の経験の根底にもこのような一種のイデヤを認めることもできるだろう。少なくとも色自体(表象自体)と色の意識(識別力を持った表象自体)を区別して考えることができる。もし右のように考えるならば、純粋な心理学的研究対象とはどのようなものとなるだろうか。前に挙げた感覚を支配する三条件のようなものは、生理的心理学の研究を進めれば、生理的原因に還元されてしまうかもしれない。いわゆる心理学的研究は一方にマイノングの対象論のようなものに進むと共に、一方には生理学のようなものに還元されると考えることもできる。感覚的識別の背後には、一方に判断(作用)というようなものを考えることができると共に、一方には自然科学的因果を考えることができる。識別とはこの両方の接触点だ。意識の領域は対象あるいは本質が、どこまで(自然科学的)存在と結合するかによって定まってくる。我々の光覚に三万五千あるというのはこの(意味と存在の結合の)程度を示したものとなる。勿論このような意識作用の範囲が生理的条件によって限定され、その変化が生理作用によって支配されると考えるならば、意識は完全に身体の付属物としてそれ自身の実在性を失うこととなるのだが、内容それ自身が力である意識の内面的因果は、いわゆる物理的因果よりも根本的だ。ライプニッツ以来唯心論者が考えたように、意識の統一の上に物体界が成り立つ。内面的因果の上に外面的因果が成り立つ。内面的因果の底は我々の理智の錘の達することのできない深みである。duree pure, duree interne(純粋持続時間。つまり純粋持続?)だ。あるいはこの経験を反省し分析すればフッサールの本質的関係というようなものに還元することができると言うでもあろう。しかしreal(現実)はideal(理想)の単なる和ではない。compossible(共立)はsum of possible(可能なるものの和、意味の和)にある物が加わらねばならない。そしてここに加わるべき物は、我々が人格的と言う語によって理解するある物だ。私がかつて言ったように人格とはアプリオリ(作用)の結合だ。可能なるもの(意味)の共立的関係だ。認識対象となることのできない、限定することのできない人格的或物は、あるいは無内容な概念とも考えられるだろう。認識対象となり得るものは、尽くいわゆる本質的関係(意味的関係)の中に入り、そうでないものは認識することはできない。意識の因果については何らの予期を持つことはできない。この欠陥を充たすため生理的因果が考えられるのだ。しかし物体現象を統一する自然科学的因果関係も、これを分析すれば本質的関係に還元され、物とか力とかいうのはその背後に考えられた不可知的或物だ。我々は二様の共立的関係を考えることができる。一つは人格的統一(作用の統一)の上における共立的関係であって、一つは物体的統一(思惟作用の内容の統一)の上における共立的関係だ。しかし後者は前者を仮定してその上に立つ。後者は思惟作用と名付けられる一主観的作用の対象界に過ぎない。我々の意識というのはこれに反し、一層具体的な見方の対象界だ。意識統一は無内容と考えられるのだが、我々は対象(物体的統一)を意識すると共に、これ(人格的統一)を意識するのだ。この点において意識の統一は物体的統一より積極的だ。識別というのもこのような人格的統一の初級である。
 普通の心理学においては、感覚の性質というようなものも論じられるのだが、色そのものとか音そのものとかいうものの研究は恐らく、厳密な意味において心理学の研究範囲ではあるまい。画家の色に対する態度、音楽家が音に対する態度は、数学者が数に対する態度と変わらない。いずれもこれ(色、音)をそれ自身に法則を有する客観的対象として見るのだ。verites eternelles(不変の真理?)として見るのだ。数が心理的と言われない同一の理由によって、色自体も音自体も心理的とは言われない。ここでもquid facti(事実問題。カント哲学で、認識が成り立つ事実を事実として問題にすること)とquid juris(権利問題。認識が成り立つ事実を問題にするのではなく、認識が客観的に妥当しうることの根拠を問うこと)の区別を厳密にしなければならない。意識我Bewusstseinsichと呼ばれる一中心に基づく内面的作用の範囲内において、色や音がどれほどの種類をどれほどまで識別し得るかとか、またこれらの内容がその共立的関係においていかに変じられるかというようなことは、純粋心理学の問題であろうと思うが、Farbenkorper(色自体)において考えられるような純粋な色と色との性質的関係のようなものは、むしろ純粋心理学以外のものではないだろうか。心理学の問題の中心は、意識我における内容の結合、すなわちその共立的関係の問題でなければならない。識別的関係はそのsine qua non(必須条件)だ。心理学の感覚論においては、キュルペの言っているような sensitivity and sensible discrimination(感度と感覚の識別?)のようなものがその中心とならねばなるまい。斯くしてこの問題は、考え方によっては一方に生理学的研究と密接の関係を持って来る。なぜなら身体は意識我の射影であるが故だ。我々はこの変化の深き説明において哲学的に進むのでなければ、自然科学的にすなわち生理学的に進まねばならないのだ。しかしこれを他によって説明し得ると否とに関わらず、意識は意識としてそれ自身の領分を持っているのだ。after image, contrast(残像、コントラスト)などから幻覚や錯覚に至るまで、それぞれ生理学的説明があるとしても、とにかく直接経験の事実としてそれ自身の変化の法則を持っているのだ。種々なる心理学的法則というのは、右に述べたような内容の共立的関係の法則だ。充足理由の原理は矛盾律の中に求めることはできない。内容の共立的関係の変化は、内容自身の中に求めることはできないから、これらの変化の背後に意識我というものが考えられ、心理学的法則はこの条件の下において現象を支配する法則と考えられる。すなわち心理学的法則は内容自身が内面的結合を成すための法則だ。ディルタイは普通の心理学に反して beschreibende und zergliedernde Psychologie(記述的で解剖的な心理学?)を説いているが、普通の心理学と言えども物理学などと異なって、やはり内容の内面的統一を離れたものではない。氏のいわゆるTypus(型)の考え、Struktur(構造?)の学である。体験を対象とした学問だ。ただその体験の最も一般的な成立条件を論ずるを以て、氏の心理学と異なっているのだ。識別というようなことも体験の初級だ。あるいは意識内容の本質的関係は尽く本質学Wesenswissenschaftに属し、いわゆる意識我の本質というようなものも結局はこれを合理化し得ると信じるならば、いわゆる意識はその独立の実在性を失うようになるとも考えられるだろう。例えばある一つの数学の問題を考えた時、その真である部分は数学的真理の必然に属し、その誤った部分と推論の順序方法などが心理学的説明を持つということとなるかもしれない。しかしこの(誤った部分と推論の順序方法という)部分が実在の創造的部分だ。エラン・ヴィタールの尖端だ。実在は意志だ。心理学は意志の奥底に向かって反省していくのだ。充足理由を求めつつ行くのだ。普通の心理学と言えどもこの方向の初歩だ。連想心理学というもこの説明の初階たることを失わない。この点において心理学は自然科学と異なっている。普通の心理学はこれより反対に生理学と結合するのだが、右の方向を正しく進めばディルタイのいわゆるTypus(型)やStruktur(構造?)の心理学のようなものに達しなければならない。いわゆる心理学者の誤りは、心理学を以ってすべての精神科学の基礎であるかのように考えるにあるのだ。ディルタイの言うように真のGotterbilder(神々のイメージ?)のあるべき場所へ、Larven(仮面?)を置かんとするにあるのだ。心理学は物理的因果の学ではなく、内面的因果の学だ。創造的意志の学だ。心理的説明の基には、いつでも人格的或物がなければならない。心理学の場合ではそれ(人格的或物)が最も一般的であるというに過ぎないのだ。


 以上論じたように感覚とは識別力を持った表象自体(=意味)だ。表象自体が相互の識別的関係において立つ時、それが感覚となる。すなわち表象自体が識別的自我の中に入り来ったものが感覚だ。主観の方から言えば感覚は識別的自我の作用とも言い得るのだ。識別的自我が感覚界の魂であると言ってよい。今日の認識論者の考えのように我々の客観界とは、直接経験の内容を思惟によって構成したものとすれば、ナトルプのように感覚とはletzte materiale Grundlage der Erfahrungserkenntnis, an sich nur das Unbestimmte, erst zu Bestimmende=x, positiv aber das Bestimmbare oder die gegebene Moglichkeit eben der Bestimmungen, welche die objective Erkenntnis gemass den Gesetzen der synthetischen Einheit vollzieht(経験知識における最終的な物質的基礎は、それ自体では不確定なもの、最初に限定されるべきもの=xにすぎないが、積極的には限定可能なもの、すなわち、客観的知識が合成的統一の法則に従って客観的認識を実現するものである?)というべきだろう。直接経験の内容を「すべての現象において感覚の対象である実在者は内包量すなわち程度を持つ」という知覚予料の原理に当てはめて、この方向を推し進めていけば、内包量は更に物力となり、物理的世界に進むのだが、翻ってこれを元の立場において見れば、それが感覚となる。このような逆の立場においての統一が精神作用となる。斯く考えればナトルプの考えのように客観化的方向の種類のあるだけ、それだけ精神作用の種類がある訳だ。私はこの点において、ナトルプの考えとブレンターノ学派の人々の対象的関係によって精神作用を分かつ考えが結びつくことができると思う。実験心理学者は、ブレンターノ学派の心理学は概念を実体化するものとしてこれを排するのだが、純粋心理学の立場においては、意識現象における内在的な意味内容の区別を無視することはできない。なぜなら意識現象においては意味即実在であるからだ。精神現象は経験されるものの経験ではなく、経験するもの(意味=実在)の経験だ。意味の実在性によってのみ経験が成立することができるのだ。主観とは経験内容の統一者だ。
 現今の心理学者もその知識に対して批評的であると否とに関せず、精神的要素として感覚の性質的区別を立てるに当たって、右のような立場を守っているということができる。種々なる感覚の区別及びその細別の如きも現在、我々の意識においてどれほどの表象自体が識別的関係において立ち得るかを示したものだ。しかし感覚が性質の外に強度を持つとか、または種々の属性を有するとはどのようなことを意味するのだろうか。まず感覚の強度Intensitatということについて考えてみよう。心理学上における量の概念は、物理学上における量の概念と異なっていることは、心理学者自身も認めている。元々性質的であるべき精神現象に、厳密な意味において量の概念が用いられるべきはずはない。量的に考えるということは意識内容を客観化することだ。これ(意識内容)を対象化することだ。「知覚の予料」の原理に当てはめることだ【数学的物理学はこれによって成立するのだ】。心理学者自身も、感覚の強度というのは一種の性質と考えているのだ。しかし感覚の強度ということを単なる一種の性質と見なすのも、勿論その当を得たものではない。意識の強度とは判断に対する意識内容のclaim(要求?)だ。リップスの言うように我々のAuffassungstatigkeit(概念?)に対する内容のZumutung(無理な要求?)だ。コーエンは感覚をAnspruch(要求?)とするが、強度とは感覚が識別的関係において己自身を維持する力だ。この点においてヴントがウェーバーの法則(「人間の感覚の大きさは、受ける刺激の強さの対数に比例する」という基本法則)を統覚的結合の法則となすにも意味を認めることができる。すべてそれ自身において独立な実在は連続的でなければならない。すなわち強度を有し力を有しなければならない。そしてライプニッツがimo extensione prius(空間の延長に先立って?)と言ったように、意識の強度は物力の強度よりも一層根本的であると考えることもできる。物理学者が物体の力を計るのも、我々の感覚の強度を基とするのだ。重量や温度を秤や寒暖計によって計るというも、要するに精確な視覚の判断に訴えるに過ぎない。意識の強度は物の強度を計るのだ。意識の強度によって物理的強度が成立するのだ。意識現象はすべて一般者das Allgemeineの自ずからなる分化発展だ。その(意識現象の)背後には何時でも一般者がある。意識の強度とはこのような一般者の発展の力を現すものだ。意識現象においては性質即強度だ。性質とは経験内容が単にそのものとして静的に考えられたもので、強度とはその動的状態だ。表象自体は強度を有することによって感覚となる。我々の直覚においては性質が強度を持つ。画家はすべての性質を強度的に見るのだ。物体現象においてはこれに反し、質と量は分かれて二となる。熱とか光とかいう性質を量的に考えるのだ。質と量は互いに外面的だ。勿論、前に言ったようにphysical measurement(生理的計測?)が内包量によるのみならず、物理的量そのものが主観の構成によると言うことができるのだが、物理学者の考え方においては、一般なるものと特殊なるものは直ちに結合しない。すなわち質と量は直ちに結合しない。精神現象においてはヘーゲルの概念においてのように、部分が一々全体の意義を持っている。精神現象はアプリオリとアプリオリの結合、作用と作用の統一だ。質即量である。物理的世界においては量と質と分かれ、量そのものが独立に実在性を有するが故に、数学を応用することができるのだが、精神現象においてはこれと同一の意義において数理を応用することはできない。しかし物理的量が一方から見れば主観に依存すると言い得ると共に、心理的量とは一方から見れば小なる立場から大なる立場への傾向、(論理から数理に行くような)特殊的部分から一般的統一への推移(一般なるものの内面的発展)、すなわち客観的傾向と言ってよい。そして我々の自我の最大統一は先験的自我の統一にあるとすれば、リップスの“Zumutung(無理な要求?)”とは結局のところ、物理界を構成する先験的自我への求心的傾向と言ってよい。精神量(心理的量)と物理量はこの点(先験的自我)において結合することができるのだ。我々はこの先験的自我の統一を通じて全経験を反省し、これを物体界に射影して見ることができる。そして自我に対する“Zumutung(無理な要求?)”なる精神量を物質量に対応させることができるのだ。
 右に述べたように感覚の強度とは意識内容の力だ。感覚をして感覚たらしめるものは、その強度(連続)を有するによるのだ。そうでなければ感覚は単なる表象自体と選ぶ所はない。感覚とは強度(連続)を有する表象自体と言ってよい。それでは感覚の性質が種々の属性を有するとは、何を意味するか。例えば色覚はFarbenton(色調)の外にFarbengrad(色の飽和度)とFarbenhelligkeit(色の光度)を有するというのはいかなることを意味するのか。赤の感覚はその色調の外に飽和度と光度を持っているのは事実だ。すなわち赤の感覚はその色調の方向に配列し得ると共に、飽和度や光度の方向にも配列することができる。前に言ったように感覚は表象自体(意味)が実在的となったものと言い得るならば、我々が色覚において色調と飽和度と光度を概念的に分析し得るということから、色覚をさらにこれらの要素に区別し得ると考えられるかもしれない。しかし厳密に考えれば、ある一つの色調において微細にその飽和度や光度を異にする感覚は、その一々が異なった感覚と考えねばならない。ある一つの感覚が色調の外に飽和度や光度を持つということは、一つの点が三次元において見られるように、一つの感覚が種々の方向において比較し得るということに過ぎない。他面から考えれば、一つの感覚は種々なる性質的次元の結合点と考えることもできるだろう。勿論物体も種々なる性質の結合と考えることができる。われわれはこれを、物が性質を持つと言う。しかし精神現象の統一と物体現象の統一は、その範疇を異にしているのだ。物体現象においてはその統一は外面的だ。時間、空間によって結合されるのだ。これに反し精神現象においてはその統一は内面的だ。空間、時間による統一ではなく、性質的類似の統一によるのだ。色覚が色調、飽和度、光度を持つというのは、時と場所(空間)による外面的結合ではない。色そのものの性質による内面的結合だ。これ故に物体現象においては概念的統一(意味)は(時間、空間の形式に当てはまらないため)完全に非実在的と考えられねばならないのだが、精神現象においては概念的統一(意味)は実力を有すると考えることができる。私はこの点においてライプニッツがles idees simples(シンプルな理念?)がないというのは一面の真理を認め得ると思う。無論ライプニッツの考えたようなle vert nait du bleu et du jaune(緑は青と黄色から生じる)というような理由を以って緑を複雑と考えることはできないが、一つの感覚は種々なる次元において推移の傾向を持つという意味において複雑と考えることができるのだ。一つの点や線が解析幾何学において種々の意義に解せられるのと一般だ。緑の色覚は心理学的には単一な感覚であって、黄と青の混合と見ることはできない。すなわち不可分的だろうが、性質的区別の体系においては種々の意味を持つと考えることができる。実在的には単一であるが、意味的次元の上において多様であると考えることができる。そして精神現象においては意味は実在的だ。意味的関係は物理現象における力学的関係のように根本的だ。識別的関係というのは意味の力学的関係だ。ヘーゲルは「美学」においてEinheit unterschiedener Bestimmtheiten(差別化された決定要因の単位?)として、概念は具体的であると言い、人とか青とかいう表象も区別をその中に含むと見られる時、概念となると言っている。精神現象はこのような概念(意味)の実在と考え得るのだ。すべて実在は一般者das Allgemeineの自ずからなる発展だ。一つの独立的体系でなければならない。経験内容すなわち純なる性質が単なる表象自体ではなく、感覚的性質としてそれ自身の実在性を有するには、それ自身の中に分化発展の動機を有する一般者でなければならない。換言すれば、純なる性質的一般者das qualitative Allgemeineがそれ自身に発展したもの、すなわち具体的となったものが感覚的性質だ。感覚的性質の属性というのは、このような性質的一般者の発展の種々なる方向に過ぎない。すなわち性質的一般者のMomente(モーメント?)だ。感覚の強度というのはこれに反し、種々なる性質的一般者の統一点である自我に対するZumutung(無理な要求?)だ。性質的統一が更に深くかつ大なる自我の統一の一部分となった時、感覚は強度を有するのだ。感覚は強度を有することによって、すなわち性質的強度Gradとなることによって、真に具体的な精神的要素となると言ってよい。単に量的な物理現象が抽象的であるように、強度なき感覚は精神現象として抽象的であることを免れない。具体的精神現象は性質的強度でなければならない。
 精神的要素として考えられる感覚には必ず物体的条件が伴うと考え得るも、物体現象から精神現象が生じるのではない。精神現象は物体現象に伴うというのは、精神現象は何時でも物体界に投射して考え得るというに過ぎない。ライプニッツのモナドがrepresentation, expression(表現)をその本質の一つと為すように、独立にして自動的な我々の自我はrepresenter(表現する)の力を持っていなければならない。自ら働くものは己自身をrepresenterするもの(表現するもの)でなければならない。このような反省の方面が物体界だ。我々は反省的自我の統一を通じてすべての経験を物体界に映して見ることができる。感覚は斯くして成立する物体界との接触点だ。平面的な物体界と立体的な精神界が結合する境界において、感覚は立体的方向に位するのだ。

感情



 感情は感覚と同じく精神的要素と考えられる。ヴントは客観的経験内容の要素が感覚であって、その主観的要素が単一感情einfache Gefuhleであると言っている。試しにヴントによって感覚と感情の異同を比較すれば、感情も感覚と同じく二つの属性を持っている。感情の性質と言えばernst,heiter,trauring,duster,wehmutig(真面目,明るい,悲しい,暗い,憂鬱)などいうようなものであって、その強度とは感覚の場合と同じくschwach, stark, massig stark, sehr stark(弱い、強い、適度に強い、非常に強い)というようなものだ。この点においては感覚も感情も同様であるが、感覚の強度は同一性質において零から最大強度に変じるのに反し、感情はIndifferenzpunkt(分岐点?)から相反する両方面に変じる。例えば高い音と低い音は感覚としては単に区別であるが、感情においては反対だ。次に(感情は)単一感覚に伴うのみならず、構成された表象にも伴う。例えばHarmoniegefuhl(ハーモニー)の如きも単一感情だ。終りに感覚の性質は単にdisparat(不均等?)であるが、単一感情はすべてが一つの zusammenhangende Mannigfaltigkeit(関係する多様性?)を成すというのだ。
 感情の性質に関しては、ヴントは従来の心理学者が単に快楽と苦痛の二種と為すのに反し、Lust und Unlust, Erregung ung Beruhigung, Spannung ung Losung(喜びと不快、興奮と沈静、緊張と弛緩?)の三方向を区別している。しかしヴントの三次元説については有力な反対者が多い。例えばティチェナーは論理的に心理的にまた実験的にこの説の誤謬を指摘しているが、心理的に見れば、ヴントのいわゆる excitement and depression, tension and relaxation(興奮と落ち込み、緊張と弛緩)は単一な要素ではない。その中に常に有機感覚、特にkinaesthetic sensation(運動感覚?)を含んでいる。これらの精神現象はその感覚的方面において種々のmuscular attitudes(筋緊張?)を含み、これに快か不快かという感情の伴うものにすぎないというのだ。ヴントはまたこれに反し自説を固守して、情緒の要素であるべき氏のいわゆる三方向のようなものがすでに感情の要素の中にあるべきはずだ。多くの心理学者が快不快の二種に限るのは、それぞれ内容を異にする感情のKollektivbegriffe(総称?)を具体的状態と考えるに過ぎない。感情を筋覚などと同一視すれば、美学や倫理学に対して心理学は何らの説明を与えることはできないと言っている。
 以上述べたように感情は感覚と同じく性質と強度を有する一種の精神的要素であるが、種々の点において感覚とその類を異にすると考えられる。実験心理学者はこれらの現象を論じるに、自然科学者が自然現象に対すると同一の態度を以ってするのだが、私は精神現象の性質として、かかる場合においても深い内省的見方を要するのではないかと思う。感情は感覚に対して主観的と考えられる。ヴントも言うように感覚は客観的経験内容の要素であって、感情は主観的要素だ。感情と感覚を区別すべき本質的特徴はこの「主観的」という一語にあるのだ。ヴントが感覚と感情を区別する種々の特徴のようなものも、この(主観的という)根本的性質によって明らかにすることができるだろう。しかし物の本質を理解するには、単にその種々なる方面における特徴を比較するのみではなく、深くその内面的性質に入らねばならない。特に精神現象においては爾く考えられるのだ。実体概念Substanzbegriffによって成る自然現象においては、種々の方面から見た性質の枚挙にて可なる場合もあるだろうが、Aktualitatsbegriff(実在概念)によって成る精神現象においては単に種々なる性質を列挙するのみではなく、深くその内面的性質に入らねばならない。内面的ということが精神現象の本質を成しているのだ。ヴントは喜の情緒を心理的に説明してそのGrundcharakter(基本的性格?)では快楽であるが、その経過において感情の高まると共にexzitierend(興奮?)となり、過度の強さにおいてはdeprimierend(憂鬱?)となると言っている。意味を実在化すると思われる古き心理学をすてて、厳密なる実験心理学の立場から情緒を解釈すれば、右のようなものとなるかもしれないが、我々の喜とか悲とかいうものは、このような外面的記載によってその本質を尽くし得るだろうか。喜とか悲とかいう情緒の本質は、全体としての特徴の上にあるのだ。すべて精神現象は生きた一つの内面的作用として、その実在性を有するのだ。精神現象の本質を明らかにするには、この実在性を明らかにしなければならない。そしてこれ(実在性)を明らかにするには、その動的性質を考えねばならない。動的性質を考えるには、これ(感情)をその全体との関係において見なければならない。すなわち内面におけるその生成的条件を考えてみなければならない。そして意味即実在である精神現象においては、意味の働きを離れてこれ(感情)を考えることはできないだろう。私はかかる考えから、むしろスピノーザが「情緒の定義」において Joy (gaudium) is pleasure accompanied by the idea of a past thing which surpassed our hope in its event.(喜びとは、私たちの期待を上回った過去の出来事の表象に伴う快感である?)とか Love (Amor) is pleasure accompanied by the idea of an external cause.(愛は外界原因の表象に伴う快感である)とか言っているのが、かえって一層情緒そのものの内面的本質を明らかにしているのではないかと思う。単に識別的関係を以って意識の根本的形式となす実験心理学の立場からしては、右のような説明は(意味を実在化した)スコラ哲学の遺風に過ぎないと考えられるかもしれないが、精神的実在の本質である総合的全体を説明するには、いわゆる実験心理学的見方の上になお一歩を進めねばならない。すなわちその全体を成立させるものの根底に入らねばならない。そしてこのような説明に進むには、生理的説明を通じて生物学のようなものに入るか、そうでなければ例えばディルタイのいわゆるbeschreibende und zergliedernde Psychologie(記述心理学と解剖心理学?)のようなものを通じて歴史や哲学と結合せねばならない。精神現象としては後者がその本質を明らかにするものであると思う。


 感情と感覚との位置関係については心理学者の間に種々の説があるだろうが、多くは感情は感覚に対立し、これと同列的な精神的要素と考えられている。色・音・香・味などのの外界刺激は我々に対して一種の感覚を生じるのみならず、我々はこれに対して種々の感情を持つと考えられる。感情とは我々の自我の状態の意識だ。感情はその主観的なるを以って、客観的な感覚と区別される。ヴントの言うように感覚は客観的経験内容の要素であって。感情は主観的要素であると考えられるのだ。我々の主観を対象界に投射して一種の自然物のように考えるならば、主観は客観と同列的となり、感情は感覚と同列的な精神要素と考えることができるだろうが、このような主観は対象化された主観であって、真の主観ではない。真の主観は対象化することのできない、かえって対象を維持する主体subjectumでなければならない。意識的自我の主観的と言うのは、この意味において(主体という意味において)でなければならないとするならば、感情と感覚は単なる同列的な精神的要素と見なすことはできない。感情が主観的要素として感覚と区別されるならば、主観的という語の意義を明らかにしなければならない。
 我々の自我を反省し、これを知識対象界に映して他の自然現象と同列的と見るならば、感覚が物の性質と考えられるように、感情は主観の性質と考えられるかもしれない。しかし一方から見れば、種々なる感覚が我の感覚として主観的と考えられるのみならず、いわゆる実在界も先験的自我の統一によって成立する対象界と考えることもできる。このような主観はこれを反省することはできない。なぜならこの主観が反省するのだからである。このような統一は被統一者と同列的に見ることはできない。同一列のものが他を統一することはできないのだ。精神現象の自然現象と異なる所以は、このような統一の実在性にあるのだ。我々の自我とはこのような統一の中心点だ。自我は種々なる作用の結合点だ。感情が主観的というのは、このような統一の意識としてでなければならない。かつて言ったように、感覚は表象自体(意味)が識別的関係において立つものとするならば、感情はこのような関係を成立させるもの(主観)の意識だ。この意味において感情は感覚とその類を異にした意識だ。感情は感覚に比べ、一層高次的な意識だ。感情に注意を向ければ感情は消滅すると考えられるのもこれが為だ。強いてこれを同列的に見れば、有機感覚のようなものとなるのだ。感情が感覚と同列的である精神的要素と考えられるのは、実験心理学者が精神現象の本質である内面的性質に注意を払わないからだ。私はこの点において、ブレンターノ一派が対象的関係gegenstandliche Beziehungによって精神現象を分類する考えに同意したいと思う。この見方からブレンターノの言うように、感情は対象間においてではなく、対象に対する関係そのものの中に反対を含むという点において、むしろ判断に類すると言ってよい。感覚は識別力を持った表象自体として単なる作用と考えられるが、感情は作用の結合だ。作用の作用だ。そして意識現象においては、統一が進めば進むほど、すなわち主観的となればなるほど実在的となるのだ。
 意識の背後には必ず含蓄的なある物がある。意識はいつでもオン+メー・オンだ。含蓄的な全体が顕現的となる。すなわち一般者が己自身を分化発展するのが意識の発展だ。このような場合において一般者das Allgemeineはいつでもその特殊なるものdas Besondere(限定されたもの、オン)に対して、高次的立場に立つ。例えばジェームスのpsychic fringe(意識の縁暈?)のようなものにおいても、文章の一語が意識に上った時、文章全体の意味を表すfringe(縁暈=無意識?)は単なる部分的意識と同列的ではない。同列的なものは全体を代表することはできない。もしこのような区別は意味の区別としてこれを排するならば、氏のいわゆるfringe(縁暈=無意識?)の如きも一種の有機感覚のようなものに還元されねばなるまい。ジェームスが根本的経験論の立場からtoとかfromとかいうのも一種の経験であると言うが、経験という語は尽く同一意義と考えることはできない。具体的意識には、いつでも己自身の中に非顕現的な部分がある。対象化することのできない部分(縁暈=無意識、メー・オン)がある。意識はこれがあることによって自発自転的だ。独立だ。自然現象においては現象と本体は互いに外面的だが、意識現象においては現象そのものの中に本体がある。力がある。有限(現象)の中に無限(本体)があるのだ。これは矛盾だ。しかし自己の中に矛盾を含むことが、意識の実在だ。単一な意識は意識として成立することはできない。「赤」の意識は「非赤」に対立することによって成立し、この対立を成立させる統一者は、そのいずれでもないと共にまたこの対立を離れたものでもない。このような統一者が主観的作用だ。この作用に対してその中に含まれるもの、すなわち被統一者(限定されるもの、オン)は intentional Gegenstande(対象物?)となる。すなわちいわゆる内容Inhaltとなる。無論右のような主観的作用(統一者)を更に反省して、一層大なる作用の内容となすこともできるかもしれないが、同じく統一と言っても純なるアプリオリの統一(作用に対する内容。例えば視覚作用に対する見えるもの)と、アプリオリとアプリオリすなわち統一の統一(統一作用の統一。視覚作用、聴覚作用などの種々の作用の統一)を区別することができる。このような統一の統一が自己だ。このような統一の経験(種々なる作用の統一の経験)が意識現象だ。そしてこのような方向に向かってまた、統一の上に統一を考えることができるのだ。前に感覚は、表象自体が識別的関係において立つもの、すなわち表象自体が識別力を持ったものと言ったが、己自身の中に識別力を持つ表象自体とは、単なる表象自体(意味)ではなく動的アプリオリでなければならない。すなわち作用自身でなければならない。識別的関係とは、アプリオリとアプリオリの関係、すなわち作用と作用の関係だ。意識現象とはこのような統一の体系だ。

 意識は一般者の統一によって成立するということは、換言すれば意識は一般者が己自身を限定すること、すなわち対象化することであって、意識は一般者の自己実現であるということを意味する。このような対象化の方面、すなわち限定の方面が知識だ。純なる一つのアプリオリ(思惟作用)の上に立つものが意味の世界と考えられ、アプリオリの連結の上に立つものが実在界と考えられる。しかし意識が大なる統一に進むには、それ自身の中に深く入らねばならない。意識は肯定(発展)と共に否定(限定)の方面を持つ。外展の方面と共に内展の方面を持っているのだ。例えば「赤」の表象(外展)に対して「非赤」の意識(内展)はすでに(赤の意識と)同列的な意識ではない。一つの判断(赤)に対して仮定Annehmenの立場(非赤)は更に大なる立場だ。このような内展的方面の対象がいわゆる意識現象だ。そしてこのような方向を追っていかなる意味においても対象化することのできない剰余が感情であると考えることができる。何らかの意味において対象化することのできるもの、すなわち限定し得るものは知識となる。たとえ明らかに限定し得ないとしても、何らかの意味において限定の可能性を持つものはなお無意識として知識の部分に属するのだ。ただすべてを限定し尽くして、いかなる意味においても限定のできない剰余が感情と考えられる。すなわち感情はすべてのアプリオリのアプリオリとして、すべての作用の統一作用として我の状態、我の態度だ。およそある一つの立場に対して包容的にして大なる立場というのは、前の立場に対しては無限定で自由な立場だ。感覚に対して表象は無限定で自由な立場だ。すなわち現在に感覚しないものを表象することができる。記憶とか想像とかいうのは、表象作用に比べさらに自由な立場であり、思惟に比べてはマイノングの仮定というような立場は更に無限定な自由な立場だ。すべて高次的な立場は次位的な立場の否定(限定)を含む。我々はある一つの立場の否定(限定)を意識する時、すでに高次的立場の上に立つのだ。高次的立場は次位的立場をaufheben(止揚。矛盾する諸要素を発展的に統一すること)したものだ。具体的な意識現象においては、高次的立場が何時でもその背後に含まれている。心理学者は意識はコントラストによって成立するというのは、これによるのだ。感覚の背後には表象が含まれており、表象の背後には記憶が含まれている。少なくとも含蓄的には無限に高次的な立場が含まれている。現在の意識とは作用の結合点だ。物力は無限の外界に連なるように、精神作用は無限の内面に連なっている。我々の情意とは右のような考え方によって総ての知的作用を超越する、無限に自由な高次的立場だ。知識の錘を以ってして達することのできない深底だ。あるいは知的対象となり得ないもの、何らの意味においても限定できないものは無内容と考えられるかもしれないが、我々が知識の限定を意識する時、すでに知識以上の立場に立っている(例えば、「これは赤い」と知識的に判断した時、判断作用という知識に比べ高次的な統一作用の立場から「これは赤い」と判断している)。精神現象においては、このような高次的立場すなわち統一(作用)が実在的であるのだ。美的感情についてのカントの所論に従えば、限定的判断作用とは特殊を一般の中に包摂する作用であって(例えば赤(特殊)は色(一般)だ)、反省的判断作用とは特殊なものがまず与えられ、これに対して一般であるものを見出す作用だ(例えば“この”色は赤だ)。そしてある物の概念は、その物の存在の根拠としてその目的と考えることができ、すべて目的の到達には快感を伴うのだが、美感とは純なる反省的判断作用、すなわち自然の形式的合目的性に伴う感情であると言うのだ。一般から特殊に行く(一般者の分化発展による自己限定により、特殊なものが限定される)というのは私のいわゆる外展の方面であり、特殊から一般に行く(例えば、見えるものから視覚作用を仮定する)のは私のいわゆる内展の方面だ。反省的reflectierendに物を見るとは、物をその具体的根底に返って見ることだ。内的対象として見ることだ。一つのアプリオリの上に立つ対象をその元に返って見るということは、これ(対象)を作用として見ることだ。自然の合目的的見方というのもこの種の見方だ。すなわち精神現象(作用)の範疇によって自然を見るのだ。斯くして感情とは反省的判断作用に伴う意識だ。感情は作用の統一の意識だ(例えばある絵画を見て感動した時、ある絵画という特殊なものを、ある意味を持った一般的なものとして捉える統一作用に伴う意識が感情だ)。限定的認識作用の具体的根元と言うことができる。一般者から始まって一般者に還ると考えられる意識は、感情から始まって感情に終わると考えられるのだ。知識の内容と形式を峻別し、内容を以って一概に受動的と考えたカントは、形式的判断作用に伴う感情にのみアプリオリを認めたが、我々の直接経験は元々受動的ではない。我々の純なる知覚は今日の芸術論者の言うように、それ自身において動的だ。眼の知覚にも耳の知覚にも純なる部分がある。単なる形式的判断作用のみならず、すべての知的作用は純なる作用として美的感情を伴うのだ。芸術家の眼には線は直線と曲線のDurchdringung(錯綜)であり、色は種々なるTendenz(傾向)の結合であると言うが、物をその純なる状態において見る芸術家の眼には、色も線も尽く作用の連続として見えるのだ。これすなわち美的意識であって、ここに純なる美的感情が成立するのだ。美的感情は認識以上の神秘境からの物の発生に伴う感情だ。因果律を超越した発生の意識だ。


 私は感情について大体の考えを述べた。感情は感覚と次元を異にした精神現象だ。ここに感情の本質がある。すべて精神現象は意味即実在であって、Aktualitatsbegriff(実在概念)による実在だ。感覚といえども勿論この本質(意味即実在)を具えている。感覚と異なる表象自体(意味)の異なる所は、この点にあるのだ。しかし感覚のよって立つ所の識別的関係というのは、意識統一の内容を極小にしたもので、精神現象成立の初級だ。更に表象となり思惟となれば、統一の内容が積極的となり能動的となる。すなわち精神現象がいよいよその本質を現すこととなるのだ。感情はこのような考えによって種々の知力の統一と考えることができる。すなわちアプリオリのアプリオリ(作用の作用)と考えることができる。Rimbaudが A noir, E blanc, Irouge, U vert, Obleu(A 黒、E 白、I 赤、U 緑、O 青、母音と色の結びつきを表現したもの)と言い、Baudelaireが Les parfums, les couleurs et les sons se repondent(香り、色、音が響き合う?)と歌う時、その融合は感情の基礎においてでなければならない。感情は受動的であると言われるのだが、ゲーテが自己の生涯を詩化することによって、その苦悩を脱したというように、我々は情によって知を包容し、これ(知)を超越して自在となることができるのだ。
 感情を右に述べたようなものとして、感情の内容とはどのようなものだろうか。感情は知識と違い、その内容が不分明であるというのは一般の考えだが、敏感な芸術家の感情が科学者の知識に比べ、必ずしも不分明とは考えられない。感情の不分明というのは、概念的知識に表すことができないというに過ぎない。感情そのものの意識が不分明なのではない。感情の意識は知識のそれに比べ、かえって繊細微妙であると言うこともできる。このような感情の意識内容とは何だろうか。すべて精神現象の特徴は対象の内在ということであって、知覚には知覚の対象があり、思惟には思惟の対象があり、これによって種々の知覚や思惟が区別されるとするならば、感情の対象とはどのようなものだろうか。あるいは純主観的な感情は何らの客観的対象を持たない、それが感情の本質であるとも言い得るだろう。しかし微細に識別される感情にはよって以って区別されるべき何らかの内容があると考えざるを得ない。たとえ、その対象は知識のそれと類を異にするものとしても、感情にも一種の内在的対象があると考えざるを得ないだろう。勿論、多くの心理学者の考えるように感情を単に合成物として、その微細な色合いはすべて知識的要素の差異に属するものとすれば、感情そのものの性質としては快不快というような抽象的概念によって表されるべき二種の区別しかないと言い得るでもあろう。しかし意識現象は単なる合成物ではなく一つの統一でなければならない。意識現象の実在性は、その要素にあるのではなく、その統一にあるのだ。特に感情においてはヴントも言っているように、構成された表象に伴うものも単一感情だ。例えばHarmoniegefuhl(ハーモニーの感覚)のようなものも感情の結合ではなく、一つの感情だ。感情がこのようなものであるとするならば、感情には無限に性質上の差異がなければならない。
 我々が物を知るということはこれ(物)を限定することだ。いかなるものであるかを限定することによって、物を知ることができる。判断はこのような限定の形式だ。しかし限定にも種々の意味があり、必ずしも同一の意義においてのみ限定ということはできない。ある一つの立場においては限定することのできないものも、更に一層高次的な立場からこれを限定することができる。例えば、有限数であっても、その数多き時は直覚的に限定することができないにしても、我々はこれを知ることができないとは言われない。無限数とは我々が達することのできない、すなわち消極的に考える外ない数だが、我々は分離的要素の立場を超越して、分割作用そのものを認識することによって、すなわち認識対象を客観(分離的要素)から主観(分割作用)に移すことによって、無限数を有限数と同一の法則の下に取り扱うことができる。カントルの集合論は斯くして起こったものだ。マイノングの言うように「赤」の表象に対して「非赤」の意識は「赤」の表象と同列的ではない。一層高次的な意識だ。単なる表象の立場からは、(非赤の意識は)無限定にして無内容な意識と考えられるかもしれないが、高次的立場においては明らかに限定された意識となることができる。思惟に対してマイノングの仮定の立場は無限定であるかもしれないが、無内容とか不明瞭とかいうことはできない。「円い三角」というようなことも無内容の意識ではない。明らかに内容を持っているのだ。背理と思われるのは内容があるからだ。すべてある物を限定するということは、これに対する反限定の立場を含んでいる。そしてこの反限定の立場(この場合、非赤)は前の立場に対して同列的ではなく、その具体的根元である高次的立場への関係を含んでいる。否定的判断が肯定的判断より一層高次的と考えられるのもこれによるのだ。メー・オン(無意識)はオン(有。限定されたもの)と同列的ではない。高次的立場への階段だ。高次的立場からは、前に反限定として消極的に考えられたものが、積極的内容を得ることとなるのだ。前にも言ったように、感情とはすべての意識内容を知的に対象化した剰余だ。知識的には無内容であり無限定であると考えられるかもしれないが、高次的な感情の立場においては限定された明らかな内容を持ったものだ。意識現象においては一々の内容が作用であって、これらの作用を統一する最高のアプリオリは人格的統一であるから、感情の内容は人格的統一の内容だ。人格というのは単なる抽象的概念ではなく、種々なる作用の動的統一だ。種々なるアプリオリの力学的関係だ。感情とはこのような動的統一の上に現れ来る意識内容だ。心理学者が感情を研究するのに、Ausdrucksmethode(表現方法?)を用い、表現によって感情の性質を分かつのもこれ(動的統一)によると考えることができる。恐らくは広義における表出運動なくして、明晰な感情はないとも言い得るだろう。感情の内容を明らかにするものは表出運動だ。特に芸術的動作は我々の感情に明晰な内容を与えるものだ。手のないラファエルは恐らくは不明瞭な感情以外に持つことはできまい。表出なき感情は混沌たる快不快の感情のようなものだろう。芸術家は彼自身の感情を明らかにするために制作するのだ。ディルタイは“Dichterische Einbildungskraft und Wahnsinn(詩人の想像力と狂気)”において普通のいわゆる心理学的法則は抽象的であって、具体的な実際の精神生活においては、表象は一つのLeben(製品?)であり、Vorgang(生産?)であり、それは生じ発展し消滅する。そして斯く形像を内心化し、内心を形像化するものが神話、哲学、特に詩の根源だ。この活力は不可解ではあるが、それ自身の法則を有し、この世界が滅し、人類が再生するもFaust, Richard, Hamlet, Don quixote(ファウスト、リチャード、ハムレット、ドン・キホーテ)のような型はいつも繰り返されるだろうと言っているが、多種多様なる芸術はすべて我々の豊富な感情の内容を現す言語に外ならない。純なる感情は静的な快不快というようなものではなく、人心の奥深く潜む動くある物だ。快不快というのは反省された結果に過ぎない。我々は判断作用と名付けられた意識の中に含まれた意味内容について真とか偽とか言うように、作用の結合である人格的統一の内容について快とか不快とかいう価値判断を下すのだが、真偽の内容が豊富であるように快不快の内容も豊富だ。快とか不快とかいうのは抽象的な種族名に過ぎない。あるいは快不快の感情そのものに種々の内容があるのではなく、感情の内容とはこれ(快不快)に伴う知的対象に過ぎないと言うかもしれないが、判断の内容が単に表象の結合によって尽くされないように、感情の内容も単に知的対象の結合によって尽くされない。結合の上に現れた創造的或物がその(感情の)内容となるのだ。感情の場合においてはこれを広義における創造作用と言ってよいだろう。創造作用は広い意味において作用の結合と考えてよい。アプリオリのアプリオリと言ってよい。例えば「甲は甲である」という判断を翻って見るリッケルトのいわゆるhomogenes Medium(同質的媒介者)はカントのEinbildungskraft(想像力、構想力)だ。(同質的媒介者は)Thesis(定立)である一つの作用とAntithesis(反定立)である一つの作用を結合する具体的立場だ。このようないわゆる形式的作用の結合の内容は、論理的感情の内容を成すのだ。これと甚だしく異なるように見える感官的感情であっても、その背後に人格の核ともいうべき創造的或物があると考えることができる。感情はその(創造的或物の)表出だ。何らの概念も交えない純なる感官的感情は、このような創造的なある物の言語だ。この場合(感官的感情)においてはすべてが美だ。肉体的快楽の卑しむべきは、これを概念化する(思惟作用により抽象化し対象化する)によるのだ。これらの感情を自我の抽象的立場(思惟作用)から見れば、単なる苦楽としてすべてその純なる内容を失うのだ。芸術家の眼には、線は直線と曲線のDurchdringung(錯綜)であり、色は種々なるTendenz(傾向)の結合であるというように、創造的立場においては種々の感覚も作用の結合だ。芸術的感情はこのような作用の結合、すなわち想像作用の内容だ。無論普通にはこのような作用を想像とは言わないだろうが、いわゆる想像作用というのはこのような創造作用の一部分と言ってよい。判断の内容に種々の真理があるように、想像の内容に種々の美感があり、想像は判断に比べ、一層根本的な具体的立場であると言うことができる。外的形像を離れ、すなわち知的対象を離れて、最も純なる創造的或物(人格の核とも言うべきもの)を言い表すものは恐らく音楽だろう。音楽は純なる感情の語だ。ショペンハウエルのいうように物自体を現すものだ。純なる感情は知識に対して超越的だ。カントが形式美について言ったような感情の先験性は、内容美の上においても認めなければならない。
 感情の内容というのは右に述べたように、我々の精神の根底である創造的或物、すなわち動くある物の上に成立する根本的意識の内容だ。あたかも判断の内容がその要素である表象の中に求めることができないように、感情の内容は知的要素の中に求めることはできない。ただ芸術によってのみこれ(感情の内容)を現すことができる。我々の意識内容がすべて動的となり、すべてが一作用に結合する時、すなわちすべてが自己となる時(主客合一した時)、この内容が現れ来るのだ。意識の本質が内面的作用、すなわち主体なき働きであるとすれば、このような意識(感情の意識)は実に意識の意識(働きの働き)とも言うべきだろう。この意識を分析すれば、その要素はすべて知的内容に還元されるかもしれない。しかしシムメトリ(対称)は単に線の結合以上のある物であるように、この意識はただ動くある物(種々なる作用の動的統一=人格)によってのみ理解されるのだ。スピノーザが「情緒の定義」の中に論じた情緒の分析の如き(分析のようなものは)、今日においてもなお情緒の深い内面的説明たるを失わないだろう。しかし(スピノーザが)Love is pleasure accompanied by the idea of an external cause(愛は外界原因の表象に伴う快感である)と言い、Joy is pleasure accompanied by the idea of a past thing wnich surpassed our hope in its event(喜びとは、私たちの期待を上回った過去の出来事の表象に伴う快感である?) と言うも、愛は単に pleasure + idea of a past thning(快楽+過去の観念?)ではない。愛も喜も共に自我の根底から動く一つの力だ。一つの働きだ。愛は外界原因の表象に伴う快感であると言う代わりに、外界原因の表象はその者に対する愛によって成立すると言ってよい。我々が真に物を知るにはこれ(物)とmitfuhlen(共感?)しなければならない。すべての知識の根底にはリップスの言うように感情移入がある。我々が真に人を知るにはこれと同感しなければならないのみならず。色を知るには色と同感しなければならない。音を知るには音と同感しなければならない。色を種々なるDimensionen(次元?)への連続として見る芸術家は色と共感するのだ。これと共に働くのだ。綱渡りを見ている人は、これ(綱渡りしてる人)と共に動くと言うように、我々が物を知るにはまず作用と結合しなければならない。そして作用との結合は感情だ。我々が過去の事柄を知るには、現在の我は過去の我と結合しなければならない。すなわち過去の作用と結合しなければならない。外界原因を知るには現在の我は思惟我(という作用)と結合しなければならない。思惟作用と結合しなければならない。すなわちまず我を拡大しなければならない。大なる深い我が動かねばならない。死後再生して王となるも、生前の記憶がなければ何らの幸福を感じないように、またダンテが不幸の時に楽しかりし日を思うより悲しきはなしと言ったように、過去現在を通じてこれを対象とする自我の上に喜あり、悲あり、物我を通じてこれを対象とする自我の上に愛あり憎あり、これらの情緒は純なる作用と作用の結合の上に成り立つ純我の波動だ。純なる音楽は思うに、この波動(感情)を表すものだ。アウグスチヌスがder im Drang der Liebe seine Selbsterkenntnis wollende Geist bereits das Wissen seiner selbst habe(愛の衝動の中で自己認識を求める精神は、すでに自分自身についての知識を持っている?)という語に深い意味があると思う【Bindemannによる】。このような知識は無論概念的知識ではない。真実在の形は無形の形であり、その声は無声の声だ。これ(真実在)を知るのはプロチヌスのいわゆるschweigendes Verstehen(沈黙の理解?)によらねばならない。以上論じたように我々の情緒は感覚や表層の群れに快不快の単一感情が結びついたものではない。具体的感情は知識よりも深い意識だ。認識対象よりもなお一層深い実在の表現だ。一般の心理学者は種々なる知的要素を除去すれば、感情は快不快の両性質に過ぎないと言うが、このような考えは人間は男と女に分かれるというような類型的見方に過ぎない。ティチェナーはヴントに反して excitement and depression, tension and relaxation(興奮と落ち込み、緊張と弛緩)は単一な感情ではなく、※有機感覚を含んでいると言っているが、これらの感情は単に下等な感覚に伴うと考えられる快不快の感情に比べ、高次的な知的要素を有するかもしれないが、いずれも独立の具体的感情としていわゆる快不快と同様に単一であるということができる。
※ 引用 有機感覚とは https://kotobank.jp/word/有機感覚-144639
私はこれにおいて、いわゆる下等な感覚に伴う快不快の感情と、感情の一般的性質としての快不快、すなわち抽象的概念としての快不快を区別しなければならないと思う。一種の具体的感情としての快不快に対しては、すべて他の感情も単一だが、抽象的概念としては、判断は真か偽かのいずれかであるようにすべての感情は快か不快かのいずれかでなければならない。感情の本質は自我の一点における作用の結合にあるとすれば、その根本的性質は結合するものと、されないものとに分かれ、快と不快が感情の根本的性質を表すと考えられるのは至当のことだ。心理学者は右のような快不快の二義を明らかに区別していない所から、多くの混雑を来たすのではないだろうか。複雑な感情の成分として考えられる快不快は、有機感覚に伴う快不快と同一の内容と考え得るだろうか。我々が怒る時にも喜ぶ時にも、否絵画に対し音楽を聞く時すら、一種の複雑な有機感覚を伴い、これと共に快不快を感じるだろう。しかし我々はこの場合において注意を二つにすることを忘れてはならない。私が名画に見とれている時、それと同時に有機的な快不快を感じているのではない。我々が名画の感情から注意をいわゆる快不快に移した時、すでに名画の感情は失せ去っているのだ。ニーチェが“Leib bin ich ganz und gar(私は完全に身体であり、それ以外の何物でもない?)”と言っているように、我々が全我を打して一理想に没入する時、自ら肉体を動かさねばならない。肉体的変化も伴い来らねばならない。この時いわゆる単一感情と同じ脈拍や呼吸の変化を起こすだろう。純粋に客観的立場に立って見れば、有機的な快不快を混じるとも考えられるだろう。しかし純なる感情はモザイックではない。具体的感情はいつでも一でなければならない。自然科学的見方からすれば、要素はいずれの場合においても不変であるかもしれないが、判断の中に含まれた表象が単なる表象自身と異なるように、美的感情の成分としての快不快は単なる快不快と異なるものと見ることができる。意味即実在である精神現象においては、意味内容の相違は実在の相違と見なければならない。斯く言うものの私は必ずしもヴントの単一感情の分類を弁護するのではない。ヴントの心理学には屡々、根本的に立場の混淆がある。ヴントは実験心理学者としてmethod of exprssion(表現方法によって感情の性質を分かつこと?)によって自己の説を固めようとしているが、このような実験に対しティチェナーが“A Text-Book of Psychology”72において論じているように、metod of expression(表現方法?)及びmethod of impression(印象の方法?)の二方面から(ヴントの感情の性質を分かつ方法に)反対することができるとするならば、この点においてヴントの説を不正確と考えねばなるまい。ヴントは実験心理学の立場へ内省的心理学の立場を混じたという譏を免れ得ないだろう。純なる自然科学的心理学としてティチェナーのような考えが徹底的であるかもしれない。
 上来述べ来ったような訳であるから感情には無数の単一なるものがあり、我々が感覚の性質について分類するように、感情の性質についても分類することができるだろう。このような分類の種族名として快不快というようなものが考えられるのだ。ヴントの三方向の区別の如きもまた一種の考え方だろう。しかしとにかくこれらは、限定されたある特殊の色覚とか音覚とかいうものと同一の意味において、単一な要素ということはできない。次に感情の強度と言われるものについては、感覚の強度と言われるものと同じく、更に大なる統一への関係だ。そして我々の最高統一(人格的統一)は意志であるとすれば、感情の強度とは意志への関係を意味することとなる。感情は動機として強度を持つと考えることができるのだ。


 最も直接にして具体的な物自体は、すべての範疇を超越し我々の言語思慮を入れるべき余地はない。向こうと欲せば乃ち背く底のものだ。我々が何らかの立場に立って見た時、そこに我々の意識界が現じ来る。いかにして絶対の世界(物自体の世界、絶対自由の意志の世界)から相対の世界(限定可能な世界)を生じ来るか。我々が何らかの立場に立って見る(限定する)ということは何を意味するか。我々はこれに対して何らの説明を与えることはできない。意識の前に意識はない。知識の前に知識はない。これに至って知識の権は窮するのだ。ならば絶対は不可知的であるか。無意識的であるか。もし斯く(不可知的、無意識的と)限定し得るならばすでに相対的に過ぎない(すでに対象化されている)。真実在は知不知に属さないものだ。絶対は単なる仮定ではない。受容不尽(使いきれない。尽きない)の力でなければならない。意識の中においても、知識というのはある一つの立場から経験内容を純化していくことだ。この意味において内容を純化することができればできるほど、知識は客観的となる。誤謬は立場の混淆から来り、我々はこれを主観的と言うのだ。知識の立場においては、主観的なものは反規範的であり誤謬だ。主観的状態と考えられる感情はこれに反し、このような立場(主観的立場)そのものを対象としてその意味内容を明らかにする意識だ。知識は知識自身の立場(思惟作用)を顧みることはできない。哲学といえども思惟の立場を離れない。哲学は全体の関係を示す投射図ではあるが、未だ平面を離れない。哲学はなお作用の内容であって自由なる作用そのものではない。しかし我々の意識は作用を超越した領域を持つ。立体の世界を持つ。物体現象においては作用と作用の意識は別物と考えられるが、意識においてはこの両者は一つでなければならない(意識においては二つの作用が一つに結合されていなければならない)。作用そのものの意識がなければならない【かかる立場から見て哲学も一作用の内容に過ぎない。その基には人格的或物があるのだ。私はこの意味においてディルタイの“Weltanschauungslehre(世界観?)”に興味を有するのだ】。このような作用の結合の意識が純主観的な感情だ。立場の混淆は知識に対して誤謬であるかもしれないが、感情においては真だ。誤謬は深い人間性を現す。ロダンがplus un etre est laid dans la nature, plus il est beau dans l'art(自然界では醜いものほど芸術では美しい?)と言うのもこの点にあるのだ。すべて一つの立場において矛盾に陥るものも、高次的立場においては、可能的内容となることができる。表象の立場において不可能であるものも、思惟の立場においてはこれ(表象)を可能的内容となすことができる。知識の立場において矛盾と考えられることも、感情の立場においては積極的内容となすことができる。要するに感情とは作用の作用である意志の内容だ。しかし意志と知識の間に想像phantasieという作用を考えるならば、感情は想像の内容というのが至当だろう。我々は作用の作用である意志を超越する立場を持たない。意識は意志に至って窮極するのだ。我々は意志において物自体と接触するのだ。ただ、意志の窮極する所、百尺竿頭更に一歩を進めて(禅語。百尺竿頭に一歩を進む。百尺の竿の先の更に先へ進む)、我々は知不知に属さない真実在の境に入ると考えることができる。Salmon Maimonは極限概念によってカントの物自体を考え、これをライプニッツのpetites perseptions(微小知覚、極微知覚)と結合したというが、極限点に達するには飛躍がなければならない。物自体としてのpetites perseptions(微小知覚、極微知覚)の世界は知識の極小限ではなく、明らかな情意の世界でなければならない。
 感情の概念を右のように考えることによって、感情と知識の異なる種々の特徴を説明することができると思う。知識はこれに注意を向ければ向けるほど明らかとなるのに反し、感情はこれに注意を向ければかえって消滅すると言われるが、感情とは自我の主観的状態だ。作用の意識だ。アプリオリ(作用)そのものの意識だ。これ(作用)を注意の対象とすれば感情そのものが消え去るのは当然だ。感情は対象そのものに深く注意することによってかえってこれを深くすることができる。対象に純なることによってまた感情に純なることができる。ブレンターノの言うように意識現象を対象的関係によって区別するとすれば、感情は無限数のように反限定的限定であって、消極的対象関係とも考え得るだろう。それではいかにして感情が意識され得るか。感情が意識された時すでに知識であって感情と言われないではないかと言うこともできるだろう。これらの疑問に対して、私は感情は作用の作用である意志の立場において、これを対象化し、その内容を限定することができると思う。有限数の立場においては完全に消極的と見る外なき無限数も、高次的な立場、すなわち集合論のような立場からは、積極的に考え得るように、知識の立場において無限定と考えられることも、意志の立場において積極的内容を限定することができるのだ。純粋意志の立場に進めば進み得るほど、感情の内容は明瞭となる。美感はこのような純粋活動の感情だ。プラトーのイデヤの世界はプロチヌスの考えたように美の世界でなければならない。これに反し、これを反省しこれを概念化すれば、すべてが不明瞭である類型的快不快の感情となる。感情が意識された時、すでに感情ではない。感情はいつも現在的であると言うが、もしこの考えを厳密にすれば、他の意識現象においても同一の現象を繰り返すことはできないと言い得るだろう。特に感情のみ斯く考えられるのは、知識内容は客観的と考えられるのに反し、感情の内容は主観的と考えられ、そして主観は時間的に絶えず推移すると考えられる為だろう。これに反し意識を一般者の自己実現として考えれば、すべて意識の根底には永遠であるアプリオリがあり、感情はアプリオリのアプリオリ(永遠のアプリオリ)として永久に現在と考えることができる。純粋感情の内容は知識のそれの如く客観的だ。ただ感情は知識対象に注意することによって意識することができるのだ。知識内容を動的に見ることによって意識することができるのだ。感情と表出運動の関係について見ても、種々なる作用の統一であり、種々なるアプリオリの結合点とも言うべき自我の内容である感情は、表出運動を伴わねばならない。純粋なる感情は動的でなければならない。自ら身体の運動も伴い来らねばならない。この点から見て表出運動は一種の象徴(感情の象徴)であり、芸術的象徴は一種の(感情の)表出運動と考えることができる。
 以上述べたような訳であるから、感情には知覚と同一の意義において一般的妥当性というものはない。趣味判断Geschmacksurteilには知的判断と同一の意義において一般的法則を立てることは不可能だろう。なぜなら知識は限定されたあるアプリオリの上に立つが、感情はアプリオリのアプリオリである自由なる人格的統一の内容だ。知識的に無限定なものの統一だ。内に還ってどこまでも統一を求めるのだ。統一を創造していくのだ。知識はある一つの立場(思惟作用)からすべての経験内容を統一していくのだが、感情は自己の内に還ってアプリオリ(作用)そのものを統一するのだ。統一を自己の中に求めるのだ。そして人格の人格である所以はその無限に自由である所にあるのであって、感情の統一はこのような(人格の)自由の統一だ。これ故に我々は、感情に対しては知識においてのように概念的に一般的法則を立てることはできない。何らかの意味において一般的なものを仮定するならば、それはすでに知識の立場に堕するのだ。Sensus communis(共通感覚?)の如きもこの種の非難を免れない。感情のアプリオリは概念以前の自由なる純粋活動のアプリオリだ。そこでは一々が創造的であり、一々が個性的でなければならない。一様という意味において一般性を容れるべき余地はない。単に超越的人格の有機的統一として一般性を認め得るのみだ。すべて感情は純なれば純なるほど、美だ。感情が純なるとは概念の混淆を離れることだ。感情が概念を離れて、超経験的となればなるほど、美的となる。リップスの感情移入もこのような意味において、先験的な作用と作用との結合でなければならない。我々は綱渡りと同一に感じるも(綱渡りを見ている時、綱渡りをしているような感覚に陥るが)、自分は綱渡り(をしている)とは思わない。斯く我々が超知識的境域において綱渡りの作用と結合する所に、美感の基である感情移入があるのだ。我々の概念的理解というのも、その根底に一種の感情移入がなければならない。知的内容も知識の立場を超越して純なる一つの作用として見られた時、芸術的意義を有するのだ(例えば、人は数式に美感を感じたりする)。その他醜悪と考えられる種々の喜怒哀楽の情緒も、純なる人格の立場から見て、すべてが芸術的となることができるのだ。
 カントは美感とは特殊から一般に行く反省的判断作用、すなわち自然の形式的合目的性に伴う感情であると言っているが、反省的判断作用(例えば“この”色は赤だ)と言うのは知識的な限定的判断作用(例えば赤は色だ)を逆にしたものだ。(反省的判断は)アプリオリのアプリオリである意志の立場からアプリオリそのもの、作用そのものを対象として見たものだ。カントは感覚的なるものはangenehm(楽しい?)であってInteresse(興味?)を伴うと言うが、感覚的経験もそれ自身に連続的な内面的発展だ。それ自身のアプリオリを持っている。純なる人格の立場(概念の混淆を離れた立場)において反省されたすべての作用は美感を伴うと言わねばならない。感覚的経験も純なる人格の立場においては、すべて美だ。ただ少しでも概念を混ずれば、忽ち醜悪なる喜怒哀楽の情緒となるのだ(概念は判断を伴うため、単なる快不快の感情となるのだ)。

象徴の真意義


 象徴とは意味と存在の結合だ。物体的なるものと精神的なるものとの結合だ。象徴の最も浅薄なるものは符号に過ぎない。符号においては意味と存在の結合が外面的だ。偶然的だ。ある一種の動物をフントな名付けるもドッグと名付けるも何らの変わりはない。象徴の意義が深くなるにしたがって、その結合は内面的となり、必然的となる。ロセッチが聖母の画における清浄無垢の象徴としての百合の花の如き両者を内面的に結合するものは一種の感情だ。普通に象徴と言うのはこの種の結合に属するものだ。文学者は更にこの種の象徴を進めて境によって心を描く。私は今だにツルゲネフの「リーディン」における、愛人が霧こめて果てしなく荒涼たる露西亜のステップに、ルーディンを追い行く一節を忘れることはできない。
 普通の考え方では象徴において意味と存在を結合するものは、一種の感情と考えられる。したがって意味と存在はその間に何らの実在的関係はない。単に主観的関係に過ぎないと考えられる。しかし象徴の意義は単にかかる考えに尽きているだろうか。我々の感情は単に主観的事実以上に何らの意義も持たないだろうか。このような考えは恐らく認識対象を以って唯一の実在界となす主知主義の結果だろう。論理の範疇に当てはまった認識対象界を唯一の実在界となす時、この体系に入り来らざるものは単に主観的と考えられねばなるまい。しかし我々の感情には恐らくこれ以上の意味がある。知識以上の客観的意味がある。カントが常に新たにしてかつ増大し行く驚嘆と畏敬を以って、我々の心を充たすものは二つある、我らの上に懸る星輝ける天と、我らの中にある道徳律と言った時、この両者を結合するものは単なる主観的感情ではなく、一方において無限の宇宙を構成すると共に、一方において断言的命令kategorischer Imperativ(定言命法。カント倫理学における根本的な原理であり、無条件に「~せよ」と命じる絶対的命法)として我々の心内に現れ来る理性そのものだ。両者の結合は認識以前の世界に求めねばならない。古代の人民が天を神化したのも単なる空想とのみ見ることはできない。ボードレールが
Homme libre, toujours tu chériras la mer.
La mer est ton miroir ; tu contemples ton âme
Dans le déroulement infini de sa lame,
Et ton esprit n’est pas un gouffre moins amer.
Tu te plais à plonger au sein de ton image ;
Tu l’embrasses des yeux et des bras, et ton coeur
Se distrait quelquefois de sa propre rumeur
Au bruit de cette plainte indomptable et sauvage.


自由な人よ、いつまでもお前は海を慈しむだろう!
海はお前の鏡なのだ。お前は自分の魂を、
あの波の無限に続く動きの中に見出している。
そしてお前の精神も、同じように苦い深淵なのだ。
お前は自分の似姿の中に、好んで身を沈めようとする。
お前はその目とその腕で海を抱きしめ、お前の心は
この飼い慣らし難い野生の呻き声の響きの中、
幾度となく、自分自身のざわめきから気を紛らわす。

※引用 Invitation@Baudelaire 『悪の花』014 人と海
http://www.litterature.jp/baudelaire/poesie/fleurs/xiv/

と歌う時、我々の心と海は先験的世界において抱き合っている。水に入って溺れ火に入って焼けざる境において我々の心と海は結合していると思われる。最も深い意味の象徴はこのような結合でなければならない。真の象徴的結合は先験的世界においての結合でなければならない。いわゆる実在界とは直接経験の内容をある立場から構成したものだ。我々が時間、空間、因果の束縛を脱して一たび先験的立場にかえって見る時、ある一種の精神の表現としてこの世界は一つの象徴となる。ノヴァーリスの言ったように「青き花」の都においては数学もコーラスの中に入ると言うことができるのだ。
 普通に感情は主観的であるという語の中には、感情は非実在的である、幻影であるということを含んでいる。知識が唯一の一般性、客観性を有するもので、感情は単に個人的、主観的と考えられるのだ。しかし感情にも一般性があり客観性がある。我々の客観的知識の根底にも感情がある。この感情が論理的当為として我々の意識の上に現れ来るのだ。我々の認識対象の世界を構成するものは、実にこの当為の感情だ。しかもかかる論理的感情は我々の先験的感情の一つに過ぎない。論理的範疇を超越した我らの深い人格の中には、純なる芸術によって表される如き無限に豊富なる先験的感情の世界がある。我々は何時でも知識によって互いに理解するのではない。知識によってのみ我々は結合されるのではない。我々は知識によって説明のできない多くのものを持つ。我々は多くの概念なき理解を持つ。リップスの語を籍りて言えば、我々は感情移入による理解を持つ。そして知的理解の根底にも一種の感情移入があると考えることができるのだ。芸術家はこの立場から物を見るのだ。斯くてダンテのvisionにおいて見るニコラス三世のそれの如く泣く足を見る。ロダンが芸術の素材として平面を見出したと言うのもこのような立場から物を見たのだろう。いわゆる芸術美の先験性はここ(感情移入)にあるのだ。芸術美が知的真に対してそれ自身の立場を有し、しかも一般妥当性を要求し得るのは、これによるのだ。芸術美はこのような先験的感情の立場に進めば進むほど、純となる。これに反し少しでも認識対象界に堕して因果的関係に支配されれば、それだけ不純となる。美感は変じて単なる快感となる。カントが純形式的である反省的判断作用reflektierende Urteilskraft(例えば“この”色は赤だ)に伴う快感を以って美となしたのも同一の理由に基づくものだ。我々の知識は判断作用によって成り立つ。形式美はこの判断作用に伴う感情だ。単なる反省一般に対する対象の形式die Form des Gegenstandes fur die Reflexion uberhauptにおいてその基礎を有するのだ。カントに従えば我々の認識は雑多の統一だ。すなわち判断作用によって定まって来る。美感は知識成立の条件に伴う先験的感情だ。無論認識対象を与えるものは限定的判断作用bestimmende Urteilskraft(例えば赤は色だ)であって、美感は特殊から一般に行く反省的判断作用(例えば“この”色は赤だ)に伴うのだ。自然の形式的合目的性formale Zweckmassigkeit der Naturに伴うのだ。カントはそれ故に単に主観的と考えている。しかし私の考えでは、反省的判断作用とは限定的判断作用を逆にしたものだ。一つのアプリオリの上に立つ限定的判断作用を、更に広き自由意志の立場から見たものだ。アプリオリそのもの、作用そのものを対象としたものだ。一つのアプリオリの上に立つ時、単に知識対象界のみを見るのだが、このアプリオリが仮定的、選択的と考えられ、自由なる意志の立場において反省された時、知識以上の深い情的内容を現すのだ。無論カント自身は自然科学的アプリオリの上に立つものを唯一の客観的実在と考えていたのだが、現今の目的論的批評主義の立場から見れば、それは一つの仮定的実在となる。自然科学的法則はカントが「実践理性批評」の“Von der Typik der reinen praktischen Urteilskraft”において言っているように、道徳法のTypus(型)と考えることもできるだろう。以上カントが形式美について考えたことが内容美についても言うことができると思う。いわゆる内容の経験にも先験性がある。我々の直接経験もある一種のアプリオリの内面的発展だ。カントは感覚的経験を単に受動的と考え、形式によって組織されるべき材料とのみ考えた。これ故にその考えは形式美以上に出なかったのだ。
 もし以上述べたように考え得るならば、真の象徴主義は単に一種の芸術の一派ではなく、芸術そのものの本質と考えることができるだろう。そして右のような意味においてまた宗教や道徳の根底と考えることもできるだろう。

※反省的判断作用と限定的判断作用については、「感情」を参照

意志


 我々は、自分が何事かを意志することを意識する。そこに一種の努力の意識がある。従来の心理学者は知識及び感情の要素と並べて、意志の要素というようなものを考えた。しかし前に論じたように単一感情が感覚と同列的要素として考え得るか否かはすでに疑わしく、まして意志においてこれらの要素と同列的な要素を考え得るか否かは疑問だ。主意主義を標榜するヴントは感覚と単一感情を以って我々の精神現象を構成する要素となし、意志はすべての精神現象の根本的形式と考えている。いわゆる意志行為を、情緒の窮する所、突然その表象と感情を変じる一種の精神的化合物psychische Gebildeとして論じている。そしてこれを知識の最高統一である注意作用の感情と比較して、注意作用も一種の内面的行為と考え、意志を以ってすべての意識現象の統一として、これに伴う感情を自我の意識と考えている。
 我々があることを意識するというのは何を意味するか。意志には多くの場合、動作が伴う。しかし動作は必ずしも意志の要部ではない。意志とは要するにある意識内容から他の意識内容へ注意を向けることに過ぎない。すなわち注意の方向を変じることだ。ティチェナーが注意の一般的性質としてredistribution of contents into the groups of clear and obscure(明確及び不明瞭なグループへの内容の再分配?)というのは、移して意志の性質を言い表すことができる。(意志を意識した時に感じる)努力の感というのはこれ(注意を他に変じること)に伴う一種の感情に過ぎない。勿論注意に能動的と受動的の二種あるように、意志にもヴントのいうように衝動的意志(無意識的な意志、受動的な意志)Triebhandlungと選択的意志(意識的な意志、能動的な意志)Wahlhandlungを区別することができるだろう。最も厳密な意味において意志と考えられるのは、能動的注意または選択的意志というようなものだ。意志とか注意とかを単にTatigkeitsgefuhl(活動的な感覚?)を伴う意識の強き状態として考えれば、受動的注意や衝動的意志も無論意志の中に入るべきだろうが、我々が特に意志として意識するのは、我々が能動的にすなわちある目的を意識して表象を結合する場合、多くの動機の競争の後その一に決する場合、すなわち決断の場合においてだ。純粋意志とはこのような自由の作用(動機を決定する作用)でなければならない。
 心理学上意志は右に述べたようなものであるとすれば、意志とは意識内容の一から他に移る作用であり、私のいわゆる認識のアプリオリとアプリオリの結合(作用と作用の結合)と考えることができるだろう。意識現象においては表象自体(意味)が動的だ。感覚とは識別力を持った表象自体だ。斯く表象自体を動的ならしめ、これ(動的な表象自体)を意識内容となすものは意志だ。識別力とは一種の意志だ。識別的関係というのは意志的関係の一種だ。注意がなければ意識がない。注意とは意識と同意義であるように、意志は広義において意識と同意義だ。主体(統一者)なき作用(統一作用)の形式はすなわち意志だ。意志はAktualitatsbegriff(実在概念)の極致だ。無論単にある一つの意識内容が注意された時、その意識の中に他への推移が含まれていると言い難いかもしれない。すなわち感覚の中に自由意志が含まれているとは言われないかもしれないが、意識は一つの流と言われるように、意識はいつでも動的でなければならない。他への関係を含んでいなければならない。その背後に一般者das Allgemeineがなければならない。意識は一般者の自ずからなる分化発展でなければならない。単なる感覚の場合においても、斯く(一般者の自ずからなる分化発展と)言うこともできる。Stumpfは“Tonpsychologie(音の心理学?)”の始りにおいて、Relativitatslehre(相対性理論?)に反対して、我々の意識はどこかに単一なる感覚を以って始まらねばならないと言っているが、我々の意識はむしろ最初から衝動的(動的)と考えるべきだろう。純なる感覚(単一なる感覚)というのは反省によって作られた抽象的概念だ。無論物理現象においても、ある一つの力は他との関係において成立すると考えることができる。引力の裏面には斥力がある。しかし物理現象においては、ニュートンの第一法則においてのように、一つの力が働くと考えることもできるのだ。物理現象において斯く考え得る所以は、物体の存在する空間は物体ではない、関係(空間)は物体の外にあると考え得るからだ。精神現象においてはこれに反し関係が実在的だ。意味が実在的でなければならない。極めて最初の意識といえども衝動的(動的)であるというのはこれが為だ。衝動的というのは意味が実在的であることを意味するのだ。我々は普通に衝動を盲目的と考えているが、衝動が衝動として感じられるのは、その中に(衝動の中に)意味、すなわち全体への関係を含むが故だ。画家の眼にはすべての色はeine Tendenz nach Weiss und Schwarz(白と黒の傾向)を含むというように、赤の感覚は自ら非赤への推移(意味、全体への関係)を含むのだ。純粋視覚においては感覚はそれ自身に創造的(動的)だ。ここに非赤が赤において含まれるというのは、勿論(非赤は)反省された(限定された)判断内容の意識のようなものを意味するのではない。現象学派のSchappが言うようにWahrnehmungsinhalt(知覚内容?)とUrteilsinhalt(判断内容?)は区別するべきだ。sehend meinen(見て思う?)とurteilend meinen(判断して思う?)は異なっている。一つの色の感覚の中に他への推移を含むというのは、純粋視覚の仮定としてでなければならない。純なる精神現象としての視覚(純粋視覚)は、その部分の中に全体(意味)を含むそれ自身の発展作用でなければならないのだ。シュトゥンプは“Tonpsychologie(音の心理学?)”の始りにおいてロッツェの“Man kann nicht sagen : rot werde alsdas, was es ist, als rot, erst dann vorgestellt, wenn es von blau oder suss, und nur dadurch, dass es von beiden unterschieden werde(赤は、青や灰色と区別されることによってのみ、またその両方と区別されるという事実のみによってのみ、赤が赤であるものとして提示されるとは言えない?)”という語を引いて sprachliche Benennungen “Rot, Blau”(言語表記“赤、青”)は(他との)関係を含むが、感覚自身は他との関係を含まない。赤は Hinweis auf Blaue(青への注意?)を含まない。Dissonanz(不協和音?)すら Hinweis auf die Consonanz(協和音への注意?)を含まないと言っているが、氏がこの場合Hinweis(注意?)というのは判断的意識内容(対象化された意識内容)を考えているのでもあろう。そうでなければ、固定した一つの感覚(単一な感覚)というようなものは、考えられた感覚ではないだろうか。単一なる色とか音とかいうのは概念的に考えられた感覚だ。判断的関係の項だ。ある色とか音とかが他への関係を含まないと考えられるのは、反省した上のことだ。ある一つの色を反省して赤と認識した時、その色の概念の中に非赤の概念の中に含まれるべき性質はない。しかし具体的感覚は一つの内的力として他への傾向を含んでいなければならない。real(現実)の中にideal(理想)を含んだものでなければならない。この理想は概念的理想ではない。視覚的理想だ。芸術的理念だ。この意味において感覚も思想と同じく、いつでも内面的に未完成だ。無限の進行だ。感覚を右のように考えることができるならば、感覚を広義において意志と考えることができる(意志は無限の進行であり、一つの意識内容から他へ推移するという意味において、感覚を意志と考えることができる)。心理学者は注意をredistribution of contents into the groups of clear and obscure(明確及び不明瞭なグループへの内容の再分配?)と考えるが、意志とは一つの意識内容から他への推移を意味するのだ。精神現象においての推移というのは、有機現象においてはその材料は他から得ると考えられるが、精神現象においては(数学における連続のように)部分は全体の中にあり、全体は部分の中にある。無関係な他への推移は意識の統一を破り、これと共に意識は消滅するのだ。選択的意志(意識的な意志)のような場合においても、何らかの意味において統一があると言わねばならない。マールブルク学派の考えのように、アプリオリ(作用)はそれ自身に生産的であって、意識が純なれば純なるほど動的であるとすれば、最も深き意味において意志というのは、意識の純なる状態、すなわちアプリオリの発展の状態を指すと考えることもできるだろう。私が意志を以ってアプリオリ(作用)の統一、アプリオリのアプリオリ(作用の作用)となすのはこれによるのだ。すべて経験内容は意志の影を宿すことによって(他への推移=アプリオリの発展の状態を伴うことによって)意識現象となることができる。この意味において主意主義の心理学者の言のように意志は意識の根本的形式だ。単なる一つのアプリオリの上に立つものは意味の世界だ。アプリオリが単一であればあるほど、知識が抽象的となる(対義語は具体的)。数理のアプリオリに対して論理のアプリオリはその一面であり、単一だ。それだけその知識は抽象的であり、一般的だ(対義語は特殊的、個体的)。これに反しこのようなアプリオリ(論理と数理のアプリオリ)の結合、すなわち作用の統一が意志となり、その対象界は具体的となり、個体的となる。ライプニッツがArnauldとの論争において、possibles(可能?)の中に神のdecrets libres(自由決定?)を含み、verites contingentes(偶然の真実?)は神の意志によって成立すると論じているが、ratio generalitatis(根拠の一般性?)のアプリオリを結合するものは意志だ。ヘーゲルのDialektik(弁証法)において、抽象的立場から具体的立場に進むのも意志の発展と言うことができる。
 右に述べたように私は、一方において意識が純なればなるほど動的となり意志となると言い、一方においてアプリオリが単一であればあるほど知識が抽象的となると言ったのは、多少の説明を要することと考える。近代に至るまで数学者は連続について明晰な概念を有しなかった。すなわち有理数と無理数の根底において思想の混淆があった。この概念(有理数と無理数の概念)が明らかにされると共に、算術と解析の知識は純化され客観化されたと言い得るが、一方から考えれば、すべて立場の混淆から来る我々の誤謬にもそれぞれ心理的理由がある。すなわち充足理由の原理があると考えることができる。ここに永久真理verites eternelles と事実の真理verites defaitsの区別がある。ライプニッツが考えたように神は無限の可能的世界mondes possiblesを考え、この世界はその一を択んで創造したのであって、一個体としてのアダムの概念の中に全世界との関係が含まれており、このような可能的世界の根底には神の意志がある。このように考えるならば、我々の実在界はいわゆる永久真理の結合と考えることができる。実在すなわちsubstance individuelle(個々の物質?)はライプニッツの言うように、神の意志decrets libres de Diesによって、無限なる永久真理の結合から成ると考えることができる。私はこの考えを深化し、一般化して、すべて無限な意志の結合はそれ自身に独立な実在であり、意志であると考えてみたいと思う。例えば連続数がその中に無限の部分を含み、無限の発展を許すと考えられた時、(連続数は)現実の中に理想(意味)を含み、対象の中に作用を含み、分離数に対しては(連続数は)その具体的根元として独立的実在(であり、意志である)と考えられる。あたかも自己の中に自己を写し無限の部分と発展を含む自我(という自覚的体系)が独立と考えられるのと一般だ。連続数の要素はその中に作用(感覚における、識別力を持った表象自体)を含むのだ。カントルの集合論は数学的考察を対象から作用に移すことによって、無限数を有限数と同一の体系の中に入れることができたと考えることができる。ハンケルが数学の基礎を“Princip der Permanenz der formalen Gesetze(形式的法則の永続性の原則?)”に置いた時、数学は既にこの方向に進んだのだ。右のような関係は単に分離数と連続数の間だけでなく、到る所にこれを考えることができる。例えば同等Gleichheitと同一Identitatとの間においても右のように考えることができる。同一は無限に近づくことができるが、達することのできない同等の極限だ。しかも「甲は甲に等し」という判断は同一によって成り立ち、【ヴィンデルバントの考えのように】自己に同一なるものが実在だ。これらのものと完全にその類を異にすると考えられる色とか音とかいうようなものについて見ても、一つの色と色の間に無限の色合いを許すとすれば、その極限は色の連続となる。そして色の連続は色覚作用でなければならない。色が真に連続するには内面的に連続しなければならない。内面的に連続するということは、一つの独立的作用となることだ。そしてこのような内面的連続、すなわち独立的作用においては、アプリオリ(この場合色覚作用)が動的であり、生産的であると言うことができる。すなわち理想(意味、全体への関係)が現実の中にあり、現実が理想の中にあるのだ。以上数および表象自体(この場合色自体)について論じた所はまたいわゆる実在界についても言うことができる。我々が客観的に存在する一つの世界というのは、表象自体や真理自体(意味)の無限な総和の極限だ。無限に異なる種々の表象自体や真理自体は、その総和の極限において、客観的実在として、単なる意味の体系から転じて、一つの客観的世界となる。しかし無限なる意味の結合にはまた無限の(結合の)仕方があると考えることができるから、ライプニッツの言うように、神は無限の可能的世界を考え、その極、意志の原理とも言うべき充足理由raison suffisanteによってこの現実界を創造したと考えることができる。
※ 引用 可能的世界とは https://kotobank.jp/word/可能世界-232776#goog_rewarded
可能的世界の無限な総和の極限がこの現実界だ。斯くして真の現実界というのは意志の世界だ。精神現象の世界だ。我々の単なる感覚の中にも無限の可能的世界への推移を含んでいると考えることができるのだ。これに反し単に神の思惟において考えられた可能的世界は、物体的世界だ。物体的世界は具体的経験の抽象的な一面に過ぎない。意識の世界は物体の世界の無限なる総和の極限だ。我々の自由意志は無限なる可能的世界の極限だ。以上述べたような訳であるから、一つのアプリオリの上に立つ経験内容において、その単なる内容が抽象的意味となり、その無限なる総和の極限において内面的連続となった時、すなわちアプリオリ(作用)がそれ自身の純なる状態に還った時、アプリオリが生産的となるということができる。しかし斯くアプリオリがその具体的根底に還るということはまた無限の進行において考え得るから、その極限点(内面的連続)からは単なる内容として、無限の抽象的世界(例えば色の世界、音の世界など)が考えられるのだ。
 右に述べたように、甲乙の二点間において、いかに小なる部分においても、その間に無限の点があると考えることができ、その一々の点が極限点と考えられる時、この二点(甲乙間)は互いに連続すると考えられる。すなわち二点間における点の系列は、有理数的ではなく極限点の系列となる。そして極限点は有理数とその次元を異にしたものだ。ここには立場の変更がなければならない。高次的立場への飛躍がなければならない。部分すなわち要素を実在視する原子論的立場から、全体すなわち関係を実在視する有機論的立場に移るのだ。連続においては全体が働くのだ。その一要素は他を排斥するではなく、その中に(一要素の中に)全体を作用として含み、内から無限に自己と同一である要素を生産する内面的力でなければならない。すなわち生きたもの(実在)でなければならない。有理数は「考えられたもの」で、連続数は「考える作用」そのものだ。勿論、厳密に言えば、有理数のアプリオリと無理数のアプリオリはその性質を異にするものであるから、アプリオリの性質を作用の性質と考えるならば、有理数を考える作用と無理数を考える作用は相異なったものと言わねばなるまい。私はこの二種のアプリオリの区別を思惟(有理数を考える作用)と意志(無理数を考える作用)の区別と考えてみようと思う。分離的discreteなるものを意識する作用は単なる思惟だ。class-concept(集合概念?)を構成する論理的思惟の作用だ。このような分離的要素が無限と考えられた時、我々は既にそのアプリオリの性質、作用の性質を(思惟から意志に)変じるのだ。カントルの集合論において明らかにされた有理数と無限数の性質の区別は、これから出づると考えることができる。有限数の系列が超限的transfinitとなることにおいて、既に一種の自由性と独立性を帯びてくるのだ。しかし単なる超限数は未だ独立の実在性を有するものと考えることはできない。独立の実在性は連続数において初めてこれ(実在性)を得るのだ。私はこの推移において、思惟から意志への推移があると言うのだ。すべてある二つの性質が無限の系列において相近づく時、それ自身の主観(例えば、赤と青であれば色覚作用)に近づくと考えることができる。それ自身のアプリオリ、それ自身の作用に近づくと考えることができる。我々が物の性質を比較して類似とか同等とかいうには、その根底に一般概念がなければならない。一般概念とは一般的性質だ。判断の根底となる一般概念、すなわち一般的性質は、それ自身に同一であるものでなければならない。それ自身に普遍的であるものでなければならない。斯く己自身に同一な一般者(判断の根底となるもの)は判断の基礎となるが、判断の内容となることのできないアプリオリだ。作用そのものだ。判断の内容としては達することのできない無限の方向だ。例えば純なる色というようなものは達することのできない無限の方向だろうが、我々はこれ(純なる色という一般者、作用)によって色を区別し、判別し得るのだ。このような極限点はいつでも当為Sollenと考えられ、このような当為がそれ自身の中に無限の変化を含むと考えられた時、それが作用と考えられるのだ。赤の表象自体がその中に無限の推移を含む時、それが赤の感覚作用となる。有理数のアプリオリはjudgement of similarity(同等の判断?)のアプリオリに当たり、無限数のアプリオリはjudgment of identity(同一の判断?)のアプリオリに当たる。色の反省的判断のアプリオリは有理数のそれに当たり、色覚のアプリオリは無理数のそれに当たる。ヴィンデルバントが「同等」を反省的範疇となし「同一」を構成的範疇となしたように、「類似」とか「同等」とかと「同一」はその性質を異にすると考えられるが、また一方から考えれば「同一」は「類似」や「同等」の極限であると考えることができる。無限なる進行の過程は思惟であり、作用そのものは意志だ。可能的なるものがその極限において実在的となる。ここにSubstanzbegriff(物質概念)からAktualitatsbegriff(実在概念)への転化があり、物体界から精神界への推移があるのだ。
 有理数的系列の無限進行の極限として無理数は、コーエンのいわゆる生産点der erzeugende Punktとして現れる。これにおいて全体が一つの作用となる。色もその推移の無限に小なる極限において色覚作用となる。しかしこれらはそれぞれのアプリオリ(作用)の上に立つ一種の無限だ。これらの無限の無限(作用を統一する作用)は我々がこれを考えることができる。真実在は実に無限の無限だ。このような無限の無限の立場から一つのアプリオリの上に立つ一種の無限を見た時、それは一種の客観的力として考えられる。このような力の無限なる結合の極限が、ライプニッツのいわゆる可能的世界mondes possiblesだ。我々の考える物体界はこのような可能的世界の一つだ。物体界を一つの可能的世界というのは異論があるかもしれないが、物体界は今日の認識論者の言うように具体的経験の抽象的な一面に過ぎない。それだけでなく、ライプニッツの言ったように偶然的真理の世界(物体界)の中に神の自由決定がある。建築家が同一の木材を用いて種々の設計を為し得るように、無現に偶然的真理の世界(物体界)が考えられるのだ。このような可能的世界、すなわち考えられた世界の無限なる結合の極限がこの現実界だ。そしてこのような現実界が我々の意識界だ。いわゆる客観界とは一つの主観(作用)または有限なる主観(作用)の結合の上に立つのだが、意識界は無限なる主観(作用)の統一、主観の主観(作用を統一する作用)、すなわち絶対自由の意志の上に立つのだ。ここには意志の原理すなわち充足理由の原理が支配するのだ。創造的総合schopferische Syntheseの因果律はこの原理(充足理由の原理)によって成立するのだ。心理的因果律の根底には人格的或者がなければならない。この現実界の唯一性は人格の唯一性に基づくのだ。我々の意識はそのいずれの点においても種々なるアプリオリの結合点だ。種々なる世界の結合点だ。単なる感覚といえども、その具体的状態においては、無限に可能なる世界を含んでいる。無論心理学者の考えるように自然科学的に反省され、対象化されたいわゆる感覚は、物質の原子のように単一なものと考えねばなるまい。しかし全人格の一作用としての感覚は、全体をその中に含んでいなければならない。その中に含むというのは単に他と関係において立つということではなく、コーエンの生産点においてのように一点の中に曲線の全体を含むのだ。すなわち内に生産力を有するのだ。意識現象はAktualitatsbegriff(実在概念)によって成り立つというのはこれ故だ。ライプニッツがモナドは全世界をexpressする(表現する?)というのもこの意味でなければならない。なぜなら精神的実在にして初めて斯くし得るからだ。最初に注意作用とは redistribution of contents into the groups pf clear and obscure(明確及び不明瞭なグループへの内容の再分配?)であると言ったが、このようredistribution(再分配、注意の変換)が可能であるには、一々の意識の根底に全体が含まれていなければならない。名珠葉を照らして碧く、花を照らして紅なるも、玉そのものは碧にあらず紅にあらざるように、意識の根底には他への無限の推移を含んでいなければならない。意識内容のredistribution、すなわち注意の変換は、これによって可能なのだ。生理的心理学から言えば意識はその瞬間に限られ、これを結合するものは脳細胞にすぎないと考えるから、注意の変換も完全に生理的原因に帰するだろうが、いかにして物質から精神が出るかは説明はできない。たとえ、意識生滅の因果的説明としてこの考えを許すとするも、我々の意識はかかる説明の如何に関せず、直接の内面的統一によって成立するのだ。生理的因果はいかに変じるもこの内面的自証は変じることはできない。ましていわゆる物体界というものは深き意味における意識統一を許さねばならないとすれば、物質を精神の原因と考えるのは本末顛倒だ(意識統一の上に物体が成り立つ)。内省的心理学の途を進めば、意識の根底である全体は各人の人格でなければならない。意志の内容は各人の性格だ。しかし何らかの意味において限定された性格が考えられる時、意志の絶対無限性は失われなければならない。アプリオリの結合の極限として絶対無限の意志は我々の反省することのできない、したがって無内容とも思われる自由意志でなければならない。我々の意識の根底には、何時でもこのような絶対無限の意志を蔵している。我々の意識はこれによって成立するのだ。
 以上述べたような訳であるから、意志の本質は心理学者の考えるように、自然界の一部分である有機体に属する経験的自我の作用にあるのではない。このような意志は反省された意志だ。対象化された意志だ。真の意志の射影に過ぎない。真の意志とは反省することのできない最終の主観への方面だ。我々は自然の世界の外に歴史の世界を持つ。意志は歴史の世界における実在だ。心理学において論じられるTriebhandlung(衝動的意志), Willkurhandlung(選択的意志)などの区別は、意志が自己自身の本質に還る階段に過ぎない。その根底に何らかの経験的内容を認める間は、意志は心理学に属するが、絶対自由の意志としては倫理哲学の対象となる。生理的心理学は意志の内容として生理的素質を認め、内省的心理学はその(意志の)内容として人格的或者を認めるのだ。ディルタイのいわゆる類型的dis Typischeとはこの種に属するものだ。これに反し倫理哲学はすべて特殊的(限定的)内容を離れて純粋意志を対象とするのだ。そしてその内容は世界史の対象とならねばならない。この意味において価値(意味)が歴史学の基礎となると考えられるのだ。
 以上論じた所だけでは、私はなお意志と感情の区別を明らかにしていない。この区別はなお詳論する必要があると思うが、私は大体において、多くの心理学者が情意Gemutsbewegungの語を以って表すように、両者(意志と感情)を同一方向の精神現象であると考える。私のいわゆるアプリオリのアプリオリ(作用の作用)というのが情意の方向であって、意志はこの方向の極限だ。否、(意志は)アプリオリ(作用)自身であると考えることができる。感情は意志の立場における意識内容だ。人格の内容は感情の語を以って言い表されるのだ。心理学において意志と感情を分かつにその動作を伴うと否とによるように、意志は何らの意味においても反省することのできない意識の最高統一として、純なる行為でなければならない。行為とは主客の合一だ。真の主客の合一は単なる直覚ではなく、純粋行為だ。この極限点(純粋行為)に近づけば近づくほど、われわれはこれ(純粋行為)を意志と考えるのだ。これに反しこの立場(意志の立場)から見て反省の状態、すなわち主観的状態においての意識内容が感情だ。この状態をPhantasietatigkeit(想像力)と名付け得るならば、感情はかつて言ったように想像作用の内容であると言うことができる。そしてこの作用(想像作用)の対象界は可能的世界だ。我々のいわゆる自然界もその一つだ。これ故に我々は自然界に対して美的感情を持つ。この感情が極限に近づくにしたがって変じて倫理的となるのだ(対象界が自然界から意志の対象界に近づくにしたがって、美的感情が倫理的となるのだ)。

経験内容の種々なる連続



 ある飽和度の赤と、これと飽和度において若干の距離を有する同性質の赤との間に、飽和度において無限に異なる赤の系列を入れて考えてみる。このような系列において一つの要素から他の要素への推移が極めて漸次的である時、すなわち任意の一要素と次の要素の差異が無限に小なる時、その極限においてこの系列は一つの連続となると考えられるのだ。数学的に言えば、この系列の何の部分においても無限に分かつことができるのみならず、すなわちuberalldicht(どこも狭い?)であるのみならず、すべての要素がこの推移の系列の極限点となることができ、かつこの推移のすべての系列の極限点が漏れなくこの中に含まれるとき、すなわち自己稠密insichdichtであってかつ閉合的abgeschlossenである時、この系列は完全なる一つの連続となるのだ。すなわちCantorのいわゆるOrdnungstypusθ(順序型θ?)となるのだ。斯く有理数に比すべき分離数的要素の系列から、実数の系列に比すべき連続的系列に達するには、そこに一種の飛躍があると考えねばならない。すなわち立場の変更がなければならない。極限点とは我々が分割によって達することのできない点だ。連続を理解するにはデデキントの切断Schnittの考えのように全体から出立しなければならないのだ。
 ライプニッツが“hacune de ces substances contient dans sa nature legem continuationis seriei suarum operationum(これらの物質のいずれもが、その性質上、その作用の連続を有する?)”と言ったように、実在は連続的なものでなければならない。それ自身の中に連続を有しない分離的要素の集合は実在とは言われない。ある赤から他の赤までの間に考えられた赤の系列が、極限点の集合として一連続体と考えられた時、全体はもはや物体的統一ではなく精神的統一となる。すなわちそれ自身において独立である一つの作用となるのだ。心理学者は精神現象の要素として分離的なる感覚を考えるかもしれないが、分離的と考えられる感覚は考えられた感覚であって、生きた感覚そのものではない。単に区別された赤とか青とかいうものはこれを精神現象的として考えることもできれば、物体現象的として考えることもできる。これらの性質が何らの外的統一の仮定をかりず、それ自身において直ちに結合すると考えられた時、我々はこれを精神現象と考えるのだ。精神現象とはこれらの性質の内面的変化だ。働く者(統一者、我)なき働き(作用)だ。精神現象の内面性、直接性はここにあるのだ。勿論連続的なものが直ちに精神作用と考えることはできないかもしれない。例えば物力といえども、独立である一つの作用として考えられるには、それ自身において連続的なものと考えられねばならない。精神作用とはそれ自身において連続的であるのみならず、自発自転的なものでなければならない。すなわち己自身の中に変化の法則を含むものでなければならない。ライプニッツの語を藉りて言えば、lex continuationis seriei suarum operationum et tout ce qui luy est arrive et arrivera(彼に起こったこと、これから起こるであろうこと、すべて?)を含むものでなければならない。己自身の中に変化を含むということは、己自身の中に目的を含むということでなければならない。すなわち目的が自己の中に働いているということでなければならない。あるいは、目的を己自身の中に含み目的が自己の中に働くというのは、単に精神現象のみでない。生物現象においても爾く言い得るかもしれないが、精神現象においては目的自身が意識されているのだ。斯くして(目的が意識されていて)初めて真に目的が内面的であり、目的自身が働くと言うことができるのだ。物体は外から働くものがなければ、どこまでも自己の状態を維持するに過ぎない。したがって物力の結合は単に偶然的と考えられる。だが生物現象においては種々の力の結合が目的によると考えられる。すなわち一つの目的が働いていると考えられる。しかし未だ物体現象の範囲を脱しない生物現象においては、その目的が現象そのものの成立にどこまでも必要と考えられない。生命の機械論的説明が企てられるのはこれによるのだ。カントの「第三批評」の語を以って言えば、自然の合目的性は単に規制的原理regulative Grundsatzeであって構成的原理constitutive Grundsatzeではない。ただ精神現象においては目的は現象そのものの成立条件となるのだ。すなわち構成的原理となるのだ。目的の内在的に動かない(目的が意識されていない)、すなわち統一が実在的でない精神現象はない。実験心理学者といえども斯く考えるのだ。
 私はこれにおいて連続ということについて深く考えて見なければならない。連続の成立するには繋がれるものと繋ぐものがなければならない。すなわち連続の要素と連続の形式というものがなければならない。後者(連続の形式)を連続のアプリオリと呼ぶこともできるだろう。カントルは集合Mengeに順序付けられたものgeordnet【いわゆるOrdinalzahl(順序数)】とそうでないものを区別しているが、順序付けられた集合geordnete Mengeには順序型Ordnungstypusがなければならない。順序Ordnungはこれによって成立するのだ。有限数においては基数Kardinalzahlと順序数Ordinalzahlは同様に見てよいのだが、無限数においては両者は異なったものとなってくる。
引用 順序数とは 

元来基数と順序数は根本的に異なった概念だろうが、無限数に至って順序型が独立性を顕し来るのだ。順序型が特別な取り扱いを要することによって、すなわちその独立性を現じ来ることによって、集合の理想的要素が実在的となると考えることができる。順序数の算方Operationenは理想的要素の関係を示すものだ。我々が有限数から超限数(無限)の考えに進む時、既にいわゆる実在的なものから理想的なものに移ると考えることができる。すなわち一層高次的な実在に至ると考えることができる。有限数の系列は限定された個物の体系に相当し、いかに無限の系列に進むとも結局は有限の範囲を超越することはできない。時空の上に限定された個物がいかに増加するも時空の形式を脱することができないのと一般だ。我々は超限数Limeszahlにおいて、時空によって限定されたいわゆる経験的事実の世界を超越して、思惟の対象界に入らねばならない。超限数とはもはや知覚の対象ではなく、ただ思惟すべきものだ。知覚すべきものはどこまでも有限に過ぎない。我々の自己意識について言えば、反省された自己は有限数的自己であって、真の自己(絶対自由の意志)は反省によって達することのできない、かえって反省作用そのものともいうべき超限数的なものと考えることができる。有限数においては個々の要素が実在的と考えられるが、超限数に至っては個々の要素よりもその順序型が実在的となる。繋がれたものよりも繋ぐものが独立的となってくる。すなわち作用そのものが独立的となるのだ。集合の何れの点も極限点と考えることができるということ、すなわち自己稠密とは右のような理想的要素(極限点)の連結と考えねばならない。すなわちその要素の一々が作用であると考えねばならない。連続とは高次的な実在の要素(極限点)の体系だ。連続においてはデデキントの切断の考えにおいて明らかにされたように全体から出立しなければならない。ライプニッツのいわゆるimo extensione prius((空間の)延長に先立って?)だ。一々の要素は独立の要素ではなく、切断として全体の意味を含んでいるのだ。順序型の意味を含んでいるのだ。すなわち一々が全体の象徴となるのだ。そして真に斯く全体(順序型)が部分の中にあり、理想が直ちに現実となると言うには、全体が内から自己実現的に働くと考えねばならない。このようなものにして、はじめて一々の要素が全体の意味を含むものと考えることができるのだ。一つの系列において、その要素を統一する順序型、すなわち形式が物体現象における空間的関係のように単に外的である時、それは要素に対して何らの働きも為すことはできない。すなわち全体(順序型)が働くということはできない。これ故に内面的関係として物力というようなものが考えられるのだ。カントルが連続すなわちOrdnungstypusθ(順序型θ?)においては単に自己稠密であるのみならず、集合におけるすべての根本的系列Fundamentalreiheの極限点が含まれていなければならない。すなわち全体が完全集合perfekte Mengeでなければならないと言うのは、順序型そのものが他の力をかりず、それ自身にて独立的に働くということでなければならない。集合の系列の極限点が尽く集合の中に含まれていないということは、その集合の統一が十分ではないということを意味している。自己の作用が他によって破られているということを意味している。完全なる連続においては、全体が一つの独立である、それ自身において十分なる無限の作用でなければならない。それ自身において完全な一つの作用の内面的発展でなければならない。一つの系列が極限点をそれ自身の中に持つということは、一つの体系がそれ自身の中に目的を持つということを意味している。自動的ということを意味している。この意味において物力は厳密な意味において閉合的ではない。閉合的なものは有機的なものでなければならない。しかし真に閉合的と言うべきものは、意識統一による精神作用の外にないと言い得るだろう。他(物力など)によって理解されるものはそれ自身において独立なものとは言われない。それ自身の中に目的を有するものとは言われない。我々の経験内容が物理的見方においてのように、経験そのものの内面的性質によらず、その背後に不可知的xを考えることによって統一された時、その体系はそれ自身の中に目的を持つとは言われない。すなわちその経験の系列は、己自身の中に極限点を持つとは言われない。例えば種々なる光の経験がそれ自身において理解されず、その背後にエーテルというような物理的連続が考えられた時、光の経験はそれ自身において何らの実在性を有しない。単に実在の符号となる。その背後に考えられた物理的実在も、またそれ自身において内面的に理解されず、相互の結合が外面的であり、偶然的であり、他の手段として考え得る時、それ自身の中に目的を有するものとは言われない。物理的連続は他によって与えられた連続、限定された連続であって、それ自身によって立つ、それ自身によって存在する連続ではない。普通に合目的と考えられる有機的現象においても、要するになおその目的は他によって考えられたもの、仮定されたものであるから、機械論者の考え方のように生命を機械的にも説明し得るのだ。ただ、一から他に内面的必然を以って移り行くものにおいてのみ、真に目的を己自身の中に有するということができる。すなわち精神作用においてのみ、真に目的を己自身の中に有すると言うことができるのだ。精神作用のみ、真に閉じられた完全集合だ。
 以上述べた所によって、翻って私の最初の問題を考えてみよう。ある飽和度の赤と、これと飽和度において若干の距離を有する同性質の赤との間に無限の系列を考えてみる。この系列が厳密な意味において連続的と考えられた時、我々は一層高次的な実在に到達するのだ。分離的な感覚の系列というようなものから、視覚作用というような一つの独立した働きとなるのだ。我々は一つの集合Mengeを、濃度Machtigkeitを有する単なる集合として考えることもできれば、その要素が一種の順序を有するものとして、これを順序付けられた集合geordnete Mengeと考えることもできる。すなわちこれを基数として見ることもできれば、これを順序数として見ることもできる。何らの順序なき基数の世界は表象自体の世界だ(例えば色自体、音自体など)。単なる意味の世界だ。このような表象自体(意味)を一つの順序によって統一した時、順序数の世界となる。順序数となっても濃度を失うのではない。依然基数(意味)の性質も具えている。ただこれに順序型の統一が入ってくるのだ。斯くして成立する順序数の世界は、既に統一された一つの体系として一種の独立性を有し、一種の実在性を帯びてくる。しかしこの世界においてはなお要素が実在性を持っている。その順序型は単に要素間の理想的関係に過ぎない。(順序型は)要素そのものに対して外的だ。あたかも我々の物体的世界において個々の原子が実在性を有するのと一般だ。有限数においては基数と順序数を同様に取り扱い得ると言うのはこれによるのだ。これに反し濃度が無限である時、すなわち超限数の場合は、順序型が基数(意味)と離れてそれ自身の実在性を持って来る。超限数においては順序数は特別の取り扱いを受けねばならない。これにおいて理想的なもの(順序型)が実在的となる。関係が実在となるのだ。例えば赤の感覚的経験がその飽和度に従って配列された時、赤の飽和度ということがこの集合の順序型と考えるべきだろう。この系列が無限と考えられた時、赤という順序型が実在性を持って来る。無限なる進行が可能であるということは、型そのものTypusが力を有することだ。最終の要素がなくいつまでも次の要素に移り行かねばならないというのは、要素はその背後に横たわる或物(順序型)の表現であって、背後の或物が実在であり、要素はその限定に過ぎないということだ。これにおいて赤という型は一つの力となり、一つの作用となる。無論この力はまだ物体的とも精神的ともいうことはできない。とにかく、赤という現象が無限に現れ得ると言うまでだ。このような力を表すものがカントルの超限数とか極限数とかいうものだ。集合の要素すなわち概念の※外延を作用の内容あるいは客観的対象と考え、集合の型すなわち概念の内包を作用そのものあるいは主観の性質と考えてみると、前者(概念の外延)がその極限において矛盾に陥った時(最終の要素に辿り着かない時)、後者(概念の内包)が更に高次的な作用の内容として。すなわち一層高次的な客観的対象として現れ来るのだ。
※ 引用 外延と内包とは 

時間、空間の考えが二律背反Antinomieに陥るのは、間接にこれらのものが構成的形式であることを示すのだ。連続というのは右のような極限数の系列だ。力の系列だ。カントルの完全集合という連続は、すべての点において能動的作用でなければならない。我々はこれにおいて単なる作用すなわち考えられた(思惟によって対象化された)作用というようなものから、力の概念に到達することができる。静力学Statikの力の概念から動力学Dynamikの力の概念に到ることができる。赤の経験の系列が何の部分においても無限に分かつことができ、その何の点も極限点となることができるならば、この赤の経験は連想心理学者の言う如き感覚の系列というようなものではなく、独立する一つの力となる。しかしこの系列が真に閉合的として完全なる連続となるには、厳密な意味において内面的統一を持たねばならない。すなわち一つの内面的連続でなければならない。そしてそれ自身の中に目的を有し、それ自身によって成立するもの、すなわち精神的作用にしてはじめてこのような(内面的)連続と言うことができるのだ。順序数を組織する順序型をこの体系のアプリオリ(作用)と考えるならば、型そのものの連続とも考えるべき精神作用は、アプリオリのアプリオリの上に立つアプリオリの結合(作用の統一作用)と考えることができるだろう。この意味において精神現象のいかに受動的なものでも、物体現象とその次位を異にしている。勿論物理学者は、カントルの連続は解析の基礎として物力を表すと考えるだろう。ニュートンのFluxion(流動?)は連続的力の数学として起こったのだ。しかし物力というのは与えられた経験の説明として考えられた仮定だ。それ自身の中に目的を持っていない。己自身によって己自身を説明しない。他の為の説明だ。力学という一体系において、すなわち純粋物理学の世界においては、物力はそれ自身の中に必然性を有し、それ自身の中に目的を有し、それ自身によって立つ一つの連続だろうが、知覚的経験の事実の説明としては単なる仮定に過ぎない。力が量的に分かつことができるということ自身が、既にその内面的統一のないということ(精神作用ではないということ)を意味している。生きたもの、心あるものは分かつことはできない。ライプニッツが延長について言ったことは物力についても言うことができる。直接な知覚的経験はそれ自身において連続的なものだが、我々はこれを思惟体系の中に入れようとする時、ポアンカレの言うようにA=B,B=C,A<Cという形において非連続となる。これを匡正(正しい状態にすること)するため物理学的力とかいうものが考えられるのだ。しかし知覚的経験がそのアプリオリを異にする思惟の体系に入ってその独立性を失うと共に、いわゆる物理的世界も他の為の説明として、他(物力など)によって実在性を有するが故に、それ自身において完全なるものではない。
【一つの集合Mengeがその極限点、すなわちそのAbleitung(誘導?)を含む時、この集合は閉合的abgeschilossenと言われる。斯く一つの集合がその極限点を含む時、この集合は既に独立の作用と考えることができる。集合のすべての点が極限点となる時、これを自己稠密ins sich dichtという。自己稠密なるものはすべての点において生きたものだ。作用の集合だ。しかし単に自己稠密であっても、なおすべての極限点を含まない時、すなわち集合とAbleitung(誘導?)と一致しない時、未だ完全集合perfekte Mengeということはできない。完全集合にして初めて独立の意識作用ということができる】



 私は前節において、飽和度において異なるある一種の色の系列が一つの連続体となった時、それは一つの精神作用と考えられねばならないと論じた。今これらの作用の結合について考えてみよう。色覚の性質は三次元的と考えられる。すなわち色覚は色彩の調子Farbentonの外に飽和度Sattigungsgradと光度Helligkeitを持っていると考えられる。一つの色は三次元的連続において考えられねばならない。飽和度の系列において連続的と考えられた二つの色は、色彩の調子の推移においても連続的と考えられねばならない。このような二様の連続はいかなる関係を持つだろうか。色が色彩円(※色相環)Farbenkreisの方向において一つの連続と考えられる時、このような連続の順序型Ordnungstypusとなるものは何物であるだろうか。
※ 引用 色相環とは

飽和度の連続において一種の色の性質(例えば赤)がその型Typusと考えられるのに対し、色調の連続においては色の一般的性質、すなわち色自体というようなものをその順序型と考えることができる。そして一々の色調が飽和度の方向において、あるいは光度の方向において、無限の連続を形成し得ると考えることができるから、色調の連続は順序型の連続と考えることができ、色自体は型の型(アプリオリのアプリオリ、作用の作用)と言うことができるだろう(例えば赤という型に対して、色自体は型の型である)。勿論そのいずれを一般的としいずれを特殊的とするか、いずれを主としいずれを従とするかは、立場によるのだが、とにかく我々の感覚界とは順序型の結合の世界だ。いわゆる性質的なものの相互に関係する世界だ。すなわち表象自体(意味)が実在となるAktualitat(実在)の世界だ。前に飽和度において無限に異なるある一種の色の系列がその極限において一つの連続となった時、一つの精神作用となると言ったが、これと同様に色彩円において、色調の連続も順序型の結合としていわゆる色覚作用と名付けられる一つの精神作用となるのだ。ただ前者(飽和度)の場合ではそのTypus(型、例えば赤の型)がahnlich(同様?)であったが、後者(色調)の場合においてはTypus(型、この場合色調一般)がunahnlich(似ていない?)と考えられるのだ。あるいは異なる型の連続ということは考え得るものではないと言うでもあろう。しかし種々なる色調は色覚として他の感覚と区別されるだけの共通性を有し、この統一性において一つの連続と考えることができる。色調一般とも言うべき型において一つの順序を考え得るのだ。厳密に考えればいわゆる飽和度というようなものも決して純なる量的区別ではない。やはり一種の質的区別だ。私は飽和度の場合において連続と言ったのと同様の理由によって、色彩円の場合(色調)においても連続と言うことができると思う。
 勿論我々の感覚的意識が無限の連続であるというような考えに対しては、種々の理由から反対が起こるだろう。心理学者は感覚の性質は互いにdisparat(異なる?)であり、かつ種類においても有限であると考えている。しかしこのような考えは意識内容について考えているので、意識作用について考えているのではない。感覚的経験が完全に受動的であって、それ自身に何らの創造性を有しないと考えない以上は、斯く言うことはできない。あるいは作用として考えても、時間、空間の上において、また能力の上において有限にして非連続的であると言うこともできるだろう。我々の感覚は時間、空間の上において有限であるのみならず、ヴェーバーの法則によって明らかであるようにleast perceptible difference(知覚し得る最小の差?)以下を意識することはできない。しかも我々はその間に無限なる意識的区別の可能を考え得るのだ。しかしこのような反対も我々の感覚界とか知覚界とかいうものを、これと異なったアプリオリの上に立つ思惟対象界から見て起こる考えだろう。作用としての意識はたとえ、感覚のようなものであっても、時間、空間によって限定することはできない。意識成立の根底には超時空的或物(作用の意識)がある。least perceptible difference(知覚し得る最小の差?)というのはある一つの意識から他の意識に移り行くに当たり、若干の距離において前の意識との差異を意識するのに必要な刺激量の最小限度を指すに過ぎない。ヴントはヴェーバーの法則(生理学、心理学で同種類の二つの刺激を区別しうる最小差異はその時の刺激強度に比例するという法則)は統覚作用の量を示すものとすら考えている。ポアンカレのA=B,B=C,A<Cというような矛盾は知覚界と思惟界の交渉から起こるのだ。突然光が強くなったとか、色が変じたとかいうような場合でも、それは内容のは変化であって、作用そのものの連続が失われたのではない。contrast(コントラスト)の場合においてのように、かえって一種の(連続的)統一を明らかにするのだ。物体現象においてのように統一が内在的でないものにあっては、内容の変化は直ちに力の不連続と考えられるでもあろうが、対立を成立させる統一そのものが内在的である精神現象においては、内容の対立(コントラスト)は作用の不統一を意味するのではない。識別はかえって作用の連続を示すものだ。作用そのものから離されて見た、単に対象化された線は厳密な意味において連続ということができないだろう。ただ一々の点がコーエンのいわゆる生産点der erzeugende Punktと見なされることによって一つの連続線が意識されるのだ。これと同じく色でも光でも、その一々がそれ自身の内に種々の傾向を蔵する具体作用として意識された時、すなわち我々が純粋知覚のアプリオリの上に立つ時、知覚的経験は【その種類において無限】in suo genere infinitumとして、それ自身の中に統一を有する連続となる。Conrad Fiedlerは次のように言っている。Solange wir uns sehend verhalten, kann uns die Welt nur endlich, niemals unendlich erscheinen. Und dennoch giebt es eine Unendlichkeit, die nichts mit dem Gebiet des Denkens zu tun hat, die sich lediglich als eine Unendlichkeit der sichtbaren Welt offenbart. Vor dieser Unendlichkeit steht nur der Kunstler und wer ihm zu folgen vermag. Sie eroffnet sich nur da, wo in der Wahrnehmung des Auges jenes Streben seinen Ursprung nimmt, die empfangenen Vorstellungen zu immer hoherer Klarheit und Bestimmtheit emporzubilden.(私たちが視覚的に行動する限り、世界は私たちにとって有限なものにしか見えず、決して無限には見えない。しかし、思考の領域とは何の関係もない無限が存在し、それは単に目に見える世界の無限として姿を現すだけである。この無限性の前に立つのは、芸術家と彼に従うことのできる者だけである。この無限性は、眼の知覚の中で、受け取った考えをより明確に、より明確なものに発展させようとする努力の原点となるところでのみ開かれる?)。それ自身の上に立つ独創的なもののみ真に無限だ。ライプニッツはNouveaux Essais. Chap.XVIIにおいて無限を論じてMis a l'egard des qualites originales ou connaissables distinctement, on voit qu'il y a quelquefois moyen d'aller a l'innfini(独自な、あるいは明確に知ることのできる性質に関しては、無限に到達する方法があることがわかる?)と言っている。氏に従えば真の無限はすべての結合に先だつものであって、部分の結合によって作られないものだ。思惟による色の判断は、要するにこのような直覚的意識(真の無限、結合に先だつもの)が基となるのだ。以上述べたところと正反対の見方にて、我々の意識現象は完全に性質的であって、その一々が分かつことのできない単一であるという理由から、意識の無限連続というに反対する人もあるだろうが、かかる考えも意識を反省してみた抽象的見方から起こる物に過ぎない。具体的意識はそれ自身において動的な無限の進行だ。
 以上述べたような種々の反対はなお十分に論じるべき必要があるだろうが、これらの議論に入り込むのは今私の目的ではない。私はむしろ直截に私の考えを述べてみたいと思う。Ludwig Coellen, Die neue Malerei, zweite Auflage(ルートヴィヒ・コーレン『新しい絵画』第2版?)によれば、近代の印象派は、従来の芸術が現在の知覚と過去の記憶の結合によって形成された固定された物を画くのに反して、瞬間の印象を現そうと務めた。これは従来の主観主義に対する反抗であって、新たなobjectivistisches Lebensgefuhl(人生に対する客観的な態度?)の結果だ。Courbet, Monet, Liebermannに至るまで、新たなるTechnik(技術?)によってこの客観主義を遂行しようとしたのだ。そしてこの新芸術はdas die Bildeinheit schaffende Medium(画像単位を作成する媒体?)として光を用いた。すべての物は光の中に溶かされ、物はただ特殊の性質のLichtmasse(軽い質料?)としてのみ存在を有している。この世界には記憶や思惟の入り込む余地はない。van Gogh(ファン・ゴッホ)に至ってこのようなobjectivistisch-pantheistische Anschauungsweise(目的論的・汎神論的アプローチ?)を一層徹底して印象派の人々の表した自然のOberflachenzusammenhang(表面のコンテキスト?)を更にlebendiger Kraftezusammenhang(力の生きた繋がり?)にまで深めた。ゴッホにおいては空間は一つのdynamischer Organismus(動的有機体?)となり、普通の個物はこの中にその存在を失ってしまった。万物はKraftesymbolik(力の象徴?)となっているのだ。もし現代の新絵画が右のような意義を有するものとするならば、現代の新芸術は思惟の混淆を離れて、純粋知覚の世界を対象とすると言うことができるだろう。そこにフィードレルの言うような思惟の無限と異なった無数の世界の展望が開かれる。我々は思惟の作用そのものに純一になることに従って、無限数の世界を理解するように、フィードレルのいわゆるvorstellendes Bewusstsein(想像的意識?)の連続である芸術家の造形作用Gestaltungstatigkeitに純一になることによって、芸術的無限の世界が開かれるのだ。我々の知覚を有限にして非連続的と見るのは、思惟の立場に立って知覚の世界を見るによる(知覚を思惟によって対象化することによる)のだ。己自身の順序の上に立たないもの(対象化されたもの)は有限だ。死物だ。
 しかし私はこれにおいて、右に言ったような芸術家の対象界と、マイノングの対象論において論じるような単なる対象間の関係というようなものを区別しなければならない。等しく自然科学的存在の立場を離れ、経験内容に基づく対象界ではあるが、マイノングが幾何学的関係に比する色そのものの関係と、芸術家が無限の連続として見る純粋視覚の対象界は同一物ではない。そこにはあたかも数学的真理と物理学的真理の間におけるような区別がなければならない。後者(純粋視覚の対象界、物理学的真理)はある意味における前者(色そのものの関係、数学的真理)の結合だ。絵画や音楽は色や音の非人格的な一般的関係を現すものでなくて、これらの結合によってある意味を現すものだ。ならばこの意味とはどのようなものだろうか。言うまでもなく、それは概念的な意味ではない。芸術の目的を自然の模倣と考えたり、教化の手段と考えなどするのは、皆誤った考えに基づくのだ。新芸術の意義は前にツェルレンの語を引いたように、厳密に概念的主観の混淆を去って、純なる客観の中に没頭することだ。万有神教的(汎神論的)となることだ。しかし芸術において客観に純一となると言うのは、いわゆる自然的客観に純一となるというのではない。近代の芸術が自然派から印象派に、印象派から後期印象派に転じなければならなかったのは、これによるのだ。浪漫的芸術においては物の外殻を破って、その根底における無限の直観に到達するのだ。自然のpntheistisch gefasste Einheit(有神論的に考えられた統一?)から客観的宇宙精神の統一に達するのだ。ツェルレンによれば、このような傾向の先駆をなしたものはF.Hodlerであるという。印象派は物を単にLichteinheit des Bildraumes(画像空間の光の単位?)としたが、ホッドレルは物をbewusste Einheit(意識統一?)として見た。物の精神的意義を見た。物を象徴として見た。しかし既にファン・ゴッホにおいて見られるように、印象主義そのものを徹底してロマン主義に到達したものは、GauguinとMatisseである。二人共にゴッホの用いたdynamische Farbe(動的な色?)にメロディーの力を与えた。すなわちゴッホのdynamischer Organismus(動的有機体?)から純粋なLyrismus(叙情?)に転じた。真によく自然そのものに即して自然を精神化したのだ。彼らは物の本質を直接の感情に求めたのだが、しかも単なる感情に求めたのではなく、感情の生起するlebendige Aktivitat(活発な活動?)に求めたのだ。このような動機からPicassoなどのKubismus(キュビスム。二〇世紀初頭にフランスを中心として起こった前衛美術運動あるいは画派)も生じたのであると言う。これにおいて客観的純化の方向に進んだ新しい芸術は、その徹底する所において、かえって主観的な或物に到達したと考えることができる。しかしその主観的或物というのは、概念的主観ではない。直観そのものの中に見いだされる主観だ。
 芸術は個性を現すとはよく人の言う所である。ここに芸術の生命がある。個性を離れて芸術はない。しかし個性とはどのようなものか。個体あるいは個物とは世界において一あって二なきものでなければならない。すなわち一つの体系において唯一の地位を占めるものでなければならない。しかしある一体系の唯一の地位というだけでは一個体ということはできない。それ自身に独立な一個体は、自己の中に他と区別されるべき無限の関係を含んでいなければならない。ライプニッツがモナドの中に全世界との関係を含むと考えたのもこれによるのだ。単に同質的と考えられる物質の原子の如きも、それ自身に同一なものとして一つの個体と考えられるには、それ自身の歴史を持たねばならない。少なくとも時間、空間の関係において他のすべてと区別されるべき無限の関係を有すると考えられねばならない。特殊なればなるほど、全体と関係において立たねばならない。すなわわち※予定調和harmonie preetablieの上に立たねばならない。
※ 引用 予定調和とは

ライプニッツのように真理においては術語が主語の中になければならない。praedicatum inesse subjecto verae propositionis(述語が真の命題の主語であること?)という考えから出立すれば、個体はその中に無限の術語を含んでいなければならない。アダムの個体概念の中にアダムに起こるすべての事件が含まれていなければならない。一般的真理というのはこれに反し、主語の中に含まれた内容が有限なものであると考えることができる。一般的であるだけ、それだけ有限だ(例えば人間、動物といった種族概念)。その内容が有限から無限の極みに達する時、種族概念la notion specifiqueから個体概念la notion individuelleに入る。ここに永久真理verites eternellesと事実真理verites de faitの区別がある。そしてこの推移は数学の極限概念においてのように、単なる程度の区別ではなく、性質的区別でなければならない。すなわち立場の飛躍がなければならない。認識の対象を内容から作用の方に移さねばならない。順序型(作用)が実在的とならねばならない。カントルのOrdnungstypusθ(順序型θ?)においてのようにすべての点が極限点とならねばならない。個体は作用の連続だ。永久真理の命題においては、その主語(例えば人間、動物)がある限定されたアプリオリと考えられるが、事実真理においてはその主語たるもの(例えば私)はアプリオリのアプリオリ(作用を統一する作用、作用の連続的統一)と考えられねばならない。そしてこのようなアプリオリのアプリオリの統一は意志だ。ライプニッツが可能的世界les mondes possiblesの根底に神の自由意志decrets libresがあると言ったように、偶然的真理verites contingentes(事実真理)の根底に意志があるのだ。個体は意志の内面的統一だ。斯くして初めてchacune de ces substances contient dans sa nature legem continuationis seriei suarum operationum et tout ce qui lui est arrive et arrivera(これらの物質はそれぞれ、その物質の性質の継続的な法則を含んでおり、その物質に起こること、また起こるであろうことはすべて、その物質の性質に含まれている?)ということができるのだ。ある一つの要素が個体として己自身の中に全体の意味、すなわち全体との関係を蔵するには、コーエンの生産点の考えにおいてのように動的とならねばならない。特殊の中に一般(全体)を含む個体は、一つの発展的作用でなければならない。特殊な要素は全体の象徴とならなければならない。物理的世界においても、ライプニッツがデカートに反対したように、実在は静的ではなく動的でなければならない。物体の本質はextension((空間の)延長?)にあるのではなく、activity(活動?)にあると言うことができる。しかし右のような意味において真に部分の中に全体を含む個体は、ライプニッツのモナドのように精神的なものでなければならない。それ自身の中に内面的統一の理由を有しない、隠れた或物(例えば色におけるエーテル)によって統一された物体現象は他によって立つものであって、真に部分の中に全体を蔵し、それ自身によって立つ個体とは言われない。斯くして真に個体的なものは精神的でなければならない。個体の知識が偶然的と考えられるのは、要するに、意志(作用の作用、作用を統一する作用)は認識対象とすることはできない、すなわち否定する(限定する)ことはできないということに帰するのだ。個体の達することのできない奥底はここにあるのだ。多くの人は物体現象を偶然的と考えるのだが、物体現象を構成する種々の性質はそれぞれの立場において必然的であって、偶然性は(意志による)これらの内容の結合にあるのだ。すなわち結合の不可知的である所に物体現象の偶然性があるのだ。しかし斯く物体現象の背後に考えられる統一(不可知的な結合)は、既に対象化されたもの、認識対象の世界に属するものとして、かえって(偶然性ではなく)必然性を有すると考えなければならない。物理的には厳密な意味においてthisness(このもの性?…ある個体を他の個体から区別して「この個体」たらしめている性質)ということはない。ライプニッツが可能的世界の背後に神の自由意志があると考えたように、我々の(意志による)直接経験の統一が偶然的真理の基になる。そしてこの統一(直接経験の統一)の本質はすなわち意志だ。事実的真理が理性以上の確実性を有すると考えられるのはこれによるのだ。意志が主観的と考えられ、随意的と考えられるのは、対象化された個人的意志を考える故だ。真に創造的な自由の意志は、概念的意識を消磨して純客観的となった時、すなわち主客合一となった場合に働くのだ。この時我々は真の個性、真の自己を見ることができる。ここに我々は概念的知識を超越して動かすことのできない事実的真理に撞着するのだ。我々はこれ(事実的真理)について無限の説明を試みることができるだろう。しかし事実的真理は概念的知識を以って達することのできない極限だ。
 私は芸術の目的とする真の個性とは、右に述べたようなものであると思う。客観的に純化されてきた新芸術がかえって主観的或物に到達したと考えられるのもこれによるのだ。真に無関心(純粋)な美的感情すなわち純粋感情とは、このような超概念的な個性の統一に伴うものだ。美的意識の内容とはこのような(超概念的な)個性の内容を表すものだ。いわゆる純粋対象の世界が成立するには、その基である作用がなければならない。作用とはアプリオリ自身が実在となったものだ。その具体的状態だ。我々がある一種の色(例えば赤)を無限の連続として意識する時、これを意識内容として意識するのではない。作用として意識するのだ(赤という作用として意識するのだ)。順序型として意識するのだ。色が種々なる方向の推移において無限な一連続と考えられる時。色という一つの性質的一般者がそれ自身において独立し、一作用となるのだ。芸術家の純粋視覚reines Sehenとはこれを言うのだ。これと同様に、音も一つの連続的体系として、純粋聴覚というものを考えることができる。心理学において視覚作用または聴覚作用というのは、このような純粋視覚または聴覚の認識対象、すなわち自然界に投げられた射影だ。しかし我々の具体的経験は(心理学におけるような)単なる視覚や単なる聴覚ではない。我々の具体的経験は無限なる作用の連続だ。そしてこのような無限なる作用の統一が、我々の人格だ。我々の人格とはこのような作用の無限な系列(結合)の極限だ。芸術家の対象となる個性というのは、このような人格的統一の無限なる典型の一つだ。例えばここに一枚の画があって、真によく個性を現しているということは、この画が大なる人性の唯一なる一典型を現しているということである。真の個性というのは大なる人格を離れることではない。大なる人格の中において唯一の位置を見出すことだ。主観的となることではない。客観の中に自己を没することだ。そして斯く大なる人格の中において唯一の位置を占めるというには、前に個体の場合において言ったように、一点中に他の凡てと無限の関係を含んでいなければならない。しかし斯く一点の中に他との無限の関係を含むということは、どのようなことを意味しているか。己の中に他を含むには己自身を超越しなければならない。印象派が従来の芸術に反して万物を光の中に溶かし、物をLichteinheit(光の単位?)として見たというも、印象派の目的は単に一般的な色や光の関係を現そうとしたのでないことは言うまでもない。画家の写し出そうとするのは、一種の実在だ。しかしこの実在は我々の認識対象となるいわゆる概念的実在ではない。未だ概念的加工の加わらない、あるいは概念に現すことのできない直覚的実在だ。そして我々の真の個性は認識対象の世界に現れるのではなく、このような概念的主観を滅した所に現れるのだ。概念的世界を超越した所に現れるのだ。そして単純な色とか光とかの世界が斯く超概念的実在を現し、人格的統一の世界、すなわち絶対意志の対象界において、無限の意味を含むことによって唯一の個性を現し得るのは、色や光の作用すなわち視覚作用が作用自身の立場を超越することによって可能となるのだ。色が無限な連続において作用となり、作用はその無限な連続の極限において一つの人格となる。すなわち絶対意志の作用となる。そして連続においてはすべての点において全体の意味を含むように、一種の純粋意識も連続の一点として、その中に全人格的意義を含み得るのだ。すなわち純粋視覚のGestaltungstatigkeit(造形作用)においては、一種の作用に基づく経験の中に全体の意味を寓することができるのだ。純粋視覚が自ら行為を伴うと考えらるのは、認識対象界を超越して霊肉一如の象徴界に入るが為だ。
 私はなお個体と個性の区別について一言しておかなければならない。個体とはライプニッツが「アルノーとの論争」において、アダムの概念について言ったように、予定調和によってその中に他のすべての関係を含み、この世界において一あって二なきものを言うのだが、個性とは芸術の作品において見るように、それ自身において生きたものでなければならない。生命を持ったものでなければならない。すなわち独立の価値を有するものだ。個性には時間、空間上の唯一性は必ずしも必要ではない。個性を有し得るものは、自由意志を持ったものでなければならない。単に因襲によって衣架飯囊(服を着て飯を食べる)たるものではなく、想像的或物を持ったものでなければならない。創造的ということは、超認識界において、すなわち情意の世界において、一あって二なき特色を有することだ。純論理的な学問のようなものでも、ある民族または個人の個性を帯びると考えられるのは、この意味においてでなければならない。画や彫刻において個性というのはこのような意味の個性だ。


 飽和度において若干の距離を有する同性質の赤の間に、赤の無限に異なる系列を入れて考えてみると、この系列の極限において性質そのものが独立の一作用となる。すなわち順序型がIdealzahl(理想?)として特別の取り扱いを受けることとなる。しかし色の経験は飽和度の立場において無限の連続と考え得るのみならず、調子の方向においてもまた光度の方向においてもまた無限の連続と考えることができる。色の具体的経験はこれらの種々なる順序型の結合だ。我々に直接な具体的経験は、作用の結合だ。しかし我々の具体的経験は異なる色の経験に限られているのではない。無限なる作用の連結だ。作用として性質の無限に豊富な連結だ。そしてこのような作用の無限な系列(体系的な結合)は、その極限において一つの人格となる。自由意志を本質とする人格とは、無限なる作用の統一だ。人格は作用の作用(作用の統一作用)、アプリオリのアプリオリだ。芸術の目的とする個性とは、このような対象界(人格の対象界)における実在だ。たとえ、絵画は色や形の経験に即し、音楽は音の経験に即するにせよ、その表現する実在は人格の一片鱗でなければならない。この意味において(芸術における個性という実在は)物理的実在とは根本的にその次元を異にしているのだ。
 我々の意識内容の統一において、相反する二つの方向を区別することができる。一つは個性的または個物的統一であり、一つは一般的統一だ。色が絵画においてのように個性的に、また自然界の物体においてのように個物的に結合すると共に、種々なる色の性質は色一般という概念によって統一されるのだ。それで厳密には三種の統一を区別することができる。すなわち一つは一般的統一、一つは個物的統一、一つは個性的統一だ。一般的統一に基づくものは、一般的真理、すなわち永久真理(価値、意味)だ。例えば数学的真理とか、対象論的真理とかいうようなものだ。一般的概念がこれらの統一の基となり、これらの真理の基となる。次に個物的統一に基づくものは、偶然的真理verites contingentesすなわち事実的真理verites defaitだ。個物は自己の中に他との無限の関係を含んでいる。個物においての一つの出来事は、他と無限の関係によって成り立っている。第三の個性的統一の上に立つものは、芸術的真理だ。これより少し、これらの統一、これらの真理(永久真理、事実的真理、芸術的真理)の関係を考えてみよう。仮にも一般的妥当性を有する真理(永久真理)は何の場合においても、超個人的な意識一般(カントの純粋統覚)というようなものに基づくと見なければならない。超個人的人格はその一部分である個人的人格と同じく、一方において一般的(永久真理の方面)であると共に、一方においては個性的(事実的真理の方面)だ。自由意志を本質とする人格は、その何れの部分も自由に反省してこれを一般化することができると共に、絶対的唯一性(個性)を要求するのだ。意識一般(純粋統覚)は、自然科学的世界の基となる(永久真理)と共に歴史的知識(事実的真理)の基となる。すなわちhistorische Vernunft(歴史的根拠?)となるのだ。自己の経験内容の何れの部分も自由に反省することのできる人格の否定(限定)作用(思惟作用)は、人格の本質を成す自由意志であると共に、知識においての抽象作用(限定作用)だ。自由意志と抽象作用は共に、作用の作用である人格が自己自身を碎く作用(抽象作用)だ。いわゆる表象自体(例えば色自体、音自体。意味)というのはこのような作用(思惟作用)の対象界であり、我々の経験の一般化的作用というのはこのような方向(表象自体)を指すのだ。我々は絶対自由の人格であるが故に、いかに抽象し、いかに統一するかは自由であるのだ。数学的知識の基となる統一作用は、これとややその趣を異にしている。同じく一般的といってもそれ自身に内面的統一を有し、それ自身の体系を成している。カントの考えを藉りて言えば、我々の知識は理解と直覚の結合によって成立し、理解力の形式すなわち範疇と、純粋直覚の形式すなわち空間、時間と結合したものが数学的知識であり、内容ある直覚すなわち知覚と結合したものが経験的知識だ。カントでは数学的知識は未だ厳密な意味において知識ということはできないのだが、ともかく数学的知識は客観的対象の条件として、それ自身の客観性を有すると考えることができる。カントでは、理解性と直覚性の間における内面的関係統一が十分明らかになっていないのだが、カントが数学の基とした純粋直覚の洗練されたhomogenes Medium(同質的媒介者)は論理的判断の基であるheterogenes Medium(異質的媒介者)の具体的根元であると考えることができる。フィヒテ曰くdeine innere Tatigkeit, die auf etwas ausser ihr (auf das Object des Denkens) geht, geht zugleich in sich selbst, und auf sich selbst. Aber durch in sich zuruckgehende Tatigkeit entsteht uns, nach obigem, das Ich. Du warst sonach in deinem Denken deiner selbst dir bewusst,und dieses Selbstbewusstsein ist unmittelbar ; in ihm ist Subjectives und Objectives unzertrennlich vereingt und absolut Eins. (Versuch)(あなたの内なる活動は、それ自身の外にあるもの(思考の対象)に向かうが、それは、それ自身の中にも、それ自身にも向かう。しかし、上記のような自分自身に戻る活動によって、自我が生じる。したがって、あなたは思考の中で自分自身を意識したのであり、この自己意識は直接のものであり、その中で主観と客観は不可分に一体化し、絶対的に一つなのである。(試み)?)と。このようなunmittelbares Bewusstsein(即時意識?)がフィヒテも言うような真のAnschauung(直観?)であって、ここに作用自身の直接の結合がある。Substantialitat(実体)からAktualitat(実在)への推移がある。物体的から精神的への推移がある。これ(実在?)において一つの判断を翻って見る反省作用が可能となるのだ。肯定の裡面に否定を含み、一つの肯定作用を翻って見るhomogenes Medium(同質的媒介者)の立場は斯くして成立するのだ。知識の客観性というのは、抽象的立場からその根元である具体的立場に進むことだ。単なる作用の立場から、作用と作用の結合の立場(背後の連続体、一般的なるもの)に進むことだ。これ故に数理の世界は論理の世界に対して、一種の客観的実在となるのだ。数理の世界とは単なる抽象作用、すなわち否定的意志の上に立つ対象界だ。単なる抽象作用すなわち否定的意志は、またそれ自身において内面的統一を有する無限な作用として、一種の対象界を持つ。この対象界が数理のような純なる抽象的真理の世界、すなわち永久真理の世界となるのだ。我々の純なる※理性というのは、抽象的自由意志とその本質を一つにしていると考えることができる。
※ 引用 理性とは 

(理性と抽象的自由意志は)共にすべての特殊な経験内容を否定して、一つの中心に結合する可能性を表すのだ。共に純なる作用と作用の結合だ。フィヒテのいわゆる己自身の中に行く内面的作用、すなわち自覚(自己を限定する意識)が両者(理性と抽象的自由意志)の本質だ。作用から直ちに作用に移り行く理性の内面的必然の感情は、他面において意志自由の感情だ。理性と自由意志は一つの作用の両面とも言い得るだろう。すべての経験の否定的(限定的)統一は、いかなる経験内容も離れ得る可能性を意味する点において、知識の抽象的作用であり、いかなる経験内容も否定して自由にこれを総合し得るという点において、自由意志だ。全体の反省である意志は、一方においてすべての範疇を超越する創造的意志だ。道徳的自由意志が、直ちに理性を内容とする理性的意志と考えられるのはこれ(理性と自由意志は一つの作用の両面と言い得ること)によるのだ。視覚が色を以ってその内容とするように、思惟は純なる認識対象界を以ってその内容としている。視覚は無限な色の関係をその対象界とするように、思惟は永久真理の世界をその対象界としている。そして純粋視覚が芸術的動作として現れるように、思惟は意志として現れるのだ。
 純粋思惟の対象界である永久真理は右のようなものとして、個物的真理とか個性的真理とかはいかなるものだろうか。我々は普通に思惟の内容は一般的であって、視覚や聴覚の経験内容は特殊的であると考えている。しかし各々に固有な感覚的基礎の上に立つ芸術も、ある一派の人々の考えるように完全に無内容ではない。単に無内容な芸術は、遊戯に堕する外はない。芸術の内容は概念的思想にあらざるは言うまでもないが、各々の芸術は各々の芸術に固有な内容を持つ。その感覚的要素と離すことのできない意味の内容を持つ。他によって翻訳することのできない意味内容を持っている。このような各芸術に固有なWalter Paterのいわゆるimaginative thought(想像力?)とはいかなるものだろうか。かかる芸術的内容とは我々の視覚や聴覚の作用が、人格的作用として直ちにその全体と結合する所に現れるものだ。すなわち(視覚や聴覚などの作用が)人格的統一の一部分となる所に現れるものだ。もし斯く言い得るならば、反省的思惟が全経験を写し、全経験を表し得るように、視覚も聴覚も全経験を表象し得ると言うことができるだろう。この意味において前者(反省的思惟)を一般的ということができれば、後者(視覚や聴覚)も一般的ということができる。知識的表象は経験をそのままに写すというも、表象「太陽」Vorstellung“Sonne”は輝くのではない。芸術が各自に特有な言語を以って他を表現するように、思想もその特有な言語を以って他を表現するのだ。今視覚と思惟を比較して見ると、視覚の対象論的世界は純粋思惟の対象界に当たり、これらの対象界はそれ自身においては永久不変と考えられるが、これらの真理が現実となる場合には人格的要素の混入を脱することはできない。人格的要素の混入ということも種々の意味において考えられるだろうが、芸術的要素としての色の経験の中に含まれる人格的内容というのは、単なる主観的作用の特徴というようなものではなく、対象そのもの(描かれる対象そのもの=人格)の本質を成しているのだ。この場合、色そのものはかえって一種の表現手段となるのだ。すなわち純粋視覚的経験内容について、対象論的なものと芸術的なもの(人格的内容を含んだもの)を分かつことができるのだ。翻って思惟体験について考えてみると、純なる思惟の内容は色の対象論的内容に当たり、芸術的内容に当たるものは、カントがVerstandesbegriffe(理解力の概念=悟性概念?) + Wahrnehmung(知覚?)から成るといういわゆる経験界と考えることができる。いわゆる経験界とは(思惟によって表された)人格的統一の対象界だ。視覚作用が単にそれ自身として考えられないで、作用の統一である人格の一作用として具体的全体の一部分となった時、それが芸術的作用として芸術的内容をやどすように、思惟作用が単に抽象的思惟作用としてではなく、人格的一作用として考えられた時、経験的知識が成立するのだ。Schema“Zeit”(図式「時間」)はこのような思惟の孤立的立場(人格的一作用と関係ない抽象的思惟の立場)を否定して人格的統一に移る具体的立場の第一歩だ。この方向を進んで思惟が全人格の統一と結合した時、全人格的経験の内容を写すこととなる。すなわちいわゆる経験界が成立するのだ。経験界とは思惟の立場において全経験を写したものだ。ある一つの体系が他を写し他を表象するには、二つの体系が一つの体系において内面的に結合されねばならない。無限のモナドは神の意志decrets libresに統一されて、互いに相表象することができるのだ。作用の作用である人格的統一の上に立つ精神活動にして、はじめて部分の中に全体を蔵し、その一が他を表象することができるのだ。我々の表象とか概念とかいうのは、純粋思惟の立場に立って全経験内容を写す手段だ。すべてある一つの立場から他を表象するには、それ自身に特有な言語がなければならない。ロダンが物体が平面の集合から成立することを見出したというのは、芸術家自身の純なる言語を見出したのでもあろう。芸術家は学者が概念の世界を持つように色や形の世界を持つ。芸術家のテクニックは学者の論理に相当するものだ。それで芸術的対象の中に個性を含み人格的要素を含むと言うも、直接に芸術の対象となり内容となるものは、純なる芸術の語によって写された客観的世界だ。例えば印象派の人々が表そうとしたようなLichtmasse(光の量?)の世界だ。ゴッホの表したようなdynamische Farbe(動的な色?)の世界だ。斯く芸術が概念の束縛を離れてそれ自身の立場に立つ時、すなわち人格的統一の上に立つ時、その対象界は人格的基礎を有し、個性を表すこととなるのだ。学問的真理は純客観的にしてなんらの人格的要素を含まないようであるが、客観的真理が深ければ深いほど、学者の個性を表すのと同様だ。この方面において総ての芸術が一つ(人格的統一)に向かうのみならず、学問と芸術も結合することができるのだ。ペーターが有名なジョルジョーネ論においてAll art constantly aspires towards the condition of music(すべての芸術は常に音楽の境地を目指している)というにも真理がないとは言われない。この意味において、学問の中について音楽の地位に当たるものを求めるならば、哲学であろうと思う。かつてレッシングが論じたように、各芸術はそれぞれの領域を有し、pictorial charm(絵画的魅力?)とmusical charm(音楽的魅力?)は互いに相異なるにもせよ、絵画にも音楽的なものもあり、詩や文章に絵画的なものもある。芸術は各自に特有な感覚的要素の異なるにしたがって、他によって表すことのできない特色を有すると共に、一方において総合的統一(人格的統一)の意義を有すると考えることができる。種々の学問もそれぞれの立場において各自独立の真理を有し、各々その分化的方面に進むと共に、一方において総合的統一(人格的統一)に進むことができる。そして個々の学問のよって立つ所のアプリオリを反省し、これを総合統一するものは哲学だ。この点において芸術と哲学の接触がある。芸術も学問も各々その特有な言語によって客観界を表象すると共に、一方において人格的内容を含み個性を表現している。絵画は色や形によって、音楽は音によって、学問は概念によって客観界を表象すると共に、人格的内容を含むのだ。
 右に述べたように我々は芸術の内容についても知識の内容についても、並行的に同様のことが言い得るのだ。色の対象論的関係は論理、数理の知識に当たり、色や形の結合から成る芸術の対象界は我々のいわゆる経験界に当たる。光や色の言語によって写された経験界が芸術の対象界であり、概念の言語によって写された経験界がいわゆる経験界だ。芸術の世界は光や色の無限な結合の世界であり、経験界とは概念の無限な結合の世界だ。これにおいて色や光は単なる意味ではなく視覚作用となり、概念も単なる意味ではなく認識作用となる。すなわち共に人格の一作用となることによって、一つの客観界を得るのだ。芸術界は単に主観的と考えられ、経験界は客観的と考えられるが、芸術家もかれら(芸術家たち)の間に互いに論議すべき一つの客観界を有するのだ。我々は思惟の範疇によって経験を統一するように、画家は視覚の範疇によってこの世界を色や光の統一として見るのだ。経験界の知識といっても色々に考えられるだろうが、その基であるものは事実の真理だ。自然法(永久真理)とはこれらの事実を基礎として一般化したものだ。事実の知識とはいかなるものだろうか。ある一つの出来事を唯一の事実として知るというには、これを時間、空間の上に限定されたものとして見なければならない。そして斯く限定されるということは、この物(限定されたもの)が他と無限の関係において立つことを意味していなければならない。ある一点が他と無限の関係において立つというには、二様の考えをなすことができる。一つは、ある一点が全体系の一点として他から無限の関係において定められるということであり、一つは、ライプニッツの単子(モナド)においてのように自己自身の中において無限に他を表象することだ。前の意義においては単に個事(個々の事実)となり、後の意義においては個物となる。前の意義においては統一の主体(例えば、色、音など)のみが唯一の個体となり、他はすべてその(個体の)様態となる(例えば色における赤いもの、青いもの。音における高い音、低い音など)。このような統一が徹底的となる時、すべての異質性は否定されて、すべてが同質的となる。この傾向を進んだものが物理的世界だ。後の意義においては、これに反し部分の一々が個体となると共に、その中に他との無限の関係を含んでいなければならない。すなわち他のすべてを表象するものでなければならない。そしてこのような関係を有するのは精神的なものにして初めて可能であるのだ。自然科学的統一においては異質性が同質性に還元され、量的に統一されるのだが、意識的統一においては異質的なものがそれ自身の存在を有し、質的に統一されるのだ。質的に統一されるとは、内面的発展の統一(連続)として統一されるということであり、そしてライプニッツのモナドロジーにおいてのように、無限なるモナドは神の意志の決定によって予定調和の下に立つものとして、はじめてその一が無限に他を表象することができるのだ。我々のある意識現象が個性を有するというのは、己の人格を表現することによって、他を表象することができ、したがって他と無限の関係において己の個性を維持することだ。※偶因論者Occasionalistenの考えのように、我々は神を通じてのみ心と物を結合することができる。
※ 引用 偶因論とは 

厳密に考えれば、反省そのものを自己の中に含む真に具体的な我々の精神は、単なるモナドではない。モナドはなお考えられた精神であって、考える精神ではない。我々の自己の底に、自己そのものをも否定(限定)し得る絶対意志がある。我々はこれによって他の精神と結合し、物体界と結合することができるのだ。マルブランシュのDieu est tres etroitement uni a nos ames par sa presence, de sorte qu'on peut dire qu'il este le lieu des esprits, de meme que les espaces sont en un sens le lieu des corps (De la recherche de la verite)(神はその存在によって私たちの魂と非常に密接に結びついており、ある意味で空間が肉体の場所であるように、神は霊魂の場所であると言うことができる。(真理の探求について)?)という語に深い意味があると思う。すなわち部分の中に全体を含む。個物的限定においても二様に考えることができ、一つはle present est gros de l'avenir et charge du passe(現在は未来に満ち、過去が詰まっている?)というように縦の限定、すなわち時間上の限定であり、一つはl'harmonie preetablie(予定調和?)というように神の意志においての限定だ。すなわち横の限定、空間的限定だ。単なる縦の限定によるものは我々の個人的意識のようなものであって、いわゆる唯心論はこの上に成立するのだが、我々が神の意志(横の限定、空間的限定)の上に立つとき、我々は物と心との統一の上、すなわち主客合一の上に立つのだ。我の現在の意識は無限に他を表象することによって、心はすなわち物、物はすなわち心となるのだ。単なる物体界というのは神の絶対否定(限定)の一面に過ぎない。神は絶対の否定(物)と共に絶対の肯定(心)だ。元来神の本質は絶対の愛だ。愛はすべての人の人格を統一すると共に、すべての人格を立するのだ。他の人格を敬すれば敬するほど、真に自他合一の愛が成立するのだ。この意味において愛は真に反対の合一coincidentia oppositorumだ。(数理と論理におけるような)一般的なるものと特殊的なるものの真の結合は、愛においてのみ可能だ。真の予定調和は神の絶対の愛の上に立たねばならない。我々は芸術的意識においてこの統一に接触するのだ。
 そこでなお一度明白に、科学的内容と芸術的内容を比較してみよう。すべての経験内容を否定的(限定的)に統一する絶対意志の作用が思惟だ。他の内容を排する否定的統一は、かえって他から排される一作用として、他の作用と同じくそれ自身に特殊な対象界を持つ。論理、数理の世界がそれだ。この点において思惟は視覚や聴覚と同じく、人格の一作用に過ぎない。ただ、思惟の内容が他に比べ一般的であると考えられるのだが、我々は色の経験、音の経験の中においても、特殊と一般を区別することができる。色には種々の性質があり種々の色合いがあるのみならず、具体的感覚は光度を有し飽和度を有している。色の一般概念(意味)とはこれらの作用(色調、光度、飽和度)の統一作用の性質だ。あたかも全人格の統一作用の内容として、思惟の内容が考えられるのと同様だ。一般的というのは統一作用の性質だ。思惟作用が否定的統一(限定的統一)から肯定的統一(発展的統一)に移る時(思惟作用が人格的統一を含む時)、すなわち我々が人格の具体的統一の立場(作用の統一作用の立場)に立つ時、その内容としていわゆる経験界が成立するのだ。そしてこのような経験界は相反する両方向に分かれ、その間に種々の階段を生じるのだ。その(経験界の)否定的統一(限定的統一)の方向に当たるものがいわゆる自然科学的知識となり、その(経験界の)肯定的方向に進むに従い、心理的となり、歴史的となる。経験科学的知識はその一般的統一の方向においては自然科学となり、その個体的統一(特殊的統一)の方向においては歴史となるのだ。芸術的内容というのはこれらの経験科学的内容と異なり、視覚とか聴覚とかいうような部分的な作用が絶対意志の否定的統一すなわち思惟作用の支配を脱して、全人格の統一を表現しようとする所に現れるのだ。視覚とか聴覚とかいうのは、人格の一作用として思惟と同じくそれ自身の抽象的内容、すなわち色や音の対象論的世界を持つのだが、思惟の立場から全人格の内容を表現して経験界を生じるように、視覚や聴覚の立場から全人格を表現する時、芸術の世界が生まれるのだ。芸術の世界は科学の世界と同じく、人格的統一の上に立つ具体的世界だ。画家がある形を見、音楽家がある音を聴くのは、科学者がある物を考えるように、具体的実在としてこれを見、これを聴くのだ。ただその内容が有限で部分的であるだけ、思惟の場合においてのように一般的に自由であることはできないのだが、これが為に芸術の内容は無限な人格の世界を表現することができないとは考えられない。ある一つの芸術の世界は、その具体性においては知識全体の世界と同じだ。すなわち我々のいわゆる経験界の全体とその性質を同じくするのだ。普通に知識は一般的であり芸術は特殊的であるというが、いわゆる一般的知識というのは知識の一面であって、その全体ではない。知識の一面は歴史において見るように個性的だ。我々の経験界すなわち知識の世界は、自然科学プラス歴史の世界でなければならない。認識の対象である具体的実在は、一般的(自然科学的)であると共に特殊的(歴史的)だ。そしてこの両方面を統一する総合的知識の立場が哲学の立場であるから、前に言ったように哲学的知識内容は(具体的である人格的統一の内容である)芸術的内容に相当し、哲学者の世界観は直ちに芸術の内容と結合するのだ。ディルタイの言うように哲学、芸術、宗教は同一の根から生じると考えることができる。各々の芸術は各自の感覚的要素に特有な内容を持っているのではあるが、ペーターの考えのように芸術は一に傾くというにも真理がなければならない。このような共同の内容は、言うまでもなく認識対象ではなく感情的内容だ。このような感情的内容において芸術は哲学と抱合するのだ。もし作用と作用の無限な結合作用、すなわち想像作用Phantasieの対象界が純なる感情の世界であるとすれば、芸術と哲学は想像の対象界において結合するということができる。すなわち想像作用(作用と作用の無限な結合作用)が両者(芸術と哲学)の根底を成すと考えることができる。ただ、芸術はその内容の狭小であるだけ直観的統一に傾き、哲学はその内容が包括的であるだけこれ(直観的統一)に反すると考えられるのだ。人格の中心である思惟の立場において徹底的統一に到らんとする時、我々は道徳的意志の立場に立たねばならない。この立場において真に内外の統一(主客の合一)を見ることができるのだ。あたかも純粋知覚の表出運動が芸術的動作として現れるように、哲学的思索の表出作用は道徳的行為として現れるのだ。この意味において道徳的行為は哲学的思想の象徴だ。我々は道徳的行為においてextensio(延長=物体?)とcogitatio(思惟=精神?)の両属性を統一して、絶対無限な神に接することができるのだ。道徳的意識内容は一般的(精神)であると共に、特殊的(行為)でなければならない。道徳的行為は一般(精神)と特殊(行為)の結合点だ。単なる哲学者(行為なき哲学者)は手なき芸術家の如きものだ。我々が道徳的意志の上に立つ時、予定調和をも超越して内外合一の具体的世界を意識するのだ。しかし斯くいうものの、真に内外融合して一々の部分が直ちに全体を含む絶対意志の立場は、宗教の立場であると言わねばならない。宗教の立場において真に当為(内)と存在(外)が合一し、一々の実在は純真な芸術品となる。宗教の立場は人格の中心において、すなわち絶対意志においての芸術的立場だ。哲学的思索と道徳的行為は、宗教において真に内的結合を得るのだ。


 我々に最も直接な具体的経験、すなわち真実在は人格的であって、無限な作用の内面的結合だ。無限な作用自身の結合だ。このような無限な作用自身の統一の立場を、私は絶対意志の立場というのだ。概念的思惟の立場から考えれば達することのできない極限点のようなものだろう。神秘哲学者の考えたように、神はすべての範疇を超越していると考えねばならない。しかし思惟の立場からは斯く考えねばならないとしても、直下には転々自在にして純真なこの実在あるのみだ。これより単純にして明白なものはない。このような絶対意志の否定的統一(限定的統一)が理性であって、この作用は一方において実在の認識作用となると共に、一方において実在を創造する道徳的意志ともなる。道徳的世界は自然界の中にあるのではなく、自然界は道徳界の上に立つのだ。知識は意志の後に随ってその跡を整理するに過ぎない。右のような理性は、我々の人格の中心として全人格の統一作用であると共に、一方において単なる一人格作用としてそれ自身の抽象的対象界、すなわち純なる論理、数理の世界を持つのだが、部分の目的は全体にあるのだから、理性(部分)がそれ自身の具体的根元(全体)に向かう時、Kategorien+Wahrnehmung(概念の分類+知覚?)であるカントのいわゆる経験界が現れて来るのだ。論理、数理、幾何と進み来たって、いわゆる経験内容と結合するに当たって、その中間としては力学的対象界というようなものも成立するだろう。力学的対象界は、理性が単なる動的意志となることによって、力の対象界を見ることができるのだ。カントの総合的原理synthetische Grundsatzeの対象界は斯くして成立するのだ。理性自身が作用の形を取ることによって、他の無限な作用を統一する形式となることができるのだ。幾何学的には線とか形とかいったものは、力学的にはすべて力の量となり方向となるのだ。範疇に図式「時間」Schema“Zeit”が加わる時、すべてが動的となり、力学的世界が成立するのだ。右のように理性それ自身が動的となりすなわち意志となり、力学的形式によって全経験を統一する時、我々のいわゆる経験界が成立し、物体界とはこの方向を進んだものだ。だが精神界とは思惟の立場から逆にこの人格的体験の原状態に還って見たものだ。すなわち(精神界は)作用と作用の直接の結合であるAktualitat(実在)の形式によって成立する実在界だ。実験心理学の対象界のようなものから歴史の対象界に至るまで、これらの現象はもはや自然科学的因果律によって統一することはできないで、内面的統一の因果律によって結合されねばならない。しかし完全に以上述べたような思惟の立場、すなわち認識作用の立場を棄てて、深く全人格の内面的統一の立場に入る時、我々は認識対象界を超越して道徳的行為の世界に入る。我々は(認識対象界におけるように)もはや一つの立場から他を写すのではなく、人格的作用そのものとなるのだ。これにおいては対象(外)と作用(内)が一となる。我々は道徳的行為において物たると共に心だ。内外を打して一実在となるのだ。作用と作用の結合の窮極する所、もはや何らの外面的統一も許さない。ただ行為あるのみだ。肯定(発展)も否定(限定)もない。絶対意志の具体的作用あるのみだ。この立場に住して打成一片(禅宗で、一切の執着を捨てて座禅に専念し、対象と心とが平等一体になること)、随所に主となる時、我々は宗教の立場に立つ。宗教的直観においては万里一条の鉄(すべての現象は刻々に変化しつつ、その実相は少しも変わることなく過去・現在・未来の三世にわたって永遠につらなっているということ)、内外の区別もなければ自他の区別もない。
 以上私が人格的体験の中心とも見られるべき思惟作用の立場について言ったことは、人格的体験の部分的作用(視覚、聴覚など)について言うこともできる。視覚も聴覚も人格的作用として、具体的にはそれ自身の対象界を持つ独立自由の作用だ。抽象的には色自体、または音自体の対象論的世界を持つのだが、これらの作用が全人格の内面的活動の中に入ってその内容を射影する時、我々は芸術の対象を持つ。芸術の立場は部分的体験における宗教的立場だ。ショーペンハウエルの言ったように芸術家は神来の瞬間においては宗教家だ。そしてこの論文の始において述べたように、すべて一つの立場から、その背後に横たわる具体的立場(主体)に到るには、立場の超越がなければならない。すなわち極限概念によってこれ(具体的立場)と結合するのだ。色の表象自体はその無限な系列の極限において作用となる。我々の視覚作用というのは、色調や光度や飽和度の無限な系列の統一だ。我々の人格とは、このような作用の無限なる連続の統一だ。表象自体(意味)がその無限な総和の極限において独立の精神作用となるように、無限な作用の総和はその極限において自由なる人格となるのだ。そして各々の作用はそれ自身に固有な対象界を持ち、我々の経験的世界というのは作用の作用である意志、すなわち人格的統一の対象界であるが、道徳的意志の立場から見れば、この世界(経験的世界)は自由意志のTypus(型)として無限なる世界の一つに過ぎない。自由意志の対象である道徳的世界は、無限なる自然界の総和の極限だ。そしてヘーゲルの「概念」においてのように、その何の部分においても全体の相を具する人格的体験においては、絵画や音楽において見るように、視覚とか聴覚とかいうような部分的体験も直ちに主客合一の具体的体験の相を現ずることができ、これらの体験においても種々なる立場、種々なる世界を具足していると考えることができる。しかし芸術は単に部分的である具体的立場に過ぎないから、種々の立場、種々の世界の具体的立場における真の関係はただ、哲学、道徳、宗教の全人格的立場においてのみこれを明らかにすることができる。我々の文化発展はこれを中心として抽象的から具体的に進むのだ。新しい文化は古き文化発展の極限として現れ来るのだ。我々の真の永久の生命はTithonus(ティートーノス)やAhasver(アハスヴェール)の生活の上に求めるべきではなく、若くして十字架上に釘付けられたキリストの上に求めるべきだろう。

意志実現の場所


 意志的動作すなわち行為の過程を分析して考えてみると、まず我々の自己を唆す、現状と異なった願わしき自己の状態、すなわちいわゆる目的観念なるものが現れ、我々の意識が傾斜の状態をなすと共に、この両者(自己と目的観念)を結合するため、過去の経験から目的に達する道行の観念、すなわち手段の観念が喚起され、この結合が十分と考えられた時、すなわち客観的に可能と信じられた時、決意の感情と共に動作に移るのだ。すなわち主観的意志内容から客観的事実に転じるのだ。心理学者の言う所に従えば、我々が外的動作に移るには、単に過去の運動の感覚を想起すれば足りるのだ。運動の表象が我々の意識を占領すると共に、我々の身体は自らその運動を起こすのだ。この間何物も入れる余地はない。これ以上に何らの説明もできない。あたかも外界刺激がいかにして感覚内容となるかを説明することができないのと一般だ。意志過程を右のように考えてみると、意志の本質は内から外に出づるにあるのだ。すなわち主観的内容から客観的事実に転じる所にあるのだ。勿論事実上この区別をなすことが困難とも考えられるだろう。しかし本質的にはこのような区別をなさねばならない。我々の手が麻痺していたため、企てられた動作が実現されなかったとしても、実現を目的として決意した場合、これを意志として道徳的判断の対象となすことができるのだ。しかしこれがために意志の本質は完全に内面的であって、客観的事実には何らの関係がないと考えるならば、それはまた誤りだ。かかる場合(客観的事実に何らの関係がない場合)においては、意志はどこまでも不完全と言わねばならない。もしそのままにして止むならば、その決意は不真面目であったと言わねばならない。単に願望に過ぎなかったと言うことができる。たとえ、心理学者の言うように意志的動作は表出運動から発達したものとしても、情緒(願望、欲求)と意志の区別はここ(客観的実現)にあるのだ。一(情緒)は単なる主観的なるに止まり、一(意志)はどこまでも客観的足らんとするのだ。あるいは意志の本質が必ずしも客観的実現を要しないことを明らかにするため、内面的意志の例をあげることもできるだろう。しかし内面的意志といわれるのも、多くの場合において未来の実現を意味したものだ。また数学の問題の解決を意志する場合のように、その結果が完全に内面的と考えられる場合においても、我々はこれによって主観的なものから客観的或物に結合しようとするのだ。我々の自己が客観的な数の世界と結合しようとするのだ。数の世界も物理的世界のように客観的だ。あるいは数の世界というようなものは、時空を超越してそれ自身に完全なものであって、これに対して意志の実現というようなことは無意義であると考えられるでもあろう。しかし斯く言えば物体界といえども、それ自身に完全な一つの世界であって、我々の意志によって動かし得べきものではない。自然科学における意志自由の否定はこれから起こるのだ。意志において我々の主観が客観を動かすのではない。ただ客観と結合するのだ。主観が客観に結合する所(主客合一する所)に意志の本質が存するのだ。
 ヴントに従えば、意志行為とは情緒の窮する所、突然その表象と感情を変じる一種の精神的出来事であると言い、ティチェナーは注意の本質を意識内容の分布の変更と考えている。心理学の立場としては斯く考える外なかろうと思われるが、意識現象の内面的性質から考える時は、意志とは我々の意識内容の客観化だ。主観から客観への推移だ。ここにその本質があるのだ。主観から客観に移るとは何を意味するか。私が手を動かそうとして(主)、その運動が実現された(客)というのはいかなることを意味するか。いわゆる物体界といえども、我々の直接経験の事実を離れて存するのではない。今日の認識論において考えられるように、我々の経験内容を一般的自我(先験的自我、カントの純粋統覚)の立場から統一したものに過ぎない。我々の意志が行為として外界に実現されたというも、このような体系(一般的自我の体系)において認められるというに過ぎない。私が手を動かそうとして過去の運動の感覚を想起したとすれば、「私の意識」という範囲内においてはそれで十分だが、純知識的な自我の対象界、すなわちいわゆる外界において認められた時、目的が実現されたと考えられるのだ。しかし斯く認められるというも、新たな内容が加わるのではない。ただ我々が立場をかえて見るまでだ。我々が手を動かしたとき、Innervationsgefuhl(神経支配の感覚?)のようなものはないとしても、その結果として起こる一種の内感覚を反動的に感じるだろう。手が麻痺して実際の運動が起こらなかったとしてもこの種の感覚はあるだろう。外界において果たして手の運動が起こったか否かを知るには、他の感覚の証明を待つ外はない。眼の感覚の如きは最もこの役目をなすものだ。しかし視覚といえども客観的でないことは言うまでもない。我々が一つの客観的事実を認めるのは、種々なる感覚の相互訂正の結果でなければならない。種々の経験を比較総合して何らの矛盾なき時、はじめてこれを客観的として認めるのだ。しかしこのような考えによっては、我々の知識はどこまで行っても、真に客観的な或物に達することはできない。客観的とは達することのできない理想に過ぎない。
 我々は普通に物と心、内と外の対立を無雑作に主観、客観の対立と同一に考えている。しかし少し考えてみれば、これらの概念の曖昧なことは言うまでもない。数理のようなものは普通に思惟の内容として主観的と考えられるのだが、数学的真理の如きは時空を超越して、それ自身に永久な対象(超越的対象、価値、意味)だ。我々のいかんともすることのできない客観的真理だ。色そのものの関係、音そのものの関係(色自体、音自体の関係)についても同様のことをいうことができる。この場合、我々をして客観的と考えさせるものは、内容そのものの内面的必然性だ。これに反して、特殊的なもの、偶然的なものが主観的と考えられるのだ。しかしまた数理のようなものが(思惟内容として)主観的と考えられるにも、その理由がなければならない。数理が主観的と考えられるのは、具体的経験から見て単に抽象的な思惟内容に過ぎないからだ。物理的対象界のようなものもこの意味においてなお抽象的であり、主観的であると考えることもできる。すなわち(この場合)前と反対に特殊的なもの、偶然的なものがかえって客観的と考えられるのだ。しかしいわゆる具体的経験が数理のようなものに対して特殊的、偶然的と考えられるのは、単に特殊的とか偶然的とかいうのではない。具体的経験が特殊的と考えられるのは、全体系の中において唯一の位置を占めるものとして限定されるということだ。すなわち単に特殊的というのではなく、個体的ということだ。その根底には一般的にして必然的なもの(人格的或物)がなければならない。その偶然的と考えられるのは、全体系の統一が不可測であるによるのだ。数理のような単純なアプリオリの上に立つものは、アプリオリのアプリオリ(作用の作用、作用を統一する作用)の上に立つ具体的経験の体系(意識界)に比べ抽象的だ。いわゆる抽象的体系は全体系の一部分として限定されて、はじめて客観的となることができるのだ。カントが理解力の範疇が知覚と結合して客観的知識となると考えたのもこれによるのだ。単に偶然的なものは主観的なものに過ぎない。具体的経験が偶然的と考えられるのは、内面的必然を欠くというのではない。かつて数理が内面的必然として客観的と考えられたのと同じ理由によって(全体系の中において唯一の位置を占めるもの=内面的必然を持つものとして)、具体的経験も客観的と考えられるのだ。
 右に言ったように真に客観的なものは内面的必然の体系だ。これに反し、偶然的なもの、部分的なものが主観的と考えられる。たとえば幾何学のある一つの問題を考えるに当たって、どこから考えたか、いかなる大きさの円を描いたか、いかなる解釈をしたか、このような数学的必然に関係のないことはすべて偶然的であり、したがって主観的と考えられる。しかし一方から考えれば、これらの事実は具体的経験の事実として客観的と考えられ、数理のようなものはかえって主観的と考えられる。要するに、ある一つの内面的体系に入り得ざるもの、また全体系を尽くし得ざるものが主観的と考えられるのだ。主観、客観の対立を以上のように考えるならば、我々の自我とはいかなるものだろうか。心理学者は意識現象は物体界における生物の神経中枢に伴う局部的現象であって、自我とはその統一作用であり、自己意識とはこの作用に伴う感情に過ぎないと考えている。従って、我々の意識現象は単に主観的と考えられ、自我はその中心と考えられるのだ。しかしこのような自我は考えられた自我であって、考える自我ではない。我々の真の自我は考えられた自我ではなくて、考える自我でなければならない。時間、空間、因果の上に限定され、対象化された自我によって、意識の統一ができるのではない。かえって自我の統一によって時間、空間、因果の関係は成立するのだ。これ故に我々の意識界は物体界とその次元を異にしている。意識界が物体界の中に含まれるのではなく、意識界が物体界をその対象として含むのだ。いわゆる物体界はかえって主観的と考えることもできるのだ(意識界は全体系を尽くし得るものとして客観的と考えることもできるのだ)。
 私がある目的を以って運動の観念を想起して動作に移ったとする。この場合、私の企図は意識内の出来事として主観的と考えられる。しかし一方から考えれば、私の意志実現の場所であるいわゆる客観界も、要するに私の対象界の外に出でない。窮極において自我の外に出づることはできない。翻って考えてみれば、我々の主観的企図というのは、先験的自我(純粋統覚)の統一の対象界における特殊な一内容に過ぎないと見ることもできる。反省された自己(対象化された自己)は真の自己(対象化する自己)ではないとすれば、我々は意志の実現によって、すなわちいわゆる客観界と結合することによって、かえって真の自己(対象化する自己、上述の真に客観的な或物)に到ると考えることもできる。我々は普通に知識においては物が心に働き、意志においては心が物に働くと考えているが、知るべく与えられたものは我によって要求されたものだ。我々が客観的知識に向かって進むということは、真我に向かって進むことだ。自己の発展完成であると考えることができる。我々は渇するから水が我々の欲望の対象となるも、水そのものの性質は自我とは何らの関係もないと考えられるが、深く考えれば水の性質というのも自我の作用によって成立すると考えることもできる。我々の視覚作用とか触覚作用とかいうものによって、いわゆる水の性質というようなものが成立するのだ。水の物理的または化学的性質ということすら、我々の思惟作用によって成立するのだ。無論、単なる主観的作用によって客観的事物の性質が生じるのではないと言い得るだろう。しか一方から考えればいわゆる所与の経験というも、我々の自我と無関係のものではない。言わば大なる自我の一部分であるということができる。それでは私が渇くから水を飲む、すなわち欲求を満足すること(欲求我)と、あれは赤い、これは青いなどということ(知識我)と、いかなる点において同じく、いかなる点において異なるか。我々の渇というのも一種の有機感覚だ。この点においては、我々が外物を見て、青いとか、赤いとかいうのと異なったことはない。身内の感覚であるが故に、我々の意識に近いということはない。ただ我々のいわゆる有機感覚には、強い感情が伴うまでだ。勿論外界感覚にも感情の伴うことは言うまでもないが、有機感覚には特に強い感情を伴う所から、著しく自己の状態として考えられるのだ。渇ということが単に有機感覚としてその中に自己を含むのではない。有機感覚の体系が、更に大なる統一的体系の中に入って、他の体系に関係することによって感情を得、自己の状態と考えられるのだ。感情とはこの統一的体系の状態だ。斯くして渇という有機感覚が自己の状態と考えられると共に、水を飲むといういわゆる目的観念が起こって来る。しかし目的観念もまた目的観念そのものとしては、単なるいわゆる知的表象にすぎない。その結果は単に外界の事実に過ぎない。だがこれ(水を飲む)が目的として考えられるのは、これが自己の状態として感情を伴う故だ。目的観念の真の内容は、外界の事物ではなく、自己の状態そのものだ。自己が自己自身(自己の状態=感情)を目的とするのだ。
 右に述べたような欲求我と知識我の関係を明らかにするため、我々は物と心の区別、我と非我の対立について考えてみなければならない。自我とはいかなるものだろうか。自己が自己を省みる、知るもの(我)と知られるもの(我)とが直ちに一だ。ここに自我の真相がある。物にあっては知るもの(我)と知られるもの(物)が異なっているが、自我においてはこの両者は一でなければならない。物は知られると否とに関せずそれ自身にて存在すると考えられるが、知られない自我は存在し得ない。もしこのような自我があるというならば、それは自我ではなく物だ。超越的自我(自己を超越する自我=経験界の事物)というも、我々の意識を超越して意識と無関係であるというのではない。我々の意識成立の深き根底をなすものだ。自己同一の最も深き根底だ。この意味において(超越的自我は)最も直接である自己だ。我々が自己の内容と考えるものは、かえって反省された自己だ。外面的たるを免れない。自我があるということは、物があるということと同意義ではない。自己自身の尾を食うことによって生きる蛇のように、自己は自己自身を滅し行く所に、真の自我(対象化する自己)があるのだ。働きの中に働くもの(真の自我)があるのだ。フィヒテがIch setze im Ich dem teilbaren Ich ein teilbares Nicht-Ich entgegen(我において、我は分割可能な我と分割可能な非我とに対立する?)と言うように、主から客へ、客から主に移り行く所(働き)に、真の自我があるのだ。龍樹が如水居熱際、処熱覚悟非、寒際理亦然(?)というように、真我は有無の際にあるのだ。非我の対立によって限定された我は、真の我ではない。真我は非我そのものを定立するもの(対象化するもの)でなければならない。すなわちdas Ich setzt selbst als beschrankt durch das Nict-Ich(自我は自らを非我によって制限されるものとして仮定する?)の実践的自我でなければならない。要するに我々の自我の本体(対象化する自己)は内面的必然の推移にあるのだ。意味即事実である内面的推移の体系が自我だ。この間(内面的推移の間に)、些少の間隙を容れれば、忽ち自我は失われるのだ。これ故に自我は最も具体的な実在だ(思惟によって対象化された主観は、抽象的だ)。自我は主観ではなく、主体subjectum(西田の指す、連続体、一般的なるもの。自覚に於ける直観と反省を参照)だ。すなわち最も客観的なものということができる。この意味において意志行為そのものの中に自己があるのだ。我々の意志はその始において物に接し、その終においてまた物に接している。渇も未だ自己でない。水を飲み終えた時も自己ではない。自己は前者(渇き、主観)から後者(水を飲み終えた時、客観)に至る推移の作用にあるのだ。意志の目的はその終点ではなく、その過程にあるのだ。意志において主観が客観に結合するというも、相対的主観(対象化された主観)から相対的客観(対象化された客観)に結合するのではない。かえって(主観と客観を統一した)具体的自我を実現するのだ。自我(主体)の本質を明らかにするのだ。
 視るということがあって色があり、聴くということがあって音があり、考えるということがあって物がある(作用があってその内容がある)。与えられたものは求められたものであると考えることもできる。斯く考えればいわゆる知識対象界も自我の一部と考えられるのだが、また一方からはこのような知識界の中心である自我、すなわち知識我と、渇して水を求め飢えて食を求める自我、すなわち欲求我とは、その間に大なる相違があるように考えられる。この疑問はいかにして解くべきだろうか。我というのは単に知識対象界の中心というようなものではない。カントがすべての知識に伴うと言った“Ich denke(我は思う?)”の「我」とは単なる符号ではない。(我とは)一つの創造作用でなければならない。そうでなければ我々はこれを真の自我ということはできない。否、「我」という意識すらも生じないのだ。自己は知識対象界を含むものではあるが、この対象界が直ちに自己ではない。あたかも渇の感覚、手の運動、水を飲むなどという変化が、単なる知識的対象の系列としては、その間に何らの自己を見出すことはできないのと一般だ。ただ、我々はこれらの系列の統一の上において、一つの人格性を見出すことができる。そしてこれらの対象は、かえって人格的状態としてその中に含まれるのだ。知識我の意識も知識的対象すなわちいわゆる客観的世界と、第二次的性質から成る主観的世界との闘争の上に現れるのだ。否、(知識我は)この関係(客観的世界と主観的世界の対立)を成立させる内面的統一だ。第二次的性質の世界(主観的世界)も、要するに一個の客観界だ。真の自我はこの中にあるのではない。自我は主観と客観の相触れ相摩する所に存するのだ。かつて言ったように我々の意識界すなわち現実界というのは、Aktualitatsbegriff(実在概念)による、意味すなわち実在の世界だ。純なる意味の世界は、それぞれのアプリオリの上に立つ。論理、数理の世界は純粋思惟のアプリオリの上に立ち、色や形の世界は純粋視覚のアプリオリの上に立つ。我々の意識界とはこのようなアプリオリの結合の世界だ。アプリオリというのは単に静的な形式ではない。意味の世界の構成作用だ。意識とはこのような作用の結合だ。我々はこのような作用の内容(例えば、見えるもの、聞こえるもの)に対して、作用そのもの(視覚作用、聴覚作用など)を主観と考える。自我とはこのような作用の結合点だ。無限なる作用の作用(作用を統一する作用)だ。このような作用そのものを統一する作用は、その内容として種々なる意味の結合から成る世界を持つ。我々のいわゆる経験的事実の世界とはすなわちそれだ。我々のいわゆる経験的事実の世界は、自我のアプリオリの上に立つということができる。ただ作用の作用である自我の統一の立場においては、作用そのものもこれを対象化することができるが故に、すなわち反省することができるが故に(例えば作用そのものの統一の立場においては、「今私は見ている」と視覚作用そのものを反省することができる)、この立場の上に立つ対象界は自ら相反する二種の世界に分かつことができるのだ。すなわち我々は二種の経験的事実の世界を持つこととなるのだ。一つは各作用の内容の結合から成ると見られるべき客観的事実の世界、すなわちいわゆる自然界であり、一つは作用そのものの結合から成ると見られるべき主観的作用の世界、すなわちいわゆる意識界だ。これ故に、我々の経験的事実の世界は、一方において純なる客観界すなわち自然界に属すると考えられると共に、一方において純なる主観界すなわち心理学者のいわゆる意識界に属すると考えられるのだ。しかし真の自我はこのいずれにもあるのではない。いわゆる客観界の中に求めて得ざるは言うまでもなく、いわゆる主観界の中にもないのだ。かえってこの両界(自然界と意識界)は自我(作用を統一する作用)の上に立ち、この両界(自然界と意識界)の触れる所に自我(主体)があるのだ。現在の世界(自然界)がそれ自身を反省し自覚して更に大なる世界(意識界)に転じ行く所に、真の自我(主体)があるのだ(たとえば「見えているもの」は自然界だが、「今私は見ている」と自覚することによって、視覚作用の属する意識界に転じ行く)。自己はベルグソンのduree interne(内面的継続=純粋持続?)のように無限の流動だ。斯くしてフィヒテのIch setze im Ich dem teilbaren Ich ein teilbares Nicht-Ich entgegen (我において、我は分割可能な我と分割可能な非我とに対立する?)という語の真意義を解することもできるのだ。
 右のように考えることによって認識対象の世界が我々の自我によって動かすことのできない客観界と考えられると共に、一方において自己の一部と考えられる所以を解することができる。渇して水を飲むというようないわゆる肉体我の根底において、すでに理性我すなわち知識我の立場が含まれている。我々がある物を意識するという時、我々はすでに作用統一の立場に立つのだ。自由の立場に立つのだ。表象するということすらすでに自我が自由の立場に立つことを意味している。高次的実在(作用統一の立場)の成立を意味している。欲求とか満足とかいうのは、この立場(作用統一の立場)において現れ来る事相だ。この立場においての実在は、己に反するものによって己自身を立するのだ。水が自己でないのみならず渇そのものも自己ではない。水の性質は渇の対象となるか否かによって変じることはないと考えられるが、このような意味の水の性質というのは他の自我(知識我)に対する水の性質であって、渇的自我(肉体我)の対象としての水の性質ではない。渇的自我の対象としての水の性質とは、渇を充たすことによって起こる水の性質だ。すなわち水の味に外ならない。渇的自我が水の性質を創造すると考えることができる。なお知的自我(超越的自我?)が知的対象界を創造すると考えられるのと一般だ。このようにそれ自身において完全な一つの世界においては、主観と客観は相対的だ。主観によって客観が立せられ、客観によって主観が立せられるのだ。渇も、これに対する水の感味も、他によって説明はできない。※Tantalus(タンタロス。ギリシャ神話の登場人物)のそれの如き渇的自我(肉体我)の世界は、この両界(主観界、客観界)の無限なる循環だ。
※ 引用 タンタロスとは 

我々の具体的自我とは、このようなそれ自身に完全な世界の結合だ。いわゆる肉体我の根底にも深き理性我が潜んでいる。自我は無限なる作用の統一だ。我々が動かし難き客観的世界と考えるものも、このような自我の対象界に過ぎない。この場合においても、自我は自己に反するものによって自己を立するのだ。意志的動作とは主観的内容から客観的事実に転じることであり、心によって物を変じることであると考えられるが、自己(意志)は自己(主観的内容)の中に自己(客観的事実)を実現し行くのだ。自己によって自己を変じ行くのだ。意志によって自己を実現し行く行先は、自己の外にあるのではなく、自己の深き根底(理性我)にあるのだ。真に客観的なものは内面的必然の体系だ。意志において、いわゆる主観界といわゆる客観界が内面的に結合するのだ。内面的に結合するということは、相対的な二つの抽象的世界(主観界と客観界)が合して、一つの具体的全体を成すことだ。換言すれば、両者がその根本に還ることだ。私が意志して手を動かしたというのは、単に私の意識の中に手を動かすという観念が現れたと同時に、外界において私の手が動いたということではない。単に時間上同時成立というのみにて意志行為とは言われない。この間に一種の内面的統一の感(内面的必然の感)がなければならない。意志的動作において体は霊を求め、霊は体を求めるのだ。心理学者は、我々が運動の感覚を想起することによって直ちに運動に移るとなし、完全に異質的なるもの(想起と運動)の偶然的結合であるかのように考えている。しかし少なくとも私が意志したと共に外界において手が動いたと認める自己は、内外(想起と運動)の対立を超越してこの両者を統一するものでなければならない。我々の思惟作用はこのような(内外を統一した)具体的全体を示すものだ。そしていかなる意志も、本質的にはこれ(思惟作用)と同じく内外の対立を超越してその根底となる具体的全体だ。この意味において意志の体験は時間、空間の形式を超越した超認識的意識だ。手の運動の意識の場合においても、厳密に考えれば運動の意識と運動そのものと二つあるのではない。具体的にはただ運動の経験あるのみだ。直接経験の事実としては、運動の経験がそれ自身を発展したというに過ぎない。我々に直接な具体的経験はすべて発展的だ。フィヒテのいわゆる事行だ。ある場合において、我々は他の感覚の証明によって、客観的には運動が起こらなかったと考えることもある。しかしこの時、我々は感覚の世界から概念の世界に立ち入っているのだ。そして純なる感覚の世界においては、手の運動の感覚と、視覚における手の位置や運動と言うことは、全く異なったものでなければならない。我々がこの両者を一と考えるのは、時間、空間及び因果の形式によって構成された概念的対象界において、この両者を結合し得るからだ。しかし単にこのような時空の形式や範疇によって、種々なる経験内容が統一されるというだけでは、意志的動作という考えの起こり様はない。純知識的には私の身体も外物も完全に同一だ。私の意志とか私の身体とかいう一種の統一が成り立つには、(時空という形式、範疇を超越した)超認識界において経験内容の純なる内面的統一がまず与えられていなければならない。すなわち経験内容そのものが動くということによって成立するのだ。我々が手を動かそうとしたが、手が麻痺していたため動かなかったという場合でも、もし私の目的が単に運動の筋覚にあったならば、それにて意志は実現されたのだ。ただ、我々はどこまでも知識我において承認されることを求めるのは、すなわちどこまでも客観化を求めるのは、自然界において自然現象として認められようというのではない。自我の根底である知識我に結合しようというのだ。我々の自我は作用の無限な連続であるが故に、その極限に達しようとするのだ。理性我(知識我)は自我の極限だ。これに達することによって、内外の区別を打破して、自然は自己の象徴となることができるのだ。
 以上述べたように、意志の本質は普通に考えられるような意味において、内から外に移るとか、主観的内容を客観化するとかいうことではない。かえっていわゆる主客、内外の対立は意志の上において可能であるのだ。直接経験の上においては、主もなく客もなく、内もなく外もない。ただ自己自身の中に充足理由を持つ無限の発展あるのみだ。判断において主語と客語の対立が統一者の上に成り立ち、推論式において小語と大語の対立が一般者の上に成り立つように、主観、客観の対立、物と心の対立は意志の上において成り立つのだ。我々は意志の自覚において、主客の対立を超越し、これ(主観と客観)を包容する具体的実在の世界に入る。意志とはこのような具体的経験の形式だ。意志の目的とは、このような形式の上に現れ来る内容だ。具体的経験における主客統一の意味が、意志の内容となるのだ。この意味において意志とは一般(主)と特殊(客)の内面的結合の形式であって、意志の内容とは一般と特殊の結合の意味であると考えることができる。抽象的なもの、部分的なもの(主観的内容、客観的事実)が、具体的全体(意志)に還る所に、意志の本質があるのだ。すべての実在界は、我々の精神界から自然界に至るまで、すべてこの形式(意志の形式)の上に立つと考えねばならない。意志は実在界の極限であり、その具体的根元だ。意志の世界は純なる時間の世界だ。無から出て無に入る世界だ。そして流れると共に流れない「時」は、一般と特殊の内面的結合だ。一般なるものの内面的発展(内面的推移)の形式だ(例えば論理と数理の場合、論理に対して相対的に一般的なるものである数理の内面的発展によって、論理という特殊から一般である数理に至る。時はそのような「一般なるもの」の内面的発展の形式である、ということ)。

意志の内容



 我々は知識においても、意志においても、主客合一の境に達しようとするのだが知識においては、主観が客観に従い、意志においては主観が客観を従えると考えている。しかし我々の主観を以って客観を動かし様はない。客観的対象界は我々によって意識されると否とに関せず、それ自身にて完全な世界だ。我々は数理を変じることもできない。また自然界を動かすこともできない。我々の動かし得るものは、ただ我らの意識現象あるのみだ。否、我々の意識現象といえども、我々が自由に動かし得るものではない。斯く考えれば、意志の立場は全く無くなってしまわなければならない。すなわち自由意志は幻想に過ぎないと考えられるのだ。しかし翻って考えてみれば、認識対象の世界は意識界に依存すると考えることができ、しかも意志は意識現象の根本的形式と考えることができる(「意志」を参照)。我々は認識対象の世界と対立して意志対象の世界を持つ。前者(認識対象の世界、自然界)はかえって後者(意志対象の世界、意識界)の上に立つと考えることができる。このような意志対象の世界とはいかなる内容を有するものだろうか。
 純論理的対象として或物を他物から区別する場合、すなわち単に論理的にある意味を固定する場合、このような区別が成立するには、その根底に両者(或物と他物)の統一がなければならない。白を黒から区別する心そのものは白でもなければ黒でもない。或物を他の物から区別するheterogenes Medium(同質的媒介者)は或物でもなく、他の物でもなく、その二者を超越して、しかもこれを成立させるものでなければならない。両者に対して超越的であると共に内在的だ。両者(白と黒)と同一の意味にて、これを限定しようとすれば、矛盾に陥るのだ。統一そのものの立場から考えてみれば、或物を或物として他から区別するということは、論理的一般者が己自身を限定することと考えることもできる。この場合、論理的一般者というのは純なる思惟作用そのものだ。物の内面的構成力の謂だ。一般と特殊の関係は、作用(一般、物の内面的構成力)と結果(特殊、内容)の関係だ。否、(一般と特殊の関係は)有機的(有機体のように、多くの部分から成り立ちながらも、各部分の間に密接な関連や統一があり、全体としてうまくまとまっているさま)でなければならない。斯く我々が純なる思惟作用として或物を限定する時、すなわち純なる思惟作用を定める時、もしこの思惟対象が何らかの経験内容を有するとするならば、例えば、我々が赤をして赤として思惟するならば(思惟対象が赤という経験内容を有するならば)、限定するもの(作用、形式。この場合視覚作用)と限定されたもの(結果、内容。この場合赤)は分かれて二とならねばならない。作用と結果、形式と内容は分かれて二とならねばならない。しかし純なる思惟対象(思惟対象の性質が単に思惟対象であるだけで内容を持たず、無内容(=純論理的)の場合。例えば「甲は甲である」の甲)においては、限定作用そのものが限定の内容だ。そして或物を或物として他の物から区別するという限定作用は、その裏面において他の物を他の物として、或物から区別する限定作用を含んでいなければならない。すなわち定立の裏面には反定立を含んでいる。肯定の裏面に否定を含んでいる。限定作用の内容が単に限定そのものに過ぎない時(限定作用の内容が、経験内容(例えば、赤など)を持たない時)、定立と反定立、肯定と否定は直ちに交換可能と考えられる(思索と体験における「論理の理解と数理の理解」を参照)。無論、肯定作用が直ちに否定作用であるというのではない。従って或物が直ちに他物と同一であるというのではない。フィヒテも言っているように-A nicht=A(非A=Aではない?反定立)はA=A(定立)から導き来ることはできない。前者は後者と同じく根本的だ。ただ、この両者(定立と反定立、肯定と否定)は具体的思惟作用(論理的一般者)の両面として不可分離だ。論理的一般者のMomente(モーメント?)だ。我々はこの具体的な論理的一般者の立場において、肯定と否定と、定立と反定立を交換可能と考えるのだ。しかし斯く肯定から否定に、否定から肯定に移るというのは、(思惟)作用そのものの内面的必然であって、他によって然る(そうなる)のではない。我々はここにおいて作用と作用の直接の結合の最初の例を持つのだ(肯定作用から否定作用、または否定作用から肯定作用への内面的必然の推移=作用と作用の結合)。いわゆるAktualitat(実在)の統一、すなわち意識現象の形式、意志の形式(一つの意識内容から他への推移という意識の根本的形式)の最も単純な形を見ることができるのだ。純論理的一般者というのは、このような作用の統一だ。意識現象としてはこれを思惟作用というのだ。この場合においては、考えるものと考えられるものは未だ分かれていない。作用(考えるもの、思惟作用)と対象(考えられるもの、客観的対象)と未だ分かれない(思惟対象が内容を持っていない)。未だ主客の対立がないと言ってよい。しかし一たび肯定と否定の総合によって具体的思惟の立場が構成された時、すなわちhomogenes Medium(同質的媒介者)の立場が構成された時、我々はこのような総合的立場の対象として「一」die Einsを持つ。「一」は位置によって変じない。何処にても「一」だ。「一」は完全な具体的純粋思惟の対象だ。これにおいて、我々は既に主客対立の端緒を見ることができる。「一」は(或物と他物を総合した)具体的思惟の対象として、これを或物として見ようが、他の物として見ようが、これらの見方の変更に関係はない(一はどのように見てもよい)。このような「一」に対して、これを或者として見るとか、他の物として見るとかいうような純論理的立場は、主観的作用となる。ここに考えるもの(主観的作用)と考えられるもの(客観的存在)との対立が成り立ち、はじめて客観的存在の範疇が生じるのだ。我々ははじめて非合理的要素(客観的存在)に撞着するのだ。しかし或物から他物を反省し、他物から或物を反省し、具体的思惟対象「一」を構成する創造的立場はTathandlung(事行)として、その中に無限の発展の意味を蔵している。肯定と否定の合一、すなわち反省する立場(肯定)と反省される立場(否定)の合一は、我々の自覚の根本義であって、このような総合的立場の成立は自己自身を対象とする。否、自己自身(反省する立場)によって対象(反省される立場)を創造する無限の活動(事行)においてのみ可能なのだ。「一」は他から与えられた思惟の対象ではない。思惟自身の創造だ(論理的一般者の内面的必然の推移だ)。思惟が思惟を反省することによって、すなわち自己が自己を反省すること(自覚すること)によって、「一」が創造されるのだ。そして一度の可能(一度の構成の可能)は無限の可能(無限の構成の可能)を含んでいなければならない。そうでなければ「一」は死物だ。定立と反定立の交換合一も不可能だ。「一」は作用(思惟作用)を離れた対象ではない。ここに数学的知識の先見性の根拠があるのだ。これらの論理的一般者の発展の過程を論じるのは、今私の目的ではないが、具体的思惟対象「一」を創造する総合的立場がTathandlung(事行)として無限に創造的であるから、論理の基であると同時に数理の基であるclass-concept(集合概念?)が成立すると思う。「一」の無限な繰り返しから、いわゆる※外延の考えができ、翻ってこれらの対象を反省し統一することからいわゆる内包の考えができ、反省的方向が無限に可能であることからclass of classes(種類の集合?)の考えができる。
※ 引用 外延と内包とは 

classとclassとの外延の一々的対応の比較からKardinalzahl(基数)ができ、種々なる統一の方向すなわち内包の意義からOrdnungstypen(順序型)の考えができる。すなわちOrdinalzahl(順序数)が成立するのだ。そして斯く一方において、無限の分割(外延)であると共に、一方において無限の統一(内包)である論理的一般者の自覚的顕現は、遂に連続数の考えに到達するのだ。我々はこのような論理的一般者の自覚的顕現(内面的必然の推移)において、すなわち純粋思惟の体験において、早く既に一般と特殊、形式と材料の深き内面的対立及びその関係を見得るのみならず、精神界と自然界の対立及びその関係を見ることができると思う。class-concept(集合概念?)において、その内包的方面が心的となり、その外延的方面が物的となる。前者(内包的方面)は作用の性質となり、後者(外延的方面)はその(作用の)対象となると考えることができるのだ。
 しかし我々の全人格の体験は、思惟の体験によって尽くされない。すべてがその具体的状態においては、純なる作用だ。我々の人格的統一というのは、これらの作用の直接な統一だ。ここに直接の統一というのは思惟によらざる統一、思惟以前の統一ということだ。我々にこの(直接の)統一の証明を与えるものは情意の意識だ。情意の意識が人格的統一の意識内容を与えるものだ。思惟の立場に立って全人格の体験内容を統一した時、すなわち思惟によって経験内容を統一した時、いわゆる経験的事実の世界ができる。我々の経験界とは、思惟の立場から全経験の内容を見たものだ。(経験界は)思惟中心の人格的立場、すなわち思惟と直覚の結合の立場の上に現れる対象界だ。かかる立場(思惟中心の人格的立場)において経験内容を統一する形式、すなわち思惟と直覚の結合作用の内容は、もはや純なる数の如きものではなく、時間、空間、因果の形式でなければならない。力学の対象界はこのような作用(思惟と直覚の結合作用)の純なる内容を現すものと考えることができる。物力とは純なる意志(ここでは純なる思惟と直覚の結合作用の内容のこと)が思惟によって対象化されたものだ。思惟中心の総合的立場に立って全人格的経験を統一する時、思惟に対立する他の作用の内容(直覚的な内容)は非合理的な物力として思惟我、すなわち反省我に対立するのだ。すなわち我々の自我に対立する自然界というものが成立するのだ。厳密に考えれば、論理、数理の如き純理の世界において既に含まれていた主客の分立、作用(主)と対象(客)の対立はこれ(自然界)に至って明らかにこれを見ることができるのだ。思惟中心の総合的立場の対象界として現れ来るいわゆる経験界において、我々は明らかにSubstantialitatsbegriff(実体概念)によって成る自然界とAktualitatsbegriff(実在概念)によって成る精神界の対立を見ることができる。抽象的一面(実体、自然)と具体的根本(実在、精神)の対立を見ることができるのだ。我々は思惟の立場から赤の体験を対象化して、「赤きもの」das Roteを考える。「赤きもの」といえば、思惟に対しては非合理的となる。赤の体験が青の体験に変じた時、思惟の立場から赤い物が青い物に変じたと考える。いかにして斯く変じたかは思惟において理解することはできない。すなわちその理由を(数理のように)思惟作用の内容中に見出すことはできない。非合理的だ。これにおいて、思惟の立場からは、この変化の統一者として、これらの変化の背後に物体を考えざるを得ない。しかし直接には赤の体験(直覚的体験)は思惟の体験と同じく、純なる作用だ。赤の体験が青の体験に変じたというのは、純なる作用と作用の直接結合だ。作用から作用への内面的推移だ。その間一毫の疑義を容れるべき余地もない。意識現象においては、一つの意識は決して孤立的なものではない。意識はいつでも対立の状態において現れる。Einheit des Mannigfaltigen(多様性の統一?)だ。赤から青への推移を意識するものは、この両者の根底に横たわる統一の意識だ。具体的意識は個々の感覚の結合ではなく、連続的だ。このような(両者の根底に横たわる)連続的統一がすなわち視覚作用(一般)だ。この点から、我々の意識は一般的なるもの(連続的統一、作用)の内面的分化発展といってよい。色の意識は色の概念(意味=作用)の分化発展だ。ここでは意味即実在だ。我々が認識対象界の上に、すなわち自然界の上に赤から青への推移を投射して、その背後に一つの統一者すなわち物を考えるには、まず体験において思惟作用と視覚作用の直接の内面的結合がなければならない。赤と青の経験は性質的に異なるにもかかわらず、我々がこれを一つのものの変化として考えるのは、何によるか。色において変じるにも拘わらず、これを一物と見るのは他の感官の証明によるとも言い得るだろう。例えば一枚の紙が色において変じたとしても、触覚において不変と考えることもできる。更にまた質において異なる種々なる感覚の統一は、空間的関係によると考えることもできるだろう。空間的関係とは、質において異なる種々の体験を思惟によって統一する形式だ。しかし斯く空間によって種々の経験を統一して一つの物を考えるには、まず体験においてこれらの作用(思惟作用と視覚作用、聴覚作用など)の総合的統一がなければならない。すなわちまず作用と作用の直接の内面的結合がなければならない。このような思惟中心の内面的統一の世界がAktualitatsbegriff(実在概念)の上に立つ我々の意識界だ。異質的な種々の経験の統一の基は、我々の意識の直接の証明にあるのだ。我々の意識界とは、自己の対象である自然界に対する思惟中心の人格的作用(作用の直接な統一)の反省だ。思惟に対立する非合理的体験(直覚的体験)が独立の作用として己自身を維持しようとするから、ある程度までこれらの作用の独立を許す統一(人格的作用)ができなければならない。すなわちいわゆる意識現象界というものが現れなければならないのだ。
 以上述べたような考えを背景として、内省的に意志の性質を考えてみよう。物の客観的性質は、我々の欲求の対象となると否とによって変じることはない。水は渇者によって要求されると否とによってその性質に増減はないと考えられるが、水が渇者の欲求の対象となるのは、その色や音によるのではない。水が味を有するによるのだ。そして味は渇によって起こるのだ。これと同じく色は眼の欲求によって、音は耳の欲求によって起こると考えることができる。コーエンのいわゆる与えられたものは、求められたものだ。斯く言えば、単に主観によって客観が与えらえれるように考えられるかもしれないが、我々の要求というのは、言うまでもなく実現されるべきものだ。すなわち客観化されるべきものだ。渇者の欲求(主観)と水の味(客観)は、互いに独立して意味を成すことはできない。我々が暗室において不愉快を感じるのは、眼は見ることを求めるによるのだ。渇の欲求はただ水の味によって満たされるように、眼の欲求はただ色や光によって満たされるのだ。欲求と欲求される物の性質、欲求と対象の客観的性質の間には、分かつことのできない内面的関係があるのだ。我々の欲求は、実現の対象が与えられて初めて理解することができる(例えば、色や光がなければ眼の欲求はない)。我々の感覚的性質の種々なる分化すら、外界刺激の性質の相違に従って起こったものと考えることができる。生物の本能というのは、このような内外(主客)の統一作用だ。斯く考えれば、前と反対に(主観によって客観が成り立つと考えられたのと反対に)、我々の種々の欲求はかえって客観的性質によって起こされると考えることもできる。要するに、フィヒテがIch setze im Ich dem teilbaren Ich ein teilbares Nicht-Ich entgegen(我において、我は分割可能な我と分割可能な非我とに対立する?)と言ったように、(内外、主客は)一つの作用の内面的対立に過ぎないのだ。そして意志行為とは、我々が絶対的な立場に立ってこの両端(内外、主客)の統一を図るのだ。これを一つの作用が己自身を発展完成すると言ってもよいのだ。ある一つの欲望が起こった時、我々は単にこれを内面的と考えるのだが、その中にすでに対象への関係が含まれていなければならない。客観的対象が内在的でなければならない。それは内外統一の純粋作用の一端として成立するのだ。意志において我々は自己の主観性を滅して客観的たらんこと(主客を合一すること)を求めるのだ。内から外に出でんことを求めるのだ。意志は己自身を滅することによって、己自身を完成するのだ。もしこの客観化的傾向が十分でなかったならば、意志は単に欲望の状態において止まる。すなわち単に主観的だ。あるいは逆に(内外を統一する)純粋作用の不完全な状態が主観的と言ってもよいのだ。例えば有理数の体系において一から無限に数え行く時、一つの作用の内容が充実されていくと考えることができるだろう。また我々が視覚の発達によって、これまで識別することのできなかった色や光を見得るようになったとすれば、視覚作用の内容が充実されていくと考えることができるだろう。我々はこれらの作用を自我の作用として、一種の意志行為と考えることができる。【有理数の体系という一つのgroupの性質とか、色の一般的性質とかいうようなものが作用の性質となり、その結果として現れる内容が物となる】。しかしこれらの場合において作用の発展(作用の内容の充実)が一種の意志の実現と見られ得るとしても、これらの場合のように一つのアプリオリの発展として、作用と対象が合一する時は、これを意志の実現と見ることができれば、これを知識の発展と見ることもできる。かかる場合、知(知識)と意(意志)と未だ分離しない。働くもの(意志)と働かれるものと(知識)一である。それでは知と意の区別はどこから起こって来るか。有理数が無限に数えられ行くのが一種の意志の発展と見ることができるとしても、このような作用はその終極に達することはできない。どこまでも未完だ。ある一つの作用が完成された時、ある一つの要求が満足された時は、その作用が他によって総合された時だ。(水によって)渇が満たされた時、渇の作用は消滅するのだ。ある一つの問題が解決された時、またある欲望が満たされた時、我々は満足を感じるのだが、このような精神的満足の場合、一つの作用が具体的総合作用の中に溶かされるのだ。ヘーゲルの語を以って言えばaufheben(止揚)されるのだ。物質的見方から言えば、一つの作用が消滅すると考えられるだろう。しかし精神現象においては、超越された作用は、超越した作用の中に含まれるのだ【数学的思惟の中に論理的思惟が含まれるのだ】。ある一つの欲求を満たすことによって、すなわち意志実現によって、我々の人格はそれだけ具体的となるのだ。豊富となるのだ。大なる人格はシェイクスピアがmyriad-minded(万の心を持つ?)と言われたように、すべての人の欲求に同情し、すべてを体験し得るのでなければならない。真の欲求の満足とか意志の実現とかいうことは、作用の統一、作用の作用(作用を統一する作用)の上に現じる事実だ。このような作用の作用、アプリオリのアプリオリ(具体的総合作用)の上において、はじめて主客の対立が明らかとなり、知(知識)と意(意志)の区別を見ることができるのだ。私は※理性と意志は本質において同一の作用であると思う。共に作用の統一作用であると思う。
※ 引用 理性とは 

ヘーゲルも“Philosophie des Rechts. Einleitung.§5”において、意志はdie schrankenlose Unendlichkeit der absoluten Abstraktion oder Allgemeinheit, das reine Denken seiner selbst(絶対的な抽象性または普遍性の無限、それ自体の純粋な思考(=理性?)?)を含むと言っている。意志するということと、(理性により)認識するということの間には、離すことのできない関係があると思われる。我々は意志において単にあることを欲望するのではない。目的の事実を欲するのだ。これが決意の本質だ。目的が客観的に実現されるということは、目的が客観的対象界において承認されることだ。ここに客観的意志と主観的欲求または単なる衝動との区別がある。衝動的生活においては単に主観的感情を満足させるまでだ。これ故にその満足が(意志実現ではなく)他の力によるも差し支えない。要するに無意識に起こるすなわち自然から起こる欲求的圧迫(飢え、渇きなど)を去ることができればよいのだ。このような衝動的生活は真の自我から見れば、自然現象と異なることはない。我々の意志の目的というのは、これに反し理性によって承認されたものでなければならない。理性我の欲求でなければならない。理性によって承認されるということは、作用の作用(作用を統一する作用)である統一作用によって認められるということだ。自然の欲求はこれ(理性の承認)において超自然的意義を得るのだ。その満足は単なる主観的感情の満足、すなわち自然的欲求の圧迫の除去によって得られるのではなく、認識対象界におけるある事実の実現(客観的事実の実現)によって得られるのだ。理性を有するものは自然的欲求を抑えることによって、かえって満足を得るのだ。意志において単に主観的欲求の満足を求めるように思われるも、深くこれを考えれば、客観界における自己の実現を求めるのだ。この時、自己が既に客観化されていなければならない。いかに自然の衝動に従う場合においても、仮にも理性を有するものにあっては、満足を求めるものは自我であって衝動ではない。自我は自己を客観視することによって自己の世界を構成し、自己の構成した対象界の関係によって自己の満足を得るのだ。知識の対象界である自然界と、意志の対象界である自我あるいは意志行為との関係は、あたかも味自体と味覚作用の関係、色自体と視覚作用の関係のようなものだ。色の無限な連続が視覚作用であり、逆に言えば無限の連続である視覚作用のある限定が色自体(意味)であり、それ(色自体、意味)がデデキントの切断のように全作用の一点として見られる時、色の感覚となる。感覚は連続の切断としてその中(意味の中)に全体(連続)との関係を含んでいる。視覚の要求を含んでいる。無限な作用の統一作用である理性の立場に立つ時、このような統一作用の無限な連続の一限定として(理性の一限定として)、一つの認識対象の世界ができる。このような(作用の)無限の連続そのものが意志であって、その一限定が思惟だ。知識(思惟)は意志の一限定作用だ。意志作用全体の立場から言えば、我々の認識対象界は味自体とか色自体とかいうようなもの(意味)に当たり、この世界が具体的全体すなわち他と無限なる関係において置かれた時(意味が具体的全体をその中に含む時)、あたかも味が渇の対象となり、色が視覚の対象となるように、(認識対象界は)行為の対象となるのだ。この時いわゆる客観界(認識対象界)はかえって主観的(意志対象の世界)となり、現実の世界は無限に可能なる世界の一つとして、単に欲求された世界、意志実現の過程となる。自我とは一つの世界と他の無限なる世界との関係、すなわち具体的全体との関係を示すものだ。味が全体との関係を内在的に含むことによって、渇の欲求となるのと一般だ。我々の自我というのは、このような認識対象界の世界と世界の連鎖であって、自我の実現というのはこのような対象界の推移において現ぜられるのだ。意志は行為自身において満足し、そして行為とは認識対象界の純粋な推移だ。ここに自我の目的があり、自我の満足がある。もし自我が認識対象界そのもの(例えば味自体などの意味そのもの)を目的としてこれに固定(固執)した場合には(自我が部分の中に全体を含まない味自体などの自然的欲求に固執した場合には)、意志は意志の本質を失い自然の束縛する所となるのだ。
 私はこれにおいて意志の哲学的本質を明らかにし得ると思う。我々の直接経験、否、真実在は作用と作用の無限なる結合だ。このような作用と作用の直接の結合がすなわち意志だ。作用と作用の自ずからなる結合が意志だ。純粋思惟の体験において、論理から数理に至る際においても、厳密に言えば既に意志(作用と作用の自ずからなる結合)の面影があると言ってよい。ただ、作用と作用の統一(作用を統一する作用)である人格的統一において、明らかに主客、物我相対し、自然と精神、物力(知識)と意志と相対するに至るのだ。この統一作用が(理性による)認識作用であり、その対象界が物の世界だ。しかしこの限定作用(理性による認識作用、思惟作用)は意志の一切断であって、数学者のいわゆる切断Schnittのように全体との関係において立つ。すなわちその中(認識された物の中)に全体との関係を内在的に含んでいる。これ故に物の裏面には自我を含む。物と我とは相関的だ。各人の世界は各人の自我によって異なるのだ。自我とは一つの世界と無限なる他の世界との結合点だ。自我はいつでも超自然的だ。自然の法則によって割り切ることのできない余剰だ。これ(自我)において物我相対し、物の背後に不可知的な物力が考えられ、我の背後に主観的欲求が考えられる。ただ、(主客の)統一作用が自己の全体の立場に立つとき、すなわち意志の立場に立つ時、内外を打して一つの行為となる。自然界は意志実現の手段となり、自然法はカントのいわゆるTypus(型)となる。故に意志はいつでも超自然的だ(自然法を超越する)。倫理的自由だ。心理学者のいわゆる意志は対象界に射影された意志だ。物力の複雑な結合に過ぎない。意志は倫理的自由の意志として、はじめてそれ自身の意味内容を有するのだ。


 意志の本質が以上述べたようなものとして、意志の対象界及びその内容はいかなるものだろうか。ブレンターノの言うように、精神現象が物体現象と異なる所は対象の内在性にあるとするならば、意志の本質を明らかにするには意志の内在的対象を明らかにせねばならない。実験心理学者は、精神現象においては要素の総合によって新たな意味内容を生じると言いながら、ただこれ(意味内容)をその要素に分かち、その結合を説明するだけにて満足しているように見える。単に精神現象の因果的生起を説明して、その本質を説明し得たと信じている。自然現象においては、種々なる性質は実在の符号であって、それ自身の実在性を持たないから、これらの現象を時間的、空間的に分析して、その因果関係を明らかにすれば足りるのだが、精神現象においては、その内面的統一、その内面的発展を明らかにせねばならない。すなわち下から説明するのみならず、上からも説明せねばならない(形而上的に説明しなくてはならない?)。例えば、空間的表象は光覚や眼の運動感覚等の結合したものだが、これらの感覚そのものの中に含まれていない空間的秩序raumliche Ordnungを含んでいると考えられる。ヴントもpsychische Gebilde(精神的化合物)の性質はその要素の性質を以って尽くすことはできないと言っている。空間的表象は実にこのような空間性(空間的秩序)の実在化によって成立するのだ。このような空間性とはどのようなものだろうか。いわゆる経験論者は事もなげに、空間性などいうようなものは非実在的であって、単に一般概念に過ぎないと言うでもあろう。しかし我々の精神現象においては、感覚的要素の外面的結合を以って説明することのできない新たな経験が、これによって創造されると考えるならば、それは単なる一般概念ではなくて、物力が実在的と考えられる以上の意味において実在的と考えられねばなるまい。精神現象においては、物体現象と異なって意味が直ちに実在的と考えられるのは、これによるのだ。私はこのように、精神現象において、すなわち直接経験において、新たなる事実、新たなる実在を創造するものが、認識論者のいわゆる経験のアプリオリ(作用)であると思う。認識のアプリオリとは、我々の経験を内から想像する内面的力だ。幾何学という先験的学問の基礎となる純粋空間(というアプリオリ)は、心理学において空間的表象と名付けられる新たなるpsychische Gebilde(精神的化合物)を構成する構成作用(アプリオリ、作用)であると思う。無論、このような言には種々の反対も起こるだろう。主観的な心理的空間や時間と、客観的な物理的空間や時間と全く違うというのが普通の考え方ではあるが、客観的空間というのも、要するにいわゆる主観的空間を概念的に総合統一した結果に過ぎない。その測定の基礎となるものはどこまでも主観的空間だ。空間的表象の質的相違だ。心理的個人の意識対象として主観的空間があり、超個人的意識対象として客観的空間があるのだが、両者(主観的空間と客観的空間)の根底には同一の構成作用(アプリオリ、作用)すなわち純粋空間があるのだ。このような構成作用の純なる内容が幾何学であって、経験的空間はその特殊な形の一つに過ぎない。我々の精神作用というのは、カントのいわゆるアプリオリを離れて理解することはできない。価値(意味とほぼ同義)の構成(創造)を離れて精神現象は存在し得ない。意識現象はただ(アプリオリの)目的に向かって進むものとして、目的(価値、意味)が内在的なるものとして理解し得るのだ。精神現象は対象的関係(例えば、見えるもの、聴こえるものなどというそれぞれの価値、意味)によって区別されると考えられるのはこれによるのだ。空間的表象の目的は空間の知覚だ。空間の規範に従って空間を構成するにあるのだ。この点においては思惟が論理の規範に従うのと同一だ。
 ヴントに従えば、意志とは情緒の、その終において突然、表象及び感情の内容を変じて終結する如きものの謂でなければならない。しかしこのような見方は精神現象を外から見たのであって、内から見て直ちにその本質を明らかにしたものではない。ヴントはこれを内省的事実に基づくと考えるかもしれないが、我々の経験はいずれも直接であり、内省的だ。否、元来内外の区別はない。内外の区別はその見方から起こるのだ。右のような見方は氏のいわゆるSubstantialitatsbegriff(実体概念)による自然現象の見方と何ら異なる所はない。精神現象を全体から切り離して、単に対象化し、物体化しているのだ。もし氏自身の言うように、精神現象の物体現象と異なる所以はAktualitatsbegriff(実在概念)の統一の上にあるとするならば、その内面的統一の意味を明らかにしなければならない。すなわち氏のいわゆる総合的統一の意味内容を明らかにしなければならない。自然現象においてはかかる説明は付属物であるかもしれないが、精神現象の本質はただこれ(総合的統一の意味内容)によって明らかにされるのだ。今前に空間的表象の創造的総合(具体的一般者)として、空間のアプリオリすなわち先験的空間というものを考えたように、意志現象においてこのような先験的基礎を求めるならば、それは言うまでもなく道徳的自由ということでなければならない。先験的空間によって、一方において客観的空間が成立すると共に、これに対して一方において主観的空間表象が成立するように、先験的自由によって、一方において意志の対象界が成立すると共に、一方において心理学者のいわゆる意志の現象が成立するのだ。意志と情緒の内面的相違はここにあるのだ。すべて精神現象というのはAktualitatsbegriff(実在概念)の上に立つ作用の結合であって、情緒とはこのような作用統一の状態、すなわちアプリオリのアプリオリ(作用を統一する作用)の内容を表すものだが、意志と感情の異なる所は、先験的自由の上に立つか否かにあるのだ。先験的自由ということは、相対的主観(対象化された主観)が相対的客観(対象化された客観)を動かすという意味ではない。Ich setze im Ich dem teilbaren Ich ein teilbares Nicht-Ich entgegen(我において、我は分割可能な我と分割可能な非我とに対立する?)の意味においての自由だ。かつて論じたように、感情をアプリオリの統一の内容とすれば、意志はかかる結合(作用の統一)の極限だ【「意志実現の場所」を見よ】。このような連結の極限の立場の上に、すなわち意志の立場の上に、いわゆる経験界が現ずるのだ。いわゆる客観的実在界(経験界)とは意志作用の内容に過ぎない。我々の意志の現象は普通に考えられるように内から生起するのではない。内外の統一点から生起するのだ。「目的(客観的事実)の実現可能」の意識(主観的内容)が意志の生起だ。いわゆる認識対象界(客観)を主観の中に含み得ることによって生じるのだ。この意味において意志は最初から道徳的(=先験的)だ。自我と世界との関係問題だ。厳密に言えば、倫理的意識(道徳的意識=先験的自由の意識)がなければ意志の意識はない。我々は自由を意識することによって、意志の意識が成立するのだ。そうでなければ、意志行為は情緒の表出運動と異なる所はない。無論このような言をなすには、“意志の自由”に反対する種々の議論を顧慮しなければなるまい。私は今自由意志に関する詳論に入り込む暇はないが、これらの議論の多くは意志を認識対象界に投射して自然化することより起こるのだ。しかし認識対象界に映されたものは意志の射影であって、意志そのものではないことは言うまでもない。
 我々の意志の意識が右に述べたように、自由のアプリオリによって成立するとするならば。意志の意識内容とはいかなるものだろうか。順序の交換可能、すなわち同時存在の関係を本質とする空間のアプリオリによって、いわゆる物体界が成立すると考えられるように、自由のアプリオリによって成立する意志の対象界とはどのようなものか。私は意志の意識内容の根本的性質は、一般と特殊との内面的統一ということであると思う。そして一般と特殊を内面的に結合するものは個性であるから、意志の対象は個性であると考えることができる。種々の経験内容の連結において、一般と特殊の結合はすべて意志であると言ってよい。一般から特殊に移るすなわち一般と特殊の結合ということについて、種々の場合を考えることができる。law of subsumption(包摂の法則?)に基づく普通の論理学において考えられるような一般と特殊の関係は、単に偶然的だ。例えば書籍がまず大きさによって分けられ、次に国語によって分けられたとすれば、前者はgenus(類、一般)となり後者はspecies(種、特殊)となる※のだが、このような一般と特殊の関係が偶然的であることは言うまでもない。
※ 引用 種と類とは 

我々はこの関係を逆にし、かえって後者をgenus(種)とし前者をspecies(類)とすることができるのだ。このような場合には一般と特殊の結合の内容は完全に零と言ってよい。無内容の意志と考え得るのだ。しかし無内容ということは結合の自由ということであって、単に無力ということではない。かえってすべての経験内容を結合する自由の意志と考えることもできる。私はこの点において、数学の群論(数学で定義されている群の性質を議論する理論)における単位EinheitすなわちIdentitatの考えに多大な興味を有するのだ。乗法(掛け算)をKompositionsregel(構成規則?)とすれば、零を除けたSystem der rationalen positiven Zahlen(有理数の体系?)が一つの群Gruppeを作るが、加減法を連結の法則として取れば、零と負数を入れた有理数の体系が一つの群を作り、零がその単位となる。この場合、零は単なる無ではなく、この体系に欠くことのできない要素だ。体系転換の中心だ、単位はいつでも群のNormalteiler(正規部分群?)となるのだ。次に意識内容の間に内面的関係があるものについて考えてみよう。例えば、三角形(という意味、一般なるもの)が正三角形、二等辺佐角形、不等辺三角形(特殊なるもの)に分かれるというのは、三角形の概念から見て、内面的に必然と考えられる。またユークリッドの平行線のPostulat(公理?)を取るならば、三角形のすべての内角の和は二直覚(180度)に等しいということも、内面的必然を以って証明し得ると考えられねばならない。三角形(一般)が各辺の等否の関係によって、三種の特殊な三角形に分かたれるということは、見方によっては偶然的とも考え得るにもかかわらず、一種の内面的必然を感じるのは何によるのだろうか。このような場合においては、一般なるもの(三角形)が、特殊なるもの(特殊な三角形)に対して、偶然的、外面的ではなく、その(特殊なるものの)内面的構成力なるが故だ。ヘーゲルの言うようにdas punctum saliens aller Lebendigkeit(生き生きとした躍動点?)なるが故だ。このような具体的一般者(三角形)の立場から見れば、前に一般的と考えられたもの(大きさに分けた本。類?)もかえって特殊的となる。すなわち相関的関係の一端に過ぎないと考えることができる。平行線の原理によって三角形の内角の和が二直覚に等しいというようなことを証明する場合には、更にこの具体的統一、すなわち一般者(この場合三角形)が拡張されねばならない。私は数学者が方程式を解くためAdjunktion(付加?)によって数のKorper(体…四則演算が自由に行える代数系のこと)を拡張し行くというのも、このような意味における具体的統一の拡張でなければならないと思う。例えば有理数のKorperに無理数を付加したKorperが要せられる時、方程式によって表されたある関係が、もはや有理数の対象界において求めることができないということを意味している。すなわち更に具体的な連続数の対象界においてこれを求めねばならないということを意味している。前に一般と特殊の結合が偶然的と考えられた時、かかる統一の内容すなわち意志内容が零と考えられたが、次の場合(三角形の場合)においては、統一は明らかに何らかの特殊的内容を持っていなければならない。我々が一種の内面的必然を感じるのはこれ(統一が特殊的内容を持つこと)によるのだ。斯く統一が定まった内容を持つ時、一般なるもの(三角形)と特殊なるもの(特殊な三角形)は動かすことのできない対立を成し、特殊なるものは一般なるものによって各々唯一の地位を得るのだ。無論かかる一般的内容(三角形)も単に意識されたものとしては、バークレー等名目論者(物または個体のみが実在し、普遍は個体から抽象した名にすぎないとした理論。唯名論)の言うように、単に名目に過ぎないと考え得るでもあろう。しかし右のような(一般と特殊の)内面的統一の内容は、単なる抽象的一般ではなく、一般(三角形)と特殊(特殊な三角形)の結合の内容だ。個性Individualitatの内容だ(一般と特殊を内面的に結合するものは個性であるため)。認識のアプリオリ(例えば、純粋空間)のようなものも、普通に考えられるような単なる抽象的一般ではなく、一般と特殊の結合の内容だ。すなわち個性的内容だ。(一般+特殊である)具体的一般者としての三角形の内容、すなわち三角形の個性的内容は、単に「三個の線分にて成る平面形」ということではなく、三角形の種々の幾何学的性質を含んだもの(三角形の種々の幾何学的性質を含んだ三角形)でなければならない。言わば無限進行の内容(無限に限定できる内容を持つもの)でなければならない。幾何学者が三角形の定義を右と異なった定義に言表した時、抽象的一般概念としては異なるものとなるも、具体的一般概念としては同一でなければならない。このような場合に、我々は明らかに抽象的一般概念と具体的一般概念の区別を見ることができる。Twardowskiのように内容と対象を区別して見れば、前者(内容)は抽象的であって、後者(対象)は具体的と考えることができるだろう。これ故に(具体的故に)客観的と考えられるのだ。
 右に述べたように、認識対象界においても、いわゆる客観的真理とは一般と特殊の結合であり、真理が客観的となればなるほど、この方向(一般と特殊の結合の方向)に進むと考え得る。すなわち知識の根底に(一般と特殊の)意志的結合があると考え得るのだが、いわゆる対象界というものは、いかに特殊的であっても、認識対象となるということが既に一般的であることを意味している。経験的事実の世界といえども、それだけでは単に可能的世界の一つとして、厳密に限定的ではない(厳密な意味で特殊的ではない)。我々は他の結合を考え得るのだ。最も一般的なるものと最も特殊的なるものの結合、すなわち真に個性的なるものの統一内容は、これを意志の内容に求めねばならない。我々の意志の内容は全経験の具体的統一の意味内容だ。「私が今茶を飲む」という意識内容は単に茶を飲むというだけの意識内容ではない。非人格的渇という本能が働くのみではない。渇して茶を飲む一例ではない。「私」という個人が、すなわち一人格が茶を飲むのだ。これ故にこの事実がすでに倫理的判断の対象となることもできれば、芸術的対象となることもできるのだ。自然が芸術的対象となるのは皆かかる意味(人格、具体的全体)を寓することによるのだ。この個性的内容は知識の立場においてはincommensurable(比較できない?)だ。我々の意志現象は時間、空間、因果の範疇によって構成された自然科学的対象界に属する事実ではない。我々の意志はこのような可能的世界の無限なる統一の上に現れるのだ。個性とはこのような統一の内容だ。我々がある物を意識する時、それはいかに単一な意識であっても、超自然的意義(時間、空間、因果の範疇を超越した意義)を寓している。単なる可能的世界の事実ではなく、(単なる可能的事実の中に)無限なる可能的世界との関係を含む現実の世界の事実だ。我々が感覚を単一な意識内容と考えたり、また意識されるということは意識内容に何物も付加しないと考えるのは、この区別を明らかにしないからだ(意識内容を単なる可能的世界の事実として考えるからだ)。意識されるということは、意識内容が特殊化されることだ。すなわち現実となることだ。換言すれば、現在の意識が他と無限なる関係において立つことだ。いわゆる経験的事実の世界においてのみでなく、超経験的世界(概念の混淆から離れた世界?)と無限の関係において立つことだ。ここに具体的経験の絶対性がある。経験学派が思惟を棄てて経験的事実によろうとするのも理由がないではない。説明は種々にできるだろうが、事実は唯一だ。我々はこれ(唯一の事実、具体的経験)において全く異なった立場の上に立つのだ。すなわち全体の立場の上に立つのだ。ただ、従来の経験学派なるものは、このような具体的経験(唯一の事実)の代わりに、かえって思惟の範疇の上に立つ抽象的事実を考えている。かのプラグマチストの如きも知識の根底に生命を考えるが、生命の内容と考えるものは抽象的な生物的生命の意義に過ぎない。そのようでは、その目的とする(生命の)特殊性は、どこにも求めようはないのだ。真に特殊なるものは個性的でなければならない。全体を部分の中に含んだものでなければならない。ライプニッツに考えのように、部分の中に全体を含むことによって、部分は特殊的となるのだ。そうでなければ特殊は抽象的一般と変わる所がない。これ故に意識の根本的形式である意志内容のみ、真に特殊的なることができるのだ。意志は単なるprincipium individuationis(個性の原理?)ではなく、ヘーゲルの言うようにdie in sich reflektierte und dadurch zur Allgemeinheit zuruckgefuhrte Besonderheit(特殊性はそれ自体に反映され、その結果として一般性に戻る?)だ。すなわちEinzelheit(具体的?)でなければならない。
 意志の内容すなわち自由のアプリオリの上に立つ倫理的対象(先験的対象)は、一般と特殊の最終の結合だ。すなわち個性的であるということは、普通に考えられるような、意志は内外の一致であるとか、精神と肉体の結合であるとかいうことの、最も根本的な意義であると思う。意志行為とは一般と特殊の結合の極致だ。我々の手を動かすという表象(一般)に対して手が動く(特殊)ということは、手の運動が外から偶然的に付加されるのではない。運動の表象は運動の精神だ。表象と運動は一つの作用の両端だ。運動が実現されるということは、作用の作用、アプリオリのアプリオリ(作用を統一する作用)の上に立つ対象界において認められることだ。この立場において統一されるとき、我々の意識内容が絶対的に特殊化されるのだ(意識内容が人格を含むのだ)。超認識的(超概念的)な具体的統一の立場においては、運動の表象(一般)と運動(特殊)は未分以前の統一の状態において含まれているのだ。運動の動機というのはこのような統一の端緒だ。この要求が全人格的統一の立場(作用の作用の立場)において内面的に統一された時、この要求が特殊化され(実行され)、実現されたと考えられるのだ。我々が意志する、働くということは、自己の人格的体験の全体を統一することだ。すなわち経験内容をどこまでも特殊化することだ。情緒の状態は言うまでもなく、動機の状態にあっても、我々の意識内容は未だ抽象的一般であることを免れない。単に可能性を有するに過ぎない。ただ行為においてのみ、我々の意識内容は客観的歴史の中に織り込まれて、動かすことのできない事実となり、唯一の特殊性を得るのだ。すなわち真の特殊性は内外の統一、全人格的体験の統一の上においてのみ得られるのだ。いわゆる物質界とは人格的体験の否定的統一(限定的統一)の対象界に過ぎない。我々が自己の意志を物体界に実現するということは、全経験の中心的統一作用、すなわち思惟作用と結合することだ。すなわち一たび一般化することだ。真に特殊な内容は一たび一般化することによって、すなわち物体化することによってのみ得られるのだ。我々の身体はこのような特殊化の機関だ。精神を離れた単なる物体界は抽象的と考えられるが、身体を離れた単なる精神もまた抽象的であることを免れない。真に具体的なもの、特殊的なもの(行為)は、両者(精神と物体)の結合点に存するのだ。我々の経験内容を特殊化する「時」の範疇は意志の形式だ。カントが“Die Zeit bleibt(時間は残る?)”と言うように、すべての変化を考え得る「時」は一面において不変だ。すなわち空間だ。この普遍の一面があることによって、時は流れ得るのだ。


 前節に述べたように、意志の内容の特徴が一般と特殊との結合、すなわち個性的なるにあるとするならば、意志はいかなる意味において、それ自身に固有な内容を持つか。意志の対象界はいかなる意味において、他に還元することのできないアプリオリを有するか。もし右の結合ということが単なる結合であって、何らの新しい意味内容を有しないならば、意志という独立の作用があるのではなく、従って意志は己自身に固有な対象界を有することはできないのだ。普通の倫理学では、一般なるものに特殊的性質が結合するということは、単なる付加と考えられている。一般概念の内包に※種差を加えることによって、特殊概念が構成されると考えている。
※ 引用 種差とは 

斯く考えれば一般と特殊の結合ということも、単なる付加に過ぎないのだが、ロッツェが既に詳論しているように、単なる論理学の範囲においても、外延と内包が逆比例するとは言われない。一般概念の内包というのは特殊的性質の単なる総和ではなくて、一つの函数でなければならない。
 一般と特殊の結合によって、すなわち個性化によって、いかに新たな対象を生じるかを明らかにするため、試みに思想と言語の関係について考えてみよう。一方から考えれば思想は一般的であって、同一の思想が種々の言語によって表現されると考えられるが、一方においてはある国語によって言い表された思想は、厳密な意味においては、他の国語によって言い表すことはできないと言うことができる。詩とか美文とかいうものは言うまでもなく、哲学的思想のようなものであっても、他の国語によって翻訳のできない色合いを持っている。インドやギリシャの哲学(一般)は梵語やギリシャ語(特殊)によって発達し、逆にインド人やギリシャ人の思想(一般)が梵語やギリシャ語(特殊)を構成したと考えることができる。言語(特殊)は思想(一般)に対して外面的であり、偶然的であると考えられるが、右のような場合においては言語は思想の身体だ。思想と言語の間に内面的必然の関係があると考えることができる。両者の間には情緒(一般)と表出運動(特殊)の関係に近いものがあると考えることができる。思想は言語によって己自身を特殊化し、個性化するのだ。(個性化によって)表現されない、思想の有することのできない新たな内容を得来るのだ。あるいは単にこれを語感Sprachgefuhlとして、特殊な言語の意味(新たな内容)と区別することもできるだろう。しかし言語の意義と語感との間に離すことのできない関係がある。我々の言語は、語感と言われる微妙なる色合いを言い表すことによって、その十分な目的を達し得るのだ。いわゆる語感というのも、思想の妙なる色合いと考えることができる。知識においても一般と特殊の結合があり、すなわち判断はすべて一般と特殊の結合であると言ってもよいのだが、知識においてはカントの限定的判断作用bestimmende Urteilskraft(例えば、赤は色だ)においてのように、一般的なるものがまず与えられるのだが(知識はアプリオリの限定であるが)、情意的内容の限定においては反省的判断作用reflectierende Urteilskraft(例えば、この色は赤だ)においてのように、特殊なるものに対して一般的統一が求められるのだ(例えば、この気持ちは怒りだ)。言わば、知識の基である一般者を特殊と見て、更にその背後に一般的統一を求めるのだ(知識と違い、情意はアプリオリのアプリオリから限定されるのだ)。感情はアプリオリのアプリオリの内容だ。翻って認識以上の統一(アプリオリのアプリオリ、作用を統一する作用)から限定されることによって、知識は更に特殊化され、新たな意味内容を得るのだ。我々はこれを感情の内容と考えるのだ。いわゆる語感というようなものもそれ(新たな意味内容)だ。しかし背後の一般者がなお不明として単に求められつつある間、すなわち(反省的判断が完成されず)受動的である間は、限定的判断の方面と反省的判断の方面が相分かれ、言語の意味(限定的判断)と言語の感じ(反省的判断)は別々の意識とも考えられるのだが、真の特殊的限定はアプリオリのアプリオリの上から、すなわち全統一の上から積極的に限定されることによって得られるのだ。我々の意識内容はこれにおいて真に個性的となるのだ。知的方面(限定的判断)と情的方面(反省的判断)が一つに結合されるのだ。知的にまた情的に限定されるのだ。しかも単に両限定の結合ではなく、両者の根底である統一の内面的発展の限定だ。単に両限定の和としでではなく、新たな唯一の意義を両者の上に加えるのだ。このようなものが真の創造作用の限定だ。限定的判断と反省的判断の総合は、ただ無限なるアプリオリの積極的統一である創造的意志によってのみ、内面的に統一することができる。一にして一切である神は創造することによって己自身を見ることができるのだ。我々の文化現象とはこのような創造作用の所作だ。すなわち創造的意志の対象界だ。文化的内容は自然と精神の結合の上に成立し、しかも単なる客観的自然(特殊)と異なる主観的精神(一般)の内容に還元することのできない個性的内容を有するのだ。生物的生命が客観的に与えられた一つの統一、すなわち一種のIdee(理念?)として、機械力と精神力のいずれにも還元することのできない特殊の内容を有するように、いわゆる文化的精神は自然と精神の客観的統一として、換言すれば知と情の未分以前の統一として、そのいずれにも還元することのできない個性的内容を有するのだ。文化は生命の深くされたもの。歴史は生物進化の続編だ。広義における言語は文化発展の基礎として、文化的精神の最初の産物でなければならない。これ故に言語といえども、文化の産物として、すでに個性的内容を具えている。ある一国語にはその国語に特有な個性(語感、感情の内容)があり、ある思想家や文学者の文章には、独創的であればあるほど、他人が模すことのできない個性を具えているのだ。言語、文章の個性というのは、単に感情と思惟の結合にあるのではない。感情の野を思想の水が流れ行く所に、全体の趣きがあるのだ。Broder ChristiansenのStimmungsdifferential(気分の違い?)というようなものは、内容と形式の分かつことのできない統一だ。各々の点に方向を含む曲線のようなものだ。具体的立場から見れば、思想は感情に入ってそれ自身の目的に達し、感情は思想を得てそれ自身の目的を達すると考えることができる。そして、このような融合(思想と感情の融合)はただ言語の表現においてのみ可能だ。思想は言表によって感情を含むことができ、感情も表現によって思想を含み得るのだ。表現は両者(感情と思想)の具体的統一だ。高次的実在だ。【文章家フローベルの“Pensees(思い?)”の中にはLes oeuvres les plus belles sont celles ou il y a le moins de matiere: plus l'expression se rapproche de la pensee, plus le mot colle dessus et disparait, plus c'est beau(最も美しい作品とは、最も素材が少ない作品である。表現が思考に近ければ近いほど、言葉がくっつき消えれば消えるほど、それはより美しい?)という語がある】。我々が物体界とか自然界とかいうのは、要するに共同的自我の対象界に過ぎない。常識において物体界というのは、社会的自我(共同的自我)の対象界だ。そして言語はこれを構成する手段となると考えることができる。「擬人主義からの解放」を目的とする物理学といえども、この中心を超個人的主観の極限、いわゆるBewusstsein uberhaupt(純粋統覚)にまで進めたものに過ぎない。表現によって、すなわち意識(一般)が物体界(特殊)と結合することによって思想と感情が結合し、個性的内容を得ると考えられるのは、孤立的な自我の抽象的内容(思想、感情)がアプリオリのアプリオリである総合的自我の立場において統一され、限定されることを意味している。部分的な作用(感情)と部分的な内容(思想)はただ、総合作用の上においてのみ統一されるのだ。すなわち神においてのみ物と心の結合が可能だ。個性は神の意識内容だ。
 単に抽象的であり主観的であると考えられる思想が、言語と結合することによって、すなわち表現されることによって、新たな意味内容を得る。すなわち個性を得る。言語は普通に考えられるような思想の外面的符号ではなく、思想そのものがこれ(言語)によって内面的に変じられるのだ(個性を持つのだ)。文化現象としての言語は、単なる思想と異なったアプリオリの上に立つ。すなわち異なった範疇の現象だ。これと同じく、我々の全人格の内容を成す思想、感情も物体界と結合されることによって、すなわち意志行為として表現されることによって、新たな意味内容を得るのだ。すなわち主観的、抽象的意識の範囲を脱して、客観的にして個性的な文化現象となる。すなわち歴史的事実となるのだ。文化現象あるいは歴史現象は、単に精神現象に物体現象が加わったものではない。全く異なったアプリオリの上に立つ。すなわち両者統一のアプリオリの上に立つのだ。文化現象は単なる自然の法則に還元することもできなければ、単なる意識の法則に還元することもできない。ただ両者(精神と物体)を含む具体的立場においてのみ理解し得るのだ。両者(精神と物体)を含むとか、統一するとか言うも、両者を同列的に、あるいは対立的に含むのではない。コーエンがDer Andere, der alter ego ist der Ursprung des Ich(他者、つまり自我の分身は自我の起源である?)と言うように、自我に対立するものは自然ではない。他の自我でなければならない【Ethik des reinen Willens(純粋意志の倫理?)】。フィヒテの非我Nicht-Ichは自然(物体)ではなく、他の我でなければならない。自然と精神の結合の前には、精神と精神の直接の結合がなければならない。自然はこのような精神の対象界であるが故に、この結合(自我と非自我の結合)は直ちに精神と自然の結合を意味するのだ。文化の内容はこのような統一の内容として限定されるのだ。これ故にどこまでも個性的だ。我々が働く時、すなわち意志的行為においては、我々の全意識が統一されなければならない。我々が全意識を統一して行為に向かう時、意識集中の極限に達する時、すなわちかつて「経験内容の種々なる連続」において言ったように哲学的知識の立場に立つとき、我々の精神と身体は合一して一つとなる。ここに意識は消えて運動となり、運動は精神を得る。すなわち物心一如の作用となるのだ。このような作用の統一的性質を我々の性格Charakterというのだ。性格というのは単に精神的ではない。物と心の統一の型だ。(性格は)行為の形式によって、また行為によって形成されたものだ。この意味において性格は、自由意志のアプリオリの上に立つ道徳界の現象だ。右のように物心一如の作用の立場に立つということは、一方から見れば、我々の自我が他の自我と直接の結合に入ることだ。一つの社会的形式の中に入ることだ。この時、我に対立する自然は単なる自然ではなく、一つの人格だ。主観的自我の欲求に対しては、自然はあるいは手段となり、あるいは妨害となるが、物心一如の客観的自我の立場すなわち行為の立場においては、自然は我に対して一つの人格となり、自然との結合は一つの社会的形式となる。我々は(行為において)家族とか、国家とかいう社会的形式において多くの他我(他の自我)と結合するように、「神の王国」とも言うような純倫理的社会の形式において、自然の精神と結合するのだ。各国民の文化というのは、その国民の主観的精神とその客観的自然の統一の型だ。単なる自然でもなければ、単なる精神でもない。客観的精神の現象だ。個人の性格と文化の典型とは、元来その性質を同じくするのだ。共に内外統一の形式だ。普通の考え方とは異なって、私は文化の因子である自然は、単なる自然力としての盲目的自然ではなく、むしろその国民の共同意識(という人格)を通して見た自然でなければならないと思う。自然の中に分化があるのではなく、文化の中に自然があるのだ。ただ、我々が純化された文化意識の上に立つ時、不純なる文化は自然の所産と考えられるのだ。ある国の文化がその国の地勢によって形成されたというのは、我々が自己の意識を反省して因果的説明を試みるように、我々が純化された歴史的意識の上に立って過去の文化(地勢、自然)を反省するのだ。客観的精神(人格)が客観的精神現象すなわち自己の人格的歴史を反省するのだ。今日のいわゆる科学的説明というものも一種の文化的産物に過ぎない。自然界とは純化された文化意識の客観界だ。我々はかかる説明(科学的説明)の前に、過去の文化そのもの(自然界)を直接に体験せねばならない。我々はただ意志(作用統一の立場、人格)によってのみ、意志(作用統一の内容、個性、文化、人格的歴史)を知ることができるのだ。物を理解するに、種々の階段がある。単に画を解するのは未だ真に画を知るものではない。真にこれを知るものは、これを描き得るものでなければならない。我々は純粋意志のアプリオリの上に立って、はじめて文化を理解することができる。この理解はカントのPostulat,wodurch wir einen Gegenstand uns zuerst geben und dessen Begriff erzeugen(われわれはまず自分自身に対象を与え、その概念を作り出すという公準?)というようなポスチュラート(公準?)の理解だ。我々の知識の根底にもこのようなポスチュラートがあるのだ。文化現象というのは、我々がこの立場(意志の立場)に立つ時、現れ来る対象界だ。物の世界ではない。性格の世界、典型の世界だ。典型Typenとは一般と特殊の結合、自然と精神の結合の形式だ。生物の現象から種々なる社会的現象に至るまで、すべてが典型の顕現だ。我々が規範的意志(先験的意志)の立場に立つ時、これらの典型は世界史上の実在として、各々唯一の位置を得る。すなわち世界史というすべての人格の統一である道徳的精神【すなわち純我】とその対象界である科学的自然界を結合する一大典型の中において(これらの典型が世界史上の実在として)限定されるのだ。ランケが“Ueber die Epochen der neueren Geschichte(近代史の時代について?)”の始においてJede Epoche ist unmittelbar zu Gott, und ihr Wert beruht gar nicht auf dem, was aus ihr hervorgeht, sondern in ihrer Existenz selbst, in ihrem eigenen Selbst. Dadurch bekommt die Betrachtung der Historie und zwar des individuellen Lebens in der Historie einen ganz eigentumlichen Reiz, indem nun jede Epoche als etwas fur sich Gultiges angesehen werden muss und der Betrachtung hochst wurdig erscheint.(すべての時代は神に直接関係しており、その価値は、そこから現れるものにはまったく依存せず、その存在そのもの、それ自体にある。このことは、歴史、そして歴史の中の個人の人生についての考察において、それぞれの時代がそれ自体正当なものとして見なされなければならず、非常に考慮に値するように見えるという点で、非常に独特な魅力を与えてる?)と言っている語に深い意味を見出すことができる。世界史のleitende Idee(指導的な理念?)はすべての典型を容れる典型だ。


 我々は意志において主観によって客観を動かす。すなわち意志は外面的動作と考えられるから、意志のアプリオリは主客の合一、内外の統一と考えられるが、コーエンの言うように、我に対するものは他の我であって物ではない。意志の対象界は社会であって自然ではない。単なる自然は意志に対してその手段(実現の場所)となるも、(意識内容に)新たな内容を与えるものではない。実現された意志内容も、実現されない意志内容も、(精神的)内容としては何の変りもない。我々は単なる欲求の満足(自然を対象とする衝動的意志の満足)によって何らの新たな精神的内容を得ることはないのだ。単に心理学的に考えれば、衝動的意志(無意識的な意志)と自覚的意志(意識的な意志)との間に相対的差異があるに過ぎないかもしれないが、内省的にはこの間に性質的差異を認めることができる。自覚的意志において我々は新たな意識内容を得るのだ、新たな対象界を得るのだ。すなわちこれ(自覚的意志)によって人格と人格(社会的形式)の直接結合の世界が生じるのだ。意志の目的は意志自身の中にあるのだ。意志は自律的だ。意志のアプリオリは自然と精神の合一ではなく、人格と人格の直接結合だ。人格的統一だ。これ故に意志のアプリオリは倫理的だ。これにおいて自然は意志の為に存在し、その実現の手段となり、自然は自我の中に含まれることとなる。スコトゥス・エリューゲナの考えのように、Das Sehen ist viel mehr als das Gesehene, das Horen als das Gehorte, das Erkanntwerden ist die hochste Existenz der Dinge. Eben darum gehort eigentilch der Mensch nicht zu den Dingen, sondern in ihrer Wahrheit sind die Dinge in ihm, wenn er sie erkennt(見ることは見られることよりもはるかに多く、聞くことは聞こえることよりもはるかに多く、認識されることは物事の最高の存在である。だからこそ、人間は物事に属しているのではなく、物事を認識するとき、その真実において、物事は人間の中にあるのである?)と言うことができる【Erdmannによる】。しかし斯く言うのは、自然は精神に対して単に外面的である手段に過ぎないと言うのではない。我々の身体は全体として一つの目的を有し、種々の物質的関係がこれ(身体)によって統一されていると考えることができるだろう。しかしこれ(身体)を組織する物質を離れて、我々の身体があるのではない。我々の生命は組織する物質によって限定されるのだ。それだけでなく、我々の生命は外界の自然からも限定されると考えざるを得ない。同一の生物の種子も、その外界の事情によって異なった発達をなすのだ。これらの要素を離れて具体的精神現象があるのではない。ただ、具体的な精神現象はこれらの要素の総合の上に現れ、これらの法則に還元することのできない新たな実在だ。正しく言えば、自然とは具体的精神の反省された一面だ。具体的精神に必然的な一面だ。個人的精神について言えば、我々の個人的精神も一々の現在において、作用(主)の方面と内容(客)の方面を具備し、主客合一の上に立つ一つの具体的全体だ。我々がこれ(個人的精神)を反省する時、すなわち更に大なる人格的統一の上に立つ時、前の具体的全体(作用と内容を具備した個人的精神)は両方面(作用と内容の方面)に分解されるのだ。我々がある経験をその要素に分析するということは、その要素がその経験のみに属するものではなく、他の経験統一にも属し得るということを意味する。すなわちそれ自身において不変的であるということを意味する。従ってこれらの要素と要素の関係も不変的であり、一般的であるということを意味するのだ。この意味においてそれはいわゆる一般化的方向だ。しかし斯く客観化するということは、根底において主観を離れることではない。包容的主観の上に立つことだ。個人的意識においては記憶的主観の上に立ち、さらに進んでカントのいわゆる意識一般(純粋統覚)の上に立つことだ。しかし我々の現在の意識も一々具体的全体として、単にこのような反省の立場(純粋統覚)の上に立つ自然科学的見方によって還元することのできない余剰を持つ。すなわち統一の特殊的内容を余すのだ。このような剰余が一般真理を統一する個体の典型であって、特殊化の形式だ。このような特殊化の形式は目的論的因果関係としてまず生命というものが考えられ、生物現象はこれ(生命)によって説明されるのだが、このような統一(生命)がそれ自身において独立の実在となるのは、精神現象においてでなければならない。しかしこのような統一の形式すなわち個性的典型がその内容と対立し、その内容と離れてそれ自身に考えられた時、いわゆる主観的精神となり、心理学の対象となる。これに反し意識一般(純粋統覚)というような超個人的主観の対象界は自然界と考えられるのだ。斯く客観的対象界から離して考えられた主観的精神現象は、既にAktualitatsbegriff(実在概念)の上に立つという点において、自然現象とその次位を異にするのだが、なお抽象的形式として一般的足るを免れない。真に全経験統一の具体的立場、すなわち真の特殊化的立場は、意識一般(純粋統覚)すなわち理性の立場から全経験を統一するものでなければならない。このような具体的立場が我々の倫理的自由意志の立場だ。いわゆる文化現象とは、この立場の上に現れ来る客観的精神の現象だ。この意味において文化現象は、自然と精神の統一だ。言語は単なる一般的意味であってはならない。また単なる語感であってはならない。道徳というも単に道徳法(道徳の法則)に合うということでもなく、また単に善動機に従うということでもない。この両方面(法則と動機)が結合されなければならない。法則が動機に対して適当な表現とならねばならない。道徳的意識は、一方において道徳的感情であると共に、一方において客観化的法則だ。これ故(客観化的法則を含むが故に)に道徳的意識は単なる同情ではない。その中に論理的意識を含んでいる。すなわち意識一般(純粋統覚)の立場を含んでいるのだ。我々の道徳的理想は、このような立場(純粋統覚の立場)の対象界における実在だ。ある一時代の道徳的理想というのは、その時代の主観的要求とその時代の自然の考えを、両者を超越しこれを包容する具体的全体の立場から見た統一の仕方だ。我々の文化現象というのは、このような意味において具体的にして特殊な現象だ。従って文化史を意志の対象界と考えることができる。無論斯く言うのは、歴史が直線的に文化の目的に向かって進むというようなことを意味するのではない。このような考えは因果の見方(時間の形式)と価値の見方(意志の対象)を混同したものに過ぎない。
 意志の内容を以上論じたように考えることによって、私は規範の法則と自然の法則との関係も明らかにし得るのではないかと思う。規範の法則というのは、いわゆる自然界と精神界を超越し、この両者を統一する自由意志のアプリオリの上に立つ対象界における法則だ。具体的実在の法則だ。すなわち特殊化の法則であると考えることができる。「汝は人を欺くべからず」というのは、カントの言うように我々の意志に対して一般的法則ではあるが、我々が単に「欺かない」という動機から行動すれば、それが直ちに善行であるということはできない。すなわち善動機から起こる行為が直ちに善行為とは言われない。完全なる善行為とは、与えられた事情に適したものでなければならない。現実の具体的実在は精神と自然の統一であって、規範法は単に自然現象に対する自然の法則でもなければ、単に精神現象に対するいわゆる心理的法則でもない。具体的実在全体に対する法則だ。自由意志の立場において我々の経験内容を特殊化する法則だ。与えられた自然、与えられた精神を統一する文化の法則だ。我々の行為に対する道徳的判断、すなわち行為の倫理的価値が単に目的や動機のみによらず、手段を顧慮しなければならないと考えられるのはこれによるのだ。ただ、我々は自然科学的立場の対象界を唯一の実在と考え、個性的なものはその結合に過ぎないと考えるから、規範法も自然法に還元されるように考えるのだが、規範の法則はかえって一層具体的である特殊的実在、個性的実在に対する法則だ。規範的法則が一般的であるという意味は、自然法が一般的であるというのと同一ではない。同一の中心から働くということだ。同一体系の中心に結合せねばならないということだ。例えば我々の身体において、一々の部分がそれぞれ特殊な職分と法則を有するにもかかわらず、一つの目的がすべてを支配するのと同様だ。特殊な内容を離れては一般的目的は単に形式となるのだが、目的の一般性というのは、各部分をしてどこまでも特殊的ならしめることだ。部分が特殊的となればなる程、一般的となるのだ。「汝の隣人を愛せよ」という道徳的法則は単に「汝は他人に対して愛情を持て」ということだけではない。無論、愛情ということは道徳の根底ではあるが、愛情を持つということは、単に我々が小なる自我を超越して大なる自我に結び付くということだ(愛情は自他合一の作用の内容であり、自分だけの小なる自我が、自分と他人を含めた大なる自我へ結びついた状態が愛情だ)。感情というのはアプリオリとアプリオリの直接の結合の状態、作用と作用の融一(融合して一つになること)の状態だ。道徳的命令はこのような超個人的立場、否、超自然的立場から内容の特殊化を要求するのだ。個性的発展を要求するのだ。もしこの客観的内容(個性的内容)を欠けば、道徳的命令は道徳的命令たることを得ない。作品のない美的感情と一般だ。芸術が音とか色とかいう感覚的要素の特殊性を離れて存し得ざるように、道徳も各時代、各社会における特殊性を離れて存し得ないのだ。カントが「汝のMaxim(※格率…行為の普遍的な道徳法則に対して、主観的にのみ妥当する実践的原則)が一般的法則となる如く行え」というのは、我々の意識の根底における超自然的或物において、すべての意識が結合することを要求するものであって、その内容となるものは現実の具体的実在でなければならない。すなわち歴史が道徳的意志の内容となるのだ。歴史のアプリオリというのは、個性的実在のアプリオリだ。歴史は我々の経験内容の縦列的統一であり、一般的なるものの特殊化だ。我々の現在の意識は過去を含むのみならず、また未来を含む。意識統一が深く大なれば深く大なるほど、遠き過去を含むと共に遠き未来を含むのだ。超自然的な倫理的人格からの意識統一、すなわち世界史的立場からの特殊化的限定が、道徳的意志の内容となるのだ。この特殊的内容を離れて道徳的価値はない。偉大なる人物は極めて個性的であると共に、大なる人間性を具えている。単に類型的なものは、動物のように何らの人間的価値を有しないのだ。人類の各文化社会における種々なる習慣、種々なる道徳は自然の法則によって発達するものであると同時に、道徳的意志の特殊化的過程だ。これ故に特殊なると共に、一般的価値を有するのだ。規範的法則は自然の法則と結合することによって、否これを統一することによってのみ、真に規範の法則となることができる。規範の法則とは、自然の法則を結合して特殊化を要求する法則だ。
 特殊なるものの価値ということについて、種々論じるべきことがあるだろうと思うが、或物が価値を有するということは、何らかの意味において一般的規範を認めるということでなければならない。単に特殊的な事実のみにては、価値判断の起こり様はない。しかし一般的規範によって価値を認めるということは、物がすべて同質的であって同様の法則に従って生起するということではない。規範の法則は因果の法則ではない。また単に結果のみから見て、我々が同一の場合に同様に考えるということでもない。無論同一の人が同一の場合において同様に考えるの外ないだろうが、この如きはやはり一種の因果的必然だ。規範の法則というのは、乙が必ず甲に続いて生起するというのではなく、この結合に対する確信の法則だ。我々の判断作用は表象の単なる結合ではなく、意味を含んでいる。すなわち(判断は)対象(意味)が内在的だ。意味をもっているということは、永久不変である真理の世界への関係を持つということだ。規範の法則は思惟作用に対する法則であって、思惟されたものに対する法則ではない。一方に永久の価値を含むと共に、一方に因果の法則に従う意識現象に対する法則だ。単に因果の法則の下に立つ自然物には、規範の法則はない。また純なる価値に生きるもの(ただ価値に生きるもの)に対しても規範の法則はない。規範法の現象となるものは、価値を理解してこれに従うものでなければならない。行為者であると共に、行為の判断者であるものでなければならない。すなわち価値に従うと否との自由を有しながら、これに従うものでなければならない。一般的規範を認めるということは、同一の目的を認めるということだ。すなわち同一の目的を有する作用となるということに過ぎない。同一の目的を有する作用の価値を定めるには、一方にはその結果から見ることができると共に、一方には作用そのものの価値によることができる。アルヒメデスの数学や物理学の知識は今日の一少数物学者にも及ばないだろう。しかしこれがためにアルヒメデスの能力が劣っていたとは言われない。ここに明らかに二種の価値判断を見ることができる。しかしこの両種の価値判断が互いに無関係と考えるならば、それはまた誤りだ。第二の価値(アルヒメデスの能力が劣っていたとは言われない)は第一の価値(アルヒメデスの数学や物理学の知識は今日の一少数物学者にも及ばない)を認めることによって生じるのだ。与えられた現実と求められる理想との関係において生じるのだ。この関係が右に言った数学や物理学の能力というような場合においては、単に量的とも考え得るのだが、作用が人格的としてそれ自身の内容を持つ時、いわゆる特殊的価値を生じるのだ。我々が特殊的価値を認めるには、一方に一般的価値を認めねばならない。例えば数学的価値(一般的価値)を認めることによって、これに対する能力的価値(特殊的価値)が考えられるのだ。これ故に、特殊的価値はカントのいわゆるreflektierende Urteilskraft(反省的判断作用)によって生じるのだ。このような価値判断が成立するには、すべての価値意識の交叉点というようなものが予定されなければならない。この統一点が一般的なればなるほど、純なる特殊的価値判断が成立するのだ。芸術的価値というようなものは、この意味において最も特殊的と考えることができる。特殊的価値を認めるということは、一般的規範意識を否定することではない。ある限定された規範を認めないというに過ぎない。かえってこれらの限定を超越して規範を内容とする規範意識を認めるのだ。芸術的価値の如きも、ただ超個人的である全人格的意識を認めることによってのみ成立するのだ。

関係に就いて


 関係において立つものと関係そのものとの関係はいかに考えるべきだろうか。一方から考えれば、関係において立つもの、すなわち関係の要素とか項とかいうものに対して、関係そのものは外から与えられると考えることができる。すなわち元来独立であった甲と乙がある関係に入り込むと考えることができる。しかし一方から考えてみれば、関係を離れて関係の要素とか項とかいうものがあるのではなく、また関係の要素とか項とかいうものすなわち関係するものを離れて関係というべきものはあり得ない。この両者は不可分離の関係において立つと考えることができる。この問題はいかに解決すべきだろうか。
 関係において立つものに対して、関係が外から与えられると思われる場合を考えてみよう。例えば二つの物がある空間的関係において立つとき、空間的関係と二つの物は互いに独立と考えられる。二つの物がその空間的関係を変じるも、物自身には何らの関係もないと考えられる。しかしこのような場合において、不変なる物と考えられるものは何だろか。物とは感覚的経験の不変なる統一に過ぎない。そしてこれらの経験を統一するものは空間的形式だ。単なる性質の類似は物の同一を定めない。物の同一は空間における位置によって定まるのだ。元来、物の本質として考えられる空間性というのは感覚的性質ではなく、超感覚的な関係だ。すなわち(超感覚的な)思惟の対象である客観的関係だ。
 右のように考え得るならば、空間的関係の変化によって物自身が変わらないというのは、単純に物自身が空間的関係と没交渉であるという意味ではない。かえって空間的関係は物に本質的であると考えることができる。無論空間的関係が直ちに物の本質ではない。物理学は幾何学ではない。しかし物の概念は感覚的性質と空間的関係の結合点に生じるのだ。すなわち感覚的性質の関係と空間的関係の総合的形式の上に成立するのだ。力学的関係はこのようなものだ。例えば、青い物と赤い物がその位置を交換したとか、始め一尺離れていたのが次に二尺離れたとかいう場合において、我々は物と(空間的)関係が互いに独立と考える。しかし斯く考えるのは、物が空間的関係と完全に没交渉であるという意味ではなく、赤とか青とかいう性質が空間的関係から独立であることを意味するのだ。青とか赤とかいう性質が空間的関係から独立するということは、それらが善悪の如き道徳的関係から独立するという意義と同一ではない。無論、青とか赤とかいうことを単に概念として考えれば、空間的関係と完全に没交渉とも考え得るだろうが、直覚的経験内容として赤とか青とかいうものは、空間的関係と完全に没交渉ではない。これらのものが空間的関係に入り込むということは偶然ではない。これらのものが空間的関係に入り込むには、これを入り込ませるものがなければならない。関係に入り込むもの(この場合、赤いもの)と関係自身(空間的関係)を関係させる関係がなければならない。カントのいわゆるSchema(スキーマ、図式)のようなものがなければならない。自然科学の対象界はこれによって成立するのだ。この物は青いとか赤いとかいうのは、色の感覚的性質を区別するのではなく、また単に幾何学的位置を定めるものでもない。物体的実在の性質を言い表すのだ。自然科学的アプリオリによって構成された判断だ。物に対しては、空間的位置や相互の距離などが外的と考えられるように、赤とか青とかいういわゆる感覚的性質も外的と考えることができる。物は色や形を変じるも自己同一を維持することができる。物は空間的関係に入り込むように、種々の識別的関係にも入り込むと考えることができるのだ。物の本質は経験の形式と内容を総合するアプリオリの上に成立するのだ。物とは空間を占領し、しかも何らかの経験内容を有するものだ。物が空間上の位置によってその本質を変じないとか、色や形の変化に関わらず、その同一性を維持するとか考えられるのは、物はこれらの性質に無関係であるという意味ではなく、かえって物はこれらの性質を含んでいることを意味するのだ。空間的関係や種々なる色の関係は、物に対し外から与えられるのではなく、物を構成している具体的関係の一面の特殊的限定だ。赤い物と青い物がその位置を交換するも、何らの本質的変化がないと考えられるのは、物という統一を構成している具体的関係の二面が互いに独立であるというに過ぎない。数学のようなものにおいてはindependent variables(説明変数?…ある現象や値を説明する変数、もしくは結果に影響を与えている要因を示す変数のこと)を考え得るとするも、元来ある関係そのものと関係の項というものは、相離れて成立し得ない。ある一つの要素が種々の関係に入るのではない。単に要素というべきものがあるのではない。何らかある定まった関係の要素があるのみだ。ある一つの要素、例えば物体の原子のようなものが種々の関係に入り込むと考えられるのは、これらの関係(空間的関係、種々なる色の関係)を総合統一する具体的関係が存在し、原子とはこの関係の要素であるが故に、その関係を包含する種々の関係に入り込むことができ、しかも要素自身は不変と考えられるのだ。物質の原子の如きも種々なる関係を離れて、独立に実在性を有するように考えられるが、実際は、自然科学的実在の体系における一要素としてこれ(空間的関係、種々なる色の関係)と離すことのできない関係を有するのだ。要するにそれ自身に独立性を有し種々の関係に入り込むと考えられるもの、すなわち種々なる関係が外から与えられると考えられるものは、種々なる関係の結合点と見ることができる。そしてこの結合点というのは単なる結合点ではなく、これらの関係を総合統一する具体的関係の項だ。種々の関係に入り込むというのは、その一面の関係を限定することだ。ただその総合的統一の内容が物体概念において見るように内面的に明らかでない時(統一の内容を思惟対象として限定する時)、物は関係から独立するかのように考えられるのだ。これに反しその内容が内面的に明らかである時、項と関係は不可分離と考えねばならない。
 要素を離れて関係というものなく、関係を離れて要素というものはない。この両者は一つのものの分かつことのできない両面だ。関係はすべて(要素に対して)内面的でなければならない。単なる外面的な関係はないと言ってよい。要素はある関係の要素であって、関係はある要素の関係でなければならない。我々は自然数の系列において考えるような一二三などという要素が常に同一の意義を有し、種々の数学的関係に入り込むように考えるが、整数の要素としての一二三と、分数を入れた有理数の要素としての一二三と、無理数を入れた実数の要素としての一二三は同一意義の要素ではない。関係の意味が変じると共に、要素の意味が変じなければならない。現代数学における群論が数の深い本質に触れると思われるのは、この点を明らかにするが故だ。結合の法則の変化によって要素の意味が変じると考えねばならない。数の本質は関係にあっていわゆる要素にあるのではない。そしてこのような生産的関係を意識し得た時、我々はその要素について先験的知識を持つということができるのだ。知識のアプリオリとは要素を創造する作用だ。我々が客観的実在と考えるものは、このような関係(生産的関係)の結合の外にない。我々が独立する要素と考えるものは無数の(生産的関係の)結合点だ。すなわち関係の関係の上に現れ来る要素だ。アプリオリのアプリオリの対象界(作用を統一する作用の対象界=意志の対象界)における要素だ。単純な関係を結合するものもまた関係だ。すなわち関係(単純な関係)を関係させる関係だ。単純な関係に対して、複合的関係あるいは総合的関係というものがあると考えねばならない。前に言った自然科学的実在のアプリオリのようなものがそれだ。厳密に言えば幾何学のアプリオリの如きも、これ(複合的、総合的関係)に属すると考えることができるのだ。このような関係の関係(複合的、総合的関係)とはいかなるものだろうか。総合的統一の内容が内面的に明らかであるとか、ないとかいうことはいかなることを意味するか。まず色の関係と道徳的関係というような二種の関係が、完全に没交渉と考えられるような場合を考えてみよう。このような場合においては、我々はこの両者(色の関係と道徳的関係)の間に何らの共有点がないと考える。しかし斯く二つの関係が比較され区別されるというのは、両者が論理的思惟の対象として、論理的関係の上に立つことであるということができる。このような関係の結合点は、いわゆる論理的思惟対象だ。論理的関係はすべての関係に対し無限定にして、論理的対象はすべての関係の結合点であるが故に、論理的対象は己自身を変じることなく、すべての関係に入り込むことができ、また逆にすべての物が己自身を変じることなく、論理的関係に入り込むことができる。すなわち論理的関係は物に対して外から与えられると考えられるのだ。我々が物をその関係から離して独立の要素として考える時、いつでもこれを単なる思惟対象として限定しているのだ。すなわちこれを論理的関係において見ているのだ。次に空間的関係と色の関係との関係のような場合において、赤い物と青い物がそれ自身を変じず種々の空間的関係に入り込むと考えられるが、先に言ったように物理的実在とは思惟と感覚の統一のアプリオリ(自然科学的アプリオリ)の上に成立する対象界だ。原子とか電子とかいうのはこのような関係の要素に過ぎない。フレネルがSpiegelversuch(鏡の実験?)によって光とエーテルの振動の関係を定めた時、光の現象がはじめて物理的実在として認められたと考えることができる。光や熱が力学的に取り扱われるということは、空間的関係と一つの統一を成すことだ。それは経験内容の数量化によって可能となるのだ。普通に色や光が空間的関係と没交渉と考えられるのは、この二つの関係を分析し抽象して、独立の思惟対象となるが故だ。換言すれば単なる論理的関係において結合するが故だ。厳密な物理学的立場から言えば、赤い物と青い物が果たして距離や相互の位置によって各自の性質を変じないか否かは、実験の上でなければ断言し得ないのだ。真実在論者はロンドンがパリの北にあるというような場合、ロンドンに対し「北にある」という関係が外から与えられるというのだが、それはロンドンの定義によることと思う。ロンドンというような単に論理的思惟によって構成された人為的統一においては、何の関係を外的と考えるも自由だ。
 関係の項あるいは要素に対して、関係が外から与えられるとか、内に含まれるとか考えるのは、関係の関係(複合的、総合的関係)において考え得るのだ。二種の関係の結合が自由である時、すなわち単に論理的関係において立つ時、二つの関係は互いに無関係と考えられる。すなわちその結合点である思惟の対象は単なる要素そのものとして、いかなる関係にも自由に入り込むことができると考えられるのだ。物理的関係においては既に斯く考えることはできない。物理的関係はそれ自身の内容を持っている。抽象的に考えられた赤とか青とかいうもの(思惟対象としての赤や青)が物理的実在ではない。物理的実在はある時、ある場所における赤いもの、青いものでなければならない。位置や距離によっていかに変じるかは経験の判断に従わなければならない。単に論理的自由を許さないのだ。しかし物理的関係といえども未だ内面的とは言えない。単なる偶然的統一だ。例えばある花が赤いか、青いかは完全に偶然的と考えられる。我々が数学的関係のようなものと区別して、物理的関係を外面的と考えるのはこれによるのだ。先に(思惟対象において)統一の内容が不明であると言ったが、正しく言えば物理的知識のアプリオリが不明であるのではない。統一が偶然的であるというに過ぎない。そして偶然的統一ということは、論理的関係においてのようにその結合が自由であることを意味するのだ。ただ、物理的関係と論理的関係と異なるのは、後者に比べ前者の内容が限定されていることだ。しかしその限定は単に限定ということに過ぎない。一般的限定だ。物理的関係においては、ある花が青いか、赤いかは自由だ。ただ、物理的実在は何らかの経験内容を持たねばならない。かかる意味の限定は物理的関係において本質的だ。そしてこの限定に基づく物理現象は必然的だ。純なる物理的アプリオリの上に立つ力学的世界は必然的だ。ただこの限定が他の経験内容(例えば数学など)に対して一般的であるが故に、物理的統一が偶然的と考えられるのだ。物理的統一は我々の経験内容の偶然的統一であるという意味は、物理現象そのものが偶然的であるという意味ではない。(物理的統一は)我々の具体的経験内容に対して一般的であるというに過ぎない。物理的現象において、ある花が赤くあることもできまた青くあることもできるから、偶然的に性質が外から加わるかの様に考えられるのだが、それは色という花の性質が特殊的に限定されるということだ。ロッツェが論理学において明らかにしているように、概念は特殊なるに従ってその内包が増加すると考えられるも、実際は、内包の数が増加するのではない。ただ無限定の内包が限定されるということだ。ある特殊な三角形においては三辺の長さは限定されるも、これが為に三辺の数が増加されるのではない。無論、物体が色を持たないと考えることもできるだろうが、何らかの被経験的性質を持つというのが物体概念の必然的内包だ。色というのはその特殊な限定に過ぎない。物理的説明が完成されれば、赤とか青とか偶然と思われたことも、物理的必然の中に入り来るのだ。斯くして青とか赤とかいうことは、物理的実在の単なる符号となるのだ。
 右のように考えてみると、物理的統一が偶然的であるということは物理的関係のアプリオリが抽象的一般であるということであり、(思惟対象において)すべての関係から離れて要素が種々の関係に入り込むと考えられるのは、ある一つの問題を更に一般的な関係の立場(思惟作用の立場)から見るということだ。それ自身において完全な一つの関係、すなわち純なる関係が、更に一般的包容的な関係と結合して一体系を成す時、後者の基礎において考えられた前者の要素が独立の要素と考えられるのだ。すなわちアプリオリのアプリオリの立場において初めて独立の要素というようなものが考え得るのだ。反省ということは、包容的立場から被包容的立場を見ることだ。しかしその意味は単に後者の立場において見るということではない。両者統一の立場から見るということでなければならない。すなわち一をし包容的ならしめ、一を被包容的ならしめる総合的立場から見るということでなければならない。反省と総合は一つの作用の両面だ。分析(反省、思惟)にのみ重きを置く人は、物を要素に分かつことによって、その全体を明らかにすることができると言うが、要素に分かつというのはいかなる意味において分かつのだろうか。もしこれを他の体系の要素に分かつということならば、その目的を達することによって全体系の意味は失われなければならない。例えば生理現象が物理や化学の法則に還元されるならば、我々のいわゆる生命はその実在性を失わねばならない。連続数が有限数の数学によって説明し得るならば、連続数の数学は無くならねばならない。このような場合においては、被包容的立場を包容的立場において反省するのではなく、むしろこれ(被包容的立場)を破壊するのだ。ただある一つの全体を要素の関係に還元してみて、還元し得ざるに及んで、ここに全体に対する反省が起こって来るのだ。すなわち全体を反省するということは、アプリオリのアプリオリ(作用を統一する作用)の立場において見ることだ。我々はこれにおいて新たな直観によらねばならない。ここに反省と直観の結合があるのだ。或物の特殊的全体を明らかにするには、これを一般的立場から分析してみなければならないのだが、単にこのような方向によってのみ全体を明らかにすることはできない。このような要素を組み立てても、元の全体を構成することはできない。ヴィンデルバントのように構成的範疇と反省的範疇を区別してみると、物の概念はこのような構成的範疇の上に成立するのだ。すなわち物の概念はアプリオリのアプリオリの立場において成立するのだ。そして物はこのような種々なる関係の統一として、種々なる関係に入り得ると考えられるのだ。構成的範疇によって経験を統一するとは、無限なる関係を統一することであって、このような統一は一方において自由な分析をゆるす総合的立場の基礎においてのみ可能だ。すなわち意志の立場においてのみ可能だ。真の具体的実在の立場は、構成的範疇と反省的範疇の統一だ。物の概念とは、このような立場においてその無限なる統一の方向において成立するのだ。これ故に、一方に物の概念が成立すると共に、これに対して一方に精神作用の概念が成立するのだ。我々が関係を離れて抽象的に独立の物というようなものを考え得るのは、これによって可能となるのだ。反省的範疇の立場から見て構成的範疇の立場の上に立つものが、無限なる統一の極限として、独立である物(物の概念)と考えられるのだ。しかし真実在の具体的立場から、更に徹底して、構成的範疇の立場と反省的範疇の立場が合一すれば、芸術や宗教においての如く一般と特殊が合一して、すべての関係が内面的となり、すべてが関係とも言い得るのだ。

意識の明暗に就いて



 我々が或物を意識するというにも、色々の意味があることは明らかだ。例えば、私が外からある一つの箱を見る時、私はその外部を意識しているが、その内部を意識していないと考えることができる。少なくともその内部は我々の意識に現前していない。直接に意識されていないと考えることができる。しかしかかる場合、直接に意識されていないということは、感覚的意識に直接でないということの意味でなければならない。我々の思惟が感覚と異なった一種の意識であるとするならば、思惟の意識には箱の内部も直接であると考えねばならない。あるいは感覚的意識のみが我々に直接であって、思惟の意識は直接でないと考えられるかもしれないが、直接でない意識というもののあり様はない。思惟も意識作用として我々に直接でなければならない。思惟の意識が感覚と異なって間接と考えられるのは、作用そのものが間接と考えられるのではなく、その対象が間接と考えられるのだ。しかし対象が間接と考えられるのは何によるのか。我々の精神現象は外界刺激によって起こされる脳皮質の作用に伴うものであるとするならば、直接に感官を刺激することのできない箱の内部というようなものは、我々の意識に間接と考えられねばなるまい。我々はただ、過去の経験によって、間接にこれを表象し得るのみだ。心理学者は脳に蓄えられた過去の印象が復起することによって、「箱の内部」の意識というようなものが成立すると考えている。斯く考えれば、思惟の意識が間接と考えられるのも無理ないことだろう。しかし他面から考えれば、過去の意識といえども、記憶表象としては我々の意識に現在すると考えることもできる。我々は現在の感覚的意識が過去の意識を代表するというが、現在の意識が尽く感覚であるとすれば、我々は感覚的性質の外、何物も意識できないはずだ。心理学者は往々、種々なる非現実的経験が無意識の形において現実的に意識されるかのように考えているが、いわゆる無意識というのは不明瞭な有機感覚のようなものか、そうでなければ感情のようなものでなければならない。しかし純なる感覚としては、一が他よりも明瞭とか、不明瞭とか言い得るか否かは議論の余地があるのみならず、不明瞭である故を以って、よく他を代表し得るだろうか。我々が遠くからある色を見て、その色の判別のできない時、我々は意識が不明瞭であると考える。しかし斯く考えられるのは、意識をその対象との関係において見る故だ。遠距離における物の視覚として不明瞭というのではない。感官の病的変化の為感覚が不明瞭と言われる場合においても、同様に考えることができる。単純なる感覚的性質としては、それぞれの場合において明瞭だ。また一方においてその代表される意味について考えてみても、意味の意識は必ずしも不明瞭なものではない。三角形の概念は紙上の三角形よりも一層簡単明瞭だ。意識が明瞭とか不明瞭とかいうのは、対象への関係を内在的に含むものとして初めて考え得るのだ。
 いわゆる現在の意識が尽く感覚的性質に分析し得るとするならば、我々はこれによって非現実的である意識内容を代表し様はない。いわゆる不明瞭な感覚と言われるものも、純なる感覚的性質としては、ただ一つのものでなければならない。我々の意識がいわゆる現在に限定されているものとするならば、非現在的なものについて知り様はない。だが我々は明らかに非現在的な意識を持っている。すなわち記憶、想像、判断などの意識を有することを否定することはできない。我々が現在においていかにしてこのような非現在的意識を有することができるか。我々が過去の何事かを想起する場合、過去の感覚がヒュームのいわゆるfaint imagesのようなものとして現れ来ると考える。これらのいわゆる記憶心像といわれるものは、原経験に比べ内容において不完全なものでもあろう。また強度において弱きものでもあろう。しかしこのような脳中枢の刺激に伴う感覚とも考え得べき記憶心像は、感官から来る刺激に伴ういわゆる感覚といかに異なるだろうか。我々は夢において、また幻覚において、この二者(感覚と記憶心像)を混同することは誰も知る所だ。勿論「太陽」の表象は輝かないというように、感覚と表象は性質的に異なっているとも考え得るが、輝かない表象の「太陽」というようなものはいわゆる意味というべきものであって、このような意味を意識するということが既に、感覚以上のものを直接に意識し得るということを含んでいるのだ。もし超感覚的な経験があり得ないとすれば、いわゆる記憶心像というようなものと感覚を区別するのは何によるのだろうか。心理学者は時間徴験Zeitzeichenによるというが、いわゆる時間徴験なるものが時間的関係を示し得るには、単なる感覚以上の或物を含んでいなければならない。無論感覚なくして意味の意識はないと言い得るだろう。感覚を離れて心理的実在は成立し得ないとも考え得るだろう。しかし感覚的実在とはいかなるものだろうか。実在としての感覚は意味を離れてあるのではない。我々が或色を見るという場合と、我々が数理を考えるという場合を比較して見るに、色自体(意味)というようなものと自己との関係と、数自体(意味)というようなものと自己との関係との間に、対象そのものの性質の相違の外に、いかなる相違があるのだろうか。我々が数理のようなものを考える場合にも、必ず感覚的基礎によると考えている。すなわち何らかの感覚的基礎と結合することによって、数理の如きも意識現象となる。すなわち思惟作用となると考えられるのだが、感覚が思惟するのではない。感覚が意識するのではない。意識とは種々なる作用の結合だ。種々なるアプリオリが直接の関係に入り込むのが意識だ。我々をして感覚を具体的精神現象と考えさせるものは、その内容にあらず、無限なる関係の実現点であるが故だ。単なる感覚的内容はボルツァーノの表象自体(意味)のようなものに過ぎない。具体的意識現象とは心理学者のいわゆる精神現象というようなものではなく、どこまでも人格的でなければならない。種々なる作用の結合でなければならない。
 以上述べたような訳であるから、我々が箱の外部を見ている時、その内部が直接に意識されないとは言われない。現在において過去の事実が意識に現前しないとは言われない。無論感覚的には現前するとは言われないが、思惟対象は思惟の意識に現前しないとは言われない。そして思惟の意識は感覚的意識に比べ、必ずしも間接の意識であるとは言われない。意識現象においては関係が実在的だ。ジェームスの言ったように、経験を結合する関係はそれ自身もまた「経験された関係」でなければならない。すなわち関係の項と同じく実在的でなければならない。物体現象においては関係は非現実的であるが、精神的現象においてはそう考えることはできないのだ。


 我々が意識するというにも色々の意味がある。感覚的に意識するということと、思惟的に意識するということは異なっている。感覚的に意識することのできないものも、思惟的に意識することができる。そして思惟の対象も感覚のそれのように自我に直接だ。自我は感覚に固著するものではなく、作用の統一だ。思惟と感覚が異なるのみならず、感情とか意志とかいうようなものはいかなる知識ともその類を異にする別種の意識であるということができる。以上の様に意識には種々の性質上の区別を認めねばならないばかりでなく、意識の程度についてもまた種々の差異を認めねばならない。心理学者が意識の強度なるものを考えるのはこれによるのだ。意識の程度については、我々は種々の区別を為すことができる。まず大別して意識的と無意識的という様に区別することができるが、意識にも種々の程度があり、無意識にも種々の程度があると考えることができる。無意識の意識というのはパラドックスのように聞こえるのだが、種々なる過去の経験が現在の意識に影響する場合のように、我々はこれを無意識作用と見ることもできるだろう。
 正当の意味において意識という中においても、種々なる明暗の度を区別し得るのみならず、明暗の意義についてすら色々に考えることができると思う。例えばジェームスの「意識の流れ」において論じられているように、ある一文章を想起するに当たり、第一の語が意識に上がった時、他の語が含蓄的に意識されているというような場合、現に意識上にある語は明らかであって、他の語は暗であると考えることができる。これに反し、我々が既にある重量を感じている上に更に重量を加える時、増加量がヴェーバーの法則によって一定量に達するまではこれを意識しない。しかしスタウトなどはこれまで完全に無意識であって、この時突然意識されるのではないと考えている。このような場合、増加が反省され判断された所が明るい意識であって、それ以前が暗い意識と考え得るのだ。我々が意識していても気づかなかったことを後に想起するような場合も、これと同様と考え得るだろう。以上のような場合によって考えてみると、意識が反省され判断された所が最も明らかな意識と考えられ、これに反し未だ認識対象とならない、言い表すことのできない意識が暗い意識と考えられるようだ。しかしまた他方から考えれば、全意識を反省することの不可能のみならず、我々がある意識を反省する時、既にその意識の立場を離れている。我々に最も明らかな意識というのはかえってそれ(反省)以前の知覚的意識とも考え得るだろう。要するに意識の明暗ということも、意識作用の目的によって異なってくると見なければならない。思惟を単に知覚の不完全な模写と見れば、知覚は最も明らかなるものと考えられるが、思惟がそれ自身の目的を有するものと考えれば、知覚はかえって内容(目的)の不明なるものとも考えられる。知覚は思惟の表現としては不完全だ。知覚に捉えられて思惟するのは思惟を不明にするのみならず、これを誤るものだ。それだけでなくヴェルツブルク学派などの考えのように、思惟の明暗と知覚の明暗は必ずしも同一ではない。私はこの点においてジェームスの※縁暈psychic fringe(辺縁。心像を取り囲んでいる光背あるいは半影部。分かりやすく言えば、意識の周辺部あるいは半意識的部分)なるものは多少の不明を免れないと思う。
※ 引用 善の研究 全注釈 p33
もし後に現れ来る直覚的意識を指すものならば、不明と言い得るも、もし全体の意味を指すものならば、全体の意味は最後に至っても直覚的となるのではない。その外、感情にしても、意志にしても、それぞれの立場において異なった意味の明暗の度を持っていると考えることができる。例えば、芸術家は自己の芸術について明瞭なる知識を持っていないかもしれないが、これがためその芸術的意識が明瞭でないとは言われない。要するに意識作用はブレンターノの言うように対象を内在的に含み、その目的に近づくにしたがって、明瞭の度を増すと考えることができる。しかし意識全体としての目的点はどこにあるかと言えば、意識は単なる作用ではなく、種々なる作用の統一あるいは作用の作用(作用を統一する作用)であるから、意識の真の目的は作用の作用の目的点、すなわち真の自我にあるということができるだろう。この点が意志の目的点として存在と意味の結合点だ。(この結合点において)感覚は単なる感覚としてではなく、思惟内容を含むものとして具体的意識となり、思惟は単なる思惟としてではなく、感覚的内容を含むものとして具体的意識となる。普通に、思惟が感覚と結合することなく意識現象となることができないと考えられる真の意義はここにあるのだ。これ故に感覚的意識は反省し判断し得る所に至って最も明瞭と考えられ、感情は芸術的表現に至って最も明らかと考えられる。意識全体としては、意志(という目的点)において意識が最も具体的となり、最も明らかとなると言うことができる。
 意識の中に種々の程度を考え得るように、無意識の中にも種々の程度を考え得るだろう。ジェームスの縁暈の如きもあるいはこれを無意識と考え得るかもしれないが、これを程度の低い意識として意識の中に入れてしまうならば、無意識とは潜在的意識というようなものを指すこととなるだろう。過去の経験は直ちに意識の閾(心理学で、刺激によって感覚や反応が起こる境界。無意識から意識へ、また、意識から無意識へと移るさかい目)以下に入るも、その大部分は我々の意識と何らかの関係を持っている。過去の意識が現在の意識に影響する仕方は、あるいは無意識的に働くこともあるだろう。また意識的に働くこともあるだろう。同じく意識的に想起されるにしても、過去の事実としての認識を伴うこととそうでないこととあるだろう。また想起可能の程度についても種々あるだろう。我々が到底想起し得ないと思われる過去の経験も、必ずしも完全に忘却したものとは言われない。またこれらの場合と異なり、動物の本能作用において見るように、個人的経験以前の経験の影響というようなものも考えることができるだろう。このように、無意識というものを許すとするならば、それが現実の意識に関係する仕方について、すなわちその働き方について、種々の仕方があり、種々の程度があるということができる。無論今日の心理学者の多くは、無意識というようなものを許さないだろう。これらの作用をすべて脳細胞の作用として説明するだろう。しかしベルグソンが「物質と記憶」において論じているように、物質から精神は出ない。物体界とは精神現象の説明のために設けられた仮定の世界に過ぎない。そして直接の具体的実在である精神現象は、意識の統一によって成り立つ。いわゆる物体界もこれ(意識統一)に基づいて成立するのだ。それ自身によって立つものは意識の直接な統一あるのみだ。無意識なるものが説明のために設けられた仮定に過ぎないと言うならば、物質というものも同様の仮定に過ぎない。
 右のような無意識と意識はいかなる関係において立つか。私は先に思惟の対象は感覚的には現在でないが、思惟の意識には現在であると言った。過去の意識は感覚的に現在でないことは言うまでもないが。過去の経験が何らかの形において現在の中に働きつつあることは事実だ。我々の知覚の中には多くの過去の経験が含まれているのだ。ただ再認識として独立の意識とはなっていない。想起された過去の記憶が再認識として独立の意識を成す時、我々はこれを知覚の意識と異なった対象界を有する別種の意識と考えることができる。記憶の意識というのは、いわゆる時間を超越した意識と考えることができる。記憶の意識とは我々の個人的意識を超越すると共に、個人的経験はこれ(記憶の意識)によって統一され、これによって成立するものだ。過去の経験もこの意識(記憶の意識)に対して現在であると考えることができる。もし斯く考え得るならば、我々が現在の意識と過去の意識の結合として考えた「無意識」というものの考えも変じなければならない。記憶においては過去の経験がそのまま繰り返されるのではない。過去の感覚的経験はいかに現在のそれに酷似するも、過去の意識であって現在の意識ではない。過去の経験がどこかに潜在して再び現れ来るのではない。この点においては今日の心理学の考えに同意することができる。記憶の意識が成立するのは、過去の経験が記憶の対象として改造され、現在の経験もまた同様の対象として改造され、そして後両者が結合されるのだ。換言すれば両者が「時間」の範疇の中に入ってはじめて結合されるのだ。記憶とは「時間」の自覚だ。真の無意識精神の世界とは、感覚または知覚の世界よりも一層高次的な世界でなければならない。過去の経験はこの世界において保存されるのだろう。「生のただ中において我々は死の中にある」modia in vita in morte sumus というべきだ。例えば一次元の上を一つの点が動くとすれば、一次元の上においてはその点の過去は繰り返すことのできないものだが、二次元の上においてはすべてが現在だ。無意識というのはいわゆる現在の意識と同一線上に横たわるのではない。高次元の上にあるのだ。意識の尖端である感覚的意識の経過をたどれば、ただ物質点の連続あるのみだ。物理学的時すなわちベルグソンのいわゆるle temps ecoule(流れた時?)あるのみだ。心理学者が過去の意識と現在の意識の媒介者として、脳細胞のようなものを考えるのもこれによるのだが、これを以って直ちに無意識を否定することはできない。右のような考えを推し進めて、本能というようなものも一種の無意識として考え得るだろう。生命は物力より一層高次的対象界の実在だ。この見方から、ハルトマンなどの考えのように、物力も一種の無意識と考え得るだろう。斯くしてこれらのものがショーペンハウエルの考えたように、プラトー的理念として芸術の対象ともなり得るのだ。厳密に考えれば、記憶の意識による統一と、本能による統一は全然同一ではない。前者は自覚的精神の統一だが、後者においては統一が自覚的となっていない。すなわちそれ自身によって立つ直接の実在とはなっていない。他によって考えられた統一だ。この点において本能的統一は知覚的統一とその類を同じくすると言うことができる。知覚の背後にも過去の潜在的意識が働きつつあると考えねばならないが、それは別個の意識として意識されるのではない。それ自身(知覚自身)の中に過去への関係の自覚を含んでいるのではない。我々はこれを外から説明するのだ。
 私はこれにおいて先に述べたような意識の明暗の考えによって、意識と無意識との関係を考えてみよう。例えば意識の縁暈の如き場合と過去の経験の想起の如き場合を比較してみると、我々は普通に前の場合においては、その結合が直接であたかも一つの意識連続の中において行われ、後の場合においては、無意識作用または脳細胞作用のようなものによって中断されていると考えるのだが、意識に種々の種類があり、従って明暗の意味も異なるとすれば、一つの連続する意識と考えられるものの中にも、既に超感覚的である、すなわち超時間的である意味の意識が含まれているということができる。内省的立場から言えば、過去の経験を想起する場合と同様に(超時間的と)考えることができる。外界における時の長短というようなことは、内省的立場に対しては問題とならない。前の場合(意識の縁暈の場合)において意識が連結すると言い得るならば、後の場合(経験の想起の場合)においてもそう言うことができるだろう。そして物体が永遠であるように意識も永遠と考えることができる。物体の永遠性は我々の意識一般(純粋統覚)の永遠性に依存するのだ。斯くして普通に考えるような意味においての意識と無意識との区別及び相互の関係の考えも、これを一変しなければならない。無意識というのは異なった対象界を有する意識と考えるのが至当だろう。無意識が働くというのは、高次的意識統一が働きつつあると考えることもできるだろう。無意識ということは単に意識がないということではない。感覚的意識を超越
しているということだ。異なった内容の意識と考えることもできるだろう。

【以上論じた中において、あるいは私が対象の永続性と作用の永続性を混同していると考えられる所があるかもしれない。意識の対象が超時間的であるということは、意識作用が超時間的であるということを意味しないのは言うまでもない。思惟対象である心理は永久であるも、思惟作用は時間上の出来事と考えられるのだ。ただ、精神現象においては時は外面的ではなくて、内面的だ。ライプニッツがモナドは極微知覚によって現在において過去を負い未来を孕むと言うように、精神現象は過去と未来を内面的に含むのだ。自我は時の創造者だ。この意味において過去が自我に現在であるということができる。無論、物体現象の場合においても、背後に考えられた物力には過去も未来もない。物力の概念は時間、空間に打ち克つための手段だ。しかし物力は自己の中に歴史を含まない。時は独立変数だ。この点において精神現象と異なるのだ。斯く精神現象は物体現象と異なった意味にて過去を含むということは、これを実在の具体的見方と考えることもできるだろう。
 精神現象においては右に言ったように、物体現象と異なって過去および未来を現在の中に内面的に含むとしても、ある意識内容が単に含まれているということと、それが現れるということの区別がなければならない。完全に同一の意識内容についても、単にそれが意識されると否とを区別することができる。普通に無意識精神の作用などというのは、むしろ高次的意識の作用と見るべきものとするも、高次的意識についても、それが意識に現れると否とを区別しなければならないのは言うまでもない。しかしこういう意味で、現実と非現実を統一するものは自由意志だ。意志は意識の内と外との統一だ。意志は意識の根底として常に働くと考えることができる。ライプニッツがロックに反し心は常に考えるとなし、極微知覚によって予定調和を説明し得ると言うのも、斯く解することができる。無論意志を斯く考えるのは普通の考えとは異なるだろうが、普通の考えにしても、我々の性格は外界の影響によって無意識の中に変じると考えられる。すなわち内外統一の意志はいつも働きつつあるのだ。普通に意志というのはかえって意識された内感覚や活動の感情などの総合に過ぎない。
 また本文の中において私が意識の明暗と真偽を一緒にしていると考えられる所があるかもしれない。意識現象としての明暗とその内容の真偽は直ちに同一視することはできないことは言うまでもない。誤った思惟の内容も意識現象としては真である思惟の内容と同一程度において明らかであるということができる。しかし斯く考えられるのは、本文においても言ったように、多くの場合、感覚の明暗と思惟の明暗を混じるによることを注意しなければならない。意識現象は目的を内在的に含むことによって意識現象であることができるのだ。この意味において、意識の明暗はその対象との関係において定める外はない。明らかな思惟は真である思惟でなければならないとも言い得るのだ。それではこのような相反する二つの考えはいかに調和し得るだろうか。前者の如き思想の根底には、事実には誤はない、否事実は真偽の性質を持たないという考えが潜んでいる。特に意識現象においては、その一々の内容が性質的に相異なり、各々が唯一にして繰り返すことのできない特質を有するとも考えられるのだ。しかし単に性質的にして一々異なるものは一つの実在を構成することはできない。我々の意識現象は対象への関係を含む事実だ。要するに、我々の意識内容は真であることもできれば偽であることもできる自由意志の内容だ。種々なる客観的内容の人格的統一だ。それで意識内容は客観的対象との関係において考えられると共に、人格的統一との関係において考えられねばならない。意識内容は対象そのものではなく、人格的内容によって色どられたる内容だ。この立場から見て、誤れる思惟内容も人格の表現として真である思惟内容と同様に明らかであると考えることができるのだ。今日の一派の認識論者の考えるように、意識の対象と内容は同一ではない。意識の明暗と真偽は直ちに一つと考えることはできない。意識の正当の目的は人格的統一としてこれによって、真の明暗の度が定まって来るのだ。しかし感覚の明暗が思惟の明暗に影響するように、人格的意識内容の明暗はある程度までこれを構成する作用の対象的関係の明暗によると考えることもできるだろう】

個体概念


 ライプニッツは史の哲学の発展を見るに最も重要であるドキュメントとして知られている「アルノーとの論争」Correspondance de Leibniz dt d'Arnauld.1686-1960の中に、一般概念la notion specifiqueに対して個体概念la notion individuelleの本質を明らかにしている。ライプニッツはすべて異なる命題は主語の中に述語が含まれていなければならない、すなわちPraedicatum inesse subjecto verae propositionis(術語は真の命題の主語である?)という考えから出立して、真の個体概念とはその中に「或物に生じたまた生じるすべての事件」を含んだものでなければならないと考えた。アダムの概念の中にはアダムによって生じたすべての事件が含まれていなければならない。一般概念とはこれに反し、或者の一般的性質のみを含んだものだ。従ってその存在に関する特殊な何らの事情を含んでいない。アルヒメデスがその墓の上に置いたという球の概念は種々特殊なる事情を含んでいるが、一般的に球という概念はその一般的性質しか含んでいない。そしてライプニッツの哲学によれば、神は一般的性質の結合によって成る無限に可能なる世界の中から、最善なるものを択んでこの世界を創造したと言うのだ。例えば最初の人であるアダムの経路についても無限に異なる経路が考えられただろう。我々の祖先のアダムの歴史はその一だ。しかし神がこの一つのアダムを創造した時、これを全世界との関係においてした。アダムの個体概念の中に尽未来際(未来永劫、永遠)に亙ってアダムによって起こるすべての事件が含まれるということは、アダムにおいて起こる一々の事件が予定調和によって全世界との関係において定められたということを意味する。個体が個体となるということは、全世界と動かすことのできない関係に入り込まねばならない。ライプニッツは近世哲学においてはじめて個体概念の真相に到達した人ということができる。
 何年、何月、何日、何時、何分、何秒に日蝕があったということは、ナポレオンが何年にどこで生まれたというのと同じく、二度と繰り返すことのできない唯一の事実だ。無論、単に日蝕という事件ならば幾度にても繰り返すことができるだろうが、ただ、宇宙発展の過程において、何月、何日、何時、何分というような時点は、永久に再び繰り返すことができない。たとえ、ニーチェの「永久の繰り返し」の考えにおいてのように、すべてこの世界が同一の状態に還り来ることがあるとしても、少なくとも時間の形式において同一の点は再びこれを繰り返すことはできない。何月何日の日蝕が繰り返すことができないと考えられるのは、このような宇宙時の上に限定して考えられるからだ。すべてある一つの物が唯一と考えられるには、全体との関係において限定されなければならない。単に経験内容としては幾度にても繰り返すことができると考え得る日蝕が、時間上に限定されることによって、繰り返すことができないと考えられるのは、時間の形式がカントの言ったように経験界成立の根本的約束であって、宇宙は時間の中に含まれていると考えられるからだ。すなわち時間上において限定されるということは、全体との関係において限定されることを意味するのだ。時間的限定によって或物が繰り返すことができないと考えられるように、因果的関係においても斯く考え得るだろう。何月何日の日蝕は過去の過去から未来の未来に亙る無限なる宇宙因果の連鎖において再び繰り返すことはできないと考えられる。そしてそれは時間の場合と同じく因果律が存在の根本的条件と考えられるからだ。
 この筆、この机、この猫、この犬というようなものも唯一の物と考えられるのだが、我々は何によってこれらの物を唯一と考えるのだろうか。この場合においては日蝕の場合においてのように、ある事柄が唯一と考えられるのではなく、或物が唯一と考えられるのだ。すなわちこれらのものは唯一の事件ではなく唯一の物だ。個事ではなく独立の個物だ。個事と個物といかに異なるか。日蝕というのは太陽と月と地球との位置上の関係から起こった一次的の現象だが、この筆、この机、この猫、この犬というのは一定の性質を持続する統一体だ。太陽、月、地球もこのような個物であって、個事はこれらの個物の関係において現れると考えることができる。無論この筆、この猫などは言うまでもなく、太陽、月、地球のようなものであっても、どこまでもその統一を持続するや否や不明だ。否何物も永久持続することは困難だろう。太陽、月、地球というようなものも、化学的元素の一時的結合であって、更に現今の物理学にて考えられるように、元素も破壊し得るものとするならば、すべてが電子の結合という事ともなるだろう。ならば電子はいかにして個物と考えられるか。電子はすべて同性質と考えられるならば、電子そのものの性質によって何らの区別はできない。単に一号二号としてその空間、時間上の連続を跡付ける外はないだろう。そして一つの電子が永久不変にして時間、空間上無限の関係に入り込むということは、一方から考えれば、一つの電子は時間、空間的宇宙の全体系において、ある定められた運命を持つということでなければならない。電子一号は一号で定められた進路があり、二号は二号にて定められた進路があるという事でなければならない。この場合においても全体系中において定められた唯一の位置ということが、その物を唯一と考えさせるのだ。ただ個事と個体と異なるのは、個事とは一つの直線上において定められた一点のようなものであって、個体とは平面上に定められた一直線のようなものだ。宇宙体系の進行上における定まった一直線だ。斯くしてライプニッツの考えたように個体は連続であり、生じたものまた生じるものを含むということができる。個体概念が成立するには全体系が直線的ではなく平面的でなければならない。我々がこの筆、この机、この猫、この犬というようなものを個体として唯一と考えるのも、このような考えに基づくのだ。
 個体概念は右に述べたようなものとして、個体はいかなる性質によって己自身を他から区別するか。もし電子というものが物理学者の考えるように同質的なものであるとすれば、電子そのものの性質によって、その一を他から区別することはできない。ただ甲と乙との時間、空間上における経路の差異によって分かつ外はない。これに反し個体そのものの性質によって、一が他のすべてから区別されると言うならば、デモクリストの原子が形状の大小において、ライプニッツの単子が視点や明暗の度において、無限に相異なるように、いずれの個体も相同じきものなく、いかに相類似する個体といえども、何らかの性質によって相異なったところがあると考えなければならない。しかし単なる性質上の差異ということは、未だ真の個体概念を与えることはできない。すべての物が一つの体系の中に統一され、厳密に全体との関係において限定されて、はじめて唯一の個体というようなものが考えられるのだ。水が熱して蒸気となり、冷えて氷となった時、我々はその性質の異なるにも関わらず一つの個体と見るのだ。これに反し、氷は水よりもガラスに似ているとしても、氷とガラスは同一の個体とは考えられないのだ。性質上、ある個体が限定されるには、その背後に統一された全体系の考えがなければならない。
 一般概念とはこれに反し、ライプニッツの球の例においてのように、全体系の上において限定されるのではなく、ただ抽象的に若干の内容を限定したものだ。いかに多くとも我々がこれを尽くし得るものだ。数学的真理が最も一般的と考えられるのはこれによるのだろう。物理学的法則の如きも、我々の具体的経験のある性質を限定することによって成立するのだ。ある一つの他に類例なき原子があって、化学者がその性質を知り尽くしたとしても、その物の個体概念を得たとは言われない。それにはその原子の歴史が加わらねばならない。実在の数が無限であって、全体を知ることができないにも関わらず、一つの物が個体と考えられるのは、何らかの意味において、全体系が知られていると考えられるからだ。全体との関係を或物の性質の中に入れて見ることによって、個体概念が成立するのだ。全体と動かすことのできない関係において立てば立つほど、個体的となるのだ。
 或物が真に全体との関係において限定されるには、部分の中に全体の意味が含まれねばならない。例えば曲線の各部分に曲率の意味が含まれているようなものでなければならない。全体は部分に対して単なる一般的典型ではなく、部分は全体の単なる一例ではなく、全体と部分は内面的関係を持っていなければならない。一平面上に順序なく散在する点も、一曲線を形成する連続点も、点という一般概念に対しては、いずれもその一例にすぎないかもしれないが、後者(連続点)においては全体と部分との間に内面的関係が成り立っている。点は単なる点ではなく、一つの個体となるのだ。個体に対する一般は単にその一般的典型ではなく、創造力でなければならない。すなわち一般の中に特殊化的作用を含んでいなければならない。個体はまた単なる個体ではなく、その中に全体との関係を含んでいなければならない。これらの関係はあたかもある曲線とその代数方程式との関係のようなものでなければならない。ある曲線の点というのは、点の概念に曲線上の位置という性質が付加されたという以上に或物を持つ。関係が要素そのものの内に内在的だ。要素は全体の部分として意義を有するのだ。勿論見方によっては類と種との形式による概念的知識は不完全なものであって、真理はすべて全体と個体との関係に達すると考えることもできる。とにかく我々は単に或物の性質の枚挙において終極の個体概念に達するのではない。かえって逆に背後に横たわる全体の概念から、個体概念を限定しなければならないのだ。そしてこの時我々は知識の立場を(一般概念から特殊的な個体概念へと)変じると考えねばならない。
 以上論じたように、個体概念は全体からの内面的限定によってこれに達することができるとするならば、我々の経験的知識において我々は真の個体概念に到達することは不可能であると考えることができる。予定調和を策した神のみこれを知ると言うべきだろう。しかし我々の経験を統一し、知識を構成し行く上において、自ら二つの態度があり得るのだ。一つは、具体的経験をできるだけ一般的要素に分解して、その一々の関係を一般的法則によって説明し行くのであり、一つは雑多なる経験を個体と見て、全体の統一を求め、更にこれを背後の全体の部分と考え、どこまでも全体の背景を予想して、総合的に進み行くのだ。あたかも彫刻家が大理石から一つの像を刻み出すように、無限なる全体の上に新たな実在のレリーフを作るのだ。具体的経験の一々の連鎖を一般的因果律によって考えるということと、全体を統一して個体概念を構成するということは決して矛盾するものではない。かえって一々の連鎖を因果的に明らかにするということによって、全体の統一が明らかとなるのだ。ただ、自然現象においては要素の統一の上に何らの新しい実在の姿を見ることができない。単に時間、空間の上における物質の盲目的結合と考える外はない。だが精神現象においては、ヴントなども心理的因果を以って創造的総合と考えているように、要素の総合の上に新たな意義の実在を生じると考えねばならない。否、要素はかえってこの統一の上においてその実在性を有するのだ。これ故に精神科学においては、個体概念に基づく個性の学問が独立の基礎を有すると考えることができるのだ。自然科学の中においても生理学や生物学などは統一的発展を論じると考えられるでもあろうが、これらの統一的概念は説明の問題であって、説明の基礎とはならない。もしこれを説明の基礎として用いるならば、一種のテレオロジイ(目的論)に陥るだろう。個体概念に基づく精神科学において、比較や分析によって一般的性質や因果的連鎖を明らかにすることが不必要であるというのではない。ただ単にこれらの方法によってのみ個体知識を明らかにすることはできない。別に全体の直観から出立する総合的見方がなければならないと思うのだ。前者はかえって後者の手段と考えることができる。これ故に個体的知識を目的とする精神科学においては、芸術と同じ創造的想像の力を要すると考えるのだ。

ライプニッツの本体論的証明


 千六百七十六年の秋、パリにいたライプニッツがロンドンからオランダを過ぎて本国に帰る時、ロンドンの方は八日間しかいなかったが、オランダでは二月程も逗留して遂にスピノザと会したことは誰も知る事実だ。この際ライプニッツはスピノザといかなることを話したか。ライプニッツの遺著を出版したFoucher de Careilの見出したライプニッツ自身の記録の中には、スピノザと食後閑談の節、スピノザの方ではDe Witt虐殺の日、戸外に出ようとしたが宿の主人が戸を閉じて出さなかったというような話などあり、ライプニッツの方はデカートの運動の法則を論じ、その欠点を指摘し、これに気付かざりしスピノザは驚いたというようなことが記されてある。ライプニッツはその外“Theodicee”の中などでもスピノザとの会合において政治談をしたというように言っているが、ライプニッツがスピノザの尋ねたのは爾く哲学上無意義のものでなかっただろう。シュタインの疑っているように、急いでハノーヴァーに行かねばならなかったはずのライプニッツがニュートン、ボイル、コリンス、オルデンブルグなどの文通者に富むロンドンにおいてすら八日間しか留まらないで、GraeviusとSpinozaとの外、彼に関係ある何人もいなかったと思われるオランダに二月も費やしたのは、完全にスピノザに会う為であったろうと考えられる。パリにいて暫く哲学を遠ざかっていたライプニッツは再び哲学問題に興味を有し来り、オランダへの船中においてすらスピノザに示す為とも思われる運動の原理の論文を書いていたというから、オランダに二月もいたのは完全にスピノザの友人Schullerによってスピノザの哲学を研究し、かつ同人の紹介によってスピノザに逢うためであったと考えられる。とにかくライプニッツは自身の書いた本体論的証明“Quod ens perfectissimum existit”はスピノザとの議論の内容であることはライプニッツ自身の付記によって明らかだ。
 神の本体論的証明と言えば、今日の哲学者は一概にこれをスコラ哲学の遺物として一顧の価値もないものと思うのだが、ヘーゲルもかつてこれを以って神の存在の有力なる証明となしたように、私もこの論証に深い一面の真理があると思うのだ。概念と言う語を単に抽象的意義に解し、存在という語を単に自然科学的存在の意義に限定するならば、本体論的証明というようなものの誤れる論証であることは言うまでもないだろう。しかし存在の前に当為がなければならない。自然科学的存在も当為の基礎においてのみ考え得るのだ。そして体験の世界においては当為はすなわち実在だ。デカートが不完全なる我々が完全ということを考え得る以上は、完全なるものが存在しなければならないと言っているが、完全とは当為の要求だ。思想が我々の中にあると言うよりも、我々は思想の中にあるというべきだ。無限なる理想はそれ自身によって存在し、我々の思想はその限定に過ぎないと考えることもできるのだ。 
 ライプニッツがスピノザに会った時、「最完全者は存在す」ということを論じて、積極的で、絶対的で何らの仮定なき単一なる性質が完全ということができる。このような性質は分析し定義することができないから、すべての完全なる性質は一主体に結合すると考えることができる。なぜなら甲と乙が両立しないと言い得るには、この二者を分析し限定して考えねばならない。しかしこのようなことは不可能だ。さらばとて、一の性質を他と比較しないで、それ自身にて他との不両立を知ることも不可能だ。要するに完全なる二つの性質の不両立を論理的に証明することもできなければ、直覚的に知ることもできない。故に完全なる性質は一つの主体に結合することが可能である。そして存在ということもこの意味において完全というべき性質の一つであるから、この如き主観は存在せねばならないと言って、デカートの本体論的証明の不足を補ったとライプニッツ自身が記している。そしてスピノザは初めこれに反対したが、ライプニッツはこれを書き示したところがスピノーザも遂にその論証の確実なることを認めたと付記している。
 私は私の立場からライプニッツの子の証明に多大の興味を見出すのだ。シュタインなどはこの事態ライプニッツは大分スピノザに感化されていたと言うが、内面的で、すべて物を動的に見るかれの思想の特色がかかる場合にも既に現れているのではなかろうか。勿論ライプニッツは純粋に論理的に論じたのだろうが、単一にして分かつことのできない、すなわち他から限定することのできない、それ自身にて無限なる性質とは我々の対象化することのできない、すなわち認識対象とすることのできない知識の構成作用の如きものでなければならない。それ自身にて生きたものでなければならない。仮にも対象化され得るものは限定されたものだ。完全なる性質とはこのような対象化することのできない構成的アプリオリであるが故に、我々の思惟を超越して認識以上の世界に属する。そして反省のできない種々の作用が一つの我に結合するように、すべての完全なる性質は神の人格的統一において結合すると考えることができる。natura naturans(能産的自然)としてそれ自身の種類において無限なる属性は、意志の形において絶対に無限なる本体の絶対的我に結合すると考えることができる。そして神の意志によって世界ができたと言われる如く意志は存在の根底だ。完全なる存在は意志であることができる。【ライプニッツもinclining reason(?)によって世界が成立すると考えた】。しかし勿論右に言ったことはライプニッツの解釈ではない。ライプニッツが斯く考えたというのではない。
 今を去る三百四十余年の昔ロイスダースの画によって偲ばれるオランダの空、秋将に老いんとするの時、ハーグの町の物静かなる画家の二階に、粗末なるテーブルを挟んで、哲学史上二つの時期を代表する二大哲学者の熱心なる哲学上の対話はゴムペルツならねど実に歴史画家の好画題というべきだろう。

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