西田幾多郎 『芸術と道徳』の中から「美と善」、「法と道徳」、「真と美」、「真と善」の現代的改定+補足

このnoteは、西田幾多郎の著作を現代語的に書き換えることを意図したものです。書き換えを行う筆者は大学等で哲学を学んだことは無く、哲学的素養に関しては完全に素人です。読解の助力になることを願い書いたものですが、私の誤読が介入してる可能性があります。読まれる方は、このnoteを鵜呑みにされず、必ず現本を読まれてください。誤読と思われる箇所があればご指摘いただけると助かります。また、没後70年を経過しているため著作権は失効していますが、同一性保持権に抵触すると判断される可能性があり、その場合すぐ削除することを宣言します。

※筆者の独断により、(~)という形で補足を付け加えています。
※西田自身が補足としてつけているかぎ括弧は、【】で表しています。
※旧字体は新字体に、一部表現を現代的に改訂しています。
※筆者が分からない部分は?をつけています。お判りになられる方がいたらご指摘いただけると幸いです。

この記事においては、『芸術と道徳』の中から筆者の独断により「美と善」、「法と道徳」、「真と美」、「真と善」を現代的に改訂し補足したものを抜粋して掲載しています。全文はこちらになります。


美と善



 我々は通常、知識の対象界を唯一の世界と考え、我々はただこの世界の中に生き、この世界の中に働いていると考えている。しかしかかる立場から見れば、私の意志、私の行為という如きものも、他の知識の対象と同じく、単なる知識の対象でなければならない。私の意志、私の行為という如き意識の起こって来るすべはない。意志の意識、行為の意識が成立するには、働きが働き自身を知ること、すなわち働くということが知るということでなければならない。元来、我々が知るということも一種の意志であり、行為である。我々は単なる知識の対象界に生きているのではない。我々は常に行為の対象界において生きているのだ。美とは単なる快感ではない。もし美が単に快感であるならば、美は一般妥当性を要求することはできない。美とは超知識的である深い生命の内容の表現でなければならない。我々に直接なる行為の立場においては、すべてが人格的生命に充ちている。この内容を直ちに表現するものが芸術家の創造作用だ。芸術家の創造作用が表現運動と考えられるのも、これによるのだ。行為の対象界における生命の内容は、ただ行為によってのみ、これを理解しこれを表現し得るのだ。道徳的善ということも、単なる知識の対象界において説明することはできない。もし強いてこれを説明しようとすれば、功利主義に陥るか、そうでなければ一種の幻覚と見る外はないだろう。道徳的行為というのも、超知識的である深い生命の要求に基づいて、我々の自由なる人格の世界を構成する創造作用でなければならない。斯くして我々の利害得失の念慮に対し、「汝は斯く為さざるべからず」という道徳的命令の権威が立ち得るのだ。善と美は共に我々が自己の中に深く潜める超自然的なる自由我(作用の作用)を自覚し、この立場の上に立つ時、初めて現れ来る内容であって、同一の立場の対象界に属すると考えることができる。純真な生命の内容として善ならざる美はなく、美ならざる善ははない。それでは善と美はいかに区別され、いかなる関係を有するだろうか。


 独立にして具体的である経験はすべて自覚的体系を成している。自覚的体系というのは、いわゆる自覚において見る如く、知るものと知られるものが一であって、作用が直ちに作用を生み、知ることが働くことであり、働くことが知ることであるということを意味するのだ。視るとか、聴くとかいうことであっても、それ自身において独立の具体的経験としては、皆かくの如き自覚的体系の相を具していると思う。無論かかる知覚的経験を自覚的と考えるのは異論のあることだろう。しかし我々は自覚という場合において、その反省の方向のみ考えて、創造の方面を忘れている。単に反省の対象となる静的統一である自己は、物と同一である。真の自己は創造的作用でなければならない。芸術家の創造作用においては、理念が創造的である。絵画においては色や形の理念が創造的であり、音楽においては音の理念が創造的である。我々の視覚作用とか聴覚作用というのは、かくの如き理念の発展の過程に過ぎない。フィードレルの如く、画家の創造作用は純粋視覚の発展と考えることができる。私は芸術家の創造作用が色や形や音の理念の内面的発展の過程として、これらの理想の自覚と言い得ると思う。自覚と言えば、自己が自己を判断の対象として意識し得るかのように思うかもしれないが、我々の能動的自己が判断の対象となることのできないのは言うまでもない。思惟の作用は自己発展の過程に過ぎない。いわゆる感覚的内容の世界における理念の自覚が、芸術的創造作用であり、思惟内容の世界における理念の自覚が、道徳的行為だ。ただ我々の思惟というのは、作用の作用である意志の反省的方面としてすべての作用の統一の立場であるが故に、この立場における自覚は自覚(意志、作用の作用)の自覚として、すべての自覚の根源となり、すべての自覚はこの立場において成り立つと考えられるのだ。
 我々は通常、自己が自己を省みる、省みる自己と省みられる自己と一つであるということを自覚と考えているが、我々の自己は単にかかる知的統一ではなく、自己が自己を省みるというのは自己が自己の中において働くことであり、自己が一歩進むことであり、その事自身が消すことのできない自己の歴史を構成することである。すなわち客観的事実となるのだ。この意味において、自己は作用が直ちに作用を生む動的統一であり、創造的作用であると言うことができる。私が自己の本質を意志と言い、行為と考えるのは、これによるのだ。我々が物を知るという場合には、物があって我がこれを知るということができる。しかし我が我を知る時、知らざる我があるということはできない。知らざるものは我ではない。それでは知った時、はじめて我があると考えるべきであるか。しかし我を知るものは我でなければならない。我なくして我を知るということはできない。我々は我々の自覚において、明らかに判断以前の知識というものを認めざるを得ない。自覚においては、働くということが知るということである。いわゆる経験界においては、働く者そのものを知ることができないと考えねばならないが、自覚においては我々は働く者そのものを知るのだ。力それ自身を知るのだ。我々は物の原因と同一の意味において、経験の背後に不可知的自己を考える時、それは考えられたものと同列的である自己であって、真の自己ではない。かくの如き自己から自覚の意識の起こり様はない。
 我々の自己はその創造的方面において、知即行、行即知である。芸術家の創造作用は、それが行であると共に知である。筆の先、鑿の先に眼があると言うべきだろう。我々はこの立場において、知識によって達することのできない世界を歩みつつあるのだ。過去の過去から未来の未来に亙る世界歴史と考えられるものも、超個人的自己の創造的方面を表すものだ。超越的意志(作用の作用、自由我)の創造作用に過ぎない。私が眠りつつあった中にも、この机上の時計は時を刻みつつあった。この机は昨日の机と同一の机であるが、時間上に一日だけの変化を受けたと言い得るのは、ただ超越的意志(作用の作用)の立場において言い得るのだ。いわゆる客観的世界は思惟によって知り尽くすことのできない無限なる実在であると共に、思惟によって構成されたものだ。思惟の構成的方面と考えられるものは超越的意志であって、いわゆる思惟とはその反省的方面に過ぎない。意志と思惟は一つの作用の両面だ。芸術家が昨日の作品を取って、再びこれ(創作)を続ける時、時を超越する芸術的理念が働いて来るのだ。その間の時間は完全に失われなければならない。我々が昨日の世界を今日も続ける時、昨日の我は直ちに今日の我につづき、昨日の世界は直ちに今日の世界につづく。この我は昨日の我であり、この室は昨日の室である。我々はこれを証明する何物をも持たない。我々の知識はこのポストゥラート(公準。基本的前提として必要とされる命題)から始まるのだ。昨日の経験とか今日の経験とかいうものが、意識の表面における夢幻的な現象ではなく、我々とこれらと相働く実在であるというのは、我々が行為的主観の立場において、初めて爾(そう)言い得るのだ。この立場から見て、実在は我々の意識を超越して存在し、昨日の我は今日の我であり、昨日の室は今日の室である。我々がこの世界を無始から無終に亙りて進展已むなきもの(進展するもの)と考えるは、超越的意志(作用の作用)の世界として、作用が作用を生むということを意味するのだ。我々のいわゆる実在の奥底に人格的内容の世界がある。生物学的認識、歴史的認識はこれによって成立するのだ。いわゆる時間空間とは超越的意志の否定的方面(反省的方面)の範疇に過ぎない。超越的意志の積極的方面である文化発展の立場においては、あたかも芸術家がその理念の立場において時間空間を超越するが如く、時間空間を超越している。実在を行為の対象として見る時、我々はこれを動かし得るということができるのである。現実の根底に超越的意志(作用の作用)の内容が働いている。ただ、作用が作用を生む超越的意志の内容として、現実はいつでも不完全たるを免れない。


 芸術的主観と言えば、通常、主観と客観の合一と考えられ、美とは理想の一致と考えられるのだが、斯く言う場合における主観と客観は、知的主観とこれに対立する客観を意味するに過ぎない。その理想というのも考えられた理想に過ぎない。もし斯く考えるならば、芸術的直観とは静的統一とも考えられ、また美とは欲望の満足の一種とも考える外はない。しかし私は芸術的内容というのは、我々が純粋に行為的主観の立場の上に立つことによって現れ来る客観的内容であると考える。作用の作用である純粋意志の経験内容と考えるのだ。与えられたものは求められたものであり、「知覚の予料」の原理によって、感覚が経験内容となると言われる如く、純なる意志の立場に対して与えられるものは、「意志の予料」の原理とも言うべきものによって構成されたものとして、一々が意志の表現でなければならない。知的立場を超越する純なる意志の対象、行為の対象として、一々が純なる活動でなければならない。芸術家の直観というのは、かかる立場から物を見るのだ。眼のみを以て物を見るのではない。手を加えた眼を以て物を見るのだ。造形美術の創造作用を純粋視覚の発展に伴う表現運動と見るのも、斯く解すべきだろう。主観と客観の対立と合一についても、種々の意義と次位を考えることができる。すべて主観と客観との対立というのは、作用と対象との不合一の場合に現れるのであって、主客合一とは対象即作用、作用即対象として一つの純なる作用となることだ。そして斯く純なる一つの作用となると言うことは、具体的根元に還ることだ。一層高次的立場の上に立つことである。
 我々が普通に創造作用という場合、創造する作用と創造される物とは別物だ。しかし真の創造作用は自己の中から自己の内容を創造するものでなければならない。私はかくの如き創造作用の真相を明らかにし得るものは、我々の自覚であると思う。省みられた我と省みる我との間において、創造されたものと創造するものとの真の関係を明らかにし得ると思う。純粋思惟がその内容を生産するというのも、右の如き関係においてでなければならない。感覚が「知覚の予料」の原理に当てはまって経験内容となると言うが、与えられたものは求められたものでなければならず、真に求められたものは作られたものでなければならない。我は物において、我自身の顔を見るのだ。単なる思惟に対して経験内容の与えられ様はない。またこれ(思惟)によって(経験内容が)求められ様もない。いわゆる経験界とは、作用の作用である意志によって求められ、創造されたものでなければならない。純粋統覚の裏面には意志を含んでいなければならない。すべて我々の意志は物によって満足されると考えられるが、物が我々の欲求の対象となるには、意志によって構成されたものでなければならない。意志は意志自身の創造によって満足するのだ。自己は自己自身を見ることによって休するのだ。それで、我々が直覚的に見ると信じるものは、省みられた我の如く、我によって作られた我が我自身を見るのだ。神が彼自身の肖像として人間を作った時、神は彼自身を対象化したのだ。彼自身の世界を作ったのだ。斯くして、創造されたものから創造作用を見れば、省みられた自己が省みる自己に対する如く、どこまでも不完全である。不十全である。創造するものは、創造された物の中に含まれると共に、達することのできない極限だ。自己は自己を対象化することはできない。能動的自己は、達することのできない極限でなければならない。
 右の如き考え方から、私は芸術的直観の内容というのは、純粋意志によって創造された、真に具体的なる直接の所与であって、道徳的行為とは純粋意志発展の創造作用であると思う。両者の関係は、創造的意志の立場においての、反省された自己と反省する自己との関係、創造されたものと創造作用との関係と解すべきだろう。フッスシャーが美を自己自身の中に映された生命“als Leben in sich gespiegelt”と言った様に、美は創造的意志そのものが自己の影を映したものだ。自己自身を対象化したものだ。純粋意志の自覚だ。ベーメの言うごとき「底なきもの」Ungrundが、自己自身の中に映じた影像は絶美でなければならない。芸術的直観は受動的直観ではない。純なる作用そのものの自覚でなければならない。美の内容は我々が純なる行為的主観の立場の上に立つことによって、初めて与えられるのだ。純粋活動のアプリオリにおいて構成されるものは、純なる活動でなければならない。道徳的行為と言えば、単に人と人との間の抽象的関係においてのみ考えられるが、意志の単なる形式的善は真の善ではない。単に善意という形式に偏すれば、かえって悪に陥る場合がある。真の道徳的善行為は具体的人格の発展でなければならない。無論、美は直ちに善ではなく、芸術的創作は道徳的行為ではない。しかし我々が純粋に道徳的行為の立場において物を見る時、まず一たび全く利害得失の念を離れて、純真に物そのものを見る芸術的直観と同様の立場に立たねばならない。我々は先ず一たび天上の星を見る如き眼を以て、地上の人間を見ねばならない。「目的の王国」は道徳的行為の創造した芸術的作品だ。真に自律的にしてそれ自身において善なる道徳的行為は、それ自身の内容を有する創造作用でなければならない。単に形式的である自由意志では、その内容を取り入れる時、たちまち他律的とならねばならない。道徳的行為の目的は実在的であり、芸術的創作の目的は非実在的であると言うが、道徳的対象界の実在性というのは、自然科学的世界の実在性とは同一でない。


 芸術的直観と道徳的行為との関係を上に述べたように考え得るならば、「時」の図式に代えるに「意志」の図式を以てし、いわゆる自然界に代えるに文化の世界を以てすることによって、私はカントが「数学的原理」と「力学的原理」の関係について論じている中から、芸術的対象界と道徳的世界の関係を明らかにする多くの示唆を得ると思う。この考えを明らかにするため、少しカントが「経験の類推」の始において言っている考えを述べてみよう。経験的知識とは知覚によって客観的対象を定める知識である。それで経験は知覚の総合ではあるが、この総合は知覚の中に含まれているのではない。かえって知覚を総合し統一しているのだ。経験界における知覚と知覚との必然的関係は、単に知覚そのものから明らかにすることはできない。空間、時間においての存在の必然性は、知覚Apprehensionの中に求めることはできないのだ。しかし経験は知覚によってのみ与えられ、その関係は客観的に、「時」において表象されねばならないにも関わらず、「時」自身は知覚することができないから、「時」における物の存在は「時」における結合によって定める外はない。すなわち「時」の三様相Modi der Aeitというものが、我々の経験界を構成する先天的概念となるのだ。カントは「時」の三つの様相として持続、継起及び同時存在Beharrlichkeit, Folge und Zugleichseinを考え、これによって実体持続性の原則Grundsatz der Beharrlichkeit der Substanz, 因果律による継起の原則Gundsatz der Zeitfolge nach dem Gesetze der Causalitat, 交互作用あるいは交互性による共在の原則Grundsatz des Zugleichseins nach dem Gesetze der Wechselwirkung oder Gemeinschaftという三つの原理を立てているのである。
 我々の経験は純粋統覚の総合的統一によって構成されたものであると言うのが、カントの根本思想である。いわゆる直覚の底にも、まして想像の底にも統覚の総合が働いていなければならない。直覚の形式と考えられる空間時間も、かかる純我の総合作用から導き出されねばならない。カントが概念と直覚を結合する図式として考えた「時」は、純粋統覚の創造作用を、最もよく現したものでなければならない。我々の知識に客観性を与える知覚は、「時」の形式によって与えられる。否「時」によって創造されると言ってよいが「時」自身は知覚されない。創造された物の中に創造作用はない。省みられた自己は省みる自己ではない。しかし創造されたものは創造者ではないが、またこれ(創造者)と別物ではない。被創造物は創造者の影を宿していなければならない。省みられた自己は物ではなく、自己でなければならない。これ故に、対象は作用に対して、何処までも不完全であり、未完成であり、所与の経験が自己自身の意義を完成する為には、無限なる発展の世界に入らねばならない。互いに偶然的にして各自に全い(まったい。完全)と思われる知覚の世界から、必然的関係の世界、思惟の対象である存在の世界に入らねばならない。そして我々の自己は達することのできない無限に深い奥底であるが如く、存在の世界もまた無限でなければならない。我々の自覚において、対象に向けられた眼が作用自身に向けられる如く、被創造物において自己の不完全を自覚した創造者の眼は、自己自身の中に向けられることによって、作用自身を対象とする反省の世界が成立するのだ。知覚することのできない「時」自身の世界は、「時」自身の様相を対象とする世界であって、すなわち直接に知覚することのできない物力の世界でなければならない。勿論、作用が作用自身を対象とするには、一層高次的立場に立たねばならない。物理的世界でも、既に無限なる「時」の方向を統一する意志(作用の作用)の立場において成り立つと考えるべきだろう。物力とは意志(ここでは創造作用、時)の対象化されたものだ。カントが「時」の三つの様相というも、単に流れ行く「時」(創造作用、単なる作用の立場)としては考えられないことである(作用の作用の立場、意志の立場に立たないと、「時」の三様相ということも考えることはできない)。
 芸術的創造作用というのは、自然界における出来事ではない。無論、単に知識の立場からは斯く見られるかもしれないが、斯く考えるならば、美の一般妥当性は失われなければならない。純なる芸術的創造作用の立場に立つ時、我々は自然界を構成するとは異なったアプリオリの上に立って、異なった客観的世界を構成しつつあるのだ。すなわち純粋意志の立場に立って、純粋意志の対象界を構成しつつあるのだ。自然界と異なった、これよりも一層高次的な文化の世界を構成しつつあるのだ。我々が因果律の支配の下に快楽を追って行動するのではなく、一般妥当的価値を実現することを文化的行為とするならば、芸術家の創造作用は言うまでもなく直ちに文化的行為でなければならない。これに反し人間が初めて社会を構成し文化的生活に入る時、人生の芸術化が始まるのだ。道徳的行為は人生の純なる芸術化でなければならない。かかる意味において、芸術も道徳も文化現象として、純粋意志の対象界に属するのだ。それで、純粋統覚によっていわゆる経験界が構成される如く、純粋意志によって文化の世界が構成され、芸術的に物を見るということ、すなわち芸術的直観ということは、あたかもいわゆる経験界において直覚するということ、すなわちカントのいわゆる知覚に相当するのだ。芸術の対象として与えられたものは、純粋意志の対象界においての所与でなければならない。絵画の対象は手を加えた眼に与えられたものだ。純粋意志の対象界としては、何物も美ならざるものはない。醜きもの、卑しきものにも、人生の表現として深き美を見出し得るのだ。しかしカントが、知覚は「時」の形式によって構成されるが、「時」自身を知覚することはできないと言った如く、芸術的対象は純粋意志の構成によって与えられるが、我々は意志そのものを芸術化することはできない。被創造物の中に創造者はない。省みられた自己の中に省みる自己はない。芸術的対象において我々は人生の影像を見るも、それは人生そのものではない。芸術の中に写された人生は、何処までも一面的であり、未完成である。しかし省みられた自己は省みる自己そのものではないが、また自己を離れたものではない。自己の作用の結果であると共に、直ちにまた作用そのものだ。現在の自己の中に無限なる自己の発展を蔵していなければならない。すなわち一種の生産点でなければならない。我々は「時」そのものを知覚することはできないが、いわゆる知覚は我々が図式「時」の構成の立場に立つことによって与えられるのであって、自覚において省みられた自己が直ちにまた省みる自己である如く、その中に存在の世界への発展を蔵していなければならない。これ故に我々は知覚の世界から思惟対象の世界に進まねばならない。第二次的性質の世界から第一次的性質の世界に入らねばならないのだ。これと同じく、我々は純粋意志の世界においては、芸術的直観から内面的必然を以て道徳的当為に移り行かねばならない。無論、私の斯く言うのは、芸術から道徳が発達すると言うのではない。ただ両者の深い本質的関係を示すのみである。右の如く純粋意志の受動的立場から能動的立場に移る時、すなわち創造作用そのものの自覚の立場に入る時、「時」の三つの様相が我々の存在の世界を構成する根本原理となる如く、純粋意志の様相が道徳的世界を構成する根本原理とならねばならない。道徳的世界とは意志によって構成された世界だ。純粋意志の対象界だ。人格と人格との関係から成立する「目的の王国」だ。道徳的世界には実体とか原因とかいうことはない。すべて作用が作用を生む純なる作用の世界だ。意志の立場においては、「時」の図式の背後に潜める暗い影(自己に対立する自然、他)は消えてしまわなければならない。なぜなら、意志は作用の作用として内容と形式を統一するが故だ。これを作用の交互性Gemeinschaftと言い得るのだろう。しかしそれは単に静なる同時存在ではない。「時」において相矛盾する三つの様相は、意志においてかえってその内面的統一を明らかにするのである。


 道徳的行為の目的は言うまでもなく、ある理想の実現でなければならない。道徳的価値を有するものは、我々の決意であり、実行である。単なる動機は道徳的価値を有することはできない。そして目的の実現とか、実行とかいうことは、我々の行為が空間、時間、因果の範疇によって構成された、いわゆる存在の世界において事実として現前することだ。すなわち我々の行為がこの客観的実在界を動かすことでなければならない。斯くして、我々がある場合に道徳的立場からいかに為すべきかということは、動かすことのできない厳粛なる当為として我に臨んで来るのだ。我々はこれに従わねばならない。これに背けば悪であり、罪である。これに反し、芸術家の創造作用そのものは存在の世界における出来事であるかもしれないが、芸術的創作の目的は何処までも非実在的である我々の主観的想像の所産に過ぎないと考えられる。詩とか絵画とかいうものにおいては、人生の一面を写すのみだ。そこに何らの道徳的善悪の批判はない。悪なるものも芸術の対象として美となることができる。道徳的行為においては、義務は従わざるべからざる唯一の義務として我に臨むが、我々は一つの対象において無限の美を見出すことができる。美において我々は自由だ。芸術は遂に遊戯的気分を脱し得ないのである。
 私が善の内容と美の内容と、その性質を同じくすると言うのは、両者共に純粋意志の内容に属するということを意味するのだ。純なる情意の立場というのは、概念的知識の立場を超越するのみならず、いわゆる苦楽の感情の立場にも反するのだ。快不快というのは反省された感情の種族概念に過ぎない。創造的感情が己自身の内容を失って、概念の支配の下に立つ時、単にこれを快を求め不快を避けると考えられるのである。純なる情意は作用の作用として、知識内容に分析することのできない己自身の積極的内容を持っている。これ故に知識の対象界に対しては何処までも創造的だ。これによって美的内容の先験性が立せられ、道徳的当為の内容が与えられるのだ。無論、道徳的行為の目的が実在的であり、芸術的創作の目的は非実在的と考えられるのみならず、絵画には絵画の美があり、彫刻には彫刻の美があり、感覚的性質の異なるに従って、美にも特殊の内容があると考えることができるだろう。私はかかる考えを十分に認容すると共に、また種々なる芸術の間における内面的統一を認めざるを得ない。むしろ種々なる芸術は、各々その感覚的材料の特色に従って、多様にして無限に豊富である一つの芸術的世界の一面を現すものと見るべきだろう。そして道徳的対象界も、純なる意志の対象界として、この世界(芸術的世界)と内面的に結合していると思うのである。彫刻家が鑿を以て大理石に向かい、画家が筆を取って紙に臨むということと、道徳家が教えを布き、法律家が法を立てるということは、大なる相違があると考えられるだろう。しかし両者共に純粋意志の世界を構成しつつあるのだ。芸術の対象界といえども、普通に考えられる如く単に感覚的ではない。感覚的形像の中に含まれた理念の世界だ。特に複写表象Nachvorstellenによって構成される世界を対象とする、詩の如きに至っては、非感覚的にしてむしろ抽象的であることは、Meyer,Das Stilgesetz der Poesieにおいて明らかに論じられている。道徳家や立法家の目的とする所は、理想的社会の構成の外にない。道徳的行為は文化的社会を構成する芸術的創造作用でなければならない。そうでなければ、単に動機が善なれば、すべてが善であるという道徳上の主観主義に陥る外はない。それでは芸術と道徳の区別、美と善の相異は何処から起こって来るか。
 いわゆる物理的世界は経験によって与えられるが、経験そのままではない。我々が直接に経験する色とか音とかいうものは、直ちに物の性質ではない。無論、今日の物理学上においても、感覚的事実を離れて物の存在という如きことを考える人はいないかもしれない。しかし物理的世界は感覚的事実をある立場から選択し、構成することから始まるのだ。素朴的事実と事実との関係からポアンカレの法則loisという如きものが造られ、法則と法則を統一するため、更に氏の原理principesという如きものが構成される。そして斯く知識を構成して行くのは、一つの統一された物理的世界の構成に進み行くと考えることができる。物理的知識の真偽は、かくの如き物理的知識そのものの目的統一によって決せられねばならない。物理的知識も無限に進み行くものでなければならない。絶対の真もなければ、絶対の偽もないかもしれない。しかし我々は物理的知識そのものの目的から物理的知識の当為を立て得るのだ。そうでなければ物理学という学問は成立し得ない。そして物理的知識の方向を示すものは、同時に最初に物理的知識を構成したものでなければならない。目的は最初のアプリオリによって定まる。終は始の中にあるのだ。これ故に知識の進歩は無限でなければならない。水中に杖を差し込めば、水面において折れて見える。単に眼で見ているだけでは、我々は杖が折れていると言う外はない。しかし我々はこれを触覚に訴えて、直ちにその誤なるを知り、更に光線屈折の理によって、そのそうであるべき所以を知ることができる。我々が水中に差し込まれた杖が折れて見えるという時、既に認識の立場に立っているのだ。無論、今水中に差し込まれたこの杖が折れて見えるというだけならば、単に事実の知識に過ぎないのだが、この杖が他の場合においても、斯くなければならぬ、すなわちこの杖は折れているといえば、既に実体概念によって事実を統一し、一般化したものである。この時、我々は既に物理的知識に入っているのだ。そしてこの立場から判断の誤なることが証明されると同時に、この事実は物理的現象として、物理的知識から説明されるべきことを要求するのだ。もしこの事実が説明されないならば何処までも物理的知識の問題として残されねばならない。今、右の如き考えを芸術的対象と道徳的対象の関係に移して考えてみよう。純なる生命の表現としては、すべてが美であり、善である。我々が純なる心を以て物を見る時、すべてが美ならざるものなく、善ならざるものはない。純なる心を以て物を見るということは、純粋意志の立場において物を見ることだ。芸術的描写が醜なるもの、悪なるものをも美化すると言うのは、これによるのだ。我々が通常、悪と考えるものも、単にそれだけとして見れば、人生の内面的必然の発現として価値あるものである。ニーチェはすべて価値あるものは悪によって成されたと言う。水中に差し込まれた杖が、それだけでは折れていると言い得るのと同様だ。ある意志が悪と考えられるのは、他との関係から起こって来る。意志の階級制の中において考えられるのだ。単に意志の所与としては、善も悪もない。すべて美しき生命の発現と考えられる。ただ、意志が意志自身の構成の世界、すなわち意志の自覚の世界に進む時、善と悪が分かたれ、善は善として何処までも求むべきであり、悪は悪として何処までも排すべきものとなる。我々が物理的認識の立場の上に立つ時、杖が折れているということは誤でなければならない。「時」の三様相に基づく原理によって、実在と非実在、真と偽が決せられる如く、純粋意志の様相に基づく道徳法によって、行為の善悪が決せられるのだ。カントの道徳法は、かくの如き「目的の王国」を構成する原理だ。
 水中に差し込まれたこの杖が、今私に折れて見えるというだけならば、単に事実そのままを言い表したものとして、真である。すべての経験的学問は、かかる事実的知識を基礎として構成されるのだろう。我々が実体概念によって、一般的にこの杖は折れていると言えば、この時既に誤に陥るのだ。純真なる心の要求は、いずれも美であり善である。否未だ善悪美醜の区別もない。これに反し他との関係を無視して、ひたすらにある要求を貫徹しようとするならば、いかなる要求も悪となる。何故にそれが悪となるか。意識一般の立場によって真偽が分かたれる如く、やはりそれは統一的意識の立場においてでなければならない。ただ、道徳の場合においては、それは自然の場合と違い、一々の作用が自由なる人格的作用として、一つの神的意志に結合するということでなければならない。ある一つの要求が善とか悪とか考えられるのは、それが単なる自然の衝動としてでなく、人格的アプリオリによって構成されたものでなければならない。自然の衝動が、直ちに「私」の動機となるのではない。それが動機となるには、自由意志の選択によらねばならない。自然的衝動が自然的衝動として我を動かした時、その行為は倫理的意義を失うのだ。ある一つの自然的衝動が「私」の動機となるには、あたかも無限点を廻って再び現れ来る曲線のように、一度深い我の奥底に消え失せて、また、我の中に現れて来なければならない。そして私は斯く自然の衝動が自然としては一度我の中に消えて、人格的現象として再現する時、それは芸術的内容の意味を持って来なければならないと思う。従来の倫理学者は多くこの点に注意していないのだ。我々の欲求が単に自然的であり、これが直ちに我を動かすとするならば、我がこれに従うことは何処までも他律的である。善意は完全に形式的とならねばならない。形式的意志は何らの内容を与えることはできない。斯くては、行為の内容を与えるものは功利主義の外にない。衝動的内容が直ちに道徳的行為の内容として、我そのものの中から我を動かすには、人格的内容として創造されなければならない。すなわち霊化されなければならない。自然的要求はかえって霊的内容の手段となり、表現と見られねばならない。男女の愛という如きことであっても、そのものが直ちに美化される所に、目的そのものとしての倫理的意味があるのだ。そうでなければ、一時的享楽か、さなくば種族保存という如き功利主義の外に意味を有しない。古人の礼とは、単に因襲的習慣ではなく、人間の自然的衝動を美化するものだ。我々がある場合にいかに為すべきかを明らかにするには、完全に利害得失の念を離れて事実そのものを客観的に映して見なければならない。研ぎ澄まされた純真な心の鏡上に映して見なければならない。かくの如き心の態度を、我々は真に良心の聲に耳澄ますと言うのである。大人は嬰児の心を失わずという語もあり、私は聖人には芸術的態度がなければならないと思う。※浴乎沂,風乎舞雩,詠而歸という様な芸術的風格が、道徳家の基調を成していなければならぬと思うのである。
※ 引用 浴乎沂,風乎舞雩,詠而歸とは 福山大学孔子学院 『暮春の候』

それで純粋意志の発現である道徳的意志の内容として与えられるのものは、芸術的直覚の形において与えられた純真なる人格的内容でなければならない。純真なる直覚としては、いずれも美であり、また広義においては善であるとも言い得るのだが、知覚の世界から純粋統覚の統一によって成る存在の世界に進む時、真と偽が分かたれる如く、超越的意志(作用の作用)の構成の世界に向かう時、善と悪が分かたれるのだ。純粋統覚の図式として知覚を構成するが、己自らは知覚されない「時」が、いわゆる経験界を構成する如く、純粋意志は自己自身を実現することのできない無限なる当為として、統一ある一つの客観的道徳界を構成し、この世界全体の統一の上から、我々の唯一の方向が決定され、「汝は斯く為さざるべからず」という唯一なる道徳的命令が成立するのである。
 あるいは右に言ったような純粋意志の所与というごときものは、未だ芸術の内容とも、道徳の内容とも名づくべきものではなく、単にそのいずれにも発展し得べき人格的内容という如きものに過ぎないとも考えられるだろう。無論分析的に考えれば、かかる内容が芸術家の創造作用と結合して美となり、また道徳的行為の内容として善となり悪となると考えられるのだろう。しかしかかる意味において与えられた人格的内容というのは、我々の知的立場に対しての所与の意味でなければならない。かくの意味においては、それは善でもなく悪でもなく、美でもなく醜でもない。しかし純粋意志に対しての所与、すなわち行為的主観に対しての所与は、何の方向かへの発展を含んだものでなければならない。かくの意味において、それは美であると共に善である。作用が行為的立場において己自身を対象として見る時、それが芸術的直観であり、無限に自己自身に反省して行く時、それが道徳的行為だ。画家や彫刻家に対して与えられるものは、手を加えた眼に対して与えられたものだ。超知識的に動く生命の内容だ。かくの如き生命の内容こそ、純粋意志の対象界である文化の世界を構成する材料となるものでなければならない。無論、芸術家の見る生命の内容というのは、空間の底に潜める生命の内容に過ぎない。造形芸術家の創造作用は眼と手の形成作用に過ぎない。しかし芸術家の見る形は単なる形ではなく、生命の表現でなければならない。かくの如き感覚的世界の構成原理である生命自身の自覚が、また道徳的内容だ。生命が生命自身を目的として形成し行くのが、道徳的行為だ。すべての作用の統一である作用の作用(超越的意志)が内に省みるということ、すなわち自己自身の世界を構成するということは、すべての作用の内容を統一し、唯一の対象界を構成することでなければならない。これにはあたかもライプニッツの可能の世界から現実の世界への如き推移があると思う。永久真理が結合して、無限なる可能的世界が神の知において考えられ、神の意によってその一が択ばれて、唯一なる現実の世界が創造されるのだ。芸術的直観おいて、それぞれの見方から映された可能的な人生が、人生全体の統一的立場から決定され、唯一なる現実的人生が成立する時、そこに汝は「斯く為さざるべからず」という唯一なる義務の世界が現れるのである。事実的真理は唯一にして動かすべからざる如く、道徳的義務は絶対的命令として遊戯的気分を許さない。創造作用が自己自身に還り(自覚し)、自己自身に十全なる対象界を求める時、そこに無限にして達することのできない唯一の世界が成立するのである。


 以上述べた所は、芸術と道徳を共に同一の純粋意志の対象界に属するものとして、いかにして両者の区別及び関係を明らかにするかの考え方の一端を示したものに過ぎない。芸術はいずれも純なる人生を映すものとして、水中の杖が折れていると考えられ、天が廻ると考えられる如く、それ自身に全き人生の事実である。しかしかかる事実を構成するアプリオリ自身の自覚によって創造された、それ自身に十全なる対象界においては、それは不完全な、偶然的な断片に過ぎない。与えられたものは全きものではない。己自身に十全なることを求める作用の世界は、無限の当為でなければならない。省みられた自己(芸術に相当)に対して、省みる自己(道徳に相当)はいつも無限の当為だ。ここに芸術と道徳の区別と対立があるのだ。我々の道徳的社会は、永久に完成の過程の上にある神の芸術的創作だ。そして認識の立場において我々の知識内容が真か偽かでなければならぬ様に、行為的主観の立場から見て人生の内容は善か悪かでなければならない。善の概念は、美の概念と異なり、存在を目的とすると考えられるのは、超個人的主観として唯一の客観界が要求されるからである。存在の世界というのは意識一般の立場において、関係の統一によって与えられるのだ。超越的意志(作用の作用)の立場は意識一般の立場を含むが故に、善は概念的であり、道徳的行為は実在的でなければならない。ベルグソンの如く我々は実在界に衝突して生来の豊富なる人格を棄てて行かねばならないと言い得る。しかし我々はこれによって実在そのものを人格化する神の人格を構成するのである。

法と道徳



 我々は通常いわゆる自然界を唯一の客観界と信じているが、認識主観によって構成された自然界が唯一の客観界ではない。認識主観の奥に意志主観があり、行為主観がある。我々に対し真に直接に与えられたものは、意志の対象界でなければならない。我々は知識の対象界の奥に、意志の対象界を持っている。いわゆる文化現象の世界というのはここに求めるべきだろう。意志の対象界というのは、我々が意志することによって現れて来るのだ。否、我々が行為することによって現れ来る世界である。芸術家が純なる芸術的創作の立場に立つ時、芸術的対象界が現れ来り、道徳家が純なる道徳的行為の立場に立つ時、道徳的対象界が現れて来る。皆、認識主観を超越し、これを内に含む自由我(作用の作用)の対象界として現れ来るのだ。そして芸術の世界と道徳の世界の間には、いわゆる経験の世界における知覚と経験的知識の間の関係の如く、自由我の対象界において、所与の世界(芸術)と構成の世界(道徳)の関係の如きものがあると思うのであるが、私はいわゆる法律の世界というのは、右の如き超越的意志(作用の作用)の構成の世界すなわち道徳の世界の初階であると思う。法律と言われるものが、それ自身に何らの価値もなく、ただ他の手段として価値を有し得るものと言うならばとにかく、仮にもそれ自身に文化価値を有するものならば、かくの如き意味においてでなければならない。
 法学者の間には、法の本質について種々の学説があることだろう。しかし私は法を敬してこれに従うということが、自由の自覚を有する人間の義務として、法そのものが我々に対して権威を有するには、法自身が目的そのものとして価値を有するものでなければならないと思う。そうでなければ、法は単に幸福の手段という外なく、我々に対して絶対の服従を要求することはできない。無論、今日の法律は単に功利的な目的を有するものが多いのだろう。またその多くはある階級の為に造られたものとも考え得るだろう。しかし内容の是非はしばらく置き、法そのものを敬し、法の為に法に従うという形式的意志そのものが、既に人格的内容を有し文化価値を有するものでなければならない。私は与えられた法に従うということ自身が、既に人格的意義を有すると考えるのだ。あるいは道徳的内容を有しない法は、何らの価値もないと言い得るだろう。しかし私は法に従うということが、単に道徳の為ということではなく、それ自身に文化価値を有すると考えるのだ。考え様によっては、不可知的内容の権威に服従するということ自身が、一面に宗教的意義を有し、単なる主観的道徳に対し、独立の意義を有すると考えることができる。道徳法は外に超越的根拠を有することによって、その意味を全くすると言い得るだろう。
 我々は自己の人格的統一と連絡のない単に偉大なる外界の力に対しては、ただ恐怖を抱くのみであるが、偉大なる人格的力に対しては、無限の畏敬を以てこれに慴服せざるを得ない。我々の法に対する無限なる畏敬の念は、人格的統一の無限に深い根底である超越的意志に対する畏敬の念に外ならない。超越的意志(作用の作用)はいわゆる意識一般を超越しこれを内に含むのみならず、それ自身の対象界を有する故に、かかる世界の構成は我々の意志そのものの目的とならねばならない。意志は他の目的の為にこの世界の法則に従うのではなく、意志自身の目的の為にこれに従うのだ。この対象界の法則は完全に自然科学的法則とその根拠を異にしている。一層深い根底の上に立っているということができる。自然の世界から文化の世界が発達すると考えられるが、自然界とは超越的意志が自己の中に映した映像に過ぎない。時を超越する超越的意志は、かえって自己発展の過程としてこれ(自然界)を内に含んでいるのである。


 知的主観の奥に意志主観、行為主観があり、我々がこの立場に入る時、そこに自由我の世界が開かれる。芸術の世界はこの立場によって成立するのだ。純粋視覚の発展として絵画の世界が成り立ち、純粋聴覚の発展として音楽の世界が成り立つ。しかし作用の作用である意志そのものの自覚の方向において、法律の世界、道徳の世界が現れて来る。これらの世界は意志の総合的構成作用の内容として現れ来るものであって、経験的知識の世界において言えば、カントが力学的原理によって成立すると考えた存在の世界に比すべきものと思う。総合的認識の立場と考えられるいわゆる純粋自我は、超越的意志の反省の方向であって、この立場(反省の立場)において成立する存在の世界の底に、超越的意志そのものの積極的内容の世界として(積極的立場において)、法律、道徳の世界が存するのだ。すなわちこの二つの世界(存在の世界と法律道徳の世界)は同一の立場によって成立する実在の表裏両面と考えてよい。
 我々が意志の立場に立つ時、我々に対し与えられたものは、単なる知識の対象ではなく、意志の対象でなければならない。水は単に無色透明なる液体ではなく、我らの渇きを癒すものであるのだ。プラグマチスト(実用主義者)の言う如く、すべて知識は実践的意義を持つと考えることもできる。しかし知識を実践的と考えるのは、知識と意志を対立せしめ、前者を後者に従えようというのであるが、我々はなお一層深く意志の立場に徹底して行く時、知識の立場は意志の立場の中に含まれてくる。我々は完全に知識の立場を超越してこれを内に含む時、知的対象そのものの背後に直ちに意志の対象を見るのだ。芸術的創作の立場に立つ時、色そのもの、形そのものが意志の対象となる。水の性質そのものの背後にも、人格的内容を見るのだ。しかし芸術の立場においては知覚内容を人格化することができるかもしれないが、思惟の対象界をも人格化することはできない。実在界の背後に人格的意義を認めることはできない。超越的意識が自己自身に反って、いわゆる実在界そのものの背後に人格的意義を認める時、法律の世界、道徳の世界が成立するのだ。法律道徳は全実在を人格化する神的作用の過程だ。我々が自然を超越して自由なる人格の立場に立つ時、まず法律の対象界が現れて来る。この世界においては物は一々何人かの所有に属するものとして、物と物との間に人格的関係を見る。物は人格の表現として犯すべからざる威厳を有するのだ。物は単なる存在ではなく人格的発展の過程の中に入って来るのだ。ヘーゲルは権利とは自由が直接的存在の形を取ったものである“Das Recht ist zuerst das unmittelbare Dasein, welches sich die Freiheit auf unmittelbare Weise giebt”と言っている。
 我々が自然の生活から自覚的意志の生活に入る時、法律的社会が成立する。自然界を唯一の世界と考えれば、かかる社会は人為的とも考えられるだろう。しかし意志を一層深い実在と見る時、我々はこれによって一層深い実在界に入ると考えることができる。この世界においては、すべての物は我々の欲望の対象として見られ、何人かの人格の属するものとして実在性を持っている。単なる自然現象はこの世界においては実在性を有しない。ある人が荒地を開拓したと言うので、その地面がその人の所有権に属するならば、斯く荒地を開拓したという時間上の出来事がこの地において実在性を有するのだ。この世界において我々が自己の欲望を満たすには、共同意志において認められねばならない。我々は共同意志において認められて生きるのである。これにおいて、法の為に法に従うという当為の念が起こって来るのだ。完全な道徳的行為も単に良心に従うというのみならず、かくの如き客観的法則に従うということを含んでいなければならない。ただ道徳と法律と異なる所は、法律はその内容として非合理的要素を含んでいることである。その内容は形式に対して偶然的であることである。これ故に法律は単に形式的と考えられるのだ。法律と欲求の内容との間には、あたかも物理的法則と知覚内容との関係の如きものがあるのだろう。


 単に思惟するということと、認識するということは同一ではない。知識は概念と直覚から成り立つ。範疇が知覚の内容と結合することによって知識の客観性を得ると言うのが、カントの考えだ。私は斯く言うには、思惟と直覚を統一する意志の自覚というものがなければならないと思う。純粋意志が経験的知識の根元でなければならない。いわゆる客観的世界を構成する力の範疇は意志の射影だ。しかし意志はかくの如き知識の世界を内に包むと共に、自己自身の直接の世界を持っている。この世界は自由意志の範疇によって構成され、その所与は意志の構成として一々が衝動的である。知識にあっては、その具体的根元として意志の対象界に結合することによって客観性を得ると考えられるが、意志にあっては、意志が意志自身を目的として自己自身に還ることによって、その客観性を得る。すなわち主客合一の純なる活動となることによって客観的となるのだ。衝動を純化すると考えられる芸術や、自然の欲求を合理化する法律や道徳は皆これに達する道行だ。
 我々の知識は経験内容と結合することによって客観的となると考え得るが、その内容は形式に対してどこまでも外面的であることを免れない。この場合、形式と内容とは、ただ、一層高次的な立場において結合されているのだ。自由我(作用の作用)の対象界においては、特殊的欲求(経験内容、作用と作用の直接の結合の内容)の中に一般的理想(知識)を求め行くことによって、すなわち特殊なるものの中に一般的なるものを見出すことによって、客観的となる。すなわち形式(一般)と内容(特殊)の合一、否かかる対立が消滅することによって、客観性を得るのだ。例えば、我々の知覚的経験と言っているものは、物理的説明においてかかる統一に達するのではなく、芸術的創作において形式と内容との純なる統一に達するのだ。芸術的創作もかかる意味において超越的意志の作用ではあるが、無限なる作用の作用として理性を内に含む超越的意志は、部分的である芸術的対象界において自己自身を見出すことはできない。意志は意志自身の直接の対象界を持たねばならない。これにおいて法律道徳の世界が構成されるのだ。芸術においては意志は存在の世界を超越することによって自己の世界を有するが、道徳においては実在界(存在の世界)を内に含むことによって、これを自己の世界に構成するのだ。
 我々の経験的知識において理性と経験内容と対立する如く、意志の対象界において法則(形式)と衝動的内容(内容)が対立する。そして経験的知識においては、形式と内容はどこまでも内面的に結合することができないのだが、意志の対象界においては、対象(客)が作用(主)であり、作用(主)が対象(客)である。形式(一般)が即内容(特殊)であり、内容(特殊)が即形式(一般)である。衝動を意識するということその事が、単なる認識の立場に立っているのではなく、作用の作用である自由我の立場に立っていることを意味し、「法」の理解その事が直ちに行為の動機となるのはカントも既に言っている所である。理性なくして意識はない。作用の作用である理性の影を宿すことによって意識現象が成立するのだ。意志の対象界において、法と衝動、形式と内容は、厳粛主義の倫理学者の考える如く本質上相反するものであってはならない。超越的意志(作用の作用)の対象界における現象として、道徳法(形式)と動機の内容(内容)は一つのものでなければならない。これらの孰れか一つによってのみ道徳を説明しようとすれば、我々は超えることのできない間隙に撞着せざるを得ない。道徳の本質は、これらを統一する積極的なる意志内容にあるのだ。あるいは現実における自然的衝動と道徳法の衝突の事実を指摘して、かかる考えに反対する人もあるだろう。かくの如き人は、法というのをただ自然界の法則の意味に考えるのではなかろうか。自然界においては物は法によって動くのであるが、意志の世界においては、法は自ら動くのである。法は物であり物は法である。共に皆自ら動くものである。
 すべて我々の知識または感情の対象界が先験性を有し、我々に対し一般妥当的なるには、それ自身の積極的内容を持たねばならない。換言すればアプリオリがそれ自身において創造的でなければならない。かかる場合においてのみ、我々の作用はこれ(内容、対象)に従うべきものと考えられるのだ。対象が作用に対し外的である時、(対象は)作用に対して当為となることはできない。数理の世界、物理の世界が我々の認識作用に対して当為となるのは、皆右のような理由によるのだ。もし我々の意志が完全に形式的にして何らの内容を有せず、いかなる内容にも無関心であると言うならば、我々は何を為すも自由だ。客観的当為は立たなくなる。我々の道徳的行為の対象としては、意志のアプリオリの創造によってなる、意志自身の積極的内容の世界がなければならない。意志の自律性はこれによって成立するのだ。この意味において、道徳的行為は芸術家の創造作用と似通う所がある。道徳的社会は自由意志の創造する芸術品である。ただ、その物理的世界と異なるのは、意志の対象界として対象即作用である点にあるのだ。例えば、道徳的実在としての家族という如きものは、完全に人格的統一の上に立たねばならない。自由意志自身の創造する実在として我々の目的そのものでなければならない。宗教的意義から家族制度が発達したのは、単に因果関係とのみ見ることはできない。しかし家族というのは、単に冷ややかなる義務によって結合された人と人との団体ではない。積極的内容を有する愛の結合でなければならない。否、家族的結合の根底には暗い本能的欲求すらなければならないのだ。画家や彫刻家が女の肉を美化する如く、暗き生の力を霊化することによって、道徳的実在としての家族が成立するのだ。肉によって与えられたものを、自由意志のアプリオリによって、想像し構成したものが道徳的実在だ。これによって肉は霊化され、霊は実在性を得る。私は超越的意志の創造的方面が純真なる愛であると考える。超越的意志はその一面において純真なる義務であると共に、一面において純真なる愛でなければならない。純真なる道徳的実在としての家族とか国家とかいうのは、純真なる愛によって創造された超越的意志の積極的内容だ。国家や家族の道徳は単に因襲的道徳のみではない。その中に純真な感情の内容がなければならない。もし感情が超知識的の立場において、何ら自己自身の内容を有しないならば、カントの考えた如く感情を混じることは意志の他律化と言い得るだろう。しかし純真なる愛は、あたかも原始的生命が無限なる生物を創造する如く、無限なる人格的実在を創造する霊的生命の力だ。かくの如き内容こそ、自律的意志そのものの目的となるものでなければならない。
 いわゆる心理学的個人の立場から言えば、法は外界の権威に基づくものとして、我に対して外的なるを免れ得ないだろう。我々個人が既に客観的精神によって構成された一つの社会に生まれ来る時、その社会の法律制度は背くべからざる外的権威として我に臨んで来る。我々はこれを不可解と考えることもできるだろう。我の自由を抑圧すると考えることもできるだろう。しかし我々がこれを敬すると言う時、法は我において全然外的なものではない。全然外的なものなるは、これを恐れるも、敬するということはない。我々が法に対して完全に敬意を失った時、我々は権威を自己の中に求めなければならない。自己の中に自然を超越して無限に深い内面的権威を見出した時、道徳的動機が成立する。しかし無内容にして単に形式的である道徳的動機は、何らの客観的道徳法を与えることはできない。内容に無関係である形式的道徳法は主観的たるを免れない。道徳的アプリオリによって創造された客観的対象において、初めて内外合一し、目的そのものを目的とする真の道徳的行為が考えられるのだ。そして斯く無限に創造的にして、我々の予知を許さない先験的意志の内容に対しては、我々は無限に深い外的権威を認めざるを得ない。神的権威説の倫理学者の言う如く、道徳法は神によって与えられたものとも考え得るだろう。道徳の内容が歴史によって与えられると考えねばならないのも、これによるのである。無論その無限なる内容も、我に対して外的なるものではない。我の深き奥底に潜める道徳的自我の創造の世界である。我々はかかる世界に対して、無限なる敬意を有すると共に、また無限にこれを愛することができる。


 知識は先験的形式に基づくのは言うまでもないが、内容と結合することによって、すなわち特殊化されることによって、その客観性を得ると考えることができる。道徳的行為も単に形式的道徳に合うことによって善となるのではない。単に動機が善であるから善であるのではない。内容がこれに合うことによって完全なる善行為となるのだ。そして内容ある経験的知識を構成するには、我々は個々の事実から出立せねばならない様に、道徳的行為も現実の与えられた事実から出立せねばならない。いかなる理想も現実の事実と結合することによって実践的価値を生じるので、甲の場合において善なる理想であっても、乙の場合において悪となることもあると考えることもできる。あたかも芸術的創作が抽象的理想を基礎とするのではなく、具体的である現実の奥に理想の光を見るのと一般だ。無論、道徳的行為が現実を出立点とせねばならないと言うも、一般的理想を無視してよいと言うのではない。与えられた現実を理想化して行くという意味である。現実を無限に可能的なるものの統一と見るのである。ただその統一は、単なる無限の総和ではない。達することのできない極限として、現実は可能なるものに分析し尽くすことのできない積極的内容を持っていなければならない。この立場から見れば、一般的なものはその発現の手段となるのだ。単に一般的なるものから意志することはできない。意志は意志(作用と作用の直接の結合)に始まって意志(作用と作用の直接の結合)に終るのである。無論、道徳的行為においては、人格を目的そのものとするという形式的法則が基礎とならねばなるまい。道徳的行為とは、この法則を力として、現実を超越的意志(作用の作用)の内容に構成することでなければならない。否この立場に立つことによって、現実の根底に深い実在を見出すことでなければならない。私はこういう意味において、自然界の法則と道徳法はその性質を異にすると思う。自然においては一般的法則がすなわち自然である。特殊的内容はすべて一般的法則に分析されるべく定められている。これに反し道徳法は実践的規則と同一性質のものでなければならない。ただこの法則が目的そのものであることにおいて、他の実践的規則と異なっている。この点においてかえって自然界の法則とその性質を同じくすると言える。そして目的そのものの内容は、現実を超越的意志(作用の作用)の実現の過程として見ることによって与えられるのだ。知識においては特殊は一般の中に含まれると考えられるが、意志においては一般は特殊の中に含まれる。道徳的行為の内容とは我々が純なる理性の立場の上に立つ時、現れ来る創造的意志の内容でなければならない。ただそれが超越的意志の内容であるが故に、規則であると同時に法則であるのである。
 私はこれにおいて道徳的行為の内容と歴史的内容の間に密接の関係があることを考えざるを得ない。歴史的発展なくして文化なきは言うまでもない。自然現象を空間の上における実在とすれば、文化現象は時間上における実在だ。空間的内容は物体界を構成し、時間的内容は文化の世界を構成する。この点において文化現象は生物的現象とその性質を同じくするのだ。時間的発展なくして生命はない。古来の文化を一掃して新しい文化が起こると考えられる場合であっても、古い文化が失われたのではない。同じ動機や思想から起こる革新でも同一の文化を生じない。赤を見てから青を見るのと、白を見てから青を見るのは同一ではない。そこに精神現象と物体現象の区別がある。動的理想は時間的統一の上に現れるのだ。無論、歴史的事実と言っても、自然に対して何らの変化を与えることはできない。むしろ「時」の軸に独立であるというのが自然の性質だ。古の殿堂を記念する礎石も路傍の石も同様だ。この意味においては、歴史的事実も、その時代に、消えて跡なき非実在的なものでなければならない。しかし歴史的事実は夢の如く消滅する個人の空想とは異なって、意識一般の対象界に属するものとして客観的でなければならない。この点においては、また自然現象とその性質を同じくすると言うことができる。かくの如き主観的にしてしかも個人的である対象界は、ただ超越的意志(作用の作用)の立場においてのみ考えることができる。客観的精神の内容は歴史において発展するのだ。内容なき「時」は自然界を構成し、内容ある「時」は歴史を構成するのだ。右の如き理由によって、我々は道徳的行為の内容を、いつも歴史の中に見出して行かねばならない。
 経験科学の法則は普遍妥当的であるが、道徳にはかくの如き法則がないとは、多くの人の言う所である。しかしかかる考えは、その意味を厳密にしておかねばならない。経験科学の法則が客観的と考えられるのは、何によるのだろうか。いわゆる経験界とは、カントの総合的原理と言う如きものによって構成されたものでなければならない。総合的原理というものは、理解力の範疇と直覚の形式である「時」の結合によって出来たものだ。この結合はコーエンによれば、意識の統一によって成立するのだが、私は知識の形式が内容と結合することによって客観的となると言うには、作用の作用である意志の形式が考えられねばならないと思う。理性と知覚との結合は、ただ、意志の立場においてのみ可能だ。我々が経験するというのは、一種の意志の作用だ。経験的知識の客観性は、意志の超越性に基づくと考え得るだろう。しかしカントが「時自身は止まる」と言った様に、意志には反省の方面と創造の方面が結合している。個人的人格の意識について考えてみても、我々の意識は過去の経験を保存すると共に、一歩一歩創造的だ。一方において繰り返し得ると考え得ると共に、一方においてまた繰り返すことができないと考えねばならない。いわゆる自然界とは超越的意志の反省の内容に過ぎない。我々がいわゆる与えられた経験を、カントの総合的原理の如きものによって、経験界として構成して行く時、超越的意志の対象界に入り込むのだが、それはこの立場において反省して行くということだ。「時」は流れ行く純なる経験の形式、純なる作用そのものの形式だ。「時」を反省するということは、「時」を止めて見ることだ。我々は想起作用によって「時」を超越し、これを自由に取り扱うことができる。かかる想起の自由によって我々のいわゆる意志の自由が成り立つ。我々はこの立場において一たび底なき自由を感じる。原因なく、法則なく、勝手気ままな自由意志を持つとさえ信じることもできる。しかし我々がかくの如き自由の立場に立って行動しようとする時、我々は自己の力に対して衝突を感じる。フィヒテの我に対するアンストスAnstoss(障害?)というのも、かくの如きものであろう。しかしこれは意志に対して外来的ではなく、意志自身の射影に外ならない。すべて作用は作用自身の内容によって限定されるのだ。ある一つの作用に対して完全に外来的なるものは、この作用に対して無でなければならない。かく作用が作用自身の内容によって限定されること、換言すれば作用が自己自身を限定することが、すなわち反省でなければならない。かくの如き意味において超越的意志(作用の作用)が自己自身を反省し、自己自身を限定した時、理性的形式と知覚的内容の結合からいわゆる客観界が成立するのだ。時の系列を止めて見ることによって物の概念が成立し、これを繰り返し得ると見ることによって因果律が成立し、かかる系列の無数を反省し統一することによって自然界が成立すると考えることができる。「時は止まる」と考え得るのは、ただ「時」の範疇を脱し得る自由意志の立場において可能であるのであって、これに基づいて法則の世界、自然の世界が成立するのだ。そして自然の世界はすなわち法則の世界なるが故に、自然法は自然界において客観的であるのは言うまでもない。だが我々の意志は、自覚において省みることがすなわち創造することである如く、自己反省の裏面に創造的方面を持つ。道徳の世界はかくの如き意志の創造の世界、積極的内容の世界に属するのだ。我々は現実の経験を、その背後に潜める超越的意志の立場において構成して行くに当たって、その反省の方面と創造の方面の両方向に進み得るのだ。斯く両方向に進み行くに当たって、具体的意志の内容として、現実は一方(反省の方面)からは抽象的一般と見られ、他方(創造の方面)からは具体的特殊と見られる。具体的意志の無限なる発展の過程として、相反する両方向に無限の行先を見るのだ。一方においては無限に一般化の方向を見ると共に、一方においては無限に特殊化の方向を見るのだ。特殊化ということは、全世界の意味を一点に集中することだ。全世界の立場において働くことだ。すなわち全世界を一つの意志と化することだ。真の特殊は全体において限定されたものでなければならない。否全体を内に含むものでなければならない。ここに内容ある定言的命令が成立するのである。


 私はある一つの社会において固定した道徳の理想は、あたかも生物の種族に比すべきものであると思う。生物の生命は一つの大なる流れである、現在において固定した種々の種族と考えられるものも、ただ一時固定した一つの生命の型に過ぎない。ある一つの生命の型は、単に繰り返されるべきものとして与えられたのではなく、自己自身を発展し特殊化すべきものとして与えられたのである。言うまでもなく、生命は時間的実在だ。過去は生命において失われたものではない。生命は過去を負い未来に進んで行くのである。しかし一つの生命の型というのは、単に内面的にのみ定まるのではない。外界との関係において定まるのだ。ここに適者生存の法則が行われるのである。ある一つの固定した道徳も、これと同様の方法において定まるのだろう。外界に適するものが生きるとは、外界を自己に同化し得るものが生存すると言うことでなければならない。外界を同化すると言っても。生命が物質を変じるのではない。ただこれを目的的に統一するに外ならない。単なる機械的因果の実在と異なった、一つの目的的実在が成立するのだ。すなわち目的的アプリオリが己自身の独立の対象界を構成するのだ。この場合において目的的アプリオリが機械的アプリオリを破るのではない。これを超越し、これを要素として、自己自身の世界を構成するのだ。もし意識一般が自然界を構成する立場とするならば、自然を同化するという時、意識一般の立場を内に含むと言い得るだろう。繰り返し得る同時存在的自然の立場を超越し、これを内に含む時、それは時間的立場すなわち目的的統一の立場となるだろう。自己が自己を反省する時、自己が自己を超越して人格的歴史を構成するのだ。かくの如き意味において自然界を超越してこれを内に含むと言うのは、特殊なるものが実在的となることでなければならない。「時」の範疇によって成立する実在は、特殊的なものでなければならない。ここにスピノーザの本体からライプニッツのモナドに移り行く所以がある。右の如く生物的生命といえども、すでに単なる自然現象としてではなく、意志の対象界においてその実在性を有するのだ。しかし未だ自覚的ならざる生物的生命は、なお己自身の対象界を有し、己自身の実在性を有することはできない。ヴィタリスムス(?)が非科学的と考えられるのも、これによるのだ。自然科学として目的的因果は規制的原理の意味しか有することはできない。ただ、意識現象に至って、初めて我々は真に自然界を超越して、これを内に含むと言うことができる。いわゆる自然界とは直接経験を材料として構成した思惟の産物に過ぎないと考えることができる。自然の立法者というべき純粋統覚を、自己の中に見る我々の意識は、完全に自然を超越して自己自身の世界を有すると考えることができる。生物的生命はあるいはこれを機械的に説明し尽くすことができるでもあろう。自然界に還元し尽くすことができるであろう。自然を構成する自我の意識そのものは自然に還元することはできない。これにおいて、自然の客観性が消されて、自由我(作用の作用)の対象界が成立する。すなわちいわゆる道徳的世界が成立するのだ。これによって、我々の生命は真の自立性を得るのだ。ある一つの社会において固定した道徳とは、かくの如き生命の世界、合目的的世界における生物的種属でなければならない。精神的生命の固定したタイプ(型)でなければならない。そしてかくの如き我々の精神的生命のタイプは、生物の種属の場合の如く、単なる内面的必然によってではなく、外界との関係において定まらねばならない。この意味において、道徳の間にも適者生存の原理が行われると言い得るだろう。しかしかかる場合における道徳的外界とは、いかなるものだろうか。道徳的意志に対してその環境となるものは、単なる自然ではない。真に道徳的意志の環境となるものは、人格的意志の世界でなければならない。人格対自然にては、道徳的意志は成立しない。ただ功利的世界あるのみだ。道徳的意志の世界は、人格対人格の世界でなければならない。無論生物の種属の自然淘汰においての如く、自然的因果律によって、いかなる道徳が成立し発展するかが決定されるとも考え得るだろう。しかし全宇宙を以て我を圧殺するも、我はこれを知るが故に殺す者より尊いとパスカルの言うごとく、道徳的意志においては、自然を超越して自己自身の創造に成る対象界を持つと考えることができる。自然そのものがその中において消されるのだ。道徳的意志は、自己の環境を自己自身の中に包むと考えることができる。自覚においての如く作用が作用自身を対象となし、作用が作用を生むのである。自分自身の中に自己の環境を生み、自己自身にて自己を特殊化すると考えることができる。いわゆる道徳法とは、かくの如く自分で自分の環境を生み、自分自身を特殊化して行く霊的生命の種属だ。これ故に道徳法は一面において生物学的法則と、その性質を同じくすると考え得る。機械的法則と同一の意味においての一般的法則は、成立することはできない。もし機械的法則と同一の一般性に従うものとするならば、生命はなくなるのだ。法を敬し法に従うと言う時、我々はこれによって初めて道徳的生命を得るのだ。因果律が自然界を与える如く道徳法は道徳界を与えるのである。ただ、道徳的意志の世界は、自然界と異なって個性的実在の世界だ。道徳法の一般性は、抽象的一般ではなく具体的一般でなければならない。道徳法は単に従うべく与えられるのではなく、これによって個性的生命を構成すべく与えられるのである。


 私は前に「美と善」において、美の対象界を善の対象界の所与として論じたが、今少し両者の関係を厳密にしておきたいと思う。知覚は経験的知識の資料となるが、そのままの形において資料となるのではなく、まず事実と事実の関係をあらわす法則の形に造られねばならない。芸術的内容となる純真なる人格的内容が、道徳的意志の内容となるには、規範の形に造られねばならない。事実間の関係をあらわす法則の形において、知覚的内容がポアンカレのいわゆる物理学的原理の材料となる如く、人格的内容は規範の形において自覚的意志の内容となる。自覚的意志の内容となるものは、衝動ではなく、規範(当為)でなければならない。カントの言う如く、法を理解し法から働くものが意志だ。意識一般の立場において知覚的内容が概念的となる如く、意識一般の立場において衝動的内容が概念的とならねばならない。概念的内容というのは、無限なる作用の作用の立場、すなわち超越的意志の反省の立場において現れ来る内容である。道徳法の内容となるものは、純真なる人格的内容でなければならない。そうでなければ、意志は他律的となるを免れない。この意味において、道徳的意志に対して芸術的直観がその所与となる。しかしそれが道徳的意志の内容となるには、総合的意志の立場において統一されねばならない。全人格の体系に統一されねばならないのだ。あるいは与えられたものは求められたものであり、直覚の形式の中にも思惟の形式を含むと考えられねばならないように、芸術的直観は超越的意志の立場において成立し、その中に意志の形式を含むと考え得るだろう。しかし省みられた自己(対象化された自己、芸術的直観)は、直ちに省みる自己(対象化する自己、超越的意志)ではない。その間には自己自身と自己の影との如き区別を認めねばならないだろう。
 芸術的直観と道徳的意志の間には、右に言った如く知覚と経験的知識との如き関係があると考え得るが、知覚内容が概念的である経験的知識に分析し尽くすことができないと考えられる如く、芸術的直観の内容は道徳的意志の内容に比して、深くかつ豊富なるものがあるとも考え得るだろう。道徳的意志は何処までも果てしなき対立であり、その根底には不可知的な或物がある。すなわち一種の直観がなければならない。しかしかくの如き場合においては、それはもはや芸術的内容と言うべきものではなく、宗教的内容と言うべきものであろう。

真と善



 一方から考えれば、我々は真なるものが美であると考えざるを得ない。虚偽なるもの、作られたものに対しては、それがいかに巧であっても、これに対して芸術的価値を認めることはできない。夢の如きおとぎ話であっても、それがが芸術的価値を有するかぎり、我々はその中に何らかの深い人情自然の真を認めざるを得ない。無論斯く言うも、人情の美ということと、芸術の美ということを混同するのではない。いかに醜悪なる人情であっても、それが人情の真として、芸術的対象となり得るだろう。虚偽なるものは芸術的価値を有しないが、虚偽なる芸術家の心事も、また芸術的対象となり得るだろう。自然を対象とする芸術についても、同様のことが言い得ると信じる。芸術的価値を有するのは、我々の主観的作為を許さない、何らかの意味において客観的に与えられたものでなければならない。
 しかしまた一方から考えれば、真と美は何処までも区別せねばならないと考えることもできる。真なるものが必ずしも美なるものではない。美なるものが必ずしも真なるものではない。数学的真理の中には、いかにも整斉的にして美と思われるものもあるだろう。音楽的とすら思われるものもあるだろう。しかしある数学的真理が美であるということと、真であるということは固より同一ではない。科学的真理の如きものの中に、美感という如きものを求めるは難く、音楽の如きものの中に、真理という如きものを認め難いと考え得るだろう。我々は真と美の関係をいかに解すべきだろうか。


 私はまず形式美と内容美の区別について考えてみよう。雑多の統一とか、整斉とかいうことは、感覚的内容の関係のない純なる形式美と考えられるだろう。しかし斯く考える場合において、内容というのは知識的内容の意味であって、美的内容の意味ではない。かかる意味の内容は美的価値に対して無関係であり、偶然的であることは言うまでもない。しかしかくの如き知識においての形式と内容の区別から、いわゆる形式美を無内容と考えることはできない。私の考えでは内容なき美というものはない。美には表現されるべき内面的生命がなければならない。純なる内面的生命の表現が何時でも美と感じられるのだ。いわゆる形式美なるものの本質をカントの如く解するならば、それはカント自身が考えた如く単なる形式美というべきものではなく、かえって我々の純なる理性的生命の内容を表現するものではなかろうか。理解力という一つの精神作用を、作用の作用の立場から反省して見た作用自身の内容の表現と見るべきではなかろうか。形式美はかかる意味において一種の内容美でなければならない。我々が種々の作用を有するから種々なる生命の内容があり、種々なる芸術美が成立するのだ。
 造形美が空間を対象とするとすれば、空間が造形美術においてその内容をなすものと考えねばなるまい。これに対して、色という如きものすら外面的と考え得るだろう。ましてそれが基督の母たるマドンナの像であるとか、ギリシャの女神たるヴェーナスの像であるとかいう如き概念的内容は、芸術的内容に対しては、完全に外面的と考えねばなるまい。しかしこれが為に造形美術は形式美の芸術であるということはできない。もしフィードレルの如く考えるならば、造形美術は我々の純粋視覚の表現であり、造形美術の内容をなすものは純粋視覚の内容でなければならない。我々が概念の網を破って純なる視覚作用の立場に立つ時、純なる造形美術の対象界が現れて来る。これにおいて物が生きて来るのだ。空間が生命を以て満たされるのだ。生命とは主客の合一の相だ。我が物となり、物が我となる時、生命が現れ来るのだ。かくの如き意味において、純粋視覚の立場の中に統一され得るかぎり、色が造形美術の内容を成すことは言うまでもなく、芸術家の人格の深さによっては、宗教的内容と思われるものすら形体化することができるだろう。特にマイエルの言う如く、表現的芸術と考えられる詩において、概念的内容が直ちにその内面的内容を成すことは、何人も認め得るだろう。私は美に形式美と内容美という如き区別があるのではなく、すべてが内容美と言うべきものであると思う。ただ、芸術的内容の種々の区別があるのではなかろうか。普通にいわゆる形式と内容の区別というのは、知的内容の区別を美的内容に移したものと思われるのである。


 美が上に言ったような意味において、それぞれの内容を持っているとするならば、それは知識内容といかなる関係においてあるだろうか。視覚作用には造形美術の美があり、聴覚作用には音楽の美があり、そしてそれらの美が経験内容の異なるに従って、特殊なる内容を有するものとするならば、知的内容と美的内容の間に何らかの内面的関係があると考えざるを得ない。例えば均整美という如きものであっても、それが形における場合と、音における場合と同一とは考えられないだろう。その美が深くなればなるほど、一つの美は他の美によって代えることのできない美的内容を持つと考え得るだろう。芸術家の創造作用が客観的に何物かを構成する構成作用であるとするならば、その構成作用は経験の客観的法則に従わねばなるまい。造形美術は視覚的経験の法則に従わねばならず、音楽は聴覚的経験の法則に従わねばならない。美的内容は、これらの法則に制せられて特殊の内容を持つとも考え得るだろう。
 我々が色と色との関係とか音と音との関係とかいうものを定めるのは、視覚とか聴覚とかいうものに依らねばならない。我々がこれを判断意識の立場において、判断の形に構成することによって、感覚的知識の真理が成り立つのだ。いわゆる色自体Farbenkorperという如きものは、何人も認めるべき真理と考えられるのである。そして斯く感覚内容を、判断の形に直して考えるということは、次の如く言い得るだろう。我々の自由我というはのは無限なる作用の作用であって、理性はその限定の方面であり、意志はその発展の方面である。ヘーゲルも思惟を意志の反省的方面と考えている【Philos. d. Rechts Einl., §5】。我々が感覚的真理を構成するということは、部分的作用の内容を、作用の作用の立場の内容に直して見ることであると考え得るだろう。作用の作用の立場の反省的方面である理性は、すべての作用の内容を自己の内容に直して、自己自身の対象界を構成すると考えることができる。斯くしてすべての個人的主観に対して、一般妥当的である客観的真理の世界が構成されると考えることができる。しかしまた一方から考えれば、視るとか聴くとかいうことは、その内容が理性の立場において反省されると共に、創造作用としての自己自身の内容を有すると考え得るだろう。知的内容に分析することのできない、自己自身の積極的内容を有すると考えることができるだろう。純粋感覚の表出運動と考えられる芸術家の創造作用は、かくの如き内容を表すものと考え得るだろう。
 右の両方面は固より相反する方向ではあるが、経験的知識を確立するには、一般的理性が特殊的作用に従わねばならない。経験内容を反省して一般的真理を構成する前に、まず一般を内に含む特殊(作用の直接の結合の内容)が構成されなければならない。我々が現実に見るとか聞くとかいうことが、かかる経験を構成することだ。我々は働くということによって、一般を特殊の中に含むことができるのだ。芸術的創造作用もかかる特殊化の方向を進めて行くに過ぎない。斯くして真(一般)と美(特殊)は相接するのだ。真の裏面に美が伴っていると考えることができる。芸術的創造作用というのは、ただ主観的に物を構成するのではなく、客観的に物を見ることである。深い実在を見出すことである。物にあっては、右の如き創造の方向と反省の方向の間に何処までも間隙があると考えられるが、我においては、この両方面が内面的に結合していることが明らかだ。無論、我が我を創造して行くという如き場合では、それが直ちに芸術的創造作用とは言い得ないだろう。自己を創造して行くのは、厳粛なる道徳的行為だ。物において芸術的創造作用は、我において道徳的行為となるのであるが、両者共に同一の方向だ。両方向の内面的結合が断たれた時、それが芸術的創造作用となると考え得るだろう。
 感覚的経験が真理の基となるという時、特殊が一般を含むという時、その特殊は形式論理において考えられる如き特殊でないことは言うまでもない。理性を超越する意志(作用の作用)の立場においての統一でなければならない。知識は、この方向に進むことによって客観性を得るのだ。この意味において、真なるものの基礎に美なるものがあると言うことができる。経験的真理の確信の基に、一種の美的直観が働いていると考えることができるのである。美の上に真が漂うと言ってよい。意識一般の立場において認められる経験的真理に反する美の内容はない。なぜなら美的直観は理性を内に包み、無限にこれを個性化して行く方向であるからである。知識の客観性を失うことは同時に美の客観性を失うことである。ただ、一般的真理は美の内容の成立条件となるが、一般的真理は直ちに美ではない。美の内容は何処までも個性的でなければならない。真理であっても、それが個性的となればなるほど、美的内容に近づいてくる。無論、何処まで行っても個性的なもの(美)と一般的なもの(真)は結合しないと考え得るだろう。何処までも美は美であり、真は真であると言い得るだろう。この両方面は、真に作用の作用の自覚の立場というべき宗教の立場において、その内面的合一を得るのだ。宗教の立場において、個性化と一般化の両方面が結合するのだ。真なるものは美、美なるものは真となるのである。


 我々は普通に知覚と思惟を区別する。しかしこの二つの作用はいかなる点において異なり、いかなる点において同じと見るべきであるか。思惟というのは、知覚的経験によって与えられた内容を区別し、整頓する単なる形式的作用ではない。思惟は思惟自身の内容を持つのだ。数理の如きものは、純粋思惟の対象と考えることができる。なお、思惟(一般的理性)を前に言った如く、意志(特殊的作用)の裏面として考えてみれば、思惟は一面において一つの創造作用であると考えることができる。自己自身の実在界を構成すると考えることができる。自由我(作用の作用)の世界は思惟が思惟自身を反省することによって創造されるのだ。これに反し、知覚的経験といえども、単に受動的ではない。単なる静的直観ではない。純なる直接の作用としては、作用が作用自身を省み、作用が作用を生む一つの事行だ。我々が一歩一歩物を深く見て行くことは、一歩一歩物を深く考えて行くことと同様だ。視覚の世界は視覚に連なり、思惟の世界は思惟の世界に連なる。作用が作用自身を対象としても、各自が各自に十全なる世界を創造するのである。我々の視覚作用は、色の表象自体を内容とすることによって発展するのではなく、直ちに前の作用に接続することによって進むのである。画家や彫刻家は眼を以て考え、哲学者は思惟を以て見るのだ。プロチヌスの言う如く、思惟することは見ることである。
 それでは、いかなる意味において、知覚と思惟が区別されるのだろうか。知覚においては、作用から作用への推移が直接にして無意識と考えられ、思惟においては、その間に間隙があり、意識的であると考えられるのは、何によるのだろうか。私は思惟を作用の作用である意志の反省的方向として、すべての作用に対して自由なる統一の立場として見ることによって、これを解し得ると思うのである。すべての経験は、その純なる状態においては、作用の純なる内面的連続として、意志の射影と見るべきだろうが、我々は作用の作用である意志の自覚の立場において、これを作用自身の対象として見ることができる。思惟はかかる立場の反省的方面として、その限定作用として、すべての作用に対して、独立であり、自由であり、統一的であり得るのだ。表象の立場は感覚の立場を、想起の立場は表象の立場を、これを超越しこれを内に含むの故を以て、その内容に対し、独立であり、自由である。思惟の立場は、かかる意味においての極限と見ることができる。表象は感覚の連続ではない。感覚の立場から見れば、その間に間隙があり、感覚の統一として無意識であったものが、表象としては意識的となると言い得るだろう。表象において無意識であったものも、記憶において意識的となると言い得るのだろう。
 しかし私はいかなる経験においても、反省的方面の知識と、作用が作用自身を見る創造的方面の知識があると思う。この区別が永久真理と事実真理の区別として現れるのだろう。視覚作用が色や形を識別して行く時、無論まだ判断の形において区別されるのではない。しかしこの識別が、赤は青と異なるという如き判断の基礎となるのは言うまでもない。私はかかる知的内容を、視覚の世界における永久真理と見たい。いわゆる色体という如きものは、かかる知的内容に基づく永久真理の体系と考えることができる。赤と青が識別されるには、赤の視覚と青の視覚が、この両者を総合する視覚一般の立場から反省されるのだ。視覚が視覚自身の内容を反省するのであると考えることができる。あるいはそれは判断であって視覚ではないと言うでもあろう。しかし現在に二つの色を並べて、これを識別するものは、視覚でなければならない。あるいは感覚と感覚は互いに直ちに相区別するというかもしれない。しかし互いに独立なるものは、相区別することはできない。両者を識別するには、両者を総合統一する全体がなければならない。否両者はこの全体の分化発展と見られなければならない。かくの如き識別作用が、心理学のいわゆる感覚作用となるものである。あるいはそれは感覚作用として、眼の場合においても、耳の場合においても、同じものであるとも考えられるだろう。無論我々は感覚一般の立場として感覚作用というものを認め得るのだが、具体的には一々が特殊的でなければならない。視覚作用は斯くの如く識別的方面を持つと共に、純なる作用の連続として構成的方面の内容を持つ。すなわち知的方面を持つと共に意的方面を持つ。そして後者の方向において徹底したものが造形美術の内容を成すと考え得るだろう。我々はこの方向において、視覚の世界における事実真理を持つと言うことができる。かくの如き見方において、ディルタイの言う如き構造Strukturの心理学が成立するのだ。芸術的実在に対して芸術的真があり、真と美の結合をこの方面において見ることができるだろう。芸術的美の中に、心理的真が含まれていると考え得るだろう。セルバンテスの描けるドンキホーテやシェクスピーヤのハムレットは、それが個性的である芸術的創造であると共に、心理学上の一つのタイプと考えることができる。無論芸術的内容が直ちに心理的真理とは言い得ない。芸術的内容は知識内容に還元することのできない如き、具体的なものと言わねばなるまい。しかし物理学者が現実の経験的真理から一般的なものを見出す如く、芸術的内容の中に知的内容を含み、一種の心理的知識は、この立場によって客観的となると考えることができるのである。

 右の意味を明らかにするには、実在とか事実的真理とかいうものについて考えてみなければなるまい。実在というのは、意志の対象界と見るべきだろう。可能の世界から区別される現実の世界は、無限の真理を統一するアプリオリのアプリオリの立場(作用の作用の立場)において構成されたものでなければならない。モナドは神意によって創造されたのである。カントの意味において知識の客観性ということは、現今西南学派の考えるように単に一般妥当的であるというばかりでなく、知識の形式と内容の結合に求めねばなるまい。そしてかかる結合はただ作用の作用の立場においてのみ可能だ。この意味において客観的知識は実在の知識であると言うことができる。事実真理というのは、かくの如き意味において実在の知識でなければならない。意志が自己自身を反省した知識内容でなければならない。無論意志は意志自身を反省し尽くすことはできない。反省し尽くすことのできるものは、意志とは言われないだろう。物自体とは、知識の達することのできない意志自身の無限の行き先である。しかし作用自身の内に反省されることによって成立する事実的真理は、単に対象的である永久真理とは、相反する立場において成立すると考えることができる。ライプニッツのアダムの概念、西南学派の歴史的認識は、皆作用が作用自身の内に省みる立場において成立するのである。歴史的認識の基である一般者は自然科学的知識の一般者とは同一ではない。
 いわゆる事実的真理、歴史的認識を右の如く考え得るならば、私はこれを行為の内容と考え得ると思う。右の如き知的内容の成立の基には、動的一般者がなければならない。すなわちこれ(事実的真理、歴史的認識)を動くもの、働くものの内容として考えなければならない。無論既に省みられた知的内容は、直ちに動くもの、働くものの内容とは言われまい。しかし動くもの、働くものは、無内容ではない。我々は「時」の内容を、自己の内容として働くのである。この内容を離れて我々の内容はない。我々の道徳的行為というのは、歴史的事実を内容として成立するのだ。かかる知識を内容として進むのだ。超越的意志(作用の作用)が自己自身の中に反省する知的内容が、歴史的知識となり、超越的意志の発展が道徳的行為となる。歴史的真と道徳的善は表裏相接している。無論、主観的善の立場から見れば、歴史の背後に善の理念があるとは考えられないだろう。しかし私は今しばらくヘーゲルの世界史の理念についての考えを引用するに留めておく。ヘーゲルは理性的意志、具体的善は最も有力なるものであり、斯くの如き働く善、すなわち神の摂理の発展が世界史であると考え、真なるものの真理は創造された世界であると言っている【Hegel, Die Vernunft in der Geschichte, Hrsg. v. Lasson, S. 55】。
 右の如くにして世界史の内容は道徳的意志の内容と考えられ、構造の心理学の内容は芸術的創作の内容と考えられ、美なるもの、善なるものが立せられる。真と善と美を同一の方向において見ることができる。視覚的体験について言えば、単に抽象的に色の種々なる関係を示せる色体の如きものは、思惟体験における純理の体系に比すべきものであって、我々が思惟の立場においていわゆる経験的実在界を有する如く、視覚的体験は己自身の実在界を持つ。そして経験的事実が法則化されて自然科学的真理となる如く、視覚的体験の内容も一種の心理学的真理として法則化されるのである。しかし我々は意識一般の立場において、唯一なる現実の世界として事実的真理の世界、歴史の世界を持つ如く、造形美術の創作的立場において、視覚の立場においても、個性的事実の世界を持つと考えることができる。一あって二なき芸術的内容は、視覚の世界における一度的な事実である。そして歴史的認識が一度的なもの、唯一的なものの知識と考えられると共に、その中に無限の永久真理を含むと考え得る如く、芸術的作品の中にも、無限に永久真理を含むと考え得るだろう。

真と美



 私は前に超越的意志(作用の作用)が自己自身の内容を反省するという立場において、美と真の結合を論じた。今、同様の考えによって、真と美の関係について考えてみようと思う。そして私はまず知識の真ということについて考えてみよう。リッケルトなどに従えば、一般妥当的である知識内容が真と考えられ、一般妥当性ということは、知識の客観性ということと同一と考えられている。模写説に反して、知るということは構成することであると考え、認識対象を当為とする立場においては、斯く考えるのが至当であろう。しかし徹底的に斯く考えるならば、種々なる知識のアプリオリは互いに独立となり、知識の統一、知識の体系は立たなくなる。いわゆる価値の無秩序に陥る外はないだろう。私はカントが知識の客観性を、思惟の範疇と知覚との結合に求めた所に、単に一般妥当性以上の意味があるではないかと思う。思惟の範疇と純粋直覚と結合して数学的知識が成立する時、後者(数学的知識)は具体的全体として前者(思惟の範疇、純粋直覚)よりも一層客観的ということができる。しかしカントの言う如く数学的知識は経験の可能を示すものであって、物の知識ではない。経験的知識ではない。客観的知識(物の知識、経験的知識)は内容ある直覚との結合によって成立するのだ。思惟が直覚と結合するとは何を意味するか。いかにしてそれが可能であるか。直覚というのは、普通に考えられる如き受動的状態ではない。かかる意味の直覚は思惟の所作(思惟により対象化された直覚)であって、思惟はこれと結合することによって何物をも得ることはできない。真に与えられた直覚は、それ自身に動的である主客合一の作用でなければならない。この意味において思惟が直覚に結合するというのは、己自身の根元(作用)に帰ることと考え得るだろう。数理が論理の具体的根底として客観性を有するのは、これ(己自身の根元に帰ること)によるのだ。しかし(数理などにおける)理性は自己の一面にして、その全体ではない。作用の作用として、すべての作用を統一し、その具体的根元(作用の作用)となる意志の立場において、初めて知識の形式(思惟、理性)と内容(直覚)が結合し、真に知識の客観性に到達するのである。右の如くにして、種々なる知識のアプリオリは、アプリオリのアプリオリの立場(作用の作用、意志の立場)において統一され、知識の目的が定められて、知識が客観性を得るのだ。昔プラトンの考えた如く、真の根底に美があり、善があると考え得るだろう。
 我々の知識は何らかのアプリオリによって成立し、知るということはこれ(アプリオリ)によって構成すると言うことであるから、真理は我々の認識作用に対して、当為でなければならないと考えられる。そしてすべての人の認識作用というものが、超越的価値を内在的意味として、作用の中に映すことによって成立するとするならば、その当為は一般妥当的であると言い得るだろう。しかし知るということは、認識作用が当為に従うことであるという時、そこに従うものと従われるものとの対立がなければならない。知ることは構成するということであると言うならば、構成するものと構成されるものがなければならない。もし認識作用というものが単にアプリオリ自身の発展とするならば、非合理的なものや誤謬というようなものはなくならねばならない。否、作用の意識というものすら起こり様はないのだ。主客相対立する時、もし知られたものが、それだけで全きものであって、意識は単に鏡のようなものならば、主と客の対立の起こり様はない。主客の対立には、少なくとも与えられたものの体系間に、矛盾衝突という如きものがなければならない。あるいは体系と体系との矛盾衝突でなくとも、ある一つの体系が己自身を限定し行く時、限定するものと限定されるものとの対立を見ることができると考えられるでもあろう。しかし自ら動くもの、自己自身を限定するものは、最終が最初に含まれ、アプリオリ自身が生産的なもの(目的を持つもの、精神的なもの)でなければならない。そして単に内から動くということは、直ちに意識するということではない。与えられたものは求められたものであり、我々の認識対象界が合理的であるといっても、その物自身が意識するとは言われない。曲線上の一点、物理的力、生物的生命、皆それ自身に生産的と考え得るだろう。しかし自己自身を意識しているとは言われない。単に自己自身にて発展的である体系においては、完成の程度の差というものを考え得るだろうが、合理的と非合理的との対立はなく、真と偽との区別は成り立つことはできない。かくの如きものに対して、当為ということは無意義だ。我々の主観がただ一つのアプリオリから知識を構成して行くものとすれば、完全と不完全との差はあっても、誤謬というものはない。誤謬はアプリオリの混淆から起こるのだ。そしてかかる意味において誤謬というものが起こるには、アプリオリとのアプリオリの立場(作用の作用、意志の立場)において、アプリオリの自由なる統一というものがなければならない。知るということは、この立場において一つのアプリオリを認めることでなければならない。知ることの目的すなわち真理に達するということは、単にアプリオリを純化するというばかりでなく、アプリオリの統一に達するということでなければならない。「それは真であるか」という問は、アプリオリのアプリオリの立場(作用の作用、意志の立場)において成立し、これを決するものはこの立場でなければならない。知ることは構成することであり、形式と内容の結合によって、その客観性を得るということの真意は、ここにあるのだ。真理が我々に対して一般妥当的当為であるということは、アプリオリのアプリオリの世界における実在として、内に無限なる認識のアプリオリを蔵する我々が、自己自身の内面的統一に従うということでなければならない。
 ある一つのアプリオリを取れば、これによって真理が定まると考えられるが、いかなるアプリオリを取るべきかを定めるものがないならば、真理は単に人為的となる外はない。この場合※プラグマチストの如く考えるか、そうでなければ真理は単に学者の遊戯となる外ないだろう。
※ 引用 実用主義とは 

「真理への意志」というものがあるならば、それはアプリオリとアプリオリを結合し統一する意志でなければならない。我々はこれ(意志の立場)によってプラグマチストの立場を脱し得るのだ。知識の客観性を立するには、この意志が超個人的であり、客観的であるということに基づかねばならない。知識が単に「かかるアプリオリを取るならば」の上に立つならば、知識の客観性を立することはできない。しかし知識は、最後の統一の理念(最終的な統一という理念)の上に立つのだ。何らの主観性をも許さない知識の客観性は、かかる認識の理念の上に立たねばならない。ある一つのアプリオリの上から一つの判断が真理として認められる場合においても、これと異なった立場から、反対の判断の可能が考えられ、しかもこれを否定することによって、真理が認められるのだ。当為とは超個人的意志に個人的意志が従うことでなければならない。意志が意志に対する時、はじめて当為の意味があるのである。種々なる知識のアプリオリは認識意志(認識作用という意志)から生み出され、しかもこの中(認識作用の中)において統一されていなければならない。
 右の如く考え得るならば、私は知識の客観性という中には、知識がその元に還り、真実在と結合するという意味があると思う。ただその真実在というのは、認識によって構成された、いわゆる対象化された世界ではなく、作用が作用を生む、作用自身の無限なる連続の世界でなければならない。知識そのものが実在的である世界でなければならない。すなわち構成bilden(作用)は模写abbilden(知識)であり、模写(知識)は構成(作用)である世界でなければならない。我々はかくの如き真実在の世界、具体的実在の世界を、我々に直接である自覚の体験によって理解することができる。我々の自覚においては、達することのできない物そのものに向かうこと(知るという働き)が、物そのものに一致すること(知るということ)である。知るという働き(作用)そのものが知ること(知識)である。認識対象は認識作用そのものの中にあるのだ。純我(純粋自我)の一面として純我の影を宿せる認識作用は、ある一つのアプリオリから構成して行く時、その行先に目的を有するのでなく、作用自身の中に真の目的を有するのだ。認識の目的(認識対象)は作用(認識作用)自身の中の世界にあるのである。当為として我々に臨むものは、かかる超越的意志の内容でなければならない。意志を抑圧するものは(当為として我々に臨むものは)、また意志でなければならない。知識の目的はアプリオリによって構成して行くことにあるのではなく、主客の合一によるのだ。アプリオリによって構成して行くという時、何処までも主客対立の立場を脱しない。主客の対立は知識の主観性を意味する。完全に知識の主観性を滅却するには、主客合一して、一つの働き(作用)とならねばならない。一つの働き(作用)となるというのは主客の別がなくなることではない。主客の矛盾、対立がそのままに内容となるのだ。物理的知識が、数理的知識に比して、実在的なるものの知識として、客観的と考えられるのは、かくの如き主客合一の立場である作用の作用の内容たるにあると考えることができる。純数学的知識においては我は完全に知識の外に立つ。数理の対象界において我を映すことはできない。しかし物理的知識は、既に作用の作用の内容として、主客合一を目的とするが故に、物理的対象界の中に自我を映して見ることができる。唯物論は斯くして起こるのだ。唯物論とまで行かずとも、自然科学的心理学は既にこの方向を示しているのである。無論かかる行方によって主客合一に対することはできないが、私はただこれによって知識の客観性ということに、二つの意味があることを示したいと思うのである。ある一つのアプリオリの上に立つ時、我々は既に超越的意志(作用の作用)の上に立つのであるが、アプリオリの客観性を定めるものは、アプリオリのアプリオリ(作用の作用、意志の立場)でなければならない。超個人的意志主観あるいは行為的主観でなければならない。かかる立場を許さなければ、何故に数理的知識に比して物理的知識が客観的であるかを明らかにすることはできない。あるいはそういう立場は超知識的立場であって、知識の立場でないと考えられるかもしれないが、具体的知識は何時でもかかる立場によって成立するのである。
 我々が普通に直覚に基づく事実的真理と考える所のものは、元来右に言った如きアプリオリのアプリオリの立場、作用の作用の立場において成立するものでなければならない。直覚というのは、単に知識内容を受け入れることではなく、(作用の作用の立場から、作用の統一により)構成することでなければならない。形式的知識(単なる思惟、数理的知識など)に比して、内容ある知識(物理的知識など)が客観的と考えられるのは、これによるのだ。行為的主観の立場の上に立つことによって、種々の感覚作用は先験的に統一され、種々の経験内容が客観的に取り入れられて、力の世界(物理的世界)、実在の世界が成立するのだ。力のアプリオリは行為的主観の範疇の一つでなければならない。すべて具体的認識のアプリオリは、この立場(作用の作用、意志、行為的主観の立場)において与えられるのだ。無論かかるアプリオリによって成立する知識も、直ちに対象化されて永久真理となる。自然科学的法則というのは、かくの如き性質の真理だ。これに反して行為的主観そのものの内容ともいうべきものは、何処までも対象化することのできない超認識的世界と考えられるだろう。しかし行為的主観は自己の内容を対象化すると共に、自己自身の内容を持ち、自己はその内容を対象化する前に、まず自己を反省しなければならない(対象化する前にその反省がなければならない)。対象化された真理は、対象化する自己の真理によって立せられるのである。物理的真理を証するには、まず自己が真実の世界にあることを明らかにしなければならない。夢中における物理的実験は、物理的真理を証することはできない。物理的真理を立する自己は歴史的自己でなければならない。そしてかくの如き自己(歴史的自己)の真実性は、ただ自己自身の反省によって立せられるのだ。夢において数理を考え得たとしても、それは数理的真理たるに妨げない。しかし夢における物理的実験はたとえ、それが真理に合ったとしても、物理的真理ということはできない。物理的真理として永久真理化されるには、まず行為的自己の内容として行為的自己の中に映されねばならない。夢みる自己の内容としてでなく、働く自己の内容として映されねばならない。私はこれ故に物理的真理という如きものには、単に思惟の当為以上の意味があると思う。行為的主観の内容は、働くものの内容でなければならない。働くものの内容は実在(知識そのものが実在的である世界)の内容でなければならない。ここに実在を映すことによって、真理となるという意味がなければならない。事実的真理は単に当為によってその根拠が与えられるのではなく、実在(知識そのものが実在的である世界)の部分的模写たるにあるのだ。事実的知識は単に論理的判断によって成立するのではなく、行為的主観が自己を反省することによって成立するのだ。この場合、判断(思惟)は自己反省の形式に過ぎない。自己を映す手段に過ぎない。思惟が行為を包むのではなく、行為が思惟を包むのだ(思惟の前に行為の内容があり、その内容の中に思惟内容がある)。思惟は行為の反省であり、行為は自己を意識することによって発展するのだ。この意味において、事実的真理は抽象的なものから具体的なものに進み行くことによって真理となるのである。
 以上論じた如く、真理の概念は一般妥当性によって尽くされるのでなく、知識の目的である主客合一によってその客観性を得るのだ。そして主客合一の真実在(知識そのものが実在的である世界、作用が作用を生む、作用自身の無限なる連続の世界)はフィヒテの事行という如き自覚的体系であり、知識はその反省的方面として実在の影を映すことによって、客観的となると考えることができる。あるいは我々の自己が自己を反省することができないという意味において、知識は真実在を写すことは不可能であると言い得るだろう。しかし反省する自己と、反省された自己は別物ではない。その間に墻壁(しょうへき。壁)はない。事実的真理が現実的自己の直覚において、事実として証明されることその事が、一般妥当的となるのはこれによるのだ。自然界といえども、すでに意志自覚のアプリオリによって成立し、自然の一様性はこれによって立せられるのだ。無論対象化された自然は、意志そのものの自覚ではない。自覚的体系(実在)そのものの内容は、これを歴史的知識に求めねばなるまい。我々は歴史的認識の方向において、無限に主客合一の具体的知識に近づくことができる。自然科学的知識は、これに反してかえって抽象的知識となるのである。対象化されたものを実在とする見方から言えば、かかる考えは主観的なるものを客観的なるものとなすとも考えられるだろう。しかし対象界の実在性は、無限に自己自身を対象化する作用の実在性によって立せられねばならない。また知識の真ということを永久真理という如きものと見るならば、事実的知識の真ということは、これ(永久真理)と性質を異にするように思われるかもしれないが、意識一般の立場において承認せねばならないという意味においては、共に認識上の真ということができる。ただそのアプリオリを異にし、認識の意義を異にするのだ。前者(永久真理)においては単なる思惟のアプリオリであり、後者(事実真理)においては思惟を含める意志のアプリオリだ。永久真理は意識一般によって立てられ、事実真理はこれ(永久真理)を内に含むことによって立せられる。認識主観の中に含まれるもの(永久真理)は、繰り返し得ると考えられ、これを超越しこれを限定するもの(事実真理)は、繰り返すことができないと考えられる。真理が認識作用を超越すると考えられるのは、対象化された心理的作用を超越する意味に過ぎない。認識主観を離れて知識の成立し得ざることは言うまでもない。そしていわゆる永久真理は認識主観が自己を限定することによって成立し、事実真理は自己が限定されることによって成立するのだ。無論真理はすべて一つの体系の自己限定として成立し、何れもその体系において唯一なるものとも考え得るだろう。数学的思惟の立場においては、ある一つの数の関係は、数理の世界の唯一の事実となる。我々が単に数理のみ思惟し得るとすれば、数理は即事実だ。我々がこれを永久真理と考えるのは、更に高次的立場(事実真理)に立ち得るが故だろう。いわゆる事実真理というのは、かくの如き意味において最高の立場における認識として唯一と考えられるのである。


 善の内容とはいかなるものであるか。形式論者から言えば、道徳的善は全く形式的でなければならないかもしれない。しかし何らの内容もない形式的道徳はかえって主観的たるを免れない。実行に当たって何らの方向をも与えることはできない。真に一般的なるものは、その中に特殊化の原理を含むものでなければならない。真に客観的である道徳は、行為の内容を客観的に規定するものでなければならない。我々は内容を離れることによって自由となるのではなく、内容の中に自己を見出すことによって自由となるのである。完全に我を客観の中に没し了った時、初めて真の自由を得るのだ。いかにして客観的なるものの中に自己を見出すことができるか。いわゆる客観界なるものが単に自然という如きものであるならば、いかにそれが有力であっても、我々はその中に我の目的を見出すことはできない。私はこれ(自然)に対し「考える葦である」という誇りを持ち得るのである。単に完全なる実在とか、宇宙の原因とかいうだけでは、我々の道徳的行為の目的とはならない。万有神論の欠点は実にここにあるのだ。我々が真に客観の中に自己の目的を見出し、その中に自己を没入するには、客観的なるものが自己の根元でなければならない。その客観的なるものが精神的実在でなければならない。我々の主観的欲求といえども、自己の作為したものではない。我々の衝動や欲求は、すべて客観的根元を持ったものであると考えることができるだろう。しかし自己は単にこれらの結合統一ではなく、これらの欲求はかえって自己の統一によって成立し、自己は自己の統一的内容において自己の目的を見出すのだ。そしてかかる自己の根元としては、ヘーゲルの客観的精神という如きものを考えざるを得ない。すなわち人格的内容の客観的世界を認めざるを得ない。我々の自己はこの根元によって成立し、ここにその目的を見出すのだ。形式的道徳とはかかる客観界の成立条件であって、言わばこの世界に入る閾だ。この閾を入ることによって、すべての欲求が純化され、道徳化されるのである。
 善行為とは右の如きものであり、また先に言った如く知識の真ということは、実在(知識そのものが実在的である世界、作用が作用を生む、作用自身の無限なる連続の世界)そのものを写すという意味を有するならば、客観的精神の実在性を媒介として、真と善の結合を見ることができるだろう。自己自身を知ることなくして、客観的精神の実在性はない。自己自身を知るということが、精神的実在の本質である。そして自ら知るということその事が、働くことであり、発展することである。我々は自己の真実在を知ることによって、善に至ると考えることができる。勿論事実の真という如きことと、行為の善という如きことの間には、大なる径庭(けいてい。へだたり)があると考え得るだろう。しかし我々が単に時空の形式に当てはめて、単なる事実の世界を考える場合においても、その根底にはある方向に向かって動く何物かを認めなばなるまい。これによって動かすことのできない唯一の世界が成立し、事実的真理もこれによって立せられるのだ。「時」が特に実在の範疇と考えられるのはこれによるのだ。「時」が何らかの内容を得た時、力の世界(物理的世界)となり、その内容の自覚したものが歴史の世界となる。そして我々に取って何人もこれを認め、これに従わねばならない客観的善と思われるものは、かくの如き客観界(歴史の世界)そのものの方向に外ならないだろう。真実在の進み行く方向はすなわち我々の行為の目的でなければならない。勿論自然の冷酷なる法則と、我々人間の種々なる欲望と相対する時、我々の目的は自然の中にあるとは考え得ないだろう。しかし唯物論者の考える如く、自然が唯一の真実在であるとしても、我々はこれに従うの外ないのみならず、これに従うべきであるとも言い得るではなかろうか。更に徹底的に考えれば、我々の欲望そのものも自然の現象となり、遂にその「べき(自然に従うべき)」すら消え失せるだろう。斯くまで唯物論的に考えなくとも、我々の自己が完全に力なきものとなる時、すなわち意志としての自己が消滅する時、なお自己として存し得るものがあるとすれば、それはただ受動的にして単に知る自己のみであろう。知的自己の善は真理を知るということでなければならない。真理が善であり、迷妄が悪である。「知的愛」を以て結べるスピノーザの哲学こそ、最もよくこの意を明らかにするものである。これに反し、我々の自己は自然に対し独立の実在性を有するのみならず、その心核において理性に分解することのできない非合理的或物を有すると考えられた時、先に言った如く我の目的は認識対象界(自然界)に求めることはできない。自然は時に我の手段となり、時に我の障害となるまでである。しかしかかる場合、斯く真理とか自然とかに対して独立の実在性を有する自己とは、いかなるものであるか。快楽論者の如く、意志の目的は幸福とか快楽とかにあるとしても。快楽とか幸福とかいうには、まず与えられた衝動とか本能とかいう如きものがなければならない。快楽とか幸福とかいうのは、これ(衝動や本能)を満足することによって生じるということができる。しかし斯く考えるならば、我は再び認識対象界(自然界)の中に没入し去らねばならない(唯物論となる)。もしこれに反し我を完全に無内容と考えてみるか。(しかし)我はいかなる内容を以てしても、満足されねばならない。それでは、与えられた欲求の合理的統一と言う如きことを、我の働きと考えてみようか。それにはまた我に対して与えられた合理的内容がなければならない。それが単に論理の法則の如きものであっても、そこに我の従うべき客観的法則があると言い得るだろう。ただ客観的内容として意識されたものが自己の内から出ると考えられるか、外から来ると考えられるかによって、客観に従うことが我自身の目的に従うと考えられるか、または我は客観に従うことによって我自身を失うと考えられるのである。
 我々はここにその内からとか、外からとかいうことを吟味して見なければならない。我々の意識が完全に我と言われるものの中に限られているとすれば、いかにして我の外を知り得るだろうか。我の内外を区別し得る立場は、両者を超越ししかもこれを内に含む立場でなければならない。あるいは我々は障壁の外を見ることができなくとも、その外のあることを認めねばならないというかもしれないが、フィヒテの言った如く我が障壁に遮られると知った時、すでにこれ(障壁)を超えているのである。我々が天の無限なるを知るのは、視覚によるのではなく、思惟するが故である。物自体を認識の限界として見る時、いわゆる認識以上の立場を有することを示すのである。カントが物自体を不可知的として認識の限界と考える時、認識というのは経験的知識を意味しているのだ。カントは直覚の内容と結合しないから、客観的知識とならないと考えたのである。我々が判断的認識の限界を知る時、我々は判断的認識以上の或物を持っていなければならない。それは未だ知識でないとは、人のよく言う所である。しかし事実の知識はこれによって成立するのだ。判断以前の直覚(判断的認識以上の或物)は、無差別とか不明瞭とかいうべきでない。判断はこれを範疇的に構成するに過ぎない。斯く判断の形に表した時、前の直覚的内容が明らかになる訳ではない。明らかなる内容は固より明らかであったのだ。判断的認識となることによって一般妥当性を要求し得るというが、「この物は赤い」という判断が一般妥当性を要求し得るには、自分の直覚的内容が客観的である。何人もかく見る。かく見ない人の眼は誤っているということを意味していなければならない。無論私の赤の感覚内容は、他人のものと異なっているかもしれない。私は私の感覚と他人の感覚を比較することはできない。しかし我々はどこかで感覚的に相触れる所がなければ、※独知論に陥る外はない。
※ 引用 独知論とは 

経験から来る知識に、一般妥当性を要求することのできないのは言うまでもない。しかし感覚的内容に何らの客観的根拠がないものとすれば、知識は感覚的内容を得ることによって客観的となるというのは理由のないことである。我々が一つの経験界を持つというのは偶然に過ぎない。私の意識内に限られた世界は、夢と択ぶ所はない。感覚内容と結合することによって知識が客観性を得るというのは、我々はこれによって自己の意識範囲内を超え得ると考えるによるのだろう。感覚の基において、我々は一つの客観的世界を持つと考えるによるのだろう。力の概念は自他の世界を結合するのである。これによって偶然的なるものが必然化されるのだ。純粋に合理的と考えられる数理の如きものでも、我々はこれを自由にすることはできない。しかしこれを考えるか、考えないかは我の自由なるが故に、自己の意識内容と考えることができる。純粋な対象としては超個人的と言い得るだろうが、意識内容としては主観的ということができる。独り感覚的経験においては、我々は完全にかかる自由を有しない。ただ、我々は有意的運動(意識的な運動)によって、ある程度まで感覚的経験を自由にすることができるのみである。これにおいて我々に意識の内外という区別が起こって来るのだ。我の意志に対抗するものが、外界の実在と考えられ、我々が外に一つの客観的世界を持つと考えられるのだ。すなわち意志のアプリオリにおいて、意識の内外の区別が成立し、自他の関係も成立するのだ。それで知識の対象界に対して限界となるものは、意志の対象界に外ならない。意志の対象界は主客合一の世界として、ここに我々はすべての知識の最終の限界を持つのである。我々の自己に対し、外界と考えられ、客観と見られるものは、自己の意志の深い根底に外ならない。
 スピノーザの如く我々の自己の本質を単に理性と見れば、知るということが我々の最終の満足であり、最高の善となるであろう。カントの如く認識主観と意志主観を分かてば、真理(認識)と善(意志)は相異なるものとなるでもあろう。しかし認識主観は意志主観の一面であって、超越的意志(作用の作用)が自己の中に自己を反省したものが、真理の世界、実在の世界でなければならない。真実在にして善ならざるものはなく、善にして実在ならざるものはない。実在と善と相反する如く思われるのは、感覚的経験の背後に意志を認めないからである。感覚の後(後ろ?)に力を認めることによって、我々は自己の意識を超越して、自他共同の客観的実在界に入ると考えられる如く、その(感覚的経験の)後(後ろ?)に意志(作用が作用を生む、作用自身の無限なる連続)を認めることによって、我々は自他合同の客観的精神界に入ると考えることができる。我々の思惟の世界が感覚の世界と結合することによって、いわゆる客観的世界が構成される時、主観的自己と客観的世界と対立すると考えられるが、眼あって色や形の世界があり、耳あって音の世界があると考えられる如く、我に対して立つものはまた我(作用という我)である。我々は行為的自己の立場の上に立つことによって、客観を主観化し、主観を客観化することができる。我と非我は、行為我の立場において統一され、行為我に対しては更に非我として立つものはない。なぜなら、自覚的行為は自己自身を目的となし、ここに主客合一するが故である。我々はかかる行為的自己の立場の上に立つことによって、いわゆる「時」を超越した、永遠不滅なる物力の世界を見る。「時」は我々の認識の形式に過ぎない。力は時と場所(時間と空間)から独立している。力の世界を成立せしめる意志のアプリオリは、知識の立場を超越してこれを内に含むが故である。時空なくして力はない。時空の内に現れることによって、力が成立するのである。しかし力は時と場所によって変じることのできないものでなければならない。時空は力の顕現の手段に過ぎないのだ。更に我々が主客合一の立場に徹底し行く時、すなわち行為的自覚の立場に徹底する時、我々はいわゆる実在の背後に永遠不滅の美を見る。美は我々の認識の形式である時空に関係のないばかりでなく、物力を超越して、物力によって美を動かすことはできない。しかも物なくして美はない。力は時空の結合において現れる如く、美は物の結合統一において現れる。あるいは美は仮相に過ぎないと言い得るであろう。美は知覚的実在の背後における客観的意志の内容に過ぎない。我々が真に自己の行為的立場に徹底する時、すべて実在的なるものが、自己の内容として、物力の背後に永遠不滅なる善の世界を見るのだ。美は仮相であるが故に、単に時空に関係がないと考えられるが、善は時空を蔽いこれを包むが故に、真に永遠不滅なのである。時空を離れて物力はないが、また物力を離れて時空はない。力を離れれば、時空は数の系列の如きものと異なる所はない。勿論、我々は物を離れて単なる時空の形式を想像し得るだろう。しかしそれが実在的となるには、経験内容と結合せねばならない。物理的時空に対しては、単なる形式的時空はその実在性を失うのである。カントも時は流れるが時自身は止まると言ったが、「止まる時」の様相が実在の形式と考えられるのは、「流れる時」の様相を包むからである。意識の世界に対して、物の世界が永遠不滅と考えられるのは、これによるのだ。しかし単に「流れる時」に対しては、空間は外界となるが、「具体的時」においては空間はその一様相となる。「流れる時」の形式によって成立すると考えられる意識現象に対し、「止まる時」の形式による物体界は外界と考えられ、「流れる時」の方面は非実在的となり、「止まる時」の方面が実在的となるのであるが、「具体的時」の立場に立つ時、すなわち意志の立場に立つ時、客観的なるものが自己となるのである。我々は少なくも衝動において、明らかにこれを見ることができる。衝動は客観的なると共に主観的だ。(客観的である)衝動的内容が主観的と考えられるのは、知覚的内容が主観的内容と考えられる如く、部分的にしてかつ不純なるが故だ。知覚の背後に潜める衝動的内容が、純化されたものが芸術的内容となる。そしてそれは空間や時間や力を超越しながら、しかもこれによって表現されるのである。美の永遠性は、これによって認められるのだ。善の内容に至っては、意志そのものの自覚的内容として、意識一般の立場を包むが故に、全宇宙の時間的進行を超越するのみならず、かえってこれが根元となる。物力の世界よりも、美や善の世界が実在的であるというのは、異様に感じられるかもしれないが、物力的世界というのは、超越的意志(作用の作用)が自己の中に自己を映した射影にすぎないとすれば、真の実在は意志そのものの発展あるのみだ。力が時空によって現れる如く、善は力によって現れ得る。しかし力を離れて時空は空想的である如く、自覚的意志を離れて力は空想的だ。我々は物質から出でて物質に還ると考えられるが、我々の感覚を離れて物質はない。実在として何時までも消すことのできないものは、我々の経験として現れた宇宙的精神の発展あるのみだ。そしてかかる精神的内容が我々の善の内容であるとすれば、実在の根元に善の理念があると考えることができる。
 我々が自己に対立する外界と考えるものは、何処までも自己に反するものではなく、自己の意志の対象界に過ぎない。我々は行為によってこの世界と結合することができる。意志の目的は意志自身の中にあり、我々は自覚的行為によって主客合一の立場に到ることができる。これに対しては、更に外界なるものは成り立ち得ない。理解力の範疇と知覚的内容が意志のアプリオリの下に結合して、いわゆる経験界が成立する時、我々は我と人と合同の客観的世界に入る。しかしいわゆる経験界は、意志が自己の中に自己自身を映じる意志の射影に過ぎない。意志が自己自身の立場において自覚する時、経験界の事実は我の表現となるのだ。我々の意志を経験界において直接に表現化するものは、まず我々の身体だ。身体において主観と客観が内面的に結合している。意志のアプリオリによって結合している身体において、知識の対象界(客観)と意志の対象界(主観)が交叉しているのだ。身体無くして我と言うべきものはない。我とは昇華された身体sblimated bodyである。感官によって事実の世界と真理の世界が結合する如く、運動によって実在の世界と美や善の世界が結合するのだ。我々の自己が種々なる世界の結合点である如く、我々の身体はまた種々なる世界の結合点であり、我々はこれを出立点として種々の世界に出入することができる。我の根底であるが故に、我には不可知的であると共に、我の成立条件として認めねばならない身体によって、我々が意志の対象界に入る時、我の世界と物の世界が対立する。要するに身体が我として純化されないだけ、それだけ、外に物の世界が対立するのだ。かくの如き場合我の立場から見れば、物の世界は手段の世界となる。そして我々の身体の運動の及ぶ限り、物の世界は自己の範囲の内に入って来るのだ。ベルグソンの如く、かくの如き運動の及ぶ限り、我々の意識が伴うと考えることができる。かかる場合、知識も単に実用的意義を有するまでだ。しかし意志の表現としての我々の身体の意義を、なお一層深め行く時、我々は我々の身体の運動によって知識以上の世界に入り込むことができる。いわゆる経験界の背後に入り込むことができる。芸術家の創造作用は、かくの如き意味を有するものと考えることができるのだ。芸術家は手を加えた眼を以て見るのだ。彼の見る世界は、単なる認識対象の世界ではない。ベルグソンは本能生活と理智生活を区別して、前者においては、身体の部分が同時に機械であると言っている。芸術家の創造作用も、一面においてこれと相類するものがある。本能的生活においては、物は我である。手段と目的が合一している。我に対するものは物ではなく、我と一つの生命の表現である。芸術家の創造作用においては、いわゆる鍛錬によって内に我々の肉体的運動が純化されると共に、我々の肉体以外の物をも直ちに自己の生命の表現として見ることができる。芸術的鍛錬すなわち肉体的運動の純化とは、知識の立場を意志の立場の中に包容することを意味するのだ。道徳的行為というのも、かかる方向を進み行くに外ならない。道徳的行為において、我々は我々の全身体を純化し尽くさんとするのである。単にいわゆる動機の純化によって概念的自己を純化するのではない。善は単なる動機ではなく、善行為でなければならない。ヘーゲルのいう如く、大なる激情Leidenschaftなくして、偉人はない。かかる立場に徹底し切ったものが宗教的立場だ。これに至って、万物自己の表現たらざるものはない。実在はそれ自身において動くものであり、我々は動くことによって実在を知る。しかし一方から言えば、対象として動くものは、動く我の射影であり、実在を知ることは深き我を知ることである。我々の自己は単に意識内にあるのではない。単に意識内にあるものならば自己ではない。無限なる実在の根底としての動的自己が自己を省みる時、内外相対立し、いわゆる自己の意識を生じるのだ。自己は自己に対して、打ち克つべく与えられた問題だ。我々が行為によって、身体を純化することは、自己を純化することだ。運動即意識なる時、内外合一して一つの事行となる。ここに自己が自己自身を見出すのだ。我々は客観的に自己を失うことは、自己の個性を失うことではない。自己がなくなることではない。我々はスピノーザの「知的愛」の彼方に、無限の喜、無限の悲を見出すのだ。我々が「美」と「善」の世界に入るには、「真」の関門(意志のアプリオリ)を通らなければならない。その奥に永遠不滅の真実在(作用が作用を生む、作用自身の無限なる連続の世界)がある。我々が意識一般の此方に見たる自己は、ただ、暗き本能の影に過ぎないのである。

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