西田幾多郎 「善の研究」の現代的改訂+補足

このnoteは、西田幾多郎の著作を現代語的に書き換えることを意図したものです。書き換えを行う筆者は大学等で哲学を学んだことは無く、哲学的素養に関しては完全に素人です。読解の助力になることを願い書いたものですが、私の誤読が介入してる可能性があります。読まれる方は、このnoteを鵜呑みにされず、必ず現本を読まれてください。誤読と思われる箇所があればご指摘いただけると助かります。また、没後70年を経過しているため著作権は失効していますが、同一性保持権に抵触すると判断される可能性があり、その場合すぐ削除することを宣言します。

次著 思索と体験
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善の研究


 この書は私が長年、金沢の第四高等学校において教鞭をとっていた間に書いたものだ。初めはこの書の中の、特に実在に関する部分を精細に論述して、すぐに世に出そうという考えだったが、病と種々の事情に妨げられてその志を果たすことができなかった。そうして数年を過ごしているうちに、いくらか自分の思想も変わり、私が志す所のものを完成させるのが難しいと感じるようになり、この書はこの書としてひとまず世に出してみたいという考えになったのである。
 この書は第二編、第三編がまず出来て、第一編第四編と言う順序に後から付け加えたものだ。大一編は私の思想の根底である「純粋経験」の性質を明らかにしたものだが、初めて読む人はこれを省略した方が良い。第二編は私の哲学的思想を述べたもので、この書の骨格とというべきものだ。第三編は前編の考えを基礎として、善を論じたつもりだが、これを独立の倫理学と見ても差し支えないと思う。第四扁は私が、昔から哲学の終結と考えている宗教についての私の考えを述べたものだ。第四編は私が病中の作で不完全のところも多いが、とにかくこれにて私が言おうと思っていることの終わりまで達したのだ。この書を特に「善の研究」と名付けたわけは、哲学的研究がその前半を占めているにもかかわらず、人生の問題が中心であり、終結であると考えたからだ。
 純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明してみたいというのは、私が大分前から持っていた考えであった。初めはマッハなどを読んでみたが、どうも満足はできなかった。その中で、「個人あって経験があるのではなく、経験があって個人があるのだ、個人的区別より、経験が根本的だ」という考えから、独我論を脱することができ、また経験を能動的と考えることによって、フィヒテ以後の超越哲学とも調和できるかもしれないと考え、ついにこの書の第二編を書いたのだが、その不完全なることはいうまでもない。
 思索などする奴は緑の野にあって枯草を食う動物の如しとメフィストに嘲られるかもしれないが、哲理を考えるように罰せられていると言った哲学者(ヘーゲル)もあるように、ひとたび禁断の果を食べた人間には、かかる苦悩のあることもやむを得ないだろう。
明治四十四年一月 京都にて

再版の序
 この書を出版してから既に十年あまりの歳月を経たが、この書を書いたのはそれよりもなお数年前の昔であった。京都に来てから読書と思索を職にすることが出来て、私もいくらか、私の思想を洗練し豊富にすることができた。したがって、この書に対しては飽き足らなく思うようになり、ついにこの書を絶版にしようと思ったのだ。しかしその後、あちこちからこの書の出版を求められるのと、私がこの書のような形で私の思想の全体を述べることが出来るのはあと幾年先になるかを思い。再びこの書を世に出すことにした。今度の出版に当たって、務台、世良の両文学士が私の為に字句の訂正と校正の労を執られた。私は両君に対し感謝に耐えない。
大正十年一月

版を新たにするにあたって
 この書が版を重ねること多く、文字もますます鮮明を欠くものがあるようになってきたので、今度書肆において版を新たにすることになった。この書は私が多少とも自分の考えをまとめて世に出した最初の著述であり、若かりし日の考えに過ぎない。私はこの際、この書に色々な点において加筆したいのだが、思想はその時々に生きたものであり、数十年を隔てた後からは筆の加えようもない。この書はこの書としてこのままにしておく外はない。
 今日から見れば、この書の立場は意識の立場であり、心理主義的とも考えられるであろう。そう非難されても致し方ない。しかしこの書を書いた時代においても、私の考えの奥底に潜むものは単にそれだけのものでなかったように思う。純粋経験の立場は「自覚に於ける直観と反省」に至って、フィヒテの事行の立場を介して絶対意志の立場に進み、更に「働くものから見るものへ」の後半において、ギリシャ哲学を介し、一転して「場所」の考えに至った。そこに私は、私の考えを論理化する端緒を得たと思う。「場所」の考えは「弁証法的一般者」として具体化され、「弁証法的一般者」の立場は「行為的直観」の立場として直接化された。この書において直接経験の世界とかいったものは、今は歴史的実在の世界と考えるようになった。行為的直観の世、ポイエシスの世界こそ真に純粋経験の世界であるのだ。
 フェヒネルはある朝、ライプチヒのローゼンタールの腰掛で休みながら、日麗らかに花薫り鳥歌い蝶舞う春の牧場を眺め、色もなく音もなき自然科学的な夜の見方に反し、ありのままが真である絵の見方にふけったと自ら言っている。私は何の影響かは知らないが、早くから実在は現実そのままのものでなければならない、所謂(いわゆる)物質の世界というようなものは、それから考えられたものに過ぎないという考えを持っていた。まだ高等学校の学生であったころ、金沢の街を歩きながら、夢見る如くそのような考えにふけったことが今も思い出される。その頃の考えがこの書の基ともなったかと思う。私がこの書を書いたころ、この書がここまで長く多くの人に読まれ、私がこのように生きながらえて、この書の重版を見ることになるとは思いもよらなかった。この書に対して、「命なりけり小夜の中山」の感を禁じ得ない。
昭和十一年十月

第一編 純粋経験


第一章 純粋経験
 経験するというのは、事実そのままに知るという意味だ。完全に自己の細工を捨てて、事実に従って知るということだ。普通に経験と言っているものも、実際は何らかの思想を交えている。だから、純粋というのは、まったく思慮分別を加えない、真の経験そのままの状態を言うのだ。例えば、色を見、音を聴く刹那、いまだこれが外物の作用であるとか、私がこれを感じているとかいうような“考えがない”のみならず、この色、この音は何であるという"判断すら加わらない前をいうのだ。それで、純粋経験は直接経験と同一だ。自己の意識状態をそのまま(直接)経験した時、いまだ主もなく客もない。知識(主…意識)とその対象(客…外物)が完全に一つになっている。これが経験の最も醇なもの(まじりけがないもの)だ。勿論、普通は経験という言葉の意義が定まっていない。ヴントは経験に基づいて推理された「知識」も間接経験と名付け、物理学、化学などを間接経験の学問と称している。しかしこれらの知識(物理学、化学など)は正当な意味で経験ということはできない。そればかりでなく、意識現象であっても、他人の意識は自己は経験できず、自己の意識であっても過去についての想起や、現前の意識であってもこれを判断した時(の意識)は、すでに純粋の経験ではない。真の純粋経験は何らの意味もない、事実そのままの現在意識があるのみだ。
 右にいったような意味において、どのような精神現象が純粋経験の事実であるのか。感覚や知覚がこれに属することは誰も異論はあるまい。しかし私はすべての精神現象がこの形(純粋経験)において現れると信じる。記憶についても、過去の意識が直ちに意識に現れてくるのではない。したがって過去を直覚はしない。過去と感じるのも現在の感情だ(過去ではなく現在の感情を直覚している)。抽象的「概念」といっても決して超経験的なものではなく、やはり一種の“現在意識”だ。幾何学者が一個の三角を想像し、それを全ての三角形の代表とするように、概念の代表的要素(この場合三角形)も現前の意識においては、一種の感情(という現在意識)にすぎない。そのほかいわゆる意識の縁暈(えんうん…意識の輪郭)というようなものを直接経験の事実の中に入れてみると、経験的事実間における種々の関係の意識(上述した間接経験の知識など)すらも、感覚、知覚と同じくみなこの中(現在意識)に入ってくるのだ。ならば情意(感情、意志)はどうかというと、快、不快の感情が現在意識であることはいうまでもなく、意志においても、その目的は未来にあるにせよ、我々はいつもこれ(意志)を現在の欲望として感じるのだ。
 さて、このように我々に直接で、すべての「精神現象の原因」である純粋経験とはどのようなものであるか、これから少しその性質を考えてみよう。まず純粋経験は単純であるか、または複雑であるかという問題が起こってくる。直下(現前)の純粋経験であっても、それが過去の経験から構成されたものであるとか、またあとからそれを単一な要素に分析できるとかいう点から見れば、複雑といっていいだろう。しかし純粋経験はいかに複雑であっても、その瞬間においては、いつでも単純な一事実だ。たとえ過去の意識の再現であっても、現在の意識中に統一させられ、これが一要素となって新たな意味を得た時には、すでに過去の意識と同一とは言えない。同様に、現在の意識を分析した時も、その分析されたものはもはや現在の意識と同一ではない。純粋経験の上から見ればすべてが「種別的」であって、その場合ごとに、単純で、独創的であるのだ。次にこのような純粋経験(の範囲)はどこまで及ぶのか。純粋経験における現在は、現在について考えるとき、すでに現在にあらずというような「思想上の現在(抽象的理解の現在)」ではない。「意識上の事実としての現在(意識現象としての現在)」には、いくらかの時間的継続がなければならない。すなわち“意識の焦点(=注意)”がいつでも現在となるのだ。それで、純粋経験の範囲は、注意の範囲と一致する。しかし私はこの範囲(純粋経験、注意の範囲)は必ずしも一つの注意に限らないと思う。我々は少しの思想も交えず、主客未分(主客が分かれていない)の状態(純粋経験の状態)に注意を転じていくことが出来る。例えば、一生懸命に断崖をのぼるような場合、音楽家が熟練した曲を演奏するような場合は、完全に知覚の連続といってもよい。動物の本能的動作にもこのような精神状態が伴っているのだろう。このような精神現象においては、知覚が厳密な統一と連絡を保ち、意識が一から他に転じても、注意は始終物に向けられ、前の作用が自ら後者を惹起し、その間に思惟を入れる隙間は全くない(純粋経験の範囲=注意の範囲は、一つの注意の下であるとは限らない)。これを瞬間的な知覚(一つの注意の下にあるとされる純粋経験)と比較すると、注意の推移、時間の長短こそあれ、直接で主客合一の点においては同一だ。いわゆる瞬間知覚というものも、実際は複雑な経験の結合、構成されたものであるとするなら、二つの区別は性質の差ではなく、単に程度(強弱等)の差であるといわなければならない。純粋経験は必ずしも単一な感覚とは限らない。心理学者のいうような厳密な意味の単一感覚とは、学問上の分析の結果として仮定したもので、事実上の直接な具体的経験ではない。
 純粋経験が直接で純粋な理由は、単一で分析が出来ないとか、瞬間的だとかいうことにあるのではない。具体的意識の厳密な統一(後述する統一的或者の分化発展)にあるのだ。意識は決して心理学者のいわゆる単一な精神的要素の結合から成り立つものではない。もともと一つの体系(要素がそれぞれに他と関係し合ってまとまっている、そのまとまりのこと)を成したものだ。初生児の意識の様なものは、明暗の区別すら定かでない混沌とした統一だろう。この中から多様な種々の意識状態が(体系的に)分化発展するのである。しかしいかに精細に分化しても、どこまでもその根本的な体系の形を失うことはない。我々に直接な具体的意識はいつでも、この形(体系の形)において現れる。瞬間的知覚のようなものでも決してこの形(体系の形)に背くことはない。例えば一目して物の全体を知覚したと思う場合でも、詳細に研究すると、眼の運動とともに注意が自ら推移して、その全体を知るに至るのだ(目の運動と注意が体系を成している)。このように意識は本来、"体系的発展(=統一)"であり、この統一(体系的発展)が厳密で、意識が自ら発展する間(分化発展する間)は、我々は純粋経験の立脚地を失わないのだ。この点は、知覚的経験においても、表象的経験(思考・想起)においても同一だ。表象の体系が自ら発展するときは、(体系の)全体が直ちに純粋経験になる。ゲーテが夢の中で直覚的に詞を作ったというようなものは、その一例だ。あるいは、知覚的経験では注意が外物(客)から支配されるので、意識(主)の統一(体系的発展)とは言えないように思うかもしれない。しかし、知覚的経験の背後にも、やはり「ある無意識統一力」が働いていなければならない。注意はこれ(無意識的統一力、後述する統一的或者)によって導かれるのだ。また反対に、表象的経験(思考、想起など)はいかに統一されてあっても、必ず主観的所作に属するので、(知覚のような)純粋な経験(ありのままな経験)とは言えないようにも見える。しかし表象体験であっても、その統一(体系的発展)が必然で自ら結合する場合(思考などが自ら分化発展する場合)は、我々はその経験を純粋の経験と見なければならない。例えば夢(という表象体験)においてのように、外から統一を破る者がない時には、完全に(内である)知覚的経験と混同されるのだ。もともと、経験に内外の別があるのではない。経験を純粋たらしめるのはその統一(体系的発展)にあって、種類(内と外)にあるのではない。表象であっても、感覚と厳密に結合している(表象が感覚と体系を成している)ときには直ちに一つの経験だ。ただ、表象体験が現在の統一(感覚との結合)を離れて他の意識と関係する時、もはや(その表象は)現在の経験ではなく、「意味」となるのだ。表象だけであった時は、夢においての様に(表象が)完全に知覚と混同されるのである。感覚がいつでも経験であると思われるのは、感覚がいつも注意の焦点となり、統一の中心となるからだろう。
 今なお少し精細に意識統一の意義を定め、純粋経験の性質を明らかにしようと思う、意識の体系というのは、すべての有機物の様に、「統一的或者(=前述の無意識的統一力)」が秩序的に分化発展し、その全体を表すのである。意識においては、まずその一端が表れると共に、統一作用は傾向(目的)の感情として、これ(意識)に伴っている。我々の注意を誘導するのはこの(統一)作用であって、統一(体系的発展)が厳密であるか、あるいは他より妨げられない時には、この統一作用は無意識だ。そうでない場合は表象という別のものになり、意識上に現れ、直ちに純粋経験の状態を離れるようになる。すなわち統一作用が働いている間(統一的或者が体系的に分化発展する間)は(経験の)全体が現実であり純粋経験だ。意識は全て衝動的(無意識的)で、主意説の言うように“意志が意識の根本的形式である”と言い得るなら、意識発展(統一的或者の体系的な分化発展)の形式は、広義において意志発展の形式であり、意識の統一的傾向(意識の目的)とは"意志の目的"であると言わなければならない。純粋経験とは意志の要求(目的)と実現との間に少しの隙間もなく(統一的或者の体系的発展を妨げるものが無く)、意志の最も自由にして、活発な状態だ。もちろん選択的意志(意識的な意志)から見たらこのような衝動的意志(無意識的な意志)によって支配されるのはかえって意志の束縛であるかもしれないが、選択的意志とはすでに意志が自由を失った状態(統一的或者の体系的発展が妨げられている状態)であるがゆえに、これ(意識的な意志)が訓練されるとまた衝動的(無意識的な意志)となるのだ(例えば、習い事の場合、最初は意識的であったものが熟練するにつれ無意識的となる)。意志の本質は未来に対する欲求の状態(目的)ではなく、現在における現在の活動にあるのだ。もともと、意志に伴う動作は意志の要素ではない。純心理的に見れば意志は内面における意識の統覚作用(知覚、表象などの意識内容を自己の意識として総合し統一する作用)だ。その統一作用を離れて、意志という特殊な現象があるわけではない。この(意識の)統一作用の頂点が意志である。思惟も意志と同じように一種の統覚作用だが、その統一は単に主観的だ。しかるに意志は主客の統一だ。意志がいつも現在であるのもその理由(主客の統一)によるのだ。純粋経験は事実の直覚そのままであって、「意味」がないといわれている。そう言うと、純粋経験とは何だか混沌無差別の状態であるかのように思われるかもしれないが、種々の「意味」とか「判断」とかいうものは経験そのものの差別から起こる。前者(意味)は後者(経験)によって与えられるのではない。経験は自ら差別相を具えたものでなければならない。例えば、一つの色を見てこれを青と判断したところで、原色覚(判断した青)が判断によってはっきりするわけではない。ただ、これと同様な従来の(過去の)感覚との関係をつけたまでだ。また今私の視覚に現れた一経験を机となし、これ(机)について種々の判断を下しても、この経験そのものの内容に何も付け加えることはないのだ。要するに経験の「意味」とか「判断」とかいうのは他との関係を示すものにすぎないので、経験そのものの内容を豊富にするものではない。意味あるいは判断の中に現れたものは、原経験から抽象された一部であって、その内容においてはかえってこれ(原経験)より貧なるものだ。勿論原経験を想起した場合に、前に無意識であったものが後に意識されるようなこともあるが、これは前に注意していない部分に注意したまでであって、意味や判断によって前に無かったものが加えられたのではない。
 純粋経験はこのように自ら差別相を具えたものとすれば、これに加えられる意味或は判断というのはどのようなものだろうか。また、意味判断と純粋経験との関係はどのようなものだろう。普通では純粋経験が客観的実在(外物)に結合されるとき、意味を生じ、判断の形を成すといわれる。しかし純粋経験説の立脚地から見れば、我々は純粋経験の範囲外(現在意識の外)に出ることはできない。意味とか判断とかを生じるのも、つまり現在の意識を過去の意識に結合すること(統一すること)から起こるのだ。すなわち現在の意識を(この場合現在+過去というような)大きな意識系統の中に統一する統一作用に基づくのだ。意味とか判断とか言うのは現在意識と他(この場合過去の意識)との関係を示すもので、すなわち意識系統(という体系)の中における現在意識の位置を表すものにすぎない。例えばある聴覚について、これを鐘の音と判断した時は、過去の経験の中においてその音の位置を定めたのだ。それで、いかなる意識があっても、それが厳密な統一状態(体系的発展の状態)にある間は、いつでも純粋経験だ。すなわち単に事実だ。これに反し、この統一が破れた時、すなわち他との関係に入った時、意味を生じ判断を生じるのだ。我々に直接に現れ来る純粋経験に対し、すぐ過去の意識が働いてくるので、過去の意識が現在意識の一部と結合し一部と衝突し、純粋経験の状態が分析され破壊されるようになる。意味とか判断とかいうものはこの不統一の状態だ(体系的発展が矛盾衝突した状態だ)。しかしこの統一、不統一ということも、良く考えてみると、とどのつまり程度の差(強弱)だ。完全に統一された意識(完全に発展した意識)もなければ、完全に不統一な意識(完全に発展が止まった意識)も無いだろう。全ての意識は“体系的発展”だ。瞬間的知識(瞬間的な知覚)であっても種々の対立、変化を含んでいるように、意味とか判断とかいうような「関係の意識」の背後には、この関係を成立させる統一的意識(上述の無意識的統一力、統一的或者)がなければならない。ヴントが言ったように、すべての判断は複雑な表象の分析によって起こるのである。また判断が徐々に訓練され、その統一が厳密になった時は完全に純粋経験の形となるのである。例えば技術を習う場合に、始めは意識的であったことも、熟練するにしたがって無意識となるのである。さらに一歩進んで考えてみれば、純粋経験とその意味または判断とは、意識の両面を表している。すなわち同一物の見方の相違にすぎない。意識は一面において統一性を有すると共に、また一方には分化発展の方面が無ければならない。しかもジェームスが「意識の流れ」において説明したように、(現在)意識はその現れたところに付いているようなものではなく、含蓄的に他と関係を持っている(体系を成している)。現在はいつでも大きな体系の一部と見ることが出来る(西田が言う「大きな体系」とは、個人に限局されたものではない。個人が帰属する社会的意識というようなものも、西田は意識現象であり、実在であると説く。第3編参照)。いわゆる分化発展というものは、さらに大きな統一の作用である。
 このように意味というものも大きな統一の作用(で生じたもの)であるとすれば、純粋経験はこのような場合において、自己の範囲(この場合時間)を超越するのだろうか。例えば、記憶において過去と関係し意志において未来と関係するとき、純粋経験は現在を超越すると考えることが出来るだろうか。心理学者は意識は物でなく事件である、だから時々刻々に新しく、同一の意識が再生することは無いという。しかし私はこのような考えは純粋経験説の立脚地から見たものではなく、かえって、"過去は再び還らず、未来は未だ来らず"という時間的性質から推理したものではないかと思う。純粋経験の立脚地から見れば、同一内容の意識はどこまでも同一の意識としなければならない。例えば思惟、あるいは意志において一つの目的表象が連続的に働くとき、我々はこれを一つのものと見なければならないように、たとえその統一作用が時間上には切れていても、一つのものと考えなければならないと思う。
(例えば夜寝る前考え事をし、朝起きてまた考え事の続きをした場合、時間的には切れているが思惟としては同一のものである。この場合、この一連の純粋経験は自己の範囲=現在を超越していると言うことができる)

第二章 思惟
 思惟というのは心理学から見れば、"表象間の関係を定め、これを統一する作用"である。その最も単一な形は「判断」である。すなわち二つの表象の関係を定め、これを結合するのだ。しかし我々は判断において二つの独立な表象を結合するのではなく、かえってある一つの完全な表象を分析するのだ。例えば、「馬が走る」という判断は、「走る馬」という一表象を分析して生じるのだ。判断の背後にはいつでも純粋経験(この場合、走る馬という表象体験)という事実がある。判断において主客(主語と客語)両表象の結合は、この純粋経験によってできるのだ。勿論いつでも完全な表象がまず表れて、これから分析が始まるというわけではない。まず主語表象があって、これから一定の方向において種々の連想を起こし、選択の後一つに決定する場合もある。しかしこの場合でも、その一つを決定するときには、まず「主客両表象を含む完全な表象(統一的或物)」が現れてこなければならない。つまりこの表象(統一的或者)が初めから含蓄的に働いており、現実となる処に判断が生じるのだ。このように判断の基には純粋経験が無ければならないということは、事実に対する判断の場合のみではなく、純理的判断(数学など)というようなものにおいても同様である。例えば、幾何学の公理の様なものでも、皆一種の直覚に基づいている。たとえ抽象的概念であっても、二つのものを比較し判断するにはその根本において「統一的或者」の経験が無ければならない。いわゆる思惟の必然性というのはこれ(統一的或者)から出てくるのである。だから、もし前に言ったように知覚のようなものだけでなく、関係の意識(意味、判断)も経験と名付けることができるならば、純理的判断の根本にも純粋経験の事実があるという事が出来るのだ。また推論の結果として生じる判断についてみても、ロックが論証的知識においても一歩一歩に直覚的証明が無ければならないと言ったように、連鎖となる各判断の根本にはいつも純粋経験の事実が無ければならない。種々の方面の判断を総合し断案を下す場合においても、たとえ全体を統一する事実的直覚はないにしても、すべての関係を総合統一する論理的直覚が働いている【いわゆる思想の三法則のようなものも一種の内面的直覚だ】。例えば種々の観察から推測して地球が動いていなければならないというのも、一種の直覚に基づく論理法によって判断するのである。
 もともと伝統的に思惟と純粋経験は完全に類を異にする精神作用であると考えられている。しかし今全ての独断を捨てて直接に考え、ジェームスが「純粋経験の世界」と題した小論文で言ったように、関係の意識(意味、判断といった思惟作用)も経験の中に入れて考えてみると、思惟の作用も純粋経験の一種であるということができると思う(ここは初めの西田の純粋経験の定義と矛盾している)。知覚と、思惟の要素である心像は、外から見れば、一つ(知覚)は外物からくる末端神経の刺激に基づき、一つ(心像)は脳の皮質の刺激に基づくというように区別ができ、また内から見ても、我々は通常知覚と心像を混同することはない。しかし純心理的に考えて、どこまでも厳密に区別が出来るかというと、それはすこぶる困難だ。つまり強度の差とかその他種々の関係の相違があるだけで、(知覚と心像の)絶対的区別はないのである【夢、幻覚等において我々はしばしば心像を知覚と混同することがある】。原始的意識にこのような区別があったのではなく、ただ種々の関係から区別されるようになったのだろう。また一見、知覚は単一であって、思惟は複雑な過程であるように見えるが、知覚と言っても必ずしも単一ではない。知覚も構成的要素である。思惟と言ってもその統一(体系的発展)の方面から見れば一つの作用だ。ある統一者(統一的或者)の発展と見ることが出来る。
 このように思惟と知覚的経験のようなものを同一の種類と考えることについては、種々の異論もあるだろうから、私はこれから少しこれらの点について論じてみようと思う。普通は知覚的経験のようなものは受動的で、その作用は全て無意識であり、思惟はこれに反して能動的でその作用が全て意識的であると考えられている。しかしこのような明らかな区別はどこにあるだろうか。思惟であっても、それが自由に活動し発展するとき(統一が厳密なとき)は殆ど無意識的注意の下において行われるのである。意識的となるのはかえってこの進行が妨げられた場合である。思惟を進行させるものは我々の随意作用ではない。思惟は思惟自身にて発展するのだ。我々が完全に自己(主)を捨てて、思惟の対象(客)、すなわち問題に純一となった時(主客合一した時)、更に言えば自己をその問題の中に没した時、初めて思惟の活動を見ることができるのだ。思惟には自ら思惟の法則があって自ら活動するのだ。我々の意志に従うのではない。対象に純一になる事、すなわち注意を向けることを有意的(意識的)と言えば言えるだろうが、この点においては知覚も同じだろうと思う。我々は見ようと欲するものに注意を向けて見ることが出来る。勿論思惟においては知覚の場合よりも統一(体系的発展)が寛(ゆっくり)であり、その推移が意識的であるように思われるので、前にこれをもって思惟の特徴としておいたが、厳密に考えてみるとこの区別(知覚と思惟の区別)も相対的であって、思惟においても一表象から一表象に推移する瞬間は無意識だ。統一作用(体系的発展)が現実に働きつつある間は無意識でなければならない。これ(無意識的な思惟作用)を対象として意識するときには、すでにその作用は過去に属するのだ。このように思惟の統一作用は完全に意志の外にあるのであるが(意志により随意的に思惟をコントロールすることはできないが)、ただ我々がある問題について考えるとき、種々の方向があり、その取捨が自由である(随意的である)ように思われるのだ。しかしこのような現象は知覚の場合にもないわけではない。少し複雑な知覚においてはどこに注意を向けるかは自由だ。例えば、一枚の絵を見るにしても、形に注意することもでき、また色彩に注意することもできる。そのほか、知覚では我々は外から動かされ、思惟では内(主)より動くなどというが、内外の区別というのも要するに相対的なものにすぎない。ただ思惟の材料である心像は比較的変動しやすく、自由であるからそう(取捨が自由であるように)見えるのだ。
 次に普通には知覚は具体的事実の意識であり、思惟は抽象的関係の意識であって、両者は完全にその類を異にすると考えられている。しかし純粋な抽象的関係(思惟)というようなものは、我々は意識することはできない。思惟の運行もある具体的な心像(という具体的事実)をかりて行われるのだ。心像なくして思惟は成立しない。例えば三角形のすべての角の和は二直覚(180°)であるということを証明するにも、ある特殊な三角形の心像によらねばならないのである。思惟は心像を離れた独立の意識ではない。心像に伴う一現象である。ゴールは、心像とその意味との関係は、刺激とその反応との関係と同一であると説いている。思惟は心像に対する"意識の反応"であって、また心像は思惟の端緒(はじまり)である。思惟と心像は別物ではない。いかなる心像であっても決して独立ではない。必ず全意識と何らかの関係において現れる(体系を成している)。そしてこの方面(全意識内における心像の位置)が、思惟における"関係の意識"(意味、判断)である(上述した鐘の声を鐘声と判断するのがその一例)。純粋な思惟と思われるものも、ただこの方面の著しいものに過ぎない。さて心像と思惟との関係を右のごとく考えた上で、知覚においてはこのような思惟的方面がないかというと、決してそうではない。全ての意識現象の様に、知覚も一つの体系的作用である(知覚も体系を成している)。知覚においてはその反応はかえって顕著であって、意志となり動作となって現れるのであるが、心像においては単に思惟として内面的関係に留まるのだ。事実上の意識には知覚と心像の区別はあるが、具象と抽象の区別はない。思惟は心像間の事実の意識だ。そして知覚と心像との区別も、前に言ったように厳密な純粋経験の立脚地から見れば、どこまでも区別することはできないのだ。
 以上は心理学上から見て、思惟も純粋経験の一種であることを論じたのだが、思惟は単に個人的意識の上の事実ではなく、客観的意味を持っている。思惟の本領は真理を現すことにあるのだ。自分で自分の意識現象を直覚する純粋経験の場合には、正誤というようなことはないが、思惟には正誤の区別があるとも言える。これらの点を明らかにするには、いわゆる客観、実在、真理等の意義を詳論する必要はあるが、きわめて批評的に考えてみると、純粋経験の事実の他に実在はない。これら(正誤、真偽のあるなし)の性質も心理的に説明ができると思う。前にも言ったように、意識における「意味」というのは他(前述の場合、過去)との関係から生じてくる。言い換えればその意識の入り込む体系によって定まってくる。同一の意識であっても、その入り込む体系が異なれば、種々の意味を生じるのだ。たとえば意味の意識である、とある心像であっても、他に関係なくただそれだけとして見た時には、何の意味も持たない単なる純粋経験の事実だ。これに反し事実の意識である知覚も、意識体系の上において他と関係を有する点より見れば(他と体系を成す点から見れば)、意味を持っている。ただ多くの場合にその意味が無意識であるのだ。ならばどのような思想が真でありいかなる思想が偽であるかというと、我々はいつでも意識体系の中で最も有力なもの、すなわち最大最深な体系を客観的実在と信じ、これに合った場合を真理、これと衝突した場合を偽と考えるのだ。このような考えから見れば、知覚にも正しいとか誤るとかいうことはある。すなわちある体系から見て、その目的に合った時が正しく、これに反した時が誤りなのだ。勿論これらの体系の中には種々の意味があるので、知覚の背後にある体系は多くは実践的なものであり、思惟の体系は純知識的であるというような区別もできるだろう。しかし私は知識の究極的な目的は実践的であるように、意志の根本に理性(ここでは統一的或者と同義)が潜んでいると言えると思う。このことは後に意志のところで論じようと思うが、このような体系(知覚の体系、思惟の体系)の区別も絶対的とは言えないのだ。また同じ知識的作用であっても、連想とか記憶とかいうのは単に個人的意識内の関係統一であるが、思惟だけは超個人的で一般的であるとも言える。しかしこのような区別も、我々の経験の範囲を無理やり個人的と限定することから起こるので、純粋経験の前にはかえって個人というものはないことに考えが至らないのだ。
 これまで思惟と純粋経験を比較し、普通にはこの二つが完全に類を異にすると思われてる点も、深く考えてみると一致する点を見出せることを述べたのだが、もう少し思惟の起源また帰趨(終わり)について論じ、思惟と純粋経験の関係を明らかにしようと思う。我々の意識の原始的状態、または発達した意識でも、その直接の状態はいつでも純粋経験の状態であることは誰もが許す所だろう。反省的思惟の作用は、次位的(二次的)に純粋経験から生じたものだ。ならば、何故思惟という作用が生じるのかというと、前に言ったように意識はもともと一つの体系だ。自ら己を発展完成するものだ。しかもその発展の行路において、種々の体系の矛盾衝突が起こってくる。反省的思惟はこの場合に現れるのだ。しかしこのような矛盾衝突も、他面から見たら一層大きな体系的発展(統一)の端緒(始まり)である。言い換えれば大きな統一の未完の状態ともいうべきものだ。例えば行為においてもまた知識においても、我々の経験が複雑となり種々の連想が現れ、その自然の行路(発展)を妨げた時、我々は反省的となる。この矛盾衝突の裏面は、暗に統一の可能を意味しており、決意あるいは統一の端緒(はじまり)が成立するのだ。しかし我々は決して決意または解決というような内面的統一の状態にのみ留まるのではない。決意は実行が伴うのは言うまでもなく、思想でも必ず何らかの実践的意味を持っている。思想は必ず実行に現れなくてはならない。すなわち純粋経験の統一(実現)に達しなければならない。ならば、純粋経験の事実は我々の思想のアルファでありオメガ(始まりであり終わり)である。要するに思惟は大きな意識体系の発展実現する過程にすぎない。もし大きな意識統一からこの過程を見れば、思惟というのも大きな一直覚の上における波乱にすぎない。例えば、我々がある目的について苦慮するとき、目的である統一的意識はいつでもその背後に直覚的事実として働いているのだ。思惟と言っても別に純粋経験とは異なった内容も形式も持っていない。ただその深く大ではあるが未完の状態だ。他面より見れば真の純粋経験とは単に受動的ではなく、かえって構成的で一般的方面を持っている。すなわち思惟を含んでいるといってよい(純粋経験は思惟のような能動的方面を持っている)。
 純粋経験と思惟はもともと同一事実の見方を異にしたものだ。かつてヘーゲルが強く主張したように、思惟の本質は抽象的であることではなく、かえって具体的なところにあるとすれば、私が上にいった意味の純粋経験(構成的で一般的方面を持っている)とほとんど同一となってくる。そのような意味で、純粋経験は直ちに思惟であるといってもよい。具体的思惟から見れば、概念の「一般性」というのは普通に言われるような“類似の性質を抽象したもの”ではない。「具体的事実の統一力(統一的或者)」だ。ヘーゲルも「一般」とは具体的なものの「魂」であると言っている。そして我々の純粋経験は体系的発展であるから、その根底に働きつつある統一力(一般、魂、統一的或者)は直ちに概念の一般性そのものでなければならない(概念の一般性が根底に無いと経験が体系的に発展しない)。経験の発展は直ちに思惟の進行となる。すなわち純粋経験の事実とはいわゆる“一般なるもの”(上述の統一的或者)が己自身を実現すること(体系的に分化発展する事)だ。感覚あるいは連想のようなものにおいてすら、その背後に潜在的統一作用(統一的或者)が働いている。これに反し思惟においても、統一が働く瞬間は、前に言ったようにその統一自身(思惟の体系的発展)は無意識だ。ただ統一(体系的発展)が抽象され、対象化された時、別の意識となって現れる。しかしこの時はすでに統一の作用(体系的発展の力)を失っているのだ。純粋経験とは単一とか受動的とかいう意味ならば思惟と相反するだろうが、経験とはありのままを知るという意味なら、単一とか受動的とかいうことはかえって純粋経験の状態とは言われない。真に直接な状態(純粋経験)は構成的で能動的だ。
 我々は普通に思惟によって一般的なものを知り、経験によって個体的なものを知ると思っている。しかし個体を離れて一般的なものがあるのではない。真に一般的なものは個体的実現の背後における潜勢力(統一的或者)だ。個体の中にあって個体を発展させる力だ。例えば植物の種子のようなものだ。もし個体から抽象され、他の特殊と対立する様なものならば、それは真の一般ではなくて、やはり特殊だ。このような場合では一般は特殊の上に位するのではなく(次元が高いのではなく)、特殊と同列にあるのだ(反対に、真の一般である統一的或者は、特殊と同列ではなく、特殊より根本的なものだ)。例えば、色ある三角形について、三角形から見れば色は特殊であるだろうが、色から見れば三角形は特殊だ。このような抽象的で無力な一般(特殊)は、推理や総合の基となることはできない。思惟の活動において統一の基である真に一般なるものは、個体的現実(意識内容)とその内容が同一である潜勢力でなければならない。ただその潜勢力(統一的或者)が含蓄的か顕現的かで、異なってくるのである。個体とは一般的なもの(統一的或者)の“限定”されたものだ。個体と一般の関係をこのように考えると、論理的にも思惟と経験の差別がなくなってくる。我々が現在の個体的経験(意識内容、具体的事実)と言っているものも、実際は発展の途中にあるものと見ることが出来る。すなわち、更に精細に限定されるべき潜勢力を持っているのだ。例えば我々の感覚のようなものでも(思惟と同様に)更に分化発展の余地があるのだろう。この点から見て(感覚のようなものを)一般的なものとなすこともできる。これに反し一般的なものでも、発展をその所に限って見れば(分化発展の方向を見ず、その場面だけ限定して見てみれば)、個体的ということもできるだろう。普通には空間時間の上において"限定された"もののみを個体的と称している。しかしこのような限定は外面的だ。真の個体とはその内容において個体的でなければならない。すなわち唯一の特色を具えたものでなければならない。一般的なるもの(統一的或者、潜勢力)が発展の極致に至ったところが個体だ。この意味から見れば、普通に感覚あるいは知覚と言っているようなものは極めて内容に乏しい一般的なもので、深い意味に満ちた画家の直覚のようなものがかえって真に個体的と言うことが出来るだろう。"空間時間により限定された単に物質的なもの"を以って個体的となすのは(発展の極致となすのは)、その根底において唯物論的独断があるのだろうと思う。純粋経験の立脚地から見れば、経験を比較するにはその“内容”を以ってするべきなのだ。時間空間というようなものも、このような“内容”に基づいて、経験を統一する“一つの形式”に過ぎない(時間空間は経験を統一する形式の一つにすぎない)。あるいは感覚的印象が強く明らかなことや、情意(感情・意志)と密接な関係をもつことなどが、これ(時間、空間により限定されたもの、物質的なもの)を個体的と思わしめる一原因でもあろうが、いわゆる(物質的でない)思想のようなものも決して情意に関係が無いのではない。強く情意を動かすものが特に個体的と考えられるのは、情意は知識に比べ我々の目的そのものであり、発展の極致に近いからだと思う。
 要するに思惟と経験は同一であって、その間に相対的な差異を見ることはできるが、絶対的区別は無いと思う。しかし私は以上の理由から、思惟は単に個人的で主観的であるというのではない。前にも言ったように、純粋経験は個人の上に超越することができる(個人を超越する)。このように言えば甚だ異様に聞こえるだろうが、経験は時間、空間、個人を知るがゆえに、時間、空間、個人以上である(時間、空間、個人を超越する)。個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである。個人的経験とは、経験の中における、限られた経験の特殊な一小範囲にすぎない。

第三章 意志
 私は今、純粋経験の立脚地から意志の性質を論じ、知と意(知識または知性と意志)の関係を明らかにしようと思う。意志は多く場合、動作を目的とし、動作を伴うのであるが、意志は精神現象であって外界の動作とは別物だ。動作は必ずしも意志の条件ではない。ある外界の事情のため動作が起こらなかったとしても、意志は意志であるのだ。心理学者の言うように我々が運動を意志するにはただ過去の記憶を想起すればいい。すなわち過去の記憶に注意を向けさえすればよい。運動は自然とそれに伴うのだ。そしてこの運動そのものも、純粋経験から見れば運動感覚の連続(という現在意識)に過ぎない。“意志の目的”というものも、直接に見てみると、やはり意識内の事実(現在意識)だ。我々はいつでも自己の状態(意識内の事実、現在意識)を意志するのである。意志には内面的と外面的という区別は無いのだ(意識内の事実、現在意識のみ意志する)。
 意志といえば何か特別な力があるように思われているが、実際は“一つの心像から他の心像に移る推移の経験(注意の推移の経験)”にすぎない。あることを意志するというのは、すなわちあることに注意を向けることだ。このことは、いわゆる無意識的行為のようなものにおいて明白に見ることが出来る。前に言った知覚の連続のような場合(登攀家、音楽家の例)でも、注意の推移と意志の進行は完全に一致する。もちろん注意の状態は意志の場合に限ったわけではなく、その範囲は広いようだが、普通に言われる意志というのは、運動表象の体系に対して注意している状態のことだ。言い換えればこの体系が意識を占領し、我々がこの体系に純一となった場合を(一般的には意志と)いうのだ。一表象に注意すること(一表象を知識的対象とみなすこと)と、一表象に注意することを意志とみなすことは違うように思われる。それはその表象が属する体系の差異からくる。全て意識は体系的であって、表象も決して単独では起こらない。必ず何かの体系に属している。同一の表象であっても、その属する体系によって知識的対象にもなり、また意志の目的にもなるのである。例えば、一杯の水を想起するにしても、単に外界の事情(という体系に属するもの)として連想するときは知識的対象であるが、自己の運動(という体系に属するもの)として連想された時は意志の目的となるのである(※試験管やフラスコとともに連想されるときは知識的対象となり、喉の渇きと共に連想した時は、欲求の対象として意志の目的となる)。ゲーテが「意欲せざる天の星は美し」と言ったように、自己運動の表象の体系に入らないものは、いかなるものも意志の目的とはならないのだ。我々の欲求はすべて過去の経験の想起によって成立することは明らかな事実だ。欲求の特徴である強い感情と緊張の感覚とは、前者(強い感情)は運動表象の体系(例えば喉の渇き)が我々にとって最も強い生活本能に基づくのと、後者(緊張の感覚)は運動に伴う筋覚に他ならない。また単に運動を想起するだけでは、まだ直ちにそれを“意志する”とまでは言うことが出来ないようだが、それはまだ運動表象が全意識を占領していないからだ。真に運動表象に純一になれば(主客合一すれば)、直ちに意志の決行となるのである。
※引用 善の研究 全注釈 p87
 ならば運動表象の体系と知識表象の体系はどのような違いがあるのであろうか。意識発達の始まりにさかのぼってみると、このような区別があるのではない。我々の有機体はもともと生命保存のために種々の運動をなすように作られている。意識はこのような本能的動作に沿って発生するので、知覚的というよりもむしろ衝動的であるのが、意識の原始的状態だ。だが経験を積むにしたがって種々の連想ができるので、最終的に知覚中枢を基とするものと、運動中枢を基とするものという、二種の体系ができるようになる。しかしいかに両体系が分化したと言っても、全然別種のものになるのではない。純知識であってもどこかに実践的意味を持っており、純意志であっても何らかの知識に基づいている。具体的精神現象は必ず両方面を具えている。知識と意志は同一現象を、その(特徴の)著しい方向によって区別したものにすぎない。つまり知覚(という知識)は一種の衝動的意志であり、意志は一種の想起(知識)だ。それだけでなく、純知識的な記憶表象でも必ず多少は実践的意味(意志の目的)を持っている。これに反し偶然に起こるように思われる意志であっても、何かの刺激(想起)に基づいているのである。また意志は一般に、内から目的をもって進行するというが、知覚であっても(同様に)あらかじめ目的を定めて、それに(意識的に)注意を向けることもできる。思惟のようなものはことごとく有意的(意識的)であるといってもよい。これに反し衝動的意志(意識的でない意志)のようなものは完全に受動的だ。右のように考えてみると、運動表象と知識表象は完全に類を異にするものではなく、意志と知識の区別も単に相対的であると言わなければならない。意志の特徴である苦楽の情、緊張の感も、その程度は弱くても、必ず知的作用にも伴っている。知識も主観的に見れば(意志と同様に)内面的潜勢力(統一的或者)の発展とも見ることが出来る。かつて言ったように、意志も知識も潜在的或者(統一的或者)の体系的発展(統一作用)とみなすことができるのである。勿論主観と客観を分けて考えてみれば、知識においては我々は主観を客観に従えるが、意志においては客観を主観に従えるという区別もあるだろう。これを詳論するには主客の性質及び関係を明らかにする必要もあるだろうが、私はこの点においても知識と意志との間に共通の点があるのだろうと思う。知識的作用においては、我々はあらかじめ一つの仮定を抱き、これを事実に照らしてみるのである。どのような経験的研究であってもまず仮定をもっていなければならない。そしてこの仮定がいわゆる客観と一致するとき、この仮定を真理と信じるのである。すなわち真理を知り得たのである。意志的動作においても、我々は一つの欲求を持っていても、直ちにその欲求が意志の決行となるのではない。その欲求を客観的事実に鑑み、適当で可能である(実現可能である)と知った時、初めて実行に移るのだ。前者(知識)において我々は完全に主観を客観に従え、後者(意志)においては客観を主観に従えるということが(本当に)できるであろうか。欲求は客観と一致することによってのみ実現することが出来る。意志は客観より遠ざかれば遠ざかるほど無効となり、客観に近づけば近づくほど有効となるのだ。我々が現実から離れた高い目的を実行しようと思う場合には、種々の手段を考え、これによって一歩一歩進まなければならない。そしてこのように手段を考えるということは、すなわち客観に調和を求めることだ。(知識の様に)客観に従うのだ。もし到底その手段を見出すことが出来ないならば、目的そのものを変更するより外は無いだろう。これに反し、目的が極めて現実に近かった場合は、飲食起臥の習慣的行為のように、欲求は直ちに実行となるのである。このような(意志的行為の)場合には主観から働くのではなく、かえって(知識の様に)客観から働くと見られるのだ。
 このように意志において完全には客観を主観に従えると言えないように、知識において完全に主観を客観に従えるとは言えない。自己の思想が客観的真理となった時、すなわちその思想が実在の法則であり、実在はその思想によって動くことを知った時、我々は"理想を実現する"ことが出来たということができないだろうか。思惟も一種の統覚作用であって、知識的欲求に基づく内面的(精神的)意志だ。我々が思惟の目的(真理)に達するのは、一種の意志実現(意志の目的の実現、理想の実現)ではないだろうか。ただ両者が異なるのは、一つ(意志)は自己の理想に従って客観的事実を変更し、一つ(知識)は客観的事実に従って自己の理想を変更することにあるのだ。すなわち意志は作為し、知識は見出すと言ってよいだろう。真理は我々が作為すべきものではなく、かえってこれに従って思惟すべきものだ。しかし我々が真理と言っているものは本当に完全に主観を離れて存在するものなのだろうか。純粋経験の立脚地から見れば、主観を離れた客観というものは無い。真理とは我々の経験的事実を統一したものだ。"最も有力で統括的な表象の体系"が、客観的真理だ。真理を知るとか真理に従うとかいうのは、自己の経験を統一するという意味だ。小さな統一から大きな統一に進むのである。そして我々の真正な(本当の)自己は、この統一作用そのものであるとすれば、真理を知るというのは、大きな自己に従うということだ。(真理を知るということは)大きな自己の実現(大なる分化発展の完成)だ【ヘーゲルの言ったように、すべての学問の目的は、精神が天地間の万物において己自身を知るにあるのだ】。知識が深遠になるのに従い自己の活動が大きくなる。これまで非自己であったものも、自己の体系の中に入ってくるようになる。我々はいつでも(能動的な)個人的要求を中心として考えるから、知識が受動的であるように感じるのだが、もしこの意識的中心(個人的要求)をいわゆる理性的欲求(知識欲など)に置き変えてみると、我々は知識においても能動的になるのだ(知識も体系的発展という統一作用をもつのだ)。スピノーザの言ったように知は力だ。我々は常に、過去の運動表象の喚起によって自由に身体を動かすことが出来ると信じている。しかし我々の身体も物体だ。この点から見て他の物体と変わりはない。視覚において外物の変化を知るのも、筋覚において自己の身体の運動を感じるのも同一だ。両者(外物、身体)共に外界だ。だが、なぜ他物とは違って自己の身体だけは自己が自由に支配することが出来ると考えることができるのだろうか。我々は普通に運動表象を、一方において我々の心像であると共に、一方において外界の運動(身体の運動)を起こす原因と考えている。だが、純粋経験から見れば、運動表象によって身体の運動を起こすというのも、ある予期的運動表象に、直ちに運動感覚を伴うということにすぎない。この点においては、予期された外界の変化が実現されるのと同一だ(例えば、雨雲があるから雨が降るだろうと予期し、実際に雨が降った)。実際、原始的意識の状態では「自己の身体の運動」と、「外物の運動」は同一であっただろうと思う。ただ経験が進むにつれてこの二者が分化したのだ。すなわち種々の約束の下に起こるものが外界の変化と見られ、予期的表象にすぐに従うものが自己の運動と考えられるようになったのだ。しかし本来この区別は絶対的ではないのだから、自己の運動であっても少し複雑なものは予期的表象に従うことはできない。この場合においては意志の作用(目的の運動を遂行しようとする作用)は著しく知識の作用に近づいてくるのだ。要するに、外界の変化と言っているものも、実際は我々の「意識界」すなわち「純粋経験」の中の変化であり、また約束(因果関係)の有無という事も程度の差であるとすれば、知識的実現(意識外であるとされる出来事)と意志的実現(自己の身体の運動)は結局のところ同一性質のものとなってくる。あるいは、意志的運動においては、予期的表象は(運動に)単に先立つのではなく、予期的表象そのものが直ちに運動の原因となるのであるが、「外界」の変化においては知識的な予期表象そのものが変化の原因となるのではないかという人もいるかもしれない。しかし、もともと因果(関係)とは意識現象の不変的連続だ。仮に、意識を離れた完全に独立した「外界」というものがあるとするなら、意志において意識された予期表象が直ちに身体(という意識から独立した外界)における運動の原因になるということはできない。単に両現象が並行するというまでだ(予期表象と身体の運動=外界の変化が、並行して生じたとしか言いようがない)。このように(「外界」があるものと)見れば、意志的予期表象の運動に対する関係は、知識的予期表象の外界に対する関係と同一になる。実際、意志的予期表象と身体の運動は必ずしも相伴うものではない。やはり(知識的予期表象のように)ある約束の下に伴うのだ。
 また我々は普通に意志は自由であるといっている。しかし所謂自由とはどのようなことを言うのだろうか。もともと我々の欲求は我々に与えられたものであって、(我々が)自由に欲求を生じることはできない。ただ、ある与えられた最深の動機に従って動いたとき(自己の最深の統一的或者に従って動いたときに)に、自己が能動的で自由であると感じられるのだ。これに反し、このような動機に反して動いた時は強迫を感じるのである。これが自由の真の意義だ。この意味における自由は意識の体系的発展(統一)と同意義であり(自由は意識の必然的な分化発展の過程そのものであり)、知識においても同一の場合は(最深の動機に従って動いた時は)自由であるということができる。我々はどのようなことも自由に欲することが出来るように思うが、それは単純に「可能である」というまでだ。実際の欲求はその時に与えられるのだ。ある一つの動機が発展する場合は次の欲求を予知することが出来るかもしれないが、そうでなければ次の瞬間に自己が何を欲求するかは予知することもできない。要するに私が欲求を生じるというよりはむしろ、現実の動機(統一的或者の体系的発展)が、私なのだ。普通には欲求の外に超然とした自己があって自由に動機を決定するように言われているが、そのような神秘力はないのは言うまでもなく、もしそのような超然的自己の決定があるのであれば、それは偶然の決定であって、(意識の体系的発展による必然的な)自由の決定とは思われない。(必然が自由であり、偶然が不自由である)。
 上に論じたように、意志と知識の間には絶対的区別があるのではなく、いわゆる区別とは多くの場合外から与えられた独断にすぎない。純粋経験の事実としては意志と知識の区別はない。(意志と知識)共に一般的或者(統一的或者)が体系的に自己を実現する過程であって、その統一の極致が(知識の場合)真理であり、また(意志の場合)実行であるのだ。かつて言った知覚の連続のような場合(登攀家、音楽家の例)では、いまだ知識(客)と意志(主)と分かれていない。真に知即行だ。ただ意識の発展につれて、一方から見れば様々な体系の衝突の為、一方から見ればさらに大きな統一に進むため、理想と事実の区別ができ、主観界と客観界が分かれてくる。そこで主観から客観にいくのが意で、客観から主観にくるのが知であるというような考えも出てくる。知(客)と意(主)の区別は主観と客観が離れ、純粋経験が統一された状態を失った場合に生じるのだ。意志における欲求も知識における思想も、共に理想が事実と離れた不統一の状態だ(意識体系の矛盾衝突した状態だ)。思想というのは我々の客観的事実に対する一種の要求だ。いわゆる真理とは事実に合った実現できる思想ということだろう。この点から見れば(真理は)事実に合った実現できる欲求と同一(知識は意志と同一)と言ってよい。ただ前者(真理)は一般的で、後者(欲求)は個人的という差があるのだ。意志の実現とか真理の極致とかいうのは、この(理想が現実と離れた)不統一の状態から、純粋経験の統一の状態に達する(理想が現実と一致する)という意味だ。意志の実現をこのように考えるのは簡単だが、真理もそのように考えるには多少の説明が必要だろう。どのようなものが真理であるかということについては種々の議論もあるだろうが、私は“最も具体的な経験の事実に近づいたもの”が真理だろうと思う。真理は一般的であると言われる。もしその意味が単に抽象的共通(例えば科学的真理)ということであれば、そのようなものはかえって真理と遠ざかったものだ。真理の極致は様々な方面を総合する、最も具体的で直接な事実そのものでなければならない。この事実がすべての真理の基であり、いわゆる真理はこれから抽象され、構成されたものだ。真理は統一(体系的発展)にあるというが、その統一とは抽象的概念の統一(言葉の統一)を言うのではない。真の統一はこの直接の事実(直接の意識現象)にあるのだ。完全な真理は、(直接の事実=個人の意識現象なので)個人的で現実的だ。それゆえに完全な真理は言語で言い表すべきものではない。いわゆる科学的真理のようなものは、完全な真理とは言えないのだ。
 真理の標準は外にあるのではなく、かえって我々の純粋経験の状態にあるのだ。真理を知るというのはこの状態に一致することだ。数学などのような抽象的学問と言われているものでも、その基礎である原理は我々の「直覚」、すなわち「直接経験」にあるのである。経験には種々の階級がある。かつて言ったように、関係の意識(意味、判断)も経験の中に入れて考えてみると、数学的直覚のようなものも一種の経験だ。このように様々な直接経験があるならば、なにをもってその真偽を定めるのかという疑いも起こるだろう。それは、二つの経験が第三の経験の中に包容された時、この第三の経験によって真偽を決定することが出来る。とにかく直接経験の状態において、主客が相没し(主客が合一し)、天地唯一の現実、疑おうとして疑うことが出来ないところ(最も具体的な経験の事実)に真理の確信があるのだ。一方において意志の活動ということは、やはりこのような直接経験の現前、すなわち意識統一(統一的或者の体系的発展)の成立を指し示しているにすぎない。一つの欲求の現前(の事実)は、単なる表象の現前(の事実)と同じく直接経験の事実だ。様々な欲求の争いの後一つの決断ができるのは、様々な思慮の後一つの判断ができる様に、一つの内面的統一が成立したと言える。意志が外界に実現されたという場合は、学問で自己の考えが実験によって証明された場合の様に、主客の別を打破した最も統一された直接経験が現前したのだ。あるいは意識内の統一は自由だが、外界の統一は「自然」に従わなければならないと言われるが、(意識という)内界の統一(体系的発展)であっても自由ではない。統一はすべて我々に与えられるものだ(必然的なものだ)。純粋経験から見れば内外という統一も相対的だ。意志の活動は単なる希望の状態ではない。希望は意識不統一の状態であり、かえって意志の実現が妨げられた状態だ。ただ、意識統一(統一的或者の体系的発展)が意志活動の状態なのだ。たとえ現実が自己の真実の希望に反していても、現実に満足し(主が)これ(現実=客)と純一になるとき(主客合一するとき)は、その現実が意志の実現だ。これに反し、いかに恵まれた境遇であっても、様々な希望(客)があって現実(主)が不統一の状態であった時は(主客が不統一の場合は)、意志(の実現)が妨げられているのである。意志の活動か否かは(主客の)純一と不純一、すなわち統一と不統一に関係するのだ。
 例えばここに一本のペンがある。これを見た瞬間は、知識ということもなく、意志ということもなく、ただ一個の現実だ。これについて様々な連想が起こり、意識の中心が推移し、前の意識が対象視されたとき、前の意識は単に知識的となる(前の意識=これはペンだ)。これに反し、このペンは文字を書くべきものだというような連想が起こる。この連想がまだ前の意識(これはペンだ)にぼんやりとくっついている時は知識だが、この連想的意識そのものが独立なものとなった時、すなわち意識の中心が連想的意識そのものに移ったとき、欲求の状態となる。そしてこの連想的意識(このペンは文字を書くべきものだ)がいよいよ独立した現実となった時が意志であり、また真にこれ(ペン)を知ったという事が出来る。“現実において意識体系が発展する状態”を意志の作用というのである。思惟の場合でも、ある問題に注意を集中して、その問題の解決を求めるものは意志だ。これに反し茶を飲み酒を呑むというようなことでも、これだけの現実なら意志だが、その味をためすという意識が出てきてこれ(茶の味をためしたい)が中心となるなら知識となる。そしてこの「ためす」という意識そのものが、この場合においては意志だ。意志というのは普通の知識というものよりも、一層根本的な意識体系であって、統一(体系的発展)の中心となるものだ(意志は知識より一層根本的な意識の統一の形式だ)。知と意の区別は意識の内容にあるのではなく、その体系内の地位(階級)によって定まってくるのであると思う(意志は知識よりも根本的な統一作用を持つという点で、知識よりも階級が上位にあるものだ)。
 理性と欲求は一見衝突しそうだが、実際は両者は同一の性質を有し、ただ大小深浅という差があるだけだと思う。我々が理性の要求と言っているものは、更に大きな統一の要求だ。すなわち個人を超越する一般的意識体系(大きな体系)の要求であり、大きな超個人的意志の発現とも見ることが出来る。意識の範囲は決していわゆる個人の中に限られてはいない。個人とは、意識(個人を超越する一般的意識体系)の中の一小体系に過ぎない。我々は普通に肉体生存を核とする小体系(個人)を中心としているが、もし、更に大きな意識体系を中心として考えてみれば、この大きな体系が自己であり、その発展が自己の意志実現である。例えば熱心な宗教家、学者、美術家のようなものだ。「こうしなければならない」という理性の法則と、単に「私はこう欲する」という意志の傾向は全く異なって見えるが、深く考えてみるとその根底は同じものであると思う。理性とか法則とかいっているものの根本には、意志の統一作用が働いている。シラーなどが論じているように、公理というようなものでももともと実用上から発達したものであって、その発生の方法においては単なる我々の希望と同じだ。翻って我々の意志の傾向を見ると、無法則のようではあるが、必然の法則に支配されている(統一的或者の必然的な体系的発展である)。右の二者(公理と意志)は共に“意識体系の発展の法則”であって、ただその効力の範囲が異なるのだ。またあるいは意志は盲目であるという点で理性と区別する人もいるが、何事にせよ我々の直接の事実である物は説明が出来ない。理性であってもその根本である直覚的原理の説明はできない。説明とは一つの体系の中に他を包容できるという意味だ。統一(体系的発展)の中心となるもの(統一的或者)は説明はできない。(一つの体系の中に、根源的な統一的或者を包容することはできない)。とにかくその場合は盲目だ。(とにかく合理的に説明が出来ない)。

第四章 知的直観
 私がここに知的直観という意味は、いわゆる理想的な、普通に“経験以上”と言っているものの直覚のことだ。弁証的に知るべきものを直覚するのだ。例えば「美術家や宗教家の直覚のようなもの」をいうのだ。直覚という点においては普通の知覚と同一だが、その内容においては遥かに知覚より豊富で深遠なものだ。
 知的直観という事は、ある人には一種の特別な神秘能力のように思われ、またある人には完全に経験的事実以外の空想の様に思われている。しかし私は知的直観と普通の知覚は同一種類であって、その間にはっきりした境界線を引くことはできないと信じる。普通の知覚であっても、前に言ったように、決して単純ではない。必ず構成的である(体系的に発展する)。理想的要素(統一的或者の分化発展の方向)を含んでいる。私が現在見ているものは現在のまま見ているのではない。過去の経験の力によって、説明的に見ているのだ。この理想的要素は単に外から加えられた連想というようなものではなく、知覚そのものを構成する要素となっている。知覚そのものが理想的要素によって変化されるのだ。この直覚の根底に潜む理想的要素(統一的或者の分化発展の方向)はどこまでも豊富、深遠となることができる。各人の天賦の才により、また同一の人でもその経験の進歩によって異なってくるのだ。初めは経験のできなかった事、または弁証的に徐々に知り得たことも、経験が進むにしたがって直覚的事実として現れてくる。この(知的直観の)範囲は自己の現在の経験を標準として限定することはできない。自分が出来ないから人も出来ないという事は無い。モツァルトは楽譜を作る際に、長い譜でも、絵や立像のようにその全体を直視することが出来たという。単に数量的に拡大されたのではなく、性質的に深遠となるのだ。例えば我々の愛によって彼我合一(自他合一)の直覚(自分と相手は同じだという直覚。仏教でいう自他一如)を得ることが出来る宗教家の直覚のようなものは、知的直観の極致に達したものだろう。ある人の超人的直覚が単に空想であるか、もしくは真の実在の直覚であるかは、他との関係、すなわちその効果がどの程度のものかによって定まってくる。直接経験から見れば、空想も真の直覚も同一の性質を持っている。ただその統一の範囲において、大小の区別があるだけだ。
 ある人は、知的直観が時間、空間、個人を超越し、実在の真相を直視する点において普通の知覚とその類を異にすると考えている。しかし前にも言ったように、厳密な純粋経験の立場から見れば、(知的直観でなくても)経験は時間、空間、個人の(統一の)形式に拘束されるのではなく、このような経験の区別はかえって時間、空間、個人を超越する直覚によって成立するものだ(思索と体験の中の、論理の理解と数理の理解を参照)。また実在を直視すると言っても、直接経験の状態においては主客の区別はない。実在と相対するのだ。知的直観の場合のみに限ったわけではない。シェルリングの同一は、直接経験の状態だ。主客の別は経験の統一を失った場合(体系的発展が妨げられた時)に起こる相対的な形式だ。主客を互いに独立した実在と見なすのは独断にすぎない。ショーペンハウエルの意志なき純粋直覚というのも天才の特殊な能力ではない。かえって我々の最も自然で統一された意識状態だ。天真爛漫な嬰児の直覚はすべてこの種に属するのだ。それで、知的直観とは我々の純粋経験の状態を一層大きくしたものに過ぎない。すなわち意識体系の発展上における大なる統一の発現のことだ。学者が新思想を得るのも、道徳家が新動機を得るのも、美術家が新理想を得るのも、宗教家が新覚醒を得るのも、すべてこのような(大なる)統一(体系的発展)の発現に基づくのだ【故に、すべて神秘的直覚に基づくのだ】。我々の意識が単に感官(感覚器官)的性質のものならば、普通の知覚的直覚の状態にとどまるのだろう。しかし理想的な精神は無限の統一(体系的発展)を求める。そしてこの統一(無限の統一、体系的発展)はいわゆる知的直観の形において与えられるのだ。知的直観とは知覚と同じく意識の最も統一された状態だ。
 普通の知覚が単に受動的と考えられているように、知的直観もまた単に受動的な状態と考えられている。しかし真の知的直観とは純粋経験における統一作用(統一的或者)そのものだ。生命の捕捉だ(生命を捕まえることだ)。すなわち技術の骨のようなもの、一層深く言えば美術の精神のようなものがそれ(真の知的直観)だ。例えば画家の興来り、筆自ら動くように、複雑な作用の背後に統一的或者が働いている。その変化は無意識な変化ではない。一つのもの(統一的或者、生命)の発展完成である。この一物の会得が知的直観であり、しかもこのような直覚は高尚な芸術の場合のみではなく、すべて我々が熟練した行動においても見るところの、極めて普通の現象だ。普通の心理学は単に習慣であるとか、有機的作用であるとかいうだろうが、純粋経験の立場から見れば、主客合一、知意融合(知性と意志の融合)の状態だ。物我相忘じ(主客合一し)、物が我を動かすのでもなく、我が物を動かすのでもない、ただ一つの世界、一つの光景あるのみだ。知的直観と言えば主観的作用のように聞こえるのであるが、実際は主客を超越した状態だ。主客の対立はむしろこの(知的直観という)統一によって成立するといってよい。芸術の神来のようなものは皆この境地に達するのだ。また知的直観とは事実を離れた抽象的一般(概念的知識)の直覚を言うのではない。絵の精神は描かれた個々の事物と異なっても、またそれを離れてあるのではない。かつて言ったように、真の一般(統一的或者)と個性は相反するものではない。個性的限定によってかえって真の一般(統一的或者)を表すことができる。芸術家の精巧な一刀一筆は、全体(統一的或者)の真意を表すものだ。
 知的直観を右のように考えれば、思惟の根底には知的直観というものが横たわっていることは明らかだ。思惟は一種の体系だ。体系の根底には統一の直覚(統一的或者の直覚=知的直観)が無ければならい。これを小さく言うと、ジェームスが「意識の流れ」において言っているように「骨牌の一束が机上にある」という意識において、主語が意識された時客語が暗に含まれており、客語が意識された時主語が暗に含まれている。つまり根底に一つの直覚(統一的或者の直覚)が働いているのである。私はこの統一的直覚は技術の骨(または芸術の精神)と同一性質のものであると考える。またこれを大きく言えば、プラトー、スピノーザの哲学のようなすべての偉大な思想の背後には、大きな直覚が働いているのだ。思想において天才の直覚と言うも、普通の思惟というも、ただ量において異なるので、質において異なるのではない。前者(天才の直覚)は新にして深遠な統一の直覚に過ぎない。すべての関係の基には直覚(統一的或者の直覚=知的直観)がある。関係はこれによって成立するのだ。我々がいかに縦横無尽に思想をはせるとも、根本的(統一的或者の)直覚を超出することはできない。思想はこの上(統一的或者の直覚の上)に成立するのだ。思想はどこまでも説明のできるものではない。その根底には説明できない直覚がある。全ての証明はこの上に築きあげられるのだ。思想の根底にはいつでも神秘的或者(統一的或者)が潜んでいるのである。幾何学の公理の様なものすらこの一種だ。往々にして、思想は説明ができるが、直覚は説明が出来ないと言われる。説明というのはさらに根本的な直覚(統一の中心となるもの)に摂帰することができるかという意味にすぎない。この思想の根本的直覚(統一的或者)というものは、一方において説明の根底となると同時に、単に静学的な思想の形式ではなく、一方において思惟の力となるものだ。
 思惟の根底に知的直観があるように、意志の根底にも知的直観がある。我々があることを意志するというのは主客合一の状態を直覚する。意志はこの直覚によって成立するのだ。意志の進行とはこの直覚的統一(統一的或者)の発展完成であって、意志の根底には始終この直覚が働いている。そしてその完成したところが意志の実現となるのだ。我々が意志において自己が活動すると思うのはこの直覚(統一的或者の直覚)があるという意味だ。自己というものが別にあるのわけではない。真の自己とはこの統一的直覚を言うのだ(自己とは実体的なものではなく、統一的或者、またはその分化発展の作用そのものだ)。それで古人も終日なしてしかも行せずといったが、もしこの直覚から見れば動中に静あり、為してしかも為さずということができる(?)。またこのように知と意を超越し、しかもこの二者の根本となる直覚(統一的或者の直覚=知的直観)において、知と意の合一を見出すこともできる。
 真の宗教的覚悟とは思惟に基づく抽象的知識ではない。また単なる盲目的感情でもない。知識及び意志の根底に横たわる深遠な統一(=知的直観)を自得するのだ。すなわち一種の知的直観だ。深い生命(統一的或者)を捉えるのだ。ゆえに、いかなる論理の刃もこれに向かうことはできず、いかなる欲求もこれを動かすことはできない。すべての真理(知)と満足(意)の根本となるのだ。その形は種々あるけれども、すべての宗教の基にはこの根本的直覚がなければならないと思う。学問道徳の基には宗教がなければならない。学問道徳はこれによって成立するのだ。

第二編 実在



第一章 考究の出立点
 世界はこの様なもの、人生はこの様なものという哲学的世界観、及び人生観と、人間はこうしなけれならないという道徳、宗教の実践的要求は、密接な関係を持っている。人は相いれない知識的確信と実践的要求をもち、満足することはできない。たとえば高尚な精神的欲求を持っている人は唯物論に満足できず、唯物論を信じている人は、いつしか高尚な精神的欲求に疑いを抱くようになる。もともと真理は一つだ。知識における真理は、直ちに実践上の真理であり、実践上の真理は直ちに知識における真理でなければならない。深く考える人、真摯な人は必ず知識と情意(感情、意志)の一致を求めるようになる。我々は何をなすべきかという問題を論ずる前に、まず天地人生の真相はどのようなものか、真の実在とはどのようなものかを明らかにしなければならない。
 【哲学と宗教を最もよく一致させたのはインドの哲学、宗教だ。インドの哲学、宗教では知即善で迷即悪だ。宇宙の本体はブラフマンでブラフマンは我々の心、すなわちアートマンである。このブラフマン即アートマンであることを知るのが、哲学及び宗教の奥義であった。キリスト教ははじめ、完全に実践的であったが、知識的満足を求める人心の要求は抑えがたく、ついに中世のキリスト教哲学というものが発達した。支那の道徳には哲学的方面の発達が甚だ乏しいが、宋代以後の思想はとても哲学的方面の傾向がある。これらの事実は、人心の根底には知識と情意の一致を求める深い欲求があることを証明するのだ。欧州の思想の発達を見ても、古代の哲学でソクラテス、プラトーを始めとし、教訓の目的が主となっている。近代において知識の方が特に進歩をなすと共に、知識と情意の統一が困難になり、この両方面が相分かれるような傾向ができた。しかしこれは人心本来の要求に合ったものではない】
 今もし真の実在を理解し、天地人生の真面目(しんめんもく…本来の姿という義)を知ろうと思ったならば、疑い出来るだけ疑って、すべての人工的仮定を去り、疑うにももはや疑いようのない直接な知識(純粋経験の事実)を基にして出発しなければならない。我々の常識では意識を離れて外界に物が存在し、意識の背後には心というものがあって様々な働きをなすように考えている。しかし物心の独立的存在ということは我々の思惟の要求によって仮定したもので、いくらでも疑いえる余地があるのだ。そのほか科学というようなものでも、何か仮定的知識の上に築き上げられたものであり、実在の最深な説明を目的としたものではない。またこれ(実在の最深な説明)を目的としている哲学の中でも、十分に批判的でなく、もとからある仮定を基礎として深くそれを疑わない者が多い。
 【物心の独立的存在ということが直覚的事実であるかのように考えられているが、少し反省してみると直ちにそうでないことが明らかになる。今目の前にある机とはなんであるか。その色その形は眼の感覚だ。これに触れて抵抗を感じるのは手の感覚だ。物の形状、大小、位置、運動というようなことすら、我々が直覚するものは全て物そのものの客観的状態ではない。我々の意識を離れて物そのものを直覚することは到底不可能だ。自分の心そのものについてみても、同様だ。我々が知るのは知情意(知識、感情、意志)の作用であって、心そのものではない。我々が、同一の自己(一人の自己)があって始終働くかのように思うのも、心理学から見れば同一の感覚及び感情の連続に過ぎない。我々の直覚的事実としている物も心も、単に類似した意識現象の不変的結合に過ぎない。我々に物心そのものの存在を信じさせるのは、因果律の要求だ。しかし因果律によって果たして意識外の存在を推す(推測する)ことができるかどうか、これがまず究明すべき問題だ】
 ならば疑うに疑いようのない直接な知識とはなんであるか。それはただ、我々の「直覚的経験の事実」、すなわち「意識現象についての知識」あるのみだ。現前の意識現象と、これを意識するということは直ちに同一であって、その間に主観と客観を分かつことはできない。事実(客)と認識(主)の間に全く隙間が無い。真に疑うに疑いようがないのだ。もちろん、意識現象であっても、これ(意識現象)を判定するとかこれを想起するとかいう場合では、誤りに陥ることもある。しかしこれら(判定、想起)はもはや直覚ではなく、推理だ。後の意識(推理)と前の意識(直覚)は別の意識現象だ。直覚という事は、後者(の意識現象)を、前者(の意識現象)の判断(されたもの、つまり推理されたもの)として見ることではない。ただありのままの事実を知るのである。誤るとか誤らないとかいうのは(直覚において)無意義だ。このような直覚的経験が基礎となって、その上に我々のすべての知識が築き上げられなければならない。
 【哲学が従来の仮定を脱し、新たに確固とした基礎を求める時は、いつでもこのような直接な知識(純粋経験の事実)に還ってくる。近世哲学の始めにおいて、ベーコンが経験を以ってすべての知識の基としたのも、デカルトが「我思うゆえに我あり」の命題を基として、これ(ベーコン)と同じく明瞭なものを真理としたのも、これ(直覚)によるのだ。しかしベーコンの経験といったのは純粋な経験(直覚)ではなく、我々はこれによって意識外の事実を直覚できるという独断を伴った経験であった。デカルトが我思うゆえに我ありというのは、既に直接経験の事実(直接な知識、直覚)ではなく、既に我ありということを推理している。また明瞭な思惟が(意識外の事実とされる)物の本体を知り得るとするのは独断だ。カント以後の哲学においては、疑うことのできない真理として直ちにこれを受け取ることはできない。私がここでいう直接な知識というのは、すべてこれらの独断を去り、ただ直覚的事実として承認するということだ(もちろんヘーゲルを始め諸々の哲学家の言っているように、デカルトの「我思うゆえに我あり」は推理ではなく、実在(客)と思惟(主)の合一した直覚的確実(事実)を言い表したものとすれば、私の出立点と同一になる)】
 「意識上における事実の直覚」、すなわち「直接経験の事実」を以って全ての知識の出立点となすことに反し、思惟を最も確実な標準となす人がある。これらの人は物の真相と仮相を分かち、我々が直覚的に経験する事実は仮相(仮の姿)であって、ただ思惟の作用によって真相を明らかにすることが出来るという。もちろんこの(種の人々の)中でも常識、または科学というのは完全に「直覚的経験」を排除するわけではないが、ある一種の経験的事実を物の真となし、他の経験的事実を偽となすのだ。例えば日月星辰(天空の星)は小さく見えるが、実際は非常に大きなものであるとか、天体は動くように見えるが実際は地球が動くのであるというようなことだ。しかしこのような考えはある約束の下で起こる経験的事実から、他の約束の下に起こる経験的事実を推測することより起こるのだ。おのおの(どちらも)その約束の下では動かすべからざる事実だ。同一の直覚的事実であるのに、なぜ一つが真であって他が偽であるか。このような考えが起きるのは、触覚(視覚の誤記?)が他の感覚に比べて一般的であり、かつ実地において最も大切な感覚であるから、この感覚からくるものを物の真相となすことによるので、少し考えてみれば直ちにその考えが首尾貫徹していないことが明らかになる。ある一派の哲学者に至ってはこれと違い、経験的事実を全て仮相となし、物の本体はただ思惟によって知ることが出来ると主張するのだ。しかし仮に我々の経験のできない、超経験的実在(物の本体、物自体)があるとしたところで、このようなものがどのようにして思惟によって知ることが出来るか。我々の思惟の作用というのも、やはり意識において起こる意識現象の一種であることは何人も拒むことはできまい。もしわれわれの経験的事実が物の本体を知ることが出来ないとするならば、同一の現象(経験的事実…意識現象)である思惟も、やはりこれ(物の本体)を知ることが出来ないはずだ。ある人は思惟の一般性、必然性から真実在を知る標準とするけれど、これらの性質(一般性、必然性)もつまり我々が自己の意識上において直覚する一種の感情であり、やはり「意識上の事実」だ。
 【我々の感覚的知識をすべて誤りとなし、ただ思惟のみ物の真相を知り得るとなすのはエレヤ学派に始まり、プラトーに至ってその頂点に達した。近世哲学においてはデカート学派の人は皆明瞭な思惟によって実在の真相を知り得るものと信じた。
 思惟と直覚は全く別の作用であるかのように考えられているが、単にこれ(思惟)を意識上の事実としてみた時は同じ一種の(意識)作用だ。直覚とか経験とかいうのは、個己の事物を他と関係なくそのままに知覚する純粋な受動的作用であり、思惟とはこれに反し事物を比較し判断しその関係を定める能動的作用であると考えられているが、実際の意識作用としては完全に受動的作用というものがあるのではない。直覚は直ちに直接な判断だ。私が前に仮定なき知識の出立点として直覚といったのは、このような意味において用いたのだ】
 上に直覚と言ったのは、単に感覚とかいう作用のみをいうのではない。思惟の根底にも常に「統一的或者」がある。これは直覚すべきものだ。判断はこの分析から起こるのだ。

第二章 意識現象が唯一の実在である
 少しの仮定も置かない直接な知識に基づいてみれば、実在とはただ我々の意識現象、すなわち直接経験の事実あるのみだ。この他の実在というのは思惟の要求からくる仮定にすぎない。意識現象の範囲を脱することが出来ない思惟の作用に、経験以上の実在(物の本体)を直覚する神秘的能力が無いのは言うまでもなく、これらの仮定(物の本体)は、つまり思惟が直接経験の事実を系統的に組織するために起こった「抽象的概念」だ。
 【すべての独断を排除し、最も疑いない直接な知識から出立しようとする「きわめて批判的な考え」と、直接経験の事実以外の実在を仮定する考えは、どうしても両立することが出来ない。ロック、カントのような大哲学者でもこの両主義の矛盾を免れることはできない。私は今すべての仮定的思想を捨てて、厳密に前の主義(批判的な考え)を取ろうと思うのである。哲学史の上においてみればバークレー、フィヒテのようなものはこの主義を取ったと思う】
 普通には我々の意識現象というのは、物体界の中、特に動物の神経系統に伴う一種の現象であると考えられている。しかし少し反省してみると、我々に最も直接な原始的事実は意識現象であり、物体現象ではない。我々の身体もやはり自己の意識現象の一部に過ぎない。意識が身体の中にあるのではなく、身体はかえって自己(という意識)の中にあるのである。神経中枢の刺激に意識現象が伴うというのは、一種の意識現象は必ず他の一種の意識現象(神経中枢の刺激)に伴って起きるということにすぎない。もし我々が直接に、自己の脳の中の現象を知ることが出来るとすれば、いわゆる意識現象と脳の中の刺激の関係は、耳には音と感じるものが眼や手には糸の振動と感じるというものと同一だろう。
 【我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、実際はただ一種あるのみだ。すなわち意識現象あるのみだ。物体現象というのはその中で各人に共通で普遍的関係を有するものを抽象したものにすぎない】
 また普通には、意識の外にある定まった性質を具えた「物の本体」が独立に存在し、意識現象はこれに基づいて起こる現象に過ぎないと考えられている。しかし意識外に独立固定する物とはどのようなものであるのか。厳密に意識現象を離れては、物そのものの性質を想像することはできない。単にある一定の約束の下に、一定の現象を起こす「不知的なあるもの」というより外にない。すなわち我々の思惟の要求によって想像したまでのものだ。ならば思惟は何故このような物の存在を仮定しなければならないのか。(実際は)ただ類似した意識現象がいつも結合して起こるというにすぎない。我々が物と言っているものの真意義はこのようなものだ。純粋経験の上から見れば、「意識現象の不変的結合」というのが根本的事実であって、物の存在とは説明のために設けられた仮定に過ぎない。
【いわゆる唯物論者という者は、物の存在という事を疑いのない直接自明の事実であるかのように考えて、これをもって精神現象も説明しようとしている。しかし少し詳しく考えてみると、これは本末を転倒しているのだ】
 それで純粋経験の上から厳密に考えてみると、我々の意識現象の外に独立自全の事実なく、 バークレーの言ったように真に有即知(実在即知識)だ。我々の世界は意識現象の事実から組み立てられてある。種々の(?)学も化学も皆この事実(意識現象の事実)の説明に過ぎない。
 【私がここに意識現象と言うのは誤解を生じるところがある。意識現象と言えば、物体と分かれて精神のみ存在するということに考えられるかもしれない。私の真意では、真実在とは意識現象とも物体現象とも名付けられないものだ。またバークレーの有即知というのも私の真意に適さない。直接な実在は受動的なものではない。独立自全の活動(体系的発展)だ。有即活動(実在即活動)とでも言った方がよい】
 右の考えは、我々の深い反省の結果として、どうしてもここに至らなければならないのだが、一見我々の常識と大分相反するばかりでなく、これによって宇宙の現象(おそらく宇宙を含めた物理現象という意)を説明しようとすると、種々の難問に出くわすのだ。しかしこれらの難問は、多くは純粋経験の立脚地を厳密に守ることより起こったというよりも、むしろ純粋経験の上に加えた独断の結果であると考える。
 このような難問の一つは、もし意識現象のみを実在とするなら、世界はすべて自己の観念であるという独知論(個人の自我がただ一つの実在であり、外界や他人は自我の表象にすぎず、独立の存在ではないとする観念論の一つ)に陥るのではないか。またはそうでなくても、各自の意識が互いに独立の実在であるならば、どのようにしてその間の関係(独立の実在同士の関係)を説明することができるかということである。しかし意識は必ず誰かの意識でなければならないというのは、単純に意識には必ず統一がなければならないという意味に過ぎない。もしこれ以上の説明として(意識の)所有者がなけれならないという考えならば、それは明らかに独断だ。この「統一作用」即ち「統覚」というのは、「類似した観念及び感情」が中枢となって意識を統一するということだ。この意識統一の範囲というものは、純粋経験の立場から見て、その間に(昨日の意識、今日の意識というような)絶対的区別をすることはできない。もし個人的意識において、昨日の意識と今日の意識が独立の意識でありながら、それが同一系統に属することをもって一つの意識と考えることが出来るならば、自他の意識の間にも同一の関係を見出すことができるだろう(同一系統にある意識ならば、私とあなたの意識は独立の意識でありながら同一であると言うことができる)。
 【我々の思想、感情の内容はすべて一般的だ。幾千年を隔てていても思想、感情は互いに相通じることができる。例えば数学の数理のようなものはだれがいつ何時考えても同一だ。ゆえに偉大なる人は幾多の人を感化して一団となし、同一の精神を以って支配する。この時これらの人の精神を一つと見なすことが出来る】
 次に意識現象をもって唯一の実在となすことについて解釈に苦しむのは、我々の意識現象は固定した物ではなく、始終変化する出来事の連続であると見れば、これらの現象はどこから起こり、どこに去るのかという問題だ。しかしこの問題もつまり物には必ず原因結果が無ければならないという因果律の要求から起こるのだから、この問題を考える前に、まず因果律の要求とはどのようなものであるかを考究しなければならない。普通には、因果律は直ちに現象の背後における固定した物そのもの(物の本体、カントの物自体)の存在を要求するように考えられているが、それは誤りだ。因果律の正当な意義はヒュームの言ったように、ある現象が起こるには必ずこれに先立つ一定の現象があるというまでで、想像以上のものの存在を要求するのではない。一現象から他の現象を生じるというのは、一現象が現象の中に含まれていたのでもなく、またどこか外に潜んでいたものが引き出されるのでもない。ただ十分な約束、すなわち原因が備わった時は必ずある現象すなわち結果が生じるというのだ。約束がまだ完備してない時、これに伴うべきある現象、すなわち結果というものはどこにもない。例えば石を打って火を発する以前に、火はどこにもないのだ。あるは火を生じる力があるというでもあろうが、前に言ったように、力とか物とかいうのは「説明のために設けられた仮定」であって、我々が直接に知るのは、ただ火と全く異なったある現象(石を打つ)があるのみだ。ある現象にある現象が伴うというのが我々に直接に与えられた根本的事実であって、因果律の要求はかえってこの事実に基づいて起こったものだ。この事実と因果律が矛盾するように考えられるのは、つまり因果律の誤解から起こるのだ。
 【因果律というのは、我々の意識現象の変化を基として、これから起こった思惟の習慣だ。このことは、この因果律によって宇宙全体を説明しようとすると、すぐに自家撞着(矛盾)に陥るのを見ても分かる。因果律は世界に始まりが無ければならないと要求する。しかしもしどこかを始まりと定めれば、因果律は更にその原因はどこだと尋ねる(矛盾している)。すなわち自分(因果律)で自分(因果律)が不完全であることを明らかにしているのだ】
 終わりに、無より有を生じないという因果律の考えについても一言しておこう。普通の意味において「物がない」と言っても、主客の別を打破した(主客が合一した)直覚の上から見れば、やはり無の意識が実在しているのだ。無というのを単に言葉でなく何か具体的な意味を与えてみると、一方ではある性質の欠乏ということであるが、一方では何らかの積極的性質をもっている【例えば心理学から言えば、黒色も一種の感覚である】。物体界にて無から有を生じると思われることも、意識の事実としてみれば無は真の無ではなく、意識発展のある一契機であると見ることが出来る。ならば意識(現象)においてはどうだろう。無から有を生じることができるか。意識は(物体の様に)時、場所、力の数量的限定の下に立つべきものではなく、したがって機械的因果律の支配を受けるべきものではない。これらの形式(時間、空間、力)はかえって、意識統一の上に(後に)成立するのだ。意識はヘーゲルのいわゆる無限である。
 ここに一種の色の感覚(意識現象)があるとしても、この中に無限の変化を含んでいると言える。すなわち我々の意識が精細になってゆけば、一種の色の中にも無限の変化を感じるようになる。今日我々の感覚の差別(区別)もこのようにして分化し来ったものであろう。ヴントは感覚の性質を次元に併べて(?)いるが、元々一つの一般的なるもの(統一的或者)が分化して出来たのだから、このような(感覚の)体系があるのだと思う。

第三章 実在の真景
 我々が一切の細工を加えない「直接な実在(=直覚的事実)」とはどのようなものであるか。すなわち真の純粋経験の事実というのはどのようなものであるか。このとき(直接な実在)にはまだ主客の対立なく、知情意(知性、感情、意志)の分離なく、単に独立自全の純粋活動あるのみだ。
 主知説(認識論で、真理は理性によって合理的に把握されるとする立場)の心理学者は、感覚及び観念を以って精神現象の要素となし、すべての精神現象はこれら(感覚及び観念)の結合からなるものと考えている。このように考えれば、純粋経験の事実とは、意識の最も受動的な状態、すなわち感覚であると言わねばならない。しかしこのような考えは学問上分析の結果としてできたものを、直接経験の事実と混同したものだ。我々の直接経験の事実においては純粋感覚というものはない。我々が純粋経験と言っているものも、簡単な知覚だ。そして知覚は、いかに簡単であっても決して完全に受動的ではない。必ず能動的、すなわち構成的要素(体系的発展=統一)を含んでいる。このことは空間的知覚の例を見ても明らかだ(例えば、第一編で一目して物の全体を把握したように思う例)。連想とか思惟とか複雑な知的作用に至れば、なお一層この方面(体系的発展=統一の方面)が明瞭となる。普通には連想は受動的であると言われるが、連想においても観念連合の方向を定めるものは単なる外界の事情のみではなく、意識の内面的性質によるのだ。連想と思惟との間にはただ程度の差があるのみだ。もともと我々の意識現象を知情意と分かつのは、学問上の便宜によるもので、実際は三種の現象があるのではなく、意識現象はすべてこの方面(知情意)を具備しているのだ【例えば学問的研究の様な純知識的作用といっても、決して情意を離れて存在することはできない(例えば、人は数式に美しさを覚えたりする)】。しかしこの三方面の中で、意志が最も根本的な(意識の)形式だ、主意説(世界の根本原理を意志に認める立場)の心理学者の言うように、我々の意識は始終能動的であって、衝動から始まり意志をもって終わるのだ。我々に最も直接な意識現象はいかに簡単であっても(能動的な)意志の形(統一的或者の分化発展の形)を成している。すなわち意志が純粋経験の事実であるといわなければならない(詳しくは第四章の意志の説明にて)。
 【従来の心理学は主として主知説だったが、近頃はだんだん主意説が勢力を占めるようになった。ブントのようなものはその代表だ。意識はいかに単純であっても必ず構成的だ。内容の対照(対象の誤記?)というのは意識成立の一要件だ。もし真に単純な意識があったならば、それは直ちに無意識となるのだ】
 純粋経験においては未だ知情意の分離なく、唯一の活動であるように、また未だ主観客観の対立もない。主観客観の対立は我々の思惟の要求から出てくるので、直接経験の事実ではない。直接経験の上においてはただ独立自全の一事実あるのみだ。見る主観もなければ見られる主観もない。あたかも我々が美しい音楽に心を奪われ、物我相忘れ、天地はただこの一つの音楽であるとき、この刹那いわゆる真実在が現前している。これを空気の振動であるとか、自分がこれを聴いているとかいう考えは、我々がこの実在の真景を離れて反省し思惟することによって起こってくるので、この時我々はすでに真実在を離れているのだ。
 【普通には主観客観を別々に独立した実在であるかのように思い、この二者の作用によって意識現象を生じるように考えている。したがって精神と物体という両実在があると考えているが、これはすべて誤りである。主観客観とは一つの事実を考察する見方の相違だ。精神物体の区別もこのような見方から生じるのであって、事実そのものの区別ではない。事実上の花は決して理学者の言うような純物体的な花ではない。色や形や香りを具えた美にして愛すべき花である。ハイネが静夜の星を仰いで蒼空における金の鋲と言ったが、天文学者はこれを詩人の言葉として一笑に付すのだろうが、星の真相はかえってこの一句の中に現れているかもしれない】
 このような主客の未だ分かれていない独立自在の真実在は知情意を一つにしたものだ。真実在は普通に考えれているような冷静な知識の対象ではない。我々の情意から成り立ったものだ。すなわち単に存在ではなくて、意味を持ったものだ。それでもしこの現実界から我々の情意を除き去ったならば、もはや(意識現象は)具体的な事実ではなく、単なる抽象的概念となる。物理学者の言うような、幅なき線、厚さなき平面と同じく、実際に存在するものではない。この点から見て、学者よりも芸術家の方が実在の真相に達している(情意を含んだ具体的事実に達している)。同一の意識といっても決して真に同一ではない。例えば同一ものを見るにしても、農夫、動物学者、美術家によって各々その心象(イメージ)が異なっていなければならない。同一の景色でも自分の心持ちによって鮮明に美しく見えることもあれば、陰鬱にして悲しく見えることもある。仏教などで自分の心持ち次第にてこの世界が天堂ともなり地獄ともなるというように、つまり我々の世界は我々の情意を基として組み立てられたものだ。純知識の対象である客観的世界であっても、この関係を免れることはできない。
 【哲学的に見た世界が最も客観的であって、この中には少しも我々の情意の要素を含んでいないように(普通には)考えられている。しかし学問といってももとは我々生存競争上の実地の要求から起こったものだ。決して完全に情意の要求を離れた見方ではない。特にエルザレムなどの言うように、科学的見方の根本義である、外界の種々の作用をなす力があるという考えは、自分の意志から類推したものであるとみなさなければならない。それゆえに太古の万象を説明するのはすべて擬人的(今でいう作用をなす力)であった。今日の科学的説明はこれから発達したものだ】
 我々は主観客観の区別を根本的であると考えるところから、知識の中にのみ客観的要素を含み、情意は完全に我々の個人的、主観的出来事であると考えている。この考えはすでに根本の過程において誤っている。しかし仮に主客相互の作用によって現象が生じるものと(仮定)しても、色形などというような(客観的とされる)知識の内容も、主観的と見れば主観的だ。個人的と見れば個人的だ。これに反し情意という事も、外界にこのような情意を起こす性質があるとすれば客観的根拠をもってくる。情意が完全に個人的であるというのは誤りだ。我々の情意は互いに相通じ相感じることが出来る。すなわち超個人的要素を含んでいるのである。
 【我々が、個人とかいうものがあって喜怒哀楽の情意を起こすと思うがゆえに、情意が超個人的であるという考えも起こる。しかし人が情意(経験)を有するのではなく、情意(経験)が個人を作るのだ。情意は直接経験の事実だ】
 万象の擬人的説明ということは太古の人間の説明法であって、また今日でも純白無邪気な小児の説明法だ。いわゆる科学者はすべてこれを一笑に付し去るだろう。もちろんこの説明法は幼稚ではあるが、一方より見れば実在の真実なる説明法だ。科学者の説明法は知識の一つにのみ偏したものだ。実在の完全な説明においては、知識的欲求を満足すると共に、情意の要求を度外視してはならない。
 【ギリシャ人には自然は皆生きた自然であった。雷電はオリムプス山上におけるツォイス神の怒りであり、杜?の声はフィロメーレの千古の怨恨であった。自然なるギリシャ人の眼には現在の真意がそのままに現じたのである。今日の美術、宗教、哲学、皆この真意を表そうと努めているのだ】

第四章 真実在は常に同一の形式を持っている

 上に言ったように主客を没した(主客が合一した)知情意合一の意識状態が真実在だ。我々が独立自全の真実在を想起すれば、自らこの形(主客が合一した形)において現れてくる。このような実在の真景はただ我々がこれを自得すべきものであって、これを反省し分析し言語に表わせるべきものではないだろう。しかし我々の様々な差別的(反省的)知識とはこの真実在を反省することによって起こるのだから、今この唯一実在の成立する形式を考え、どのようにしてこれから様々な差別を生じるかを明らかにしようと思う。
 【「真正の実在」は「芸術の真意」の様に互いに相伝えることのできないものだ。伝えられるものはただ抽象的な空殻(からになっていて、中に何もないこと)だ。我々は同一の言語によって同一のことを理解していると思っているが、その内容は必ず多少異なっている】
 独立自全な真実在の成立する方式(形式)を考えてみると、皆同一の形式によって成立するのだ。すなわち次のような形式によるのだ。まず全体(統一的或者)が含蓄的に現れる。それからその内容が分化発展する。そしてこの分化発展が終わった時、実在の全体が実現され完成されるのだ。一言で言えば、一つの者(統一的或者)が自分自身にて発展完成するのだ。この方式は、我々の活動的意識作用において最も明らかに見ることが出来る。意志についてみると、まず目的観念というものがあって、これから事情に応じて目的を実現するのに適当な観念が体系的に組織され、この組織が完成された時行為となり、ここに目的が実現され、意志の作用が終結するのだ。意志作用のみでなく、いわゆる知識作用である思惟想像等についてみてもこの通りだ。やはりまず目的観念があってこれから種々の観念連合を生じ、正当な観念結合を得た時、この作用が完成されるのである。
 【ジェームスが「意識の流れ」において言ったように、全て意識は右のような形式をなしている。例えば一文章を意識の上に想起するとせよ。その主語が意識上に表れた時すでに全文章を暗に含んでいる。客語が現れてくるときその内容が発展実現されるのだ】
 意志、思惟、想像等の発達した意識現象については右の形式であることは明らかだが、知覚、衝動等においては一見、直ちにその全体を実現して、右の仮定を踏まないようにも見える。しかし前に言ったように、意識はいかなる場合でも決して単純で受動的ではない。能動的で複合したものだ。そしてその成立は必ず右の形式(意志の形式)によるのだ。主意説の言うように、意志がすべての意識の原形であるから、すべての意識はいかに簡単であっても、意志と同一の形式によって成立するものと言わなければならない。
 【衝動及び知覚などと意志及び思惟などとの別は程度の差であって、種類の差ではない。前者(衝動、知覚など)においては無意識である過程が、後者(意志、思惟など)においては意識(的)に自らを表し来るのであるから、我々は後者から推測して、前者も同一の構造でなければならないことを知るのだ。我々の知覚というのもその発達から考えてみえると、様々な経験の結果として生じたものだ。例えば音楽などを聴いても、始めの方は何の感をも与えないのが、段々耳に慣れてくればその中に明瞭な知覚を得るようになるのだ。知覚は(形式的に)一種の思惟といっても差し支えない】
 次に受動的意識(知覚など)と能動的意識(思惟など)の区別から起こる誤解についても一言しておかなければならない。能動的意識においては右の形式が明らかだが、受動的意識では観念を結合するものは外にあり、観念は外界の事情によって結合されるので、ある完全な者(統一的或者)が内から発展完成する形式(意志の形式)ではないように見える。しかし我々の意識は受動と能動とにはっきりと分けることはできない。これも結局は程度の差だ。連想又は記憶のような意識作用も、連想の法則というような外界の事情によって支配されるものではない。各人の内面的性質がその主導力だ。やはり内から統一的或者が発展すると見ることが出来る。ただいわゆる能動的意識では、この統一的或者が観念として明らかに意識の上に浮かんでいるが、受動的意識ではこのもの(統一的或者)が無意識かまたは一種の感情となって働いているのである。
 【能動受動の区別、すなわち精神が内から働くとか外から働きを受けるとかいうことは、思惟によって精神と物体の独立的存在を仮定し、意識現象は精神(内)と外物(外)の相互の作用から起こるものとなすことからくるので、「純粋経験の事実」上における区別ではない。純粋経験の事実上では、単に程度の差(強弱)である】
我々が明瞭な目的観念を持っているときは能動と思われるのだ。
 【経験学派が主張するところによると、我々の意識はすべて外物の作用によって発達するのであるという。しかしいかに外物が働くにしても、内にこれに応じる潜在的性質がなければ意識現象を生じることはできまい。いかに外から培養するも、種子に発生の力が無かったならば植物が発生しないのと同様だ。反対に種子のみあっても植物は発生しないと言うこともできる。要するにこの両方とも、一方を見て他方を忘れたものだ。真実在の活動では唯一の者(統一的或者)の自発自展だ。内外能受の別はこれ(統一的或者の分化発展)を説明するために思惟によって構成したものだ】
 すべての意識現象を同一の形式(統一的或者の自発自展という形式、意志の形式)によって成立すると考えるのはさほど難しいものでもないと信じるが、さらに一歩を進んで、我々が通常外界の現象と言っている自然界の出来事も、同一の形式の下に入れようとするのはとても難しいと思われるかもしれない。しかし前に言ったように、意識を離れた純粋物体界(外界)というようなものは抽象的概念だ。真実在は意識現象の他にない。直接経験の真実在はいつも同一の形式(意志の形式)によって成立するという事ができる。
 【普通には固定した物体というものが事実として存在するように思われている。しかし実地における事実はいつでも出来事だ。ギリシャの哲学者ヘラクレイトスが万物は流転し何物も止まることなしといったように、実在は流転して止まることない出来事の連続である。
 我々が言う外界における客観籍世界というのも、個人の意識現象であり、やはりある一種の統一作用によって統一されたものだ。ただこの現象が普遍的である時、すなわち「個人の小さな意識」以上の統一を保つとき、我々から独立した客観的世界と見るのだ。例えばここに一つのランプが見える。これが自分のみに見えるならば、主観的幻覚とでも思うだろう。ただ各人が同じようにランプを認めることによって、客観的事実となる。客観的独立の世界というのは、この「普遍」的性質から起こるのだ】

第五章 真実在の根本的法式
 我々の経験する事実は種々あるようだが、少し考えてみると皆同一の実在であり、同一の方式によって成り立っているのである。今このような、すべての実在の根本的方式(意志の形式)について話してみよう。
 まずすべての実在の背後には統一的或者が働いていることを認めなければならない。ある学者は真に単純であって独立した要素、例えば原子論者の原子のようなものが根本的実在であると考えている。しかしこのような要素は説明のために設けられた抽象的概念であり、事実上に存在することはできない。試しに考えると、今ここに何か一つの原子があるならば、それは必ず何らかの性質または作用を持ったものでなければならない。完全に性質または作用がないものは無と同一だ。一つの物が働くというのは、必ず他の物に対して働くのだ。そしてこれには必ず二つのものを結合して互いに相働くことを可能にさせる第三者がなくてはならない。例えば甲の物体の運動が乙に伝わるというには、この両物体の間に力というものがなければならない。また性質という事も一つの性質が成立するには必ず他に対して成立するのだ。例えば色が赤のみであったならば赤という色は表れようがない。赤が現れるには赤でない色がなければならない。そして一つの性質が他の性質と比較し区別されるには、両性質はその根底において同一でなくてはならない(例えば、白と黒はその根底において、色だ)。完全に類を異にし、その間に何らの共通点を持たないものは比較し区別することはできない。このようにすべてのものは対立によって成立するというならば、その根底には必ず統一的或者が潜んでいるのだ。
 【我々はこの統一的或者を、物体現象では外界に存在する物力となし、精神現象では意識の統一力となすのであるが、前に言ったように、物体現象といい精神現象というも、純粋経験の上においては同一であるから、この二種の統一作用は元々、同一種に属すべきものだ(同じだ)。我々の思惟、意志の根底における統一力と宇宙現象(物理現象)の根底における統一力は直ちに同一だ。例えば我々の論理、数学の法則は、直ちに宇宙現象がこれによって成立しうる原則だ】
 実在の成立には、右に言ったようにその根底において統一というものが必要であると共に、相互の反対、むしろ矛盾ということが必要だ。ヘラクレイトスが争いは万物の父といったように、実在は矛盾によって成立するのだ。赤い物は赤くない色に対し、働くものは働かれるものに対して成立するのだ。この矛盾が消滅すると共に万物も消え失せてしまう。元々この矛盾と統一は同一の事柄を両方面から見たものに過ぎない。統一があるから矛盾があり、矛盾があるから統一がある。例えば白と黒のようにすべての点において共通であって、ただ一点において異なっているものが互いに最も反対となる。これに反し、徳と三角というように明瞭な反対がないものは、また明瞭な統一もない。最も有力な実在は様々な矛盾を最もよく調和統一したものだ。
 【統一するものと統一されるものを別々に考えるのは、抽象的思惟によるので、具体的実在においてはこの二つのものを離すことはできない。一本の樹とは枝葉根幹という種々異なった作用をなす部分を統一した上に存在するが、樹は単に枝葉根幹の集合ではない。樹全体の統一力がなかったならば枝葉根幹も無意義だ。樹はその部分の対立と統一の上に存在するのだ】
 統一力と統一されるものと分離した時には実在とはならない。例えば人が石を積み重ねた場合のように、石(統一されるもの)と人(統一力)は別物だ。このようなときには石の積み重ねは人工的で、独立の一実在とはならない。実在の根本的方式(統一的或者の方式)は一であると共に多、多であると共に一、平等の中に差別を具し、差別の中に平等を具するのだ。そしてこの二方面は離すことのできないものであるから、一つのもの(統一的或者)の自家発展(自発自展)ということができる。独立自全の真実在はいつでもこの方式(意志の形式)を具えている。そうでないものは皆我々の抽象的概念である。
 【実在は自分にて一つの体系をなしたものだ。我々を「確実な実在」と信じさせるものはこの性質(一つの体系をなすという性質)によるのだ。これに反し体系を成さない事柄は、例えば夢の様に実在とは信じないのだ】
 右の様に真に一にして多である実在は自動不息(自ら止まらず発展するもの)でなければならない。静止の状態とは他と対立しない独立の状態であり、すなわち多を排斥した一つの状態だ。しかしこの状態において実在は成立することはできない。もしこの状態(静止)によってある一つの統一が成立したとすれば、直ちにここに他の反対の状態が成立していなければならない。一つの統一が成立すれば直ちにこれを破る不統一(反対の状態)が成立する。真実在はこのような無限の対立により成立するのだ。物理学者は勢力保存などといって実在に極限があるかのように言っているが、これは説明の便宜上設けられた仮定であって、このような考えはあたかも空間に極限があるというのと同じく、ただ抽象的に一方のみを見て他方を忘れているのである。
 【活きたものは皆無限の対立を含んでいる。すなわち、無限の変化を生じる能力を持ったものだ。精神を活物というのは、始終無限の対立を存し、停止するところがないからだ。もしこれが一状態に固定されて、他の対立に移ることが出来ない時は、死物だ】
 実在はこれに対立するものによって成立するというが、この対立は他から出てくるのではなく、自らの中から生じるのだ。前に言ったように対立の根底には統一があって、無限の対立は皆自らの内面的性質から必然の結果として発展し来るので、真実在は一つのもの(統一的或者)の内面的必然から起こる自由の発展だ。例えば空間の限定によって様々な幾何学的形状ができ、これらの形は互いに相対立して特殊な性質を持っている。しかし皆別々に対立するのではなくて、空間という一者(統一的或者の一種)の必然的性質によって結合されている。すなわち(幾何学的形状は)空間的性質(という統一的或者)の無限の発展であるように、我々が自然現象といっているものについて見ても、実際の自然現象は前にも言ったように個々独立した要素から成り立つのではなく、また我々の意識現象を離れて存在するのではない。やはり一つの統一的作用によって成立するので、一自然の発展と見なすべきものだ。
 【ヘーゲルは、何でも理性的なものは実在であって、実在は必ず理性的なものであるといった。この発言は様々な反対を受けたにもかかわらず、見方によっては動かすべからざる真理だ。宇宙の現象(物理現象)はいかに些細なものであっても、決して偶然に起こり前後に全く何らの関係を持たぬものはない。必ず起こるべき理由を具して起こるのだ。我々はこれを偶然と見るのは、単に知識の不足からくるのだ】
 普通には何か「活動の主」があって、これから活動が起こるものと考えられている。しかし直接経験から見れば活動そのものが実在だ。この「活動の主」というものは抽象的概念だ。我々は統一とその内容の対立を、互いに独立の実在であるかのように思うから、このような考えを生じるのだ。

第六章 唯一実在
 実在は前に言ったように意識活動だ。そして意識活動とは普通の解釈によればその時々に現れまたたちまち消え去るもので、同一の活動が永久に連結することはできない。そうしてみると、小は我々の一生の経験、大は今日にいたるまでの宇宙の発展、これらの事実は結局のところ虚幻夢のような、支離滅裂なものであって、その間に一切の統一的基礎はないのであろうか。このような疑問に対しては、実在は相互の関係において成立するもので、宇宙は唯一実在の唯一活動であることを述べておこうと思う。
 意識活動はある範囲内では統一によって成立することは説明したと思うが、ある範囲以外ではこのような統一のあることを信じない人が多い。例えば昨日の意識と今日の意識は完全に独立であって、もはや一つの意識とはみなされないと考えている人がいる。しかし直接経験の立脚地から考えてみると、このような区別は単に相対的区別であって、絶対的区別ではない。だれもが統一された一つの意識現象と考えている思惟、または意志等について見ても、その過程は各々相異なっている観念の連続に過ぎない。精細にこれを区別してみれば、これらの観念は別々の意識であるとも考えることが出来る。だが、この連続する観念を個々独立した実在ではなく、一つの意識活動として見ることが出来るならば、昨日の意識と今日の意識を一つの意識活動として見ることができなくはない。我々が幾日にもわたってある一つの問題を考え、または一つの事業を計画するという場合には、明らかに同一の意識が連続的に働くと見ることが出来る。ただ時間の長短において異なるだけだ。
 【意識の結合には知覚のような同時の結合、連想思惟のような断続的結合、および自覚のような一生にわたる結合も皆程度の差であって、同一の性質から成り立つものだ】
 意識現象は時々刻々に移りゆくもので、同一の意識が再び起こることはない。昨日の意識と今日の意識は、その内容において同一にせよ、完全に異なった意識であるという考えは、直接経験の立脚地から見たものではなくて、かえって時間というものを仮定し、意識現象はその上に顕れるものとして推論した結果だ。意識現象が「時間という(統一の)形式」によって成立するものとすれば、時間の性質上、ひとたび過ぎ去った意識現象は再び還ることはできない。時間はただ一つの方向を有するだけだ。たとえ完全に同一の内容を有する意識であっても、時間の形式上すでに同一とは言われないことになる。しかし今直接経験の本に立ち返ってみると、これらの関係は完全に反対にならなければならない。時間というのは我々の経験の内容を整頓する“形式”に過ぎないので、"時間という考え"が起こるには、まず意識内容が(統一作用により)結合され統一されて、一つとなることができなければならない。そうでなければ(意識内容が統一されてなければ)、前後を連合配列して時間的に考えることはできない。ならば意識の統一作用は時間の支配を受けるのではなく、かえって時間(という形式)はこの“統一作用”によって成立するのだ。意識の根底には時間を超越する不変的或者(統一的或者)があると言わなければならない。
 【直接経験から見れば同一内容の意識は直ちに同一の意識だ。真理はだれがどの時代に考えても同一であるように、我々の昨日の意識と今日の意識とは同一の体系に属し同一の内容を有するために、直ちに結合されて一意識となるのである。個人の一生というのはこのような一体系を成す意識(統一的或者)の発展だ。
 この点から見れば精神の根底には常に不変的或者(統一的或者)がある。このものが日々その発展を大きくするのである。時間の経過とはこの発展に伴う統一的中心点が変じてゆくのだ。この中心点がいつでも「今」である】
 右に言ったように意識の根底に不変の統一力が働いているとすれば、この統一力というものはどのような形において存在するか、いかにして自分を維持するのかという疑いが起こるだろう。心理学ではこのような統一作用の本を脳という物質に帰している。しかしかつて言ったように、意識外に独立の物体(この場合、脳)を仮定するのは、意識現象の不変的結合から“推測した”結果で、これ(意識外の独立した物体)よりも“意識内容の直接の結合という統一作用”が根本的事実である。この統一力はある他の実在から出てくるのではなく、実在はかえってこの作用によって成立するのだ。人は皆宇宙に一定不変の理というものがあって、万物はこれによって成立すると信じている。この理(統一的或者)とは万物の統一力であって、かつ意識内面の統一力だ。理は物や心によって所持されるのではなく、理が物心を成立させるのだ。理は独立自存であって、時間、空間、人(という形式)によって異なることなく、顕滅用不用(現れているか、作用しているか否か)によって変わることのないものだ。
 【普通に理といえば、我々の主観的意識上の観念連合を支配する作用と考えられている。しかしこのような作用は理の活動の足跡であって、理そのものではない。理そのもの(統一的或者)は創作的であって、我々はこれ(理)になりきりこれに即して働くことができるが、これを意識の対象として見ることはできないものだ。
 普通の意義において物が存在するという事は、ある場所ある時において存在するのだ。しかしここに言う理の存在というのはそれとは違う。このように一か所に束縛されるものならば統一の働きをなすことはできない。このようなものは活きた真の理ではない】
 個人の意識が右に言ったように昨日の意識と直ちに統一されて一実在をなすように、我々の一生の意識も同様に一つ(の実在)と見なすことが出来る。この考えを推し進めていけば、(意識は)一個人の範囲内ばかりでなく、他人の意識もまた同じ理由によって連結し、一つと見なすことができる。理は誰が考えても同一であるように、我々の意識の根底には普遍的なるものがある。我々はこれによって互いに相理解し相交通することができる。いわゆる普遍的理性(統一的或者)が一般人心の根底に通じるばかりでなく、ある一社会に生まれた人はいかに独創性に富むにせよ、皆その特殊な社会精神の支配を受けない者はいない。各個人の精神は皆この社会精神の一細胞に過ぎない。
 【前にも言ったように、個人と個人の意識の連結と、一個人において昨日の意識と今日の意識の連結は同一だ。前者は外から間接に結合され、後者は内から直ちに結合するように見えるが、もし外から結合されるように考えると、後者もある一種の内面的感覚の符号によって結合されるので、個人間の意識が言語等の符号によって結合されるのと(前者の見方と)同一だ。もし内から結合されると考えれば、前者においても個人間に元々同一の根底があればこそ、直ちに結合されるのだ】
 我々のいわゆる客観的世界と名付けているものも、幾度か言ったように、我々の主観を離れて成立するものではない。「客観的世界の統一力と主観的意識の統一力は同一」だ。すなわちいわゆる「客観的世界」も「意識」も同一の理(統一的或者)によって成立するのだ。これゆえに人は自己の中にある理によって宇宙成立の原理を理解することができるのだ。もし我々の意識の統一と異なった世界があるとしても、このような世界は我々と完全に没交渉の世界だ。仮にも我々の知り得る、理解し得る世界は、我々の意識と同一の統一力(普遍的理性=統一的或者)の下に立たなければならない。

第七章 実在の分化発展
 意識を離れて世界ありという考えから見れば、万物は独立に存在するものという事が出来るかもしれないが、"意識現象が唯一の実在である"という考えから見れば、宇宙万象の根底には唯一の統一力(理=統一的或者)があり、万物は同一の実在(統一的或者)の発現したものといわなければならない。我々の知識が進歩するに従ってますます、この同一の理(統一的或者)があることを確信するようになる。今この唯一の実在(意識現象)からどのようにして様々な差別的(反省的)対立を生じるかを述べてみよう。
 実在は一つに統一されていると共に、対立を含んでいなければならない。ここに一つの実在があれば、必ずこれに対する他の実在がある。そしてこのように二つのものが互いに相対立するには、この二つのものが独立の実在ではなくて、統一されたものでなければならない。すなわち一つの実在(統一的或者)の分化発展でなければならない。そしてこの両者が統一されて一つの実在として現れた時(たとえば、黒と白の根底には、色という実在がある)、(前と同じように)更に一つの対立が生じなければならない。この時この両者の背後に、また一つの統一が働いていなければならない。このようにして無限の統一に進むのだ。これを逆から考えてみれば、無限である唯一実在(統一的或者)が小から大に、浅から深に、自己を分化発展すると考えることが出来る。このような過程が実在発現の方式(形式=意志の形式)であって、宇宙現象(物理現象)はこれによって成立し進行するのだ。
 【このような実在発展の過程は我々の意識現象において、明らかに見ることが出来る。例えば意志についてみると、意志とはある理想を現実にしようとするもので、現在(客)と理想(主)との対立だ。しかしこの意志が実行され理想と一致した時、この現在は更に他の理想と対立して新たな意志が出てくる。このようにして我々の生きている間は、どこまでも自己を発展し実現してゆくのだ。次に生物の生活および発達について見ても、このような実在の方式(意志の形式)を認めることが出来る。生物の生活は実にこのような不息の活動だ。ただ無生物の存在はちょっとこの方式に当てはめて考えることが困難であるように見えるが、このことについては後に自然を論ずるときに話すことにしよう】
 さて右に述べたような実在の根本的方式から、どのようにして様々な実在の差別を生じるのか。まずいわゆる主観客観の区別は何から起こってくるか。主観と客観は相離れて存在するものではなく、一実在の両方面だ。すなわち我々の主観というものは統一的方面であって、客観というのは統一される方面だ。我とはいつでも実在の統一者であって、物とは統一されるものである(ここに客観というのは我々の意識から独立した実在という意味ではなく、単に意識対象という意味だ)。例えば我々が何かを知覚するとか、もしくは思惟するとかいう場合、自己とは様々なもの(意識対象)を比較し統一する作用であって、物とはこれ(自己)に対する対象、すなわち比較統一の材料だ。後の意識(客観の意識)から前の意識(主観の意識)を見た時、自己を対象(比較統一の材料)としてみることができるように思われるが、実際はこの自己(主観、対象化された自己)とは真の自己ではなく、真の自己は現在の観察者、すなわち統一者(統一的或者)だ。この場合は前の統一はひとたび完結し、次の統一の材料としてこの中に包含されたと考えなくてはならない。自己はこのように無限の統一者だ。(真の自己は)決して対象として比較統一の材料とすることが出来ないものだ。
 【心理学から見ても、我々の自己とは意識の統一者だ。そしていま意識が唯一の真実在であるという立脚地から見れば、この自己は実在(意識現象)の統一者でなければならない。心理学ではこの統一者である自己というものが、統一されるものから離れて別に存在するように言うけれども、このような自己は単なる抽象的概念にすぎない。事実においては、物を離れて自己があるのではなく、我々の自己は直ちに宇宙実在の統一力(=統一的或者)そのものだ。
 精神現象、物体現象の区別というのも、決して二種の実在があるのではない。精神現象と言うのは統一的方向すなわち主観の方から見たもので、物体現象とは統一されるものすなわち客観の方から見たものだ。ただ同一実在を相反する両方面から見たものにすぎない。統一の方(統一する方=主観)から見ればすべてが主観に属して精神現象となり、統一を除いて考えればすべてが客観的物体現象となる。【唯心論、唯物論の対立はこのような両方面の一つを固執することから起こるのだ】】
 次に能動受動の差別は何から起こってくるか。能動受動ということも実在に二種の区別があるのではなく、やはり同一実在の両方面だ。統一者がいつでも能動であり、被統一者がいつでも受動だ。例えば意識現象について見ると、我々の意志が働いたというのは、意志の統一的観念、すなわち目的が実現されたという意味で、すなわち統一が成立したということだ。全て精神が働いたという事は統一の目的を達したという事で(能動)、これができなくなって他から統一された時には受動というのだ。物体現象においても甲が乙に対して働くという事は、甲の性質の中に乙の性質を包含し、統括できた場合をいうのだ。このような統一がすなわち能動の真意義であり、我々が統一の位置にあるときは能動的で、自由だ。これに反して他から統一された時は受動的で、必然的に法の下に支配されたこととなる。
 【普通では時間上の連続において先立つものが能動的と考えられているが、時間上に先立つものが必ずしも能動者ではない。能動者は力を持ったものでなければならない。力というのは実在の統一作用を言うのだ。例えば物体の運動は運動力から起こるという。この(運動)力というのはある現象間の不変的関係をさす。つまり、この現象を連結総合する統一者をさす。厳密な意義においてはただ精神(意識現象という実在)のみ能動だ】
 次に無意識と意識との区別について一言しておこう。主観的統一作用は常に無意識であり、統一の対象となるものが意識内容として現れるのだ。思惟について見ても、また意志について見ても、真の統一作用(統一的或者の分化発展の作用)そのものはいつも無意識だ。ただこの作用を反省した時、この統一作用は一つの概念として意識上に現れる。しかしこの時は(その統一作用は)すでに統一作用ではなくて、統一の対象となっている。前に言ったように、統一作用はいつでも主観であるから、(統一作用は)いつでも無意識でなければならない(対象化できない)。ハルトマンも無意識が活動であると言っているように、我々が主観の位置に立ち活動の状態にあるときはいつも無意識だ。これに反し、ある意識を客観的対象として意識した時は、その意識はすでに活動を失ったものだ。例えばある芸術の修練についても、一々の動作を意識している間(未熟で動作に意識的な間)は未だ真に生きた芸術ではない。(熟練し)無意識の状態に至って初めて生きた芸術となるのだ。
 【心理学から見て精神現象はすべて意識現象であるから、無意識な精神現象は存在しないという非難がある。しかし我々の精神現象は単に観念の連続ではない。必ず観念を連結統一する無意識の活動(統一的或者の体系的な分化発展)があって、初めて精神現象が成立するのだ】
 最後に現象と本体との関係について見ても、やはり実在の両方面の関係として説明することが出来る。我々が物の本体(物自体)といっているのは実在の統一力(統一的或者)のことで、現象とはその分化発展する対立の状態をいうのだ。例えばここに机の本体が存在するというのは、我々の意識がいつでもある一定の結合によって現れるということで、ここで言う不変の本体というのはこの統一力をさすのだ。
 【このように言えば真正の主観(統一力=統一的或者)が実在(意識現象)の本体であると言わなければならない。だが我々は通常、物体は客観にあると考えている。しかしこれは真正の主観(対象化する主観)を考えないで、抽象的主観(対象化された主観)を考えることによる。このような(対象化された)主観は無力な(抽象的)概念であり、これに対しては(抽象的概念に対しては)物の本体はかえって客観に属すると言った方が至当だ。しかし真正に言えば主観を離れた客観はまた抽象的概念であり、無力だ。真に活動する物の本体というのは、実在(意識現象)成立の根本的作用である統一力(統一的或者)であり、(それが)すなわち真正の主観でなければならない』

第八章 自然
 実在はただ一つあるのみであり、その見方が異なることによってさまざまな形を呈するのだ。自然と言うと完全に我々の主観から独立した客観的実在であると考えられている。しかし厳密に言えば、このような自然は抽象的概念であり、決して真の実在ではない。自然の本体はやはり、未だ主客の分かれていない直接経験の事実だ。例えば我々が真に草木として考える物は、生き生きした色と形を具えた草木であり、我々の直覚的事実だ。ただ我々がこの具体的実在から、主観的活動の方面(統一作用)を除去して考えた時、純客観的自然であるかのように考えられるのである。そして科学者のいわゆる最も厳密な意味における自然とは、この考え方を極端に推し進めたものであり、最も抽象的なもの、すなわち最も実在の真景から遠ざかったものだ。
 【自然とは、具体的実在から主観的方面、すなわち統一作用を除き去ったものだ。だから自然には自己がない。自然はただ必然の法則に従って外から動かされるのだ。自己から自動的に動くことが出来ないのだ。自然現象の連結統一は精神現象の様に内面的統一ではなく、単なる時間空間上における偶然的連結だ。いわゆる帰納法(観察された事実やデータ等の具体的な事実から、一般的な法則を導き出す方法)によって得た自然法というものは、ある二つの現象が不変的連続において起こるから、一つは他の原因であると仮定したまでである。いかに自然科学が進歩しても、我々はこれ以上の説明を得ることはできない。ただこの説明が精細に、かつ一般的となるまでだ】
 現今科学の趨勢は出来るだけ客観的となることを努めている。それで心理現象は生理的に、生理現象は化学的に、化学現象は物理的に、物理現象は機械的に説明されねばならないことになる。このような説明の基礎となる純機械的説明とはどのようなものか。純物質(物の本体、物自体)とは完全に我々の経験のできない実在だ。仮にもこれ(純物質)について何らかの経験が出来るならば、意識現象として我々の意識の上に現れ来るものでなくてはならない。だが意識の事実して現れるものはことごとく主観的であり、純客観的な物質ということはできない。純物質というのは一切捕捉できる積極的性質もない、単なる空間時間運動というような純数量的性質のみを有するもので、数学上の概念の様に完全に抽象的概念にすぎないのだ。
 【物質は空間を満たすものとして直覚できるかのように考えられているが、我々が具体的に考えることができる物の延長(空間)というものは、触覚及び視覚の意識現象に過ぎない。我々の感覚によって大きく見えても、必ずしも(その)物質が大きいと言う事はできない。物理学上、物質の多少はつまりその力の大小によって定まる。すなわちそれらの(力の)作用的関係から推理するのだ。決して直覚的事実ではない】
 また右の様に自然を「純物質的」に考えれば動物、植物、生物の区別もなく、すべて同一な機械力の作用というほかなく、自然現象は全く特殊な性質及び意義を持たないものとなる。人間も土塊も異なることはない。だが我々が実際に経験する真の自然は決して右に言ったような抽象的概念ではなく、従って単なる同一な機械力の作用でもない。動物は動物、植物は植物、金石は金石、それぞれ特色と意義を具えた具体的事実だ。我々のいわゆる山川草木虫魚禽獣というものは、みなそれぞれの個性を具えたもので、これを説明するのは様々な立脚地から様々に説明することもできるが、この“直接に与えられた直覚的事実の自然”は到底動かすことができないものだ。
 【我々が普通に純機械的自然(抽象的概念)を真の客観的実在となし、直接経験における具体的自然を主観的現象となすのは、すべての意識現象は自己の主観的現象であるという仮定から推理した考えだ。しかし何度も言ったように、我々は完全に意識現象から離れた実在を考えることはできない。もし意識現象に関係あるから主観的であるというのなら、純機械的自然も主観的だ。空間、時間、運動というようなものも、我々の意識現象を離れて考えることはできない。ただ比較的客観的であり、絶対的に客観的であるのではない】
 真の具体的実在としての自然は、統一作用なく成立するものではない。自然もやはり一種の自己(統一的或者)を具えている。一本の植物、一匹の動物も、その発現する種々の形態変化及び運動は単なる無意義な物質の結合及び機械的運動ではなく、一々(部分が)その全体と離すことのできない関係を持っているので、一つの統一的自己(統一的或者)の発現とみなすべきものだ。例えば動物の手足鼻口等、全て一々動物生存の目的と密接な関係があり、これ(生存目的)を離れてその意義を解することはできない。少なくとも動植物の現象を説明するには、このような自然の統一力を仮定しなければならない。生物学者は生活本能から生物の現象を説明するのだ。生物にのみこのような統一作用があるのではなく、無機物の結晶においても多少この作用が現れている。すなわちすべての鉱物は皆特有な結晶の形を具えている。自然の自己(統一的或者)、すなわち統一作用は、このような無機物の結晶から動植物の有機体に至って、ますます明らかにるのだ【真の自己は精神に至って初めて現れる】。
 【現今科学の厳密な機械的説明の立脚地から見れば、有機体の合目的発達も最終的に物理及び科学の法則から説明されなければならない。すなわち単なる偶然の結果にすぎないこととなる。しかしこのような考えはあまりにも(直覚的)事実を無視することになるから、科学者は潜勢力という仮定からこれ(合目的発達)を説明しようとする。すなわち生物の卵または種には、それぞれの生物を発生する潜勢力を持っているという。この潜勢力がすなわち、いわゆる統一力(統一的或者)に相当するのだ。
 自然の説明の際、機械力の他に統一力の作用を許すとしても、この二つの説明が衝突する必要はない。かえって両者相持って、完全な自然の説明が出来るのだ。例えばここに一つの銅像があるとせよ。その材料である銅は物理化学の法則に従うだろうが、この銅像は単純に銅の一塊と見るべきものではなく、我々の理想(統一力)を現した美術品だ。すなわち我々の理想の統一力によって現れたものだ。しかしこの理想の統一作用と、材料そのものを支配する物理化学の法則は、自ら別範囲に属し、決して相犯すものではない】
 右に言ったような統一的自己(統一的或者)があってそして後、自然に目的あり、意義あり、はじめて生きた自然となるのだ。このような自然の生命である統一力(統一的或者)は単純に我々の思惟によって作為した抽象的概念ではなく、我々の直覚の上に現れ来る事実だ。我々は愛する花を見、また親しき動物を見て、直ちに全体において統一的或者を捕捉するのだ(捕まえるのだ)。彼らが表すものは表面の事実ではなく、物の根底に深く潜む不変の本体だ。
 【ゲーテは生物の研究に専心し、今日の進化論の先駆者であった。氏の説によると自然現象の背後には本源的現象というものがある。詩人はこれ(本源的現象)を直覚するのだ。様々な動植物はこの本源的現象である本源的動物、本源的植物が変化したものであるという。現に、今日の動植物の中に一定不変の典型がある。氏はこの説に基づいて、すべて生物は進化し来ったものであることを論じたのだ】
 ならば自然の背後に潜む統一的自己(統一的或者)とはどのようなものか。我々は自然現象を我々の主観と関係ない純客観的現象であると考えているがゆえに、この自然の統一力も我々の知ることが出来ない不可知的或者と考えている。しかしすでに論じたように、真実在は主観客観が分離しないものだ。実際の自然は単なる客観的なものというような抽象的概念ではなく、主客を具した(主客が合一した)意識の具体的事実だ。従って、その統一的自己は我々の意識と関係のない不可知的或者ではなく、"我々の意識の統一作用そのもの"だ。ゆえに、我々が自然の意義目的を理会するのは、自己の理想及び情意の主観的統一によるのだ。例えば我々が動物の様々な機関及び動作の基に横たわる根本的意義を理会することは、自分の情意で直ちにその根本的意義を直覚することであり、自分に情意がなかったならば到底動物の根本的意義を理会することはできない。我々の理想及び情意が深遠博大となるにしたがって、いよいよ自然の真意義を理会することができる。要するに、我々の主観的統一(統一的或者)と自然の客観的統一力(統一的或者)は同一だ。このことを客観的に見れば自然の統一力となり、主観的に見れば自己の知情意の統一となるのだ。
 【物力というようなものは完全に我々の主観的統一に関係が無いと信じられている。もちろんこれ(物力)は最も無意義な統一だろう。しかし物力も完全に主観的統一を離れたものではない。我々が物体の中に力があり、種々の作用を成すとみる(統一的或者の分化発展であるとみる)ということは、自己の意志作用(意志の形式)を客観的に見たということだ】
 普通には、我々が自己の理想または情意から自然の意義を推断するというのは単に類推であり、確固たる真理ではないと考えられている。しかしこれは主観客観を独立に考え、精神と自然を二種の実在となすことから起こるのだ。純粋経験の上から言えば、直ちにこの二種は同一と見るのが至当だ。

第九章 精神
 自然は一見我々の精神から独立した純客観的実在であるかのように見えるが、実際は主観を離れた実在ではない。いわゆる自然現象を、その主観的方向、すなわち統一作用の方から見れば、(自然現象は)すべて意識現象となる。例えばここに一個の石がある。この石を我々の主観から独立した、ある不可知的実在の力によって現れたものとすれば自然となる。しかしこの石というものを直接経験の事実として見れば、単に客観的に独立した実在ではなく、我々の視覚触覚等の結合であり、すなわち我々の意識統一によって成立する自己の意識現象となる。いわゆる自然現象を直接経験の本に立ち返って見てみると、すべて主観的統一によって成立する自己の意識現象となる。唯心論者が「世界は私の観念だ」というのはこの立脚地から見たものだ。
 【我々が同一の石を見ると言う時、各人が同一の観念を持っていると信じている。しかし実際は各人の性質、経験によって(その観念は)異なっているのだ。ゆえに具体的実在はすべて主観的個人的であって、客観的実在というものはなくなる。客観的実在というのは各人に共通な抽象的概念にすぎない】
 ならば我々が通常自然に対し、精神と言っているものは何なのか。すなわち主観的意識現象とはどのようなものか。いわゆる精神現象とは、実在の統一的方面、すなわち活動的方面(統一的或者の分化発展の方面)を抽象的に考えたものだ。前に言ったように、実在の真景においては主観、客観、精神、物体の区別はない。しかし実在の成立にはすべて、統一作用が必要だ。この統一作用というものははなから実在を離れて特別に存在するものではないが、我々がこの統一作用を抽象して(一般化、対象化して)、統一される客観に対立させて考えた時、いわゆる精神現象となるのだ。例えばここに一つの感覚がある。しかしこの一つの感覚は独立に存在するものではない。必ず他と対立の上において成立するのだ。すなわち他と比較し区別されて成立するのだ。この比較区別の作用、すなわち統一的作用(統一的或者の分化発展の作用)が我々のいわゆる精神というものだ。それでこの(統一的)作用が進むと共に、精神と物体との区別がますます著しくなってくる。子供の時には我々の精神は自然的だ。従って主観の作用が微弱だ。だが成長するにしたがって統一的作用が盛んになり、客観的自然から区別された自己の心というものを自覚するようになるのだ。
 【普通には我々の精神というものは、客観的自然と区別された独立の実在であると考えられている。しかし精神の主観的統一を離れた純客観的自然が抽象的概念であるように、客観的自然を離れた純主観的精神も抽象的概念だ。統一されるものがあって、統一する作用があるのだ。仮に外界における物の作用を感受する精神の本体があるとしても、働くものがあって、感じる心(精神の本体)があるのだ。働かない精神そのものは、働かないものそのもののように不可知的だ】
 ならばどのように実在の統一作用(統一的或者の分化発展の作用)が、その内容、すなわち統一されるものから区別されて、あたかも独立した実在であるかのように現れるだろうか。それは疑いもなく、実在における様々な統一の矛盾衝突から起こるのだ。実在には様々な体系(要素がそれぞれに他と関係し合ってまとまっている、そのまとまりのこと)がある。すなわち、様々な統一がある。この体系的統一が相衝突し、相矛盾した時、この統一が明らかに意識の上に現れてくるのだ。衝突矛盾のあるところに精神あり、精神のある処には衝突矛盾がある。例えば我々の意志活動について見ても、動機の衝突の無い時は無意識だ(理想と現実が一致しているときは無意識だ)。すなわちいわゆる客観的自然に近いのだ。しかし動機の衝突が激しくなるに従い、意志が明瞭に意識され、自己の心というものを自覚することが出来る(例えば、喉が渇いているという現実と、渇きを満たしたいという理想が衝突するとき、水を飲みたいという意志=自己の心が明瞭に意識される)。ならばどこからこの体系の矛盾衝突が起こるか。これは実在(統一的或者の分化発展)そのものの性質から起こるのだ。かつて言った様に、実在は一方において無限の衝突であると共に、一方においてまた無限の統一だ。衝突は統一に欠かせない半面だ。衝突によって我々はさらに一層大きな統一に進むのだ。実在の統一作用である我々の精神が自分を意識するのは、その統一が活動している時ではなく、この衝突の際においてだ。
 【我々がある一芸に熟した時、すなわち実在の統一を得た時はかえって無意識だ(技術が未熟なときほど意識的で、熟練した時ほど無意識的だ)。すなわち自らの統一を知らない。しかし更に深く進もうとするとき(この場合さらに深く技術を磨こうとしたとき)、すでに得たものと衝突を起こし(すでに得た技術とこれから得たい技術が衝突を起こし)、また意識的となる(得たい技術を意識的に練習する)。意識はいつもこのような衝突から生じるのだ。また精神のある処には必ず衝突がある。このことは、精神には理想を伴うことを考えてみるがよい。理想は現実との矛盾衝突を意味している【このように我々の精神は衝突によって現れるがゆえに、精神には必ず苦悶がある。厭世論者が世界は苦の世界であるというのは一面の真理を含んでいる】】
 我々の精神とは実在の統一作用(統一的或者の分化発展の作用)であるとすると、実在にはすべて統一がある。すなわち実在にはすべて精神があると言わなければならない。だが我々は無生物と生物を分かち、精神のあるものとないものを区別する。これは何によるものであるか。厳密に言えば、すべての実在には精神があると言ってよい。前に言ったように自然においても統一的自己(統一的或者)がある。この統一的自己が、すなわち我々の精神と同一である統一力(統一的或者)だ。例えばここに一本の樹という意識現象が現れたとすれば、普通にはこれを客観的実在として、自然力によって成立するものと考えるのだが、意識現象の一体系を成すものとして見れば、(一本の樹は)意識の統一作用(統一的或者の分化発展の作用=統一力)によって成立するのだ。しかしいわゆる無心物(樹、石など)においては、この統一的自己が未だ直接経験の事実として現実に現れていない。樹そのものは自己の統一作用を自覚していない。その統一的自己は他の意識の中にあって、樹そのものの中にはない。すなわち(樹は)単に外面から統一されたもので、未だ内面的に統一するものではない。ゆえに独立自全の実在とは言われない。動物ではこれに反し、内面的統一、すなわち自己というものが現実に現れている。動物の様々な現象(例えばその形態、動作)は皆この内面的統一(統一的或物)の発展と見ることができる。実在はすべて統一(統一的或者の体系的発展)によって成立するが、精神においてその統一が明瞭な事実として現れるのだ。実在は精神において初めて完全な実在となるのだ。すなわち独立自然の実在となるのだ。
 【いわゆる精神でないものにあっては、その統一は外から与えられたもので、自己の内面的統一ではない。それゆえに見る人によってその統一を変じることができる。例えば普通には樹という統一された一実在があると思っているが、科学者の眼から見れば一つの有機的化合物であって、元素の集合に過ぎない。別に樹という実在は無いとも言い得る。しかし動物の精神はそのように見ることはできない。動物の肉体は植物と同じく化合物と見ることもできるだろうが、精神そのものは見る人が随意に変更することはできない。これをどのように解釈するにしても、とにかく事実上動かすことのできない一つの統一を現している。
 今日の進化論において無機物、植物、動物、人間というように進化するというのは、実在(統一的或者)が段々とその隠れた本質を現実として表し来ったのだという事が出来る。精神の発展において、初めて実在成立の根本的性質が現れてくるのだ。ライプニッツの言ったように発展は内展だ(統一的或者の分化発展=内展だ)】
 精神の統一者である我々の自己というものは元々実在の統一作用だ。ある一派の心理学では、我々の自己は観念及び感情の結合に過ぎない、それらを除いて外に自己はないというが、これは単に分析の方面から見て、統一(分化発展)の方面を忘れているのだ。すべて物を分析して考えてみれば、(対象化された物には)統一作用を認めることはできない。しかしこれ故に統一作用を無視することはできない。物は統一によって成立するのだ。観念、感情も、これを具体的実在たらしめるのは統一的自己(統一的或物)の力によるのだ。この統一力、すなわち自己(統一的或者)は何処からくるかというと、自己は実在統一力の発現であり、すなわち永久不変の力だ。我々の自己が常に創造的で自由で無限の活動と感じられるのは、これ故だ。前に言ったように、我々が内に省みて何だか自己という一種の感情(精神)があるように感じるのは、真の自己ではない。このような自己は何の活動も出来ないのだ。ただ実在の統一が内に働くとき、我々は自己の理想の様に実在を支配し、自己が自由の活動を成しつつあると感じるのだ。そしてこの実在の統一作用は無限であるから、我々の自己は無限であって、宇宙を内包するかのように感じられるのだ。
 【私が出立した純粋経験の立場から見れば、ここに言うような実在の統一作用というものは単なる抽象的概念であって、直接経験の事実ではないように思われるかもしれない。しかし我々の直接経験の事実は観念や感情ではなく、(統一的或者の分化発展である)意志活動だ。この(意志による)統一作用は直接経験に欠くことのできない要素だ】
 これまでは精神を自然と対立させて考えてきたのだが、これから精神と自然との関係について少し考えてみよう。我々の精神は実在の統一作用として、自然に対して特別な実在であるかのように考えられているが、実際は統一されたもの(意識内容)を離れて統一作用があるのではなく、客観的自然(意識内容)を離れて主観的精神はないのだ。我々が物を知るという事は、自己が物と一致するという事に過ぎない。花を見た時はすなわち自己が花となっているのである。花を研究してその本性を明らかにするというのは、自己の主観的臆断すてて、花そのものの本性に一致するという意味だ。理を考えるという場合においても、理は決して我々の主観的空想ではない。理は万人に共通なるのみならず、客観的実在が成立する原理だ。動かすことのできない真理は、常に我々が主観的自己を没し、客観的となることにより得られるのだ。要するに我々の知識が深遠となるというのは、すなわち客観的自然に合一するという意味だ。知識のみならず、意志についてもその通りだ。純主観的では何事もなすことはできない。意志はただ客観的自然に従うことによってのみ実現できるのだ。水を動かすのは水の性に従うのだ。人を支配するのは人の性に従うのだ。自分を支配するのは自分の性に従うのだ。我々の意志が客観的となるだけ、それだけ有力となるのだ。釈迦、キリストが千年の後にも万人を動かす力を有するのは、彼らの精神がよく客観的であったからだ。我なき者、すなわち自己を滅せる者は最も偉大な者だ。
 【普通には精神現象と物体現象を内外によって区別し、前者は内に、後者は外にあると考えられている。しかしこのような考えは、精神が肉体の中にあるという独断から起こるので、直接経験から見ればすべて同一の意識現象であり、内外の区別があるのではない。我々が単に内面的な主観的精神と言っているものは極めて表面的な、微弱な精神だ。すなわち個人的空想だ。これに反し、大きな深い精神は宇宙の心理に合一した宇宙の活動そのものだ。このような精神には自ら外界の活動を伴うのだ。活動すまいと思ってもできないのだ。美術家の神来のようなものはその一例だ】
 最後に人心の苦楽について一言しよう。一言にて言えば、我々の精神が完全な状態、すなわち統一の状態にあるときが快楽であり、不完全の状態、すなわち分裂の状態にあるときが苦痛だ。右に言ったように精神は実在の統一作用であるが、統一の裏面には必ず矛盾衝突を伴う。この矛盾衝突の場合は常に苦痛である。無限である統一的活動は直ちにこの矛盾衝突を脱して、さらに一層大なる統一に達しようとするのだ。この時我々の心に様々な欲望を生じ、理想を生じる。そしてこの一層大きな統一に達しえた時、すなわち我々の欲望または理想を満足し得た時は快楽となるのだ。ゆえに快楽の一面には必ず苦痛あり、苦痛の一面には必ず快楽が伴う。このようにして人心は絶対に快楽に達することはできないが、ただ努めて客観的となり自然と一致する時には無限の幸福を保つことが出来る。
 【心理学者は我々の生活を助けるものが快楽であり、これを妨げるものが苦痛であるという。生活とは生物の本性の発展であって、すなわち自己の統一の維持だ。やはり統一を助けるものが快楽で、これを害するものが苦痛であるというのと同一だ。
 前に言ったように精神は実在の統一作用(統一的或者の分化発展の作用)であって、大なる精神は自然と一致するのだから、我々は小なる自己をもって自己となすときには苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と一致するにしたがって幸福となるのだ】

第十章 実在としての神
 これまで論じたところによってみると、我々が自然と名付けているものも、精神と言っているものも、完全に種類を異にした二種の実在ではない。つまり同一実在を見る見方の相違によって起こる区別だ。自然を深く理解すれば、その根底において精神的統一を認めねばならず、また完全な真の精神とは自然と合一した精神でなければならない。すなわち宇宙にはただ一つの実在のみ存在するのだ。そしてこの唯一実在はかつて言ったように、一方においては無限の対立衝突であると共に、一方においては無限の統一だ。一言にて言えば独立自全な無限の活動だ。この無限の活動の根本を、我々は神と名付けるのだ。神とは決してこの実在の外に超越するものではない。実在の根底が直ちに神だ。主観客観の区別を没し、精神と自然を合一したものが神だ。
 【いづれの時代でも、いづれの人民でも、神という言語を持たない者はいない。しかし知識の程度及び要求の際によってさまざまな意義に解せられている。いわゆる宗教家の多くは神は宇宙の外に立ってしかもこの宇宙を支配する偉大な人間のようなものと考えている。しかしこのような神の考えは甚だ幼稚であって、今日の学問知識と衝突するばかりでなく、宗教上においてもこのような神と我々人間は内心における親密な一致を得ることはできないと考える。しかし今日の極端な科学者のように、物体が唯一の実在であって物力が宇宙の根本であると考えることもできない。上に言ったように、実在の根底には精神的原理があって、この原理がすなわち神だ。インド宗教の根本義であるようにアートマンとブラフマンは同一だ。神は宇宙の大精神だ】
 古来神の存在を証明するには様々な議論がある。ある者はこの世界は無から始まることはできない。何者かがこの世界を作ったものが無ければならない。このような世界の創造者が神であると言う。すなわち因果律に基づいてこの世界の原因を神であるとするのだ。ある者はこの世界は偶然に存在するものではなく、一々意味を持ったものだ。すなわちある一定の目的に向かって組織されたものであるという事実を根拠として、何者かこのような組織を与えた者が無ければならないと推論し、このような宇宙の指導者がすなわち神であるという。すなわち世界と神との関係を芸術の作品と芸術家の様に考えるのだ。これらは皆、知識の方から神の存在を証明し、かつその性質を定めようとするものであるが、その他完全に知識を離れて、道徳的要求の上から神の存在を証明しようとする者がある。だが、(その場合)もしこの宇宙に勧善懲悪の大主宰者が無かったならば、我々の道徳は無意義なものとなる。道徳の維持者として、神の存在を認めなければならないというのだ。カントの如きはこの種の論者だ。しかしこれらの議論は果たして真の神の存在を証明できるであろうか。世界に原因が無ければならないから、神の存在を認めねばならないと言うが、もし因果律を根拠としてこのように言うのならば、なぜさらに一歩を進んで神の原因を尋ねることが出来ないのか。神は無始無終であって原因なくして存在すると言うならば、この世界も何故そのように存在するという事ができないのか。また世界がある目的に従って都合よく組織されてあるという事実から、全智なる支配者がなければならないと推理するには、事実上宇宙の万物がことごとく合目的に出来ているという事を証明しなければならない。しかしこれはすこぶる難事だ。もしこのようなことが証明されなければ、神の存在が証明できないと言うならば、神の存在は甚だ不確実となる。ある人はこれを信じるだろうが、ある人はこれを信じないだろう。かつこのことが証明されたとしても、我々はこの世界が偶然に合目的に出来たものと考えることが出来るのである。道徳的要求から神の存在を証明しようとするのは、尚更薄弱だ。全知全能の神という者があって我々の道徳を維持するとすれば、我々の道徳に偉大な力を与えるには相違ないが、我々の実行上そう考えた方が有益であるからといって、そのような者がいなければならないという証明にはならない。このような考えは単に方便と見ることもできる。これらの説はすべて神を間接に外から証明しようとするもので、神そのものを自己の直接経験において直ちに証明したのではない。
 ならば我々の直接経験の事実上においていかに神の存在を求めることが出来るか。時間空間の間に束縛された小さき我々の胸の中にも、無限の力が潜んでいる。すなわち無限である実在の統一力(統一的或者)が潜んでいる。我々はこの力を有するがゆえに、学問において宇宙の心理を探ることができ、芸術において実在の真意を現すことが出来る。我々は自己の根底において、宇宙を構成する実在の根本を知ることが出来る。すなわち神の面目を捕捉することができる。人心の無限に自在なる活動は、直ちに神そのものを証明するのだ。ヤコブ・ベーメの言ったように、翻されたる眼(?)を以って神を見るのだ。
 【神を外界の事実の上に求めたならば、神は到底、仮定の神であることを免れない。また宇宙の外に立つ宇宙の創始者とか指導者とかいう神は真の絶対無限な神とは言われない。上古におけるインドの宗教及び欧州の十五六世紀の時代に盛んであった神秘学派は、神を内心における直覚に求めている。これが最も深い神の知識であると考える】
 神はどのような形において存在するか。一方から見ればニコラウス・クザヌスなどの言ったように、すべての否定である。これと言って肯定すべきもの、すなわち捕捉すべきものは神ではない。もしこれといって捕捉すべきものならばすでに有限であって、宇宙を統一する無限の作用をなすことはできないのだ。この点から見て神は完全に無だ。ならば神は単に無であるかというと、決してそうではない。実在成立の根底には歴々として動かすことのできない統一の作用が働いている。実在はこれによって成立するのだ。例えば三角形のすべての和は二直覚であるという理はどこにあるのか。我々は理そのものを見ることも聴くこともできない。しかもここに厳然として動かすことのできない理が存在するではないか。また一幅の名画に対するとせよ。我々はその全体において神韻縹渺(そこはかとなく、きわめてすぐれた趣)として霊気人を襲うものあるを見る。しかもその中の一物一景について、その然るところの所以(原因)のものを見出そうとしても、到底見出すことはできない。神はこれらの意味における宇宙の統一者だ。実在の根本だ。ただそのよく無であるがゆえに、有らざる所なく働かざる所がないのである。
 【数理が分からない者には、いかに深遠な数理も何の知識も与えず、美を解さない者には、いかに巧妙な名画も何の感動を与えないように、平凡にして浅薄な人間には神の存在は空想のごとくに思われ、何らの意味もない様に感ぜられる。従って宗教などを無用視している。真正の神を知ろうと欲する者は是非自己をそれだけに修練して、これを知り得る眼を具えなければならない。このような人には宇宙全体の上に神の力というものが、名画の中における画家の精神の様に活躍し、直接経験の事実として感じられるのだ。これを見神の事実というのだ】
 上に述べたところをもってみると、神は実在統一の根本というような冷静な哲学上の存在であり、我々の暖かい情意の活動と何の関係もない様に感じられるかもしれないが、実際は決してそうではない。先に言ったように、我々の欲望は大なる統一を求めることから起こるので、この統一が達せられた時が喜悦である。いわゆる個人の自愛というのも最終的にこのような統一的要求にすぎない。だが元々無限な我々の精神は決して個人的自己の統一をもって満足するものではない。さらに進んで一層大なる統一を求めなければならない。我々の大なる自己は他人と自己を包含したものであるから、他人に同情を表し他人と自己の一致統一を求めるようになる。我々の他愛とはこのようにして起こってくる超個人的統一の要求だ。ゆえに我々は他愛において、自愛におけるよりも一層大なる平安と喜悦を感じるのだ。宇宙の統一である神はこのような統一的活動の根本だ。我々の愛の根本、喜びの根本だ。神は無限の愛、無限の喜悦、平安だ。

第三編 善


第一章 行為 上
 実在はどのようなものであるかという事は大体説明したと思うから、これからわれわれ人間は何をなすべきか、善とはどのようなものであるか、人間の行動は何処に帰着すべきかというような実践的問題を論じることにしよう。人間の様々な実践的方面の現象はすべて、行為という中に総括することが出来ると思うから、これらの問題(善とは何かという倫理的問題)を論ずるに先立ち、まず行為とはどのようなものであるかという事を考えてみようと思う。
 行為というのは、外面から見れば肉体の運動であるが、単に水が流れる石が落ちるというような物体的運動とは異なっている。一種の意識を具えた目的のある運動だ。しかし単に有機物において現れる、目的はあるが完全に無意識である様々な反射運動や、高等な動物においてみるような、目的ありかつ多少意識を伴うが、未だ目的が明瞭に意識されていない本能的動作とも区別しなければならない。行為とは、「その目的が明瞭に意識されている動作」という意味だ。我々人間も肉体を具えている以上、様々な物体的運動があり、また反射運動、本能的動作もなすことはあるが、自己の作用というようなものはこの行為に限られているのだ。
 この行為には多くの場合において外界の運動、すなわち動作を伴うのであるが、無論その肝心なところは内界の意識現象にあるのだから、心理学上行為とはどのような意識現象であるかを考えてみよう。行為とは右に言ったように意識された目的から起こる動作のことで、すなわちいわゆる有意的動作(意志を伴った動作)という意味だ。ただし行為と言えば外界の動作も含めて言うが、意志と言えば主に内面的意識現象を指すので、今行為の意識現象を論じるということは、すなわち意志(内面的現象)を論じるという事になる。さて意志はどのようにして起こるか。元々我々の身体は大体において、自己の生命を保持発展するために自ら適当な運動をなすように作られており、意識はこの運動に沿って発生するので、(意識の)始まりは単純な苦楽の情だ。だが外界に対する観念が次第に明瞭となり、かつ連想作用が活発になると共に、運動は外界刺激に対して無意識に発生するのではなく、まず結果の観念を想起し、これからその手段となるべき運動の観念を伴い、そして後運動に移るというようになる。すなわち意志というものが発生するのだ。意志が起こるにはまず運動の方向、意識上にて言えば連想の方向を定める肉体的、もしくは精神的な素因(原因)というものがなければならない。このもの(原因)は意識の上では一種の衝動的感情として現れてくる。これはその先天的なものと後天的なものとを問わず、意志の力とも称すべきもので、ここではこれを動機と名付けておく。次に経験によって得、連想によって惹起された結果の観念、すなわち目的、詳しく言えば目的観念というものが、動機に伴わなければならない。このときようやく意志の形が成立するので、これを欲求と名付ける。すなわち(欲求は)意志の初位(初めの段階)だ。この欲求がただ一つであったときは運動の観念を伴い動作に発展するのだが、欲求が二つ以上あった時は、いわゆる欲求の競争とういうものが起こって、その中で最も有力なものが意識を主に占め、動作に発展するようになる。これを決意という。我々の意志というのはこのような意識現象の全体を指すのだが、時には狭義において、いよいよ動作に移る瞬間の作用、あるいは決意のようなものを(意志と)言う事もある。行為の肝心なところはこの内面的意識現象である意志にあるので、外面の動作は肝心ではない。何らかの障害がある為動作が起こらなかったとしても、立派に意志があったのであればこれを行為という事ができ、これに反し、動作が起こっても十分に意志が無かったならばこれを行為という事はできない。意識の内面的活動が盛んになると、初めから意識内の出来事を目的とする意志が起こってくる。このような場合においても勿論行為と名付けることが出来る。心理学者は内外というように区別するが、意識現象としては(意志であればその目的が内であっても外であっても)完全に同一の性質を具えているのだ。
 右に述べたところは単に、行為の要部である意志の過程を記載したものに過ぎないから、今一歩進んで、意志とはどのような性質の意識現象で、(意志は)意識の中においてどのような地位を占めるものであるかを説明してみよう。心理学から見れば、意志は観念統一の作用だ。すなわち統覚(統一作用)の一種に属すべきものだ。意識における観念結合の作用には二種あって、一つは観念結合の原因が主として外界の事情にあり、意識において結合の方向が明らかではなく、受動的と感じられるので(能動的と感じられないので)、これを連想と言う。一つは結合の原因が意識内にあり、結合の方向が明らかに意識されており、意識が能動的に結合すると感じられるので、これを統覚という。だが右に言ったように、意志とはまず観念結合の方向を定める目的観念というものがあって、これから従来の経験から得た様々な運動観念の中から自己の実現に適当な(運動)観念の結合を構成するので、(意志は)完全に一つの統覚作用だ。このように意志が観念統一の作用であるという事は、欲求の競争の場合においてますます明らかとなる。いわゆる決意とはこの統一(作用)の終結に過ぎない。
 ならばこの意志の統覚作用(統一作用)と他の統覚作用はどのような関係において立っているのか。意志の他に思惟、想像の作用も同じように統覚作用に属している。これらの作用においてもある統一的観念(目的観念)が本となって、これ(目的観念)からその目的に合うように観念を統一するので、(思惟、想像の)観念活動の形式は完全に意志(の形式)と同一だ。ただその統一の目的が同じではなく、したがって統一の法則が異なっているから、各々相異なった意識の作用と考えられているのだ。しかし今一層精細に、どの点において異なりどの点において同じなのかを考究してみよう。まず想像と意志を比較してみると、想像の目的は自然の模擬であり、意志の目的は自身の運動だ。従って想像においては自然の真状態に合う様に観念を統一し、意志では自己の欲求に合う様に統一するのだ。しかし詳しく考えてみると、意志の運動の前には必ず、まず一度その運動を想像しなければならず、また自然を想像するには自分がまずその物(自然)になって考えてみなければならない。ただ想像というものは、どうしても外物を想像するので、自己が完全にこれ(外物)と一致することが出来ず、従って自己の現実ではないというような感じがする。すわなち、あることを想像するというのと(想像)、これを実行する(意志)というのはどうしても異なるように思われるのだ。しかし更に一歩を進めて考えてみると、これは程度の差であり性質の差ではない。想像も美術家の想像においてみるように入神の域に達すれば、完全に自己をその中(創作物の中)に没し、自己と物(創作物)と完全に一致して、物の活動が直ちに自己の意志活動と感じられるようになるものだ。次に思惟と意志を比較してみると、思惟の目的は真理にあるので、その観念結合を支配する法則は論理の法則だ。我々は真理とするものを必ず意志するとは限らない。また意志するものが必ず真理であるとは考えていない。そうであるのみならず、思惟の統一は単なる抽象的概念(言葉や数)の統一だが、意志と想像は具体的観念(行動)の統一だ。これらの点において思惟と意志は一見、明らかに区別があって、誰も思惟と意志を混同する者はいないのだが、またよく考えてみると、この区別もさほど明確で動かす事のできないものではない。意志の背後にはいつでも相当な理由(真理)が潜んでいる。その理由は完全なものではないにせよ、とにかく意志はある真理の上に働くものだ。すなわち思惟によって成立するのだ。これに反し、王陽明が知行同一(知識と行為は一体だということ)を主張したように、真実の知識(真理)は必ず意志の実行を伴わなければならない。自分はこのように思惟するが、そのようには欲しないというのは、未だ真に知らないのだ。このように考えてみると、思惟、想像、意志の三つの統覚(という形式)は、その根本においては同一の統一作用だ。その中で、思惟及び想像は“物、及び自己のすべてに関する観念に対する統一作用”だが、意志は"自己の活動のみに関する観念の統一作用"だ。これに反し、前者(思惟、想像)は単に理想的、すなわち可能的統一だが、後者(意志)は現実的統一(行動の統一)だ。すなわち統一の極致であるという事が出来る。
 意志の統覚作用における地位を略述したから、今度は他の観念的結合、すなわち連想及び融合の関係を述べよう。連想については先に、その観念結合の方向を定めるものは外界にあって内界にないと言ったが、これは単に程度の上から論じたもので、連想においてもその統一作用が完全に内にないと言うことはできない。ただ意識上に現れないまでだ。融合に至っては観念の結合が更に無意識で、結合作用すら意識しないのだが、だからと言って決して内面的統一がないのではない。要するに、意識現象はすべて意志と同一の形式(ある定まった目的によって内から観念を統一するという形式)を具えていて、(意識現象は)すべてある意味における意志であるということができる。そしてこれらの統一作用の根本となる統一力(統一的或者)を自己と名付けるなら、意志はその中で最も明らかに自己を現したものだ(観念の方向、つまり目的をもっとも強く感じることができる作用が意志だ)。だから我々は意志活動において最も明らかに自己を意識するのだ。

第二章 行為 下
 これまでは心理学上から、行為とはどのような意識現象であるかを論じたのだが、これから行為の本である意志の統一力というものがどこから起こるか、実在の上においてこの力はどのような意義を持っているかという問題を論じ、哲学上における意志及び行為の性質を明らかにしておこうと思う。
 ある定まった目的によって内から観念を統一するという意志の統一とは、果たしてどこから起こるのか。物質の他に実在はないという科学者の見地から見れば、この(意志の統一)力は我々の身体から起こると言うほかないだろう。我々の身体は動物と同じく、一つの体系を成す有機体だ。動物の有機体は精神の有無に関わらず、神経系統の中枢において機械的に様々な秩序だった運動を成すことが出来る。すなわち反射運動、自動運動、さらに複雑な本能的動作をすることができるのだ。我々の意志も元は、これらの無意識運動から発達してきたもので、今でも(意識的な)意志が訓練された時にはまたこれらの無意識運動の状態に還るのだから(無意識的になるのだから)、つまり(意志と無意識的運動は)同一の力に基づいて起こる同一種類の運動であると考えなくてはならない。そして有機体の様々な目的はすべて自己の種族の生活の維持発展という事に帰すのだから、我々の意志の目的も生活保存の他にないだろう。ただ意志においては目的が意識されているので、他(無意識的運動)と異なって見えるのだ。科学者は我々人間における様々な高尚な精神上の要求も、皆この生活の目的(生活保存)から説明しようとするのだ。
 しかしこのような意志の本を物質力に求め、微妙幽遠な人生の要求を単なる生活欲から説明しようとするのは、すこぶる難事だ。たとえ高尚な意志の発達は、同時に生活作用の隆盛(勢いのさかんなこと)を伴うものとしても、最上の目的は前者(高尚な意志の発達)にあって後者(生活作用の隆盛)にあるのではあるまい。後者はかえって前者の手段と考えねばならないのだろう。しかししばらくこれらの議論は後にして、もし科学者の言うように我々の意志は有機体の物質的作用から起こるものとするなら、物質はどのような能力を有するものと仮定しなけれならないだろうか。有機体の合目的運動が物質から起こるというのは、二つの考え方がある。一つは自然を合目的なものと見て、生物の種子のように、物質の中にも合目的力を潜勢的に含んでいなければならないとし、一つは物質は単なる機械力のみ具するものと見て、合目的な自然現象はすべて偶然に起こるものとするのだ。厳密な科学者の見解はむしろ後者にあるのであるが、私はこの二つの見解が同一の考え方であって、決してその根底が異なるものではないと思う。後者の見解にしても、どこかにある一定不変の現象を起こす力があると仮定しなければならない。(つまり後者の論でも)機械的運動を生じるには、これを生じる力が物体の中に潜在すると仮定しなければならない。こう言い得るのならば、なぜ(前者のように)有機体の合目的力が物体の中に潜在すると(科学者は)考えることができないのか。あるいは有機体の合目的運動のようなものは、そのような力(合目的力)を仮定しなくても、更に簡単な物理化学の法則によって説明することができると言う者もいるだろう。ただしこのように言えば、今日の物理化学の法則もなお一層簡単な法則によって説明が出来るかもしれない。いや、知識の進歩は無限であるから必ず説明されなければならないと思う。こう考えれば真理は単に相対的(なもの)だ。私はむしろこの考えに反対し、分析よりも総合に重きを置いて、合目的な自然が個々の分立から総合に進み、階段を踏んで己の真意を発揮すると見るのが至当であると思う。
 さらに私が先に述べた実在の見方によれば、物体というのは意識現象の不変的関係に名付けた名目に過ぎないので、物体が意識を生じるのではなく、意識が物体を作るのだ。最も客観的な機械的運動(例えば、水が流れる)というようなものも、我々の論理的統一から成立するので、決して意識の統一を離れたものではない。これ(機械的運動)から進んで生物の生活現象となり、さらに進んで動物の意識現象となるに従って、その統一はいよいよ活発となり、多方面となりかつ深遠となるのだ。意志は我々の意識の最も深い統一力であって、また実在統一力の最も深遠な発現だ。外面から見て単なる機械的運動であり、生活現象の過程であるものが、その内面の真意義においては意志なのだ。あたかも単なる木であり石であると思っていたものが、その真意義においては慈悲円満な仏像であり、勇気満々な仁王であるように、いわゆる自然は意志の発現であり、我々は自己の意志を通して幽玄な自然の真意義を捕捉することができるのだ。もとより現象を内外に分かち精神現象と物体現象が完全に異なった現象と見なすときは、右のような説は空想に止まるように思われるかもしれないが、直接経験における具体的事実には内外の別なく、このような考えがかえって直接な事実であるのだ。
 右に述べたところは物体の機械的運動、有機体の合目的(力または運動)をもって、(物質力と)意志の根本は一つであり、同じ作用だと考える科学者のいうところと一致するのだが、しかしその根本とするところのものは完全に正反対だ。科学者は物質力を本となし、私は意志を本とするのだ。
 この考えによれば、前に行為を分析して意志と動作の二つとしたのだが、この二者の関係は原因(意志)と結果(動作)の関係ではなく、むしろ同一物の両面だ(行為における意志と動作は同一物を異なった方面から観たものだ)。動作は意志の表現だ。外から動作と見られるものが、内から見て意志であるのだ。

第三章 意志の自由
 意志は心理的に言えば意識の一現象に過ぎないが、その本体においては(実際は)実在の根本であることを論じた。今この意志がどのような意味において自由の活動であるかを論じてみよう。意志が自由であるか、はたまた必然であるかは久しく学者の頭を悩ました問題だ。この議論は道徳上大切であるのみならず、これによって意志の哲学的性質も明らかにすることができるのだ。
 まず我々が普通に信じるところによってみれば、誰も自分の意志が自由であると考えない者はいない。自分が自分の意識について経験するところでは、ある範囲においてある事を為すことも出来ればまた為さないことも出来る。すなわちある範囲内においては自由であると信じている。これが為に責任、無責任、自負、後悔、賞賛、非難等の念が起こってくるのだ。しかしこのある範囲内ということを今少し詳しく考えてみよう。すべて外界の事物に属するものは、我々はこれを自由に支配することはできない。自己の身体すらもどこまでも自由に取り扱うことができるとは言えない。随意筋肉の運動は自由のようであるが、いったん病気にでもかかればこれを自由に動かすことはできない。自由にできるというのは単に自己の意識現象だ。しかし自己の意識内の現象でも、我々は新たに観念を作り出す自由も持たず、また一度経験したことをいつでも呼び起こす自由すらも持たない。真に自由と思われるのはただ観念結合の作用のみだ。すなわち観念をどのように分析し、どのように総合するかが自己の自由に属するのだ。勿論この場合においても観念の分析総合には動かすべからざる潜在的法則というものがあって、勝手にできるのではなく、また観念間の結合が唯一であるか、またはある結合が特に強く盛んであった時には、我々はどうしてもその結合に従わなければならない。ただ観念成立の潜在的法則の範囲内において、観念結合に二つ以上の途があり、これらの結合の強度が強迫的でない(結合が特に強く盛んでない)場合においてのみ、選択の自由を有するのだ。
 自由意志論を主張する人は、多くはこの内界経験の事実を根拠として立論するのだ。上に述べた範囲内において動機を選択決定するのは完全に我々の自由に属し、我々の他に理由はない。この決定は外界の事情または内界の気質、習慣、性格から独立した、意志という一つの神秘力によるものと考えている。すなわち観念の結合の外に、これ(観念の結合)を支配する一つの力(意志という神秘力)があると考えている。これ(意志の自由論)に反し、意志の必然論を主張する人は大概、外界における事実の観察を本として、それから推論するのだ。宇宙の現象は一つとして偶然に起こるものはない、極めて些細な事柄でも、詳しく研究すれば必ず相当の原因がある。この考えは学問と称するものの根本的思想であり、かつ科学の発達とともにいよいよこの思想が確実となるのだ。自然現象の中にて従来神秘的と思われていたものも、一々その原因結果が明瞭となって、数学的に計算が出来るようにまで進んできた。今日のところなお原因がないなどと思われているものは、我々の意志くらいだ。しかし意志といってもこの動かすことのできない自然の大法則の外に脱することはできまい。今日意志が自由であると思っているのは、結局は未だ科学の発達が幼稚であり、一々この(意志の)原因を説明することができないからだ。そうであるのみならず、意志的動作も個々の場合においては、実に不規則であって一見定まった原因が無いようだが、多数の人の動作を統計的に考えてみると案外秩序的だ。決して一定の原因結果がないとは見られない。これらの考えはいよいよ我々の意志に原因があるという確信を強くし、我々の意志はすべての自然現象と同じく、必然な機械的因果の法則に支配されるもので、別に意志という一種の神秘力はないという断案に到達するのだ。
 さてこの二つの反対論のいづれが正当だろうか。極端な自由意志論者は右に言ったように、完全に原因も理由もなく、自由に動機を決定する一つの神秘的能力があると言う。しかしこのように意義において意志の自由を主張するなら、それは完全に誤謬だ。我々が動機を決するときには、何か相当の理由がなければならない。たとえ、その理由が明瞭に意識の上に現れていないにしても、意識下において何か原因がなければならない。またもしこれらの論者の言うように、何らの理由なく完全に偶然に事を決するようなことがあったならば、我々はこの時意志の自由を感じないで、かえってこれ(意志において自由に選択したもの)を偶然の出来事として外から働いたものと考えるだろう。従ってこれ(意志で選択した物事)に対し責任を感じることが薄いのだ。自由意志論者が内界の経験を本として議論を立てると言うが、内外の経験はかえって反対の事実(本当に偶然に物事を選択したなら、かえって自由を感じることはないという事実)を証明するのだ。
 次に必然論者の議論について少し批評を下してみよう。この種の論者は自然現象が機械的必然の法則に支配されるから、意識現象もその通りでなければならないと言うのだが、元来この議論には意識現象と自然現象(換言すれば物体現象)とは同一であって、同一の法則によって支配されるべきものであるという仮定が根拠になっている。しかしこの仮定は果たして正しいものだろうか。意識現象が物体現象と同一の法則に支配されるべきものか否かは、未定の議論だ。このような仮定の上に立つ議論は甚だ薄弱であると言わねばならない。たとえ今日の生理的心理学が非常に発達して意識現象の基礎である脳の作用が一々物理的及び化学的に説明ができたとしても、これによって意識現象は機械的必然法によって支配されるべきものであると主張することができるだろうか。例えば一銅像の材料である銅は機械的必然法の支配の外に出ることはできないだろうが、この銅像の表す「意味」はこの(機械的必然法の)外にあるではないか。いわゆる精神現象上の「意味」というものは、見るべからず聞くべからず数えるべからざるものであって、機械的必然法以外に超然たるものであると言わなければならない。
 要するに、自由意志論者の言うような完全な原因も理由もない意志はどこにもない。このような偶然の意志は決して自由と感じられないで、かえって強迫と感じられるのだ。我々がある理由から働いた時、すなわち自己の内面的性質から働いた時、かえって自由であると感じられるのだ。つまり動機の原因が自己の最深な内面的性質から出た時、最も自由と感じるのだ。しかしその、いわゆる意志の理由(動機)と言うものは必然論者の言うような機械的原因ではない。我々の精神には精神活動の法則がある。精神がこの己自身の法則に従って働いた時が真に自由であるのだ。自由には二つの意義がある。一つは完全に原因がないすなわち偶然という事と同意義であり、一つは自分が外の束縛を受けない、(己自身の法則により必然的に)己自らにて働く意味の自由だ。すなわち必然的自由の意義だ。意志の自由というのは、後者(必然的自由)における意味の自由だ。しかしここに、次のような問題が起こってくるだろう。自己の性質に従って働くのが自由であると言うならば、万物皆自己の性質に従って働かないものはない。水の流れるのも火の燃えるのも皆自己の性質に従うのだ。なら何故、他を必然として、意志だけ自由となすのか。
 いわゆる自然界においては、ある一つの現象が起きるのはその事情によって厳密に定められている。ある定まった事情からは、ある定まった一つの現象を生じるのみであって、全く他の可能性を許さない。自然現象は皆このような盲目的必然の法則に従って生じるのだ。だが意識現象は単に生じるのではなくて、"意志された現象"だ。すなわち生じるのみならず、生じたことを自ら知っているのである。この知る、意識するということはすなわち、他の可能性を含むということだ。我々が取ることを意識する(目的とする)という事は、その裏面に取らないという可能性を含むという意味だ。更に詳しく言えば、意識には必ず一般的性質(※一般化され普遍化されても、それによって不合理が生じたり矛盾に陥ったりすることのないような要素)のものがある。すなわち意識は理想的要素を持っている。これがなければ意識ではない。そしてこれらの性質(理想的要素)があるということは、現実の出来事の外に、更に他の可能性(理想)を有しているということだ。現実にしてしかも理想を含み、理想的にしてしかも現実を離れないというのが意識(現象)の特性だ。真実に言えば、意識は決して他(意識以外の外物)から支配されるものではない。常に他を支配しているのだ。ゆえに我々の行為は必然の法則によって生じるものにせよ、我々はこれ(他を支配していること)を知るがゆえに、この行為(必然の法則によって支配され生じた行為)の中において不自由ではない。意識の根底である理想の方から見れば、この現実は理想の特殊な一例に過ぎない。すなわち理想が己自身を実現する一過程に過ぎない。その行為は外から来たのではなく、内(理想)から出たのだ。またこのように現実を理想の一例に過ぎないと見るから、他にいくらでも可能性を含むこととなるのだ。
 意識の自由というのは、自然の法則を破って偶然的に働くから自由であるのではない。かえって自己の自然に従うがゆえに自由だ。理由なくして働くから自由であるのではない。よく理由を知っているがゆえに自由なのだ。我々は知識が進むとともに益々自由の人になることができる。人は他から制せられ圧せられてもこれ(自己の自然、理由、自己の法則)を知るがゆえに、この抑圧以外に脱しているのだ。さらに進んでよくそのやむを得ない(抑圧の)理由を自得すれば、抑圧が返って自己の自由となる。ソクラテスを毒殺したアゼンス人よりも、ソクラテスの方が自由の人だ。パスカルも、人は葦のような弱いものだ、しかし人は考える葦だ。全世界が彼を滅さんとするも、彼は彼が死することを自ら知るが故に、殺す者より尊しと言っている。
 【意識の根底である理想的要素、換言すれば統一作用(統一的或者)というものは、かつて実在の編に論じたように、自然の産物ではなく、かえって自然はこの統一(統一的或者)によって成立するのだ。これは実在の根本である無限の力であって、これを数量的に限定することはできない。完全に自然の必然的法則の外にあるものだ。我々の意志はこの力の発現であるがゆえに自由だ。自然的法則の支配は受けない】
※引用 善の研究 全注釈 小坂国継 p266

第四章 価値的研究
 全てのある現象あるいは出来事を見ると、二つの点から見ることができる。一つはどのようにして起こったか、また何故そうでなくてはいけないのかという原因もしくは理由の考究であり、一つは何のために起こったかという目的の考究だ。例えばここに一個の花があるとせよ。これはどのようにして出来たか(原因、理由)と言えば、植物と外界の事情により、物理及び化学の法則によって生じたものであると言わねばならず、何のためかといえば(目的)果実を結ぶためであるということとなる。前者(原因、理由)は単に物の成立の法則を研究する理論的研究であり、後者(目的)は物の活動の法則を研究する実践的研究だ。
 いわゆる無機物の世界の現象では、なぜ起こったかという事はあるが。何のためという事はない。すなわち目的がないと言わねばならない。ただこの場合でも目的と原因が同一になっているということができる。例えば玉突き台の上において玉をある力を以ってある方向に突けば、必ず一定の方向に向かって転がるが、この時玉に何か目的があるのではない。あるいは玉を突いた人には何か目的があるかもしれないが、その目的は玉そのものの内面的目的ではない。玉は外界の原因から必然的に動かされるのだ。しかしまた一方から考えれば、玉そのものにこのような運動の力があればこそ、玉は一定の方向に動くのだ。玉そのものの内面的力から言えば、自己を実現する合目的作用とも見ることができる。さらに進んで動植物に至ると、自己の内面的目的というものが明らかになると共に、原因と目的が区別されるようになる。動植物に起こる現象は物理及び化学の必然的法則に従っていると共に、無意義の現象ではない(目的がある現象だ)。生物全体の生存および発達を目的とした現象だ。このような(目的を持った)現象にあっては、ある原因の結果として起こったものが必ずしも合目的とは言われない。全体の目的(生物全体の生存および発達という目的)と一部の現象は衝突をきたすことがある。そこで我々はどのような現象が最も目的に合っているか、現象の価値的(実践的)研究をしなくてはならないようになる。
 生物の現象ではまだ、その統一的目的というものが外から加えた人間の想像に過ぎないとして、これ(目的)を除去することも出来なくはない。すなわち生物の現象は単に、若干の力の集合によってなる無意義の結合と見なすことも出来るのだ。ただ我々(人間の)意識現象に至っては、決してこう見ることはできない。意識現象は始めから無意義な要素の結合ではなく、統一された一活動だ。思惟、想像、意志の作用からその統一的活動(統一作用)を除去したならば、これらの現象は消滅するのだ(思惟、想像、意志は統一作用そのものだ)。これらの作用については、どのようにして起こるかという(理論的研究)よりも、いかに考え、いかに想像し、いかに為すべきか(という実践的、価値的研究)を論じるのが、第一の問題だ。これにおいて論理、審美、倫理の研究が起こってくる。
 ある学者の中には存在の法則から価値の法則を導き出そうとする人もある。しかし我々は単にこれからこれが生じるという事から、物の価値的判断を導き出すことはできないと思う。赤い花はこのような結果を生じ、または青い花はこのような結果を生じると言う原因結果の法則から、なぜこの花は美にしてあの花は醜であるか、何故一つは大きな価値を有し、一つは有さないかを説明することはできない。これらの価値的判断には、これ(価値)が標準となるべき別の原理がなければならない。我々の思惟、想像、意志というようなものも、すでに事実として起こった以上は、いかに誤った思惟でも、悪しき意志でも、また拙劣な想像でも、それぞれ相当の原因によって起こるのだ。人を殺すという意志も、人を助けるという意志も、皆ある必然の原因があって起こり、また必然に結果を生じるのだ。この点においては両者少しも優劣がない。ただここに良心の要求とか、または生活の欲望というような標準があって、初めてこの両行為の間に大きな優劣の差異を生じるのだ。ある論者は大きな快楽を与えるものが大きな価値を有するものであるというように説明して、これによって原因結果の法則から価値の法則を導き得たように考えている。しかしなぜある結果が我々に快楽を与え、ある結果が我々に快楽を与えないのか。これは単なる因果の法則(理論的研究)から説明はできまい。我々がどのようなものを好み、どのようなものを嫌うかは、別の根拠を有する直接経験の事実だ。心理学者は我々の生活力を増進するものは快楽であるという。しかし生活力を増進するのが何故快楽であるか、厭世家はかえって生活が苦痛の源であるとも考えているではないか。またある論者は有力なものが価値あるものであると考えている。しかし人心に対しどのようなものが最も有力であるのか。物質的に有力なものが、必ずしも人心に対して有力なものとは言えまい。人心に対して有力なものは、最も我々の欲望を動かすもの、すなわち我々に対して価値あるものだ。有力によって価値が定まるのではない。かえって価値によって有力か否かが定まるのだ。すべて我々の欲望または要求というものは説明しうべからざる(説明できない)、与えられた事実だ。我々は生きるために食うという。しかしこの生きるためというのは後から加えた説明である。我々の食欲はこのような理由から起こったのではない。小児が初めて乳を飲むのもこのような理由の為ではない。ただ飲むために呑むのだ。我々の欲望あるいは要求はこのような説明できない直接経験の事実であるのみならず、実在の真意を理解する秘鑰(隠れた鍵、ヒント)だ。実在の完全な説明は、どのようにして存在するかという説明のみではなく、何のために存在するか(価値的研究)を説明しなければならない。

第五章 倫理学の諸説 その一
 すでに価値的研究とはどのようなのものかを論じたので、これから善とはどのようのものであるかという問題に移ることにしよう。我々は上に言ったように、我々の行為について価値的判断を下す。この価値的判断の標準はどこにあるか。どのような行為が善であって、どのような行為が悪であるか、これらの倫理学的問題を論じようと思うのだ。このような倫理学の問題は我々にとって最も大切な問題だ。いかなる人もこの問題を疎外することはできない。東洋においてもまた西洋においても、倫理学は最も古い学問の一つであって、従って古来倫理学に様々な学説があるから、今先ず倫理学における主な学派の大綱をあげ、かつこれに批評を加えて、私が執ろうとする倫理学説の立脚地を明らかにしようと思う。
 古来の倫理学説を大別すると、大体二つに分かれる。一つは他律的倫理学説といい、善悪の標準を人性(人の本来・自然の性質)以外の権力に置こうとするものと、一つは自律的倫理学説といい、この標準を人性の中に求めようとするのだ。他に直覚説というのがある。直覚説の中にはいろいろあって、あるものは他律的倫理学説の中に(この直覚説が)入ることができるが、あるものは自律的倫理学説の中に入らなければならないものだ。今先ず直覚説から始めて、順次他に及ぼうと思う。
 この学説(直覚説)の中には種々あるが、その綱領は、我々の行為を律すべき道徳の法則は、直覚的に明らかなものであって、他に理由があるのではない。どのような行為が善であり、どのような行為が悪であるかは、火は熱にして、水は冷なるを知るように、直覚的に知ることができる。行為の善悪は行為そのものの性質であって、説明すべきものではないというのだ。なるほど我々の日常の経験について考えてみると、行為の善悪を判断するのは、あれこれ理由を考えるのではなく、たいてい直覚的に判断する。いわゆる良心というものがあって、あたかも眼が物の美醜を判断するように、直ちに行為の善悪を判断することができるのである。直覚説はこの事実を根拠としたもので、最も事実に近い学説だ。そうであるのみならず、行為の善悪は理由の説明を許さないというのは、道徳の威厳を保つ上においてすこぶる有効だ。
 直覚説は簡単であって実践上有効であるが、倫理学説としてはどれほどの価値があるのだろうか。直覚説において直覚的に明らかであるというのは、人生の究極的な目的というようなものではなくて、行為の法則だ。もちろん直覚説の中にも、全ての行為の善悪が個々の場合において直覚的に明らかであるというのと、個己の道徳的判断を総括する根本的道徳法が直覚的に明瞭であるというのと二つあるが、いずれにしてもある直接自明な「行為の法則」があるというのが直覚説の生命だ。しかし我々が日常行為について下す道徳的判断、すなわちいわゆる良心の命令というようなものの中に、果たして直覚論者の言うように直接自明で、従って正確で矛盾のない道徳法(行為の法則)というものを見出すことができるだろうか。まず個己の場合について見ると、決してこのような明確な判断の無いことは明らかだ。我々は個々の場合において善悪の判断に迷うこともあり、今は正しいと考えることも後には誤りと考えることもあり、また同一の場合でも、人によって大いに善悪の判断が異なることもある。明確な道徳的判断があるなどとは、少しでも反省的精神を有する者は到底考えることができないことだ。ならば(個人ではなく)一般の場合においてはどうだろう。果たして(直覚説の)論者の言うような自明の原則というものがあるだろうか。第一にいわゆる直覚論者が自明の原則として挙げているものが、人によって異なり決して常に一致することがないことが、一般に認められるべき自明の原則というものがないことを証明している。そうであるのみならず、世人が自明の義務として承認しているものの中から、一つもこのような原則を見出すことはできない。忠孝というようなことはもとより当然の義務であるが、その間には種々衝突もあり、変遷もあり、さてどのようにするのが真の忠孝であるか、決して明瞭ではない。また智勇仁義の意義について考えてみても、どのような智どのような男が真の智勇であるか。すべての智男が善と言うことはできない。智男がかえって悪のために用いられることもある。仁と義はその内で最も自明の原則に近いのだが、仁はいついかなる場合においても、絶対的に善であると言うことはできない。不当の仁はかえって悪い結果を生じることもある。また正義と言ってもどのようなものが真の正義であるか、決して自明と言うことはできない。例えば人を待遇するにしても、どのようにするのが正当なのか、単に各人の平等ということが正義でもない。かえって各人の価値によるのが正義だ。ならもし各人の価値によるとするなら、その価値を定めるものは何なのか。要するに我々は我々の道徳的判断において、一つも直覚論者の言うような自明の原則を持っていない。時に自明の原則と思われるものは、“何らの内容がない単に同意義な語を繰り返す命題”にすぎないのだ。
 右に論じたように、直覚説はその主張するように、善悪の直覚を証明することができないとすれば、学説としては甚だ価値の少ないものであるが、今仮にこのような直覚があるものとして、これによって与えられた法則にしたがうのが善であるとしたならば、直覚説はどのような倫理学説となるだろうか考えてみよう。純粋に直覚と言えば、(直覚)論者の言うように理性によって説明することができない、また苦楽の感情、好悪の欲求に関係のない、完全に直接にして無意義の意識と言わなければならない。もしこのような直覚に従うのが善であるとすれば、善とは我々にとって無意義のものであって、我々が善に従うのは単に盲従である。すなわち道徳の法則は人生に対して外から与えられた抑圧となり、直覚説は他律的倫理学と同一とならなければならない。だが多くの直覚論者は右のような意味における直覚を主張していない。ある者は直覚を理性と同一視している。すなわち道徳の根本的法則は理性によって自明であるものと考えている。しかしこのように言えば、善とは理に従う事であって、善悪の区別は直覚によって明らかになるのではなく、理によって説明できることになる。またある直覚論者は直覚と直接な快不快、または好悪ということを同一視している。しかしこのように考えれば、善は一種の快楽または満足を与える故に善であるので、すなわち善悪の標準は快楽または満足の大小ということに移ってくる。このように直覚という語の意味によって、直覚説は他の様々な倫理学説と接近する。もちろん純粋な直覚説と言えば、完全に無意義の直覚を意味するのでなければならないのだが、このような倫理学説は他律的倫理学と同じく、なぜ我々は善に従わねばならないかを説明することはできない。道徳の本は完全に偶然で無意味なものとなる。元々我々が実際に道徳的直観と言っているものの中には、様々な原理を含んでいるのである。その中で完全に他の権威から来る他律的なものもあれば、理性から来るもの、また感情及び欲求からくるものも含んでいる。これはいわゆる自明の原則というものが様々な矛盾衝突に陥るからだ。このような混雑した原理を以って学説を設立することはできないのは明らかだ。

第六章 倫理学の諸説 その二
 前に直覚説が不完全であることを論じ、かつ直覚の意義によって、種々相異なる学説に変じうることを述べた。今純粋な他律的倫理学、すなわち権力説について述べようと思う。この派の論者は、われわれが道徳的善と言っているものが、一面において自己の快楽あるいは満足というような人性(人の本来・自然の性質)の要求と違い、厳粛な命令の意味を持つところに着目し、道徳は我々に対し絶大な威厳または勢力を有する者の命令から起こってくるので、我々が道徳の法則にしたがうのは自己の利害得失の為ではなく、単にこの絶大な権力の命令に従うのである、善と悪とはこのような権力者の命令によって定まると考えている。すべて我々の道徳的判断の本は師父の教訓、法律、制度、習慣等によって養成されたものであるから、このような倫理学説が起こるのも無理ならぬことであって、この説は、前の直覚説における良心の命令が、外界の権威にとってかわったものだ。
 この種の学説において外界の権力者と考えられるものは、もちろん自ら我々に対して絶大な威厳勢力を持ったものでなければならない。倫理学史上に現れた権力説の中では、君主を本とした君権的権力説と、神を本とした神権的権力説の二種がある。神権的倫理学はキリスト教が無上の勢力を持っていた中世時代に行われたので、ドゥンス・スコトゥスなどがその主張者だ。氏に従えば、神は我々に対し無限の勢力を有するものであり、しかも神意は完全に自由だ。神は善なる故に命令するのでもなく、また理の為に為すのでもない。神は完全にこれらの束縛(善という理由、理)以外に超越している。善なるが故に神がこれを命じるのではなく、神がこれを命じるが故に善なのだ。氏は極端にまでこの説を推し進めて、もし神が我々に殺戮を命じたならば、殺戮も善となるであろうとまで言った。また君権的権力説を主張したのは近世の始めに出たイギリスのホッブスという人だ。氏に従えば人性は完全に悪であって、弱肉強食が自然の状態だ。これからくる人生の不幸を脱するのは、ただ各人がすべての権力を一君主にたくして絶対にその命令に服従するにある。それで何でもこの君主の命令に従うのが善であり、これに背くのが悪であると言っている。そのほか支那において荀子がすべて先王の道に従うのが善であるといったのも、一種の権力説だ。
 右の権力説の立場から厳密に論じたならば、どのような結論に達するだろうか。権力説においては、何故我々は善を為さねばならないかという説明ができない。いや、説明が出来ないのが権力説の本意だ。我々はただ権威であるからこれに従うのである。何かある理由の為に従うならば、権威そのものの為に従うのではなく、理由の為に従うことになる。ある人は恐怖という事が権威に従うための最も適当な動機であると言う。しかし恐怖という事の裏面には自己の利害得失を含んでいる。しかしもし自己の利害の為に従うならば、すでに権威の為に従うのではない。ホッブスなどはこの理由から純粋な権威説の立脚地から離れている。また近頃最も面白く権威説を説明したキルヒマンの説によると、我々は何でも絶大な勢力を有するもの、例えば高山、大海のようなものに接するときは、その絶大な力に打たれて驚きの情を生じる。この情は恐怖でもなく、苦痛でもなく、自己が外界の雄大な事物にとりこにされ、これに平伏し没入する状態である。そしてこの絶大な勢力者がもし意志を持ったものであるならば、自らここに尊敬の念を生じなければならない。すなわちこの者の命令には尊敬の念を以って服従するようになる。尊敬の念という事が、権威に従う動機であると言っている。しかしよく考えてみると、我々が他を尊敬するというのは、全然理由なくして尊敬するのではない。我々は我々の達することができない理想を実現しえた人であるが故に尊敬するのだ。単に人そのものを尊敬するのではなく、理想を尊敬するのだ。禽獣には釈迦も孔子も、半文銭の価値もないのだ(獣には聖人君子を尊ばない。それは尊ぶ理由が獣にはないからだ)。厳密な権力説では、道徳は(理由のない)完全な盲目的服従でなければならない。恐怖も、尊敬も、全く何らの意義のない盲目的感情でなければならない。エソップの寓話の中に、ある時鹿の子が母鹿が犬の声に恐れて逃げるのを見て、お母さんは大きな体をして何故小さい犬の声に驚いて逃げるのかと問うた。ところが母鹿は何故かは知らないが、ただ犬の声が無暗に怖いから逃げるのだと言ったという話がある。このような無意義な恐怖が権力説において最も適当な道徳的動機であると考える。果たしてそのようなものであるなら、道徳と知識は完全に正反対であって、無知なる者が最も善人だ。人間が進歩発達するには一日も早く道徳の束縛を脱しなくてはならないということになる。またいかなる善行でも権威の命令に従うという考え(の他)なく、自分がその(行為を)しなければならない“理由”を自得して為したことは(自らの理由から為した行為は)、(権威の命令に従っていないので)道徳的善行ではないということになる。
 権威説からはこのように道徳的動機を説明することができないばかりではなく、いわゆる道徳法というものもほとんど無意義となり、従って善悪の区別も完全に標準がなくなってくる。我々はただ権威なる故に盲目的にこれに服従するというならば、権威には様々な権威がある。暴力的権威もあれば、高尚な精神的権威もある。しかしいずれに従うのも権威に従うのであるから、等しく(権威に従うという点において)一つであると言わなければならない。すなわち善悪の標準は全く立たなくなる。もちろん力の強弱大小というのが標準となるように思われるが、力の強弱大小ということも、何か我々が理想とするものが定まって、初めてこれを論じることができるのである。耶蘇とナポレオンはいずれが強いか、それは我々の理想の定め様によるのだ。もし単に世界に存在する力を持っている者が有力であるというならば、腕力を持ったものが最も有力という事にもなる。
 西行法師が「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさになみだこぼるる」※(どなたさまがいらっしゃるのかよくはわかりませんが、おそれ多くてありがたくて、ただただ涙があふれ出て止まりません)と詠じたように、道徳の威厳はその不測のところ(権力者がいないという意味)にあるのだ。権威説のこの点(道徳の威厳)に着目したのは一方の真理を含んではいるが、この理由で完全に人性自然の要求を忘却したのは、その大なる欠点だ。道徳は人性自然の上に根拠を持ったもので、なぜ善を為さねばならないかということは人性の内から説明されなければならない。
※引用 http://www.kyoto-jinjacho.or.jp/jinjawoshiru/jinjawosiru.html

第七章 倫理学の諸説 その三
 他律的倫理学では、上に言ったように、どうしてもなぜ我々は善を為さねばならないかを説明することができない。善は完全に無意義なものとなるのだ。そこで我々は道徳の本を人性(人の本来・自然の性質)の中に求めねばならないようになってくる。このような倫理学を自律的倫理学という。これには三種あって、一つは理性を本とするもので合理説または主知説といい、一つは苦楽の感情を基とするもので快楽説といい、また一つは意志の活動を本とするもので活動説という。今先ず合理説から語ろう。
 合理的もしくは主知的倫理学というのは、道徳上の善悪正邪ということと知識上の真理ということを同一視している。物の真相が即ち善だ。物の真相を知れば自ら何をなさねばならないかが明らかとなる。我々の義務は幾何学的真理のように演繹(大きな一つの大前提から結論を推論すること)しうるものであると考えている。我々はなぜ善を為さねばならないかといえば、真理だから故であるというのだ。我々人間は理性を具していて、知識において理に従わねばならないように、実行においても理に従わなければならないのである(ちょっと注意しておくが、理という語には哲学上様々な意味があるが、ここに理というのは普通の意味における“抽象的概念の関係(=言葉の関係)”をいうのだ)。この説は一方においてはホッブスなどのように、道徳法は君主の意志によって左右され得る随意的なものであるというのに反し、道徳法は物の性質であって、永久不変であることを主張する。また一方では、善悪の本を知覚または感情のような感受性に求める時は道徳法の一般性を説明することができないがゆえに、義務の威厳が滅却され各人の好尚(好み)をもって唯一の標準としなければならないようになるのを恐れて、理の一般性に基づいて道徳法の一般性を説明し義務の威厳を立てようとしたのだ。この説は度々前に言った直覚説と混同されることが多いが、直覚ということは必ずしも理性の直覚と限るわけではない(知覚、感情も含む)。この二者(合理説、直覚説)は二つに分けて考えた方が良いと思う。
 私は合理説の最醇なものはクラークの説であると考える。氏の考えによれば、すべての人事界における物の関係は数理のように明確なもので、これによって自ら物の適当不適当を知ることができるという。たとえば神は我々から無限に優秀なものであるから、我々はこれに服従しなければならないとか、他人が己に施して不正な事は自分が他人に為しても不正であるというようなわけだ。氏はまたなぜ人間は善を為さねばならないかを論じて、合理的動物は理に従わざるべからず(理に従う)と言っている。時としては、正義に反して働こうとする者は物の性質を変えようと欲するような者であるとまで言って、完全に「ある」ということと「あらねばらなぬ」ということを混同している。
 合理説が道徳法の一般性を明らかにし、義務を厳粛ならしめようとするのは可なれども、これをもって道徳の全体を説き得たものとなすことはできない。論者の言うように、我々の行為を指導する道徳法というものが、形式的理解力によって先天的に知り得るものであろうか。純粋な形式的理解力は論理学のいわゆる思想の三法則というような、単に形式的理解の法則を与えることはできるが、何らの内容を与えることはできない。論者は好んで例を幾何学にとるが、幾何学においても、その公理というものは単なる形式的理解力によって明らかになったのではなく、空間の性質からくるのだ。幾何学の演繹的推理は空間の性質についての根本的直覚に、論理法を応用したものだ。倫理学においても、すでに根本原理が明らかとなった上は、これ(根本原理)を応用するには、論理の法則によらねばならないのだろうが、この原則(根本原理)そのものは論理の法則によって明らかになったのではない。例えば汝の隣人を愛せよという道徳法は単に理解力により明らかであるのだろうか。我々は他愛の性質もあれば、また自愛の性質もある。だが何故その一つが優れていて、他が劣っているのだろうか。これを定めるものは理解力ではなく、我々の感情または欲求だ。我々は単に知識上で物の真相を知り得たとしても、これから何が善であるかを知ることはできない。かくある、ということから、かくあらねばならない、ということを知ることはできない。クラークは物の真相から適不適を知ることができるというが、適不適ということはすでに純粋な知識上の判断(論理的判断)ではなく、価値的判断だ。何か求めるところのもの(感情または欲求)があって、しかる後適不適の判断が起こってくるのだ。
 次に(合理説)論者は何故我々は善を為さねばならないかということを説明して、理性的動物であるがゆえに理に従わなければならないという。理を理解する者は知識上において理に従わなければならないのは当然だ。しかし単なる論理的判断というものと意志の選択は別物だ。論理の判断は必ずしも意志の原因にはならない。意志は感情または衝動から起こるもので、単なる抽象的論理から起こるものではない。己の欲せざる所人に施すなかれという格言も、もし同情という動機がなかったならば、我々に対してほとんど無意義だ。もし抽象的論理が直ちに意志の動機となり得るものならば、最も推理に長じた人がすなわち最善の人と言わなくてはならない。だが事実は時に、これに反して知ある人よりもかえって無知なる人が一層善人であることは、誰も否定することはできない。
 『前に合理説の代表者としてクラークをあげたが、クラークはこの説の理論的方面の代表者であって、実効的方面を代表する者はいわゆる犬儒学派だろう。この派はソクラテスが善と知を同一視するのに基づき、全ての情欲快楽を悪となし、これに打ち勝って純理に従うのを唯一の善となした。しかもそのいわゆる理というものは単なる情欲に反するのみで、何らの内容なき消極的な理だ。道徳の目的は単に情欲快楽に克って精神の自由を保つということのみであった。有名なディオゲネスの如きがそのよい模範だ。その学派の後またストア学派というものがあって、同一の主義を唱えた。ストア学派に従えば、宇宙は唯一の理によって支配されるもので、人間の本質もこの理性の外に出ない。理に従うのは即ち自然の法則に従うのであって、これが人間において唯一の善だ。生命、健康、財産も善ではなく、貧苦、病死も悪ではない。ただ内心の自由と平静が最上の善であると考えた。その結果犬儒学派と同じく、全ての情欲を排斥して単なる無欲たらんことを務めるようになった。エピクテートの如きはその好例だ。
 右の学派のように、完全に情欲に反対する純理を以って人生の目的となすときには、理論上においても何らの道徳的動機を与えることができないように、実行上においても何らの積極的善の内容を与えることはできない。シニックスやストアが言ったように、単に情欲に打ち勝つということが唯一の善と考えるよりほかはない。しかし我々が情欲に打ち勝たねばならないというのは、更に何か大なる目的を求めるべきものがあるからである。単に情欲を制するために制するのが善であると言えば、これより不合理なことはあるまい』

第八章 倫理学の諸説 その四
 合理説は他律的倫理学に比べればさらに一歩を進めて、人性自然の中から善を説明しようとするものだ。しかし単なる形式的理性を本としては、前に言ったように、何故善を為すべきなのかという根本的問題を説明することはできない。そこで我々が深く自己の中を反省してみると、意志はすべて苦楽の感情から生じるので、快を求め不快を避けるというのが人情の自然で動かすことのできない事実だ。我々が表面上完全に快楽の為ではない行為、例えば身を殺して仁を為すというような場合でも、その裏面について探ってみると、やはり一種の快楽を求めているのだ。意志の目的はつまるところ快楽の外になく、我々が快楽を以って人生唯一の目的となし、道徳的善行為の区別もこの原理から説明しようとする倫理学説が起こるのは自然の勢いだ。これを快楽説という。この快楽説には二種あって、一つを利己的快楽説といい、他を公衆的快楽説という。
 利己的快楽説とは、自己の快楽を以って人性(人生?)唯一の目的となし、我々が他人の為にするという場合においても、実際は自己の快楽を求めているのであると考え、最大な自己の快楽が最大の善となすのだ。この説の代表者はギリシャにおけるキレーネ学派とエピクロースだ。アリスチッポスは肉体的快楽の外に精神的快楽があることは許したが、快楽はどのような快楽でもすべて同一の快楽である、ただ、大なる快楽が善であると考えた。そして氏は積極的快楽を尊び、また一生の快楽よりもむしろ瞬間の快楽を重んじたので、最も純粋な快楽説の代表者と言わなければならない。エピクロースはやはりすべての快楽を同一となし、快楽が唯一の善で、どのような快楽も苦痛の結果を生じない以上は、排斥すべきものにあらずと考えたが、氏は瞬間の快楽よりも一生の快楽に重きを置き、積極的快楽よりもむしろ消極的快楽、すなわち苦悩なき状態を尊んだ。氏の最大の善というのは心の平和ということだ。しかし氏の根本主義は何処までも利己的快楽説であって、ギリシャ人のいわゆる四つの主徳、叡知、節制、勇気、正義というようなものも自己の快楽の手段として必要であるのだ。正義ということも、正義そのものが価値あるのではなく、各人相犯さずして幸福を享ける手段として必要なのだ。この主義は氏の社会的生活に関する意見において最も明らかだ。社会は自己の利益を得るために必要なのだ。国家は単に個人の安全をまもるために存在するのだ。もし社会的煩累(面倒事)を避けてしかも十分な安全を得ることができるなら、これは大いに望むべきところだ。氏の主義はむしろ隠遁主義だ。氏はこれによって、なるべく家族生活も避けようとした。
 次に公衆的快楽説、すなわちいわゆる功利教について述べてみよう。この説は根本的主義においては完全に前説と同一だが、ただ個人の快楽を以って最上の善となさず、社会公衆の快楽を以って最上の善となす点において、前説と異なっている。この説の完全な代表者はベンザムだ。氏に従えば、人生の目的は快楽であって、善は快楽の外にない。いかなる快楽も同一であって、快楽には種類の差別はない(留め針押しの遊戯の快楽も高尚な詩歌の快楽も同一だ)。ただ大小の数量的差異あるのみだ。我々の行為の価値は直覚論者の言うように(行為)そのものに価値があるのではなく、完全にこれ(行為)から生じる結果によって定まるのだ。すなわち大なる快楽を生じる行為が善行だ。そしてどのような行為が最も大なる善行であるかといえば、氏は個人の最大幸福よりも多人数の最大幸福が快楽説の原則からして道理上、一層大なる快楽と考えねばならないから、最大多数の最大幸福というのが最上の善であると言っている。またベンザムはこの快楽説によって、行為の価値を定める科学的方法を論じている。氏に従えば、快楽の価値はたいてい数量的に定め得るものであって、例えば強度、長短、確実、不確実という標準によって快楽の計算ができると考えたのだ。氏の説は快楽説として実によくつじつまの合ったものだが、ただ一つ何故個人の最大幸福ではなく、最大多数の最大幸福が最上の善でなければならないかという説明が明瞭ではない。快楽にはこれを感じる主観がなければならない。感じる者があればこそ快楽があるのだ。そしてこの感じる主というのはいつでも個人でなければならない。ならば快楽説の原則から何故個人の快楽よりも多人数の快楽を上におかなければならないのか。人間には同情というものがあるから、己一人楽しむよりは、人とともに楽しんだ方が一層大なる快楽であるかもしれない。ミルなどはこの点に着目している。しかしこの場合においても、この同情からくる快楽は他人の快楽ではなく、自分の快楽だ。やはり自己の快楽が唯一の標準であるのだ。もし自己の快楽と他人の快楽と相衝突した場合はどうだろう。快楽説の立脚地からしては、それでも自己の快楽を捨てて他人の快楽を求めねばならないということができるだろうか。エピクロースのように利己主義となるのが、かえって快楽説の必然な結果だろう。ベンザムもミルも極力自己の快楽と他人の快楽が一致するものであると論じているが、このようなことは到底、経験的事実の上において説明はできないと思う。
 これまで一通り快楽説の主な点を述べたので、これからその批評に移ろう。まず快楽説の根本的仮定である快楽は、人性唯一の目的であるということを承認したところで、果たして快楽説によって十分な行為の規範を与えることができるだろうか。厳密な快楽説の立脚地から見れば、快楽はどのような快楽でも皆同種であり、これ(快楽の種類)によって(行為の)価値が異なるものであるとするならば、快楽の外に別に価値を定める原則を許さなければならないことになる。すなわち快楽が行為の価値を定める唯一の原則であるという主義と衝突する。ベンザムの後を受けたミルは、快楽に色々性質上の差別があることを許し、二種の快楽の優劣は、この二種を同じように経験できる人は容易にこれ(優劣)を定めることができると考えている。例えば豚となって満足するよりはソクラテスとなって不満足なることは誰もが望むところだ。そしてこれらの差別は人間の品位の感から来るものと考えている。しかしミルのようなものは明らかに快楽説の立脚地を離れたもので、快楽説から言えば一つの快楽が他の快楽より小なるに関せず、他の快楽よりも尊きものであるということは許されない(大きい快楽が小さい快楽よりも尊い)。ならばエピクロース、ベンザム諸氏のように純粋に快楽は同一であり、ただ数量的に異なるものとして快楽の数量的関係を定め、これによって行為の価値を定めることができるだろうか。アリスチッポスやエピクロースは単に知識によって弁別ができると言っているだけで、明瞭な標準を与えてはいない。独りベンザムは上に言ったようにこの標準を詳論している。しかし快楽の感情というものは一人の人においても、時と場合によって非常に変化しやすいものだ。一つの快楽より他の快楽が強度において勝るかは明瞭ではない。更にどの程度の強度がどの程度の継続に相当するかを定めるのは極めて困難だ。一人の人においてすらこのように快楽の尺度を定めるのが困難であるとすれば、公衆的快楽説のように他人の快楽も計算して快楽の大小を定めようとするのは尚更困難だ。普通にはすべて肉体の快楽より精神の快楽が上であると考えられ、冨より名誉が大切で、己一人の快楽より大人数の快楽が尊いなどと、伝説的(伝統的)に快楽の価値が定まっているようだが、このような標準は様々な方面の観察からできたもので、決して単純な快楽の大小から定まったものとは思われない。
 右は快楽説の根本的原理を正しいものとして論じたのだが、このように見ても、快楽説によって我々の行為の価値を定めるべき正確な規範を得ることはすこぶる困難だ。今一歩を進めてこれらの根本原理について考究してみよう。すべて人は快楽を希望し、快楽が人性唯一の目的であるというのはこの説の根本的仮定であって、またすべての人の言うところであるが、少し考えてみると、決してそれが真理でないことが明らかだ。人間には利己的快楽の外に、高尚な他愛的または理想的欲求のあることを許さなければならない。例えば己の欲を抑えても、愛する者に与えたいとか、自己の身を失っても理想を実行しなければならないというような考えは誰の胸裏にも多少は潜んでいるものだ。時あってこれらの動機が非常な力を現し来り、人をして思わず悲惨な犠牲的行為をあえてせしむることも少なくない。快楽論者の言うように人間が完全に自己の快楽を求めているというのは真理のようではあるが、かえって事実から遠ざかったものだ。もちろん快楽論者もこれらの事実を認めないわけではないが、人間がこれらの欲望を有し、これがために犠牲的行為をあえてするのも、つまり自己の欲望を満足させようとするので、裏面から見ればやはり自己の快楽を求めるに過ぎないと考えているのだ。しかしいかなる人もまたいかなる場合も欲求の満足を求めているということは事実だが、欲求の満足を求める者がすなわち快楽を求める者であるとは言われない。いかに苦痛多き理想でもこれを実行しえた時は、必ず満足の感情を伴うのだ。そしてこの感情は一種の快楽には相違ないが、このためにこの快感が初めから行為の目的であったとは言われまい。このような満足の快感というものが起こるには、まず我々に自然の欲求というものがなければならない。この欲求があればこそ、これを実行して満足の快楽を生じるのだ。この快感あるが為に、欲求はすべて快楽を目的としているというのは、原因と結果を混同したものだ。我々人間には先天的に他愛の本能がある。これあるが故に、他を愛するということは我々に無限の満足を与えるのだ。しかしこれ(他愛の本能)が為に自己の快楽のために他を愛したのだとは言われない。少しでも自己の快楽のためにするという考えがあったならば、決して他愛からくる満足の感情を得ることはできないのだ。他愛の欲求ばかりでなく、自愛的欲求と言われているものも単に快楽を目的としているものはない。たとえば食色(食欲と情欲)の欲も快楽を目的とするというよりは、かえって一種の先天的本能の必然に駆られて起こるものだ。飢えたものはかえって食欲のあるのを悲しみ、失恋の人はかえって愛情あるのを恨むだろう。もし快楽が人間の唯一の目的ならば、人生ほど矛盾に富んだものはないだろう。むしろすべて人間の欲求を断ちさった方がかえって快楽を求める途になる。エピクロースがすべての欲を脱した状態、すなわち心の平静をもって最上の快楽となし、かえって正反対の原理から出立したストイックの理想と一致したのもこれ故だ。
 しかしある快楽論者では、我々が今日快楽を目的としない自然の欲求であると思っているものでも、個人の一生または生物の進化の経過において習慣によって第二の天性となったので、元は意識的に快楽を求めたものが無意識となったのであると論じている。すなわち快楽を目的としない自然の欲求というのは、つまり快楽を得る手段であったものが、習慣によって目的そのものとなったというのだ(ミルなどはこれについてよく金銭の例を引いている)。なるほど、我々の欲求の中にはこのような心理的作用によって第二の天性となったものもあるだろう。しかし快楽を目的としない欲求はことごとくこのような過程によって生じたものとは言われない。我々の精神はその身体と同じく生まれながらにして活動的だ。様々な本能をもっている。鶏の子が生まれながら籾を拾い、アヒルの子が生まれながらに水に入るのも同じ理由だ。これらの本能と称すべきものが本当に遺伝によって、元々意識的であったものが無意識的習慣となったのだろうか。今日の生物進化の説によれば、生物の本能は決してこのような過程によって出来たものではない。元々生物の卵が具有した能力であって、事情に適するものが生存してついに一種の特有な本能を発揮するに至ったのだ。
 上に論じたように、快楽説は合理説に比べれば一層人生の自然の近づいたものであるが、この説によれば善悪の判別は単なる苦楽の感情によって定められることとなり、(善悪の)正確な客観的標準を与えることができず、かつ道徳的善の命令的要素(威厳)を説明することができない。そうであるのみならず、快楽を以って人性唯一の目的となすのは未だ真に自然の事実に合ったものと言うことはできない。我々は決して快楽によって満足することはできない。もし単に快楽のみを目的とする人があったならば、かえって人性にもとった人だ。

第九章 善(活動説)
 すでに善意ついての様々な見解を論じ、かつその不十分な点を指摘したので、善の真正な見解はどのようなものであるかが明らかになったと思う。我々の意志が目的としなければならない善、すなわち我々の行為の価値を定めるべき規範は、どこに求めねばならないか。かつて価値的判断の本を論じたところで言ったように、この判断の本は、意識の直接経験に求めなければならない。善とはただ意識の内面的要求から説明すべきものであって、外から説明すべきものではない。単に事物はこのようにある、またはこのようにして起こったということから、このようであらねばならないということを説明することはできない。真理の標準も結局は意識の内面的必然であり、アウグスチヌスやデカートのように最も根本に立ち返って考えた人は皆ここ(直接経験)から出立したように、善の根本的標準もまたここに求めなければならない。だが他律的倫理学(権力説)の如きは、善悪の標準を外に求めようとしている。このようなのは、到底善をなぜ為さざるべからざるか(為さねばならないか)を説明することはできない。合理説が意識の内面的作用の一つである理性から善悪の価値を定めようとするのは、他律的倫理学と比べて一歩を進めたものと言うことは来るが、理は意志の価値を定めるべきものではない。ヘフディングが意識は意志の活動を以って始めりまたこれを以って終わると言ったように、意志は抽象的理解の作用(理解力)よりも根本的事実だ。後者(理解力)が前者(意志)を起こすのではなく、かえって前者が後者を支配するのだ。ならば快楽説はどうだろう。感情と意志はほとんど同一現象の強度と言ってもよいくらいだが。前に言ったように快楽はむしろ意識の先天的要求の満足から起こるもので、いわゆる衝動、本能というような先天的要求が快不快の感情よりも根本的であると言わねばならない。
 善は何であるかの説明は意志そのものの性質に求めねばならないことは明らかだ。意志は意識の根本的統一作用であって、直ちにまた実在の根本である統一力(統一的或者)の発現だ。意志は他のための活動ではなく、己自らの為の活動だ。意志の価値を定める根本は意志そのものの中に求めるより外はないのだ。意志活動の性質は、前に行為の性質を論じた時に言ったように、その根底には先天的要求というものがあって、意識の上にはそれが目的観念として現れ、これによって意識を統一するのだ。この統一が完成された時、すなわち理想が実現された時、我々に満足の感情を生じ、これに反した時は不満足の感情を生じるのだ。行為の価値を定めるものは、一つはこの意志の根本である先天的要求にあるので、この要求すなわち我々の理想を実現し得た時にはその行為は善として称賛され、これに反した時は悪として非難されるのだ。ならば善とは我々の内面的要求、すなわち理想の実現、換言すれば意志の発展完成であるということになる。このような「根本的理想(先天的理想)」に基づく倫理学説を活動説という。
 『この説はプラトー、アリストテレスに始まる。特にアリストテレスはこれに基づいて一つの倫理を組織したのだ。氏に従えば、人生の目的は幸福である。しかしこれに達するには快楽を求めることによるのではなく、完全な活動によるのだ』
 世のいわゆる道徳家というものは多くこの活動的方面を見逃している。義務とか法則とか言って、いたずらに自己の要求を抑圧し活動を束縛するのを以って善の本性と心得ている。もちろん不完全な我々はとかく活動の真意義を解せず、岐路に陥る(迷う)場合が多いのだから、このような傾向を生じたのも無理ならぬことであるが、一層大なる要求を実現すべきものがあってこそ、小さな要求を抑制する必要が起こるのだ。いたずらに要求を抑制するのはかえって善の本性にもとったものだ。善には命令的威厳の性質も具えていなければならないが、命令的威厳よりも自然的好楽というのが一層必要な性質だ。いわゆる道徳の義務とか法則とかいうのは、義務あるいは法則そのものに価値があるのではなく、かえって大きな要求に基づいて起こるのだ。この点から見て善と幸福は相衝突しないばかりでなく、かえってアリストテレスの言ったように善は幸福であるということができる。我々が自己の要求を満たすまたは理想を実現する(=善をなす)ということは、いつでも幸福だ。善の裏面には必ず幸福の感情を伴う必要がある。ただ快楽説の言うように、“意志は快楽の感情を目的とするもので、快楽が即ち善である”と言うことはできない。快楽と幸福は似て非なるものだ。幸福は満足によって得ることができ、満足は理想的要求の実現に起こるのだ。孔子が「疎食そしを飯くらひ、水を飲み、肱ひじを曲げて之を枕とす、楽も亦其の中に在り」と言われたように、我々は場合によっては苦痛の中にいてもなお幸福を保つことができるのだ。真正の幸福はかえって厳粛な理想の実現によって得られるべきものだ。世人はよく、自己の理想の実現または要求の満足を、利己主義またはわがまま主義と同一視している。しかし最も深い自己の内面的要求の声は、我々にとって大きな威力を有し、人生においてこれより厳なるものはないのだ。
 さて善とは理想の実現、要求の満足であるとすれば、この要求といい理想というものは何から起こってくるのか。善とはどのような性質のものか。意志は意識の最深な統一作用であって、すなわち自己そのものの活動であるから、意志の原因となる本来の要求(先天的要求)あるいは理想は、要するに自己(統一的或者)そのものの性質から起こるのだ。すなわち自己の力であると言ってもよいのだ。我々の意識は思惟、想像においても意志においても、またいわゆる知覚、感情、衝動においても皆その根底には内面的統一というものが働いているので、意識現象はすべてこの一なるもの(統一的或者)の発展完成だ。このように考えれば意志の発展完成は直ちに自己の発展完成となるので、善とは自己の発展完成であるということができる。すなわち我々の精神が様々な能力を発展し円満な発達をとげるのが最上の善だ。竹は竹、松は松と各自その天賦を十分に発揮するように、人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善だ。スピノーザも徳とは自己固有の性質に従って働くという意味に外ならずと言った。
 これにおいて善の概念は美の概念と近接してくる。美とは物が理想の様に実現する場合に感じられるのだ。理想のように実現するというのは物が自然の本性を発揮するという意味だ。花が花の本性を現した時最も美であるように、人間が人間の本性を現した時は美の頂上に達するのだ。善は即ち美だ。たとえ行為そのものは大なる人性の要求から見て何らの価値なきものであっても、その行為が真にその人の天性から出でた自然の行為であった時は、一種の美感を感じるように、道徳上においても一種寛容の情を生じるのだ。ギリシャ人は善と美を同一視している。この考えは最もよくプラトーにおいて現れている。
 また一方から見れば善の概念は実在の概念とも一致してくる。かつて論じたように、一つのもの(統一的或者)の発展完成というのがすべて実在成立の根本的形式(=意志の形式)であって、精神も自然も宇宙も皆この形式において成立している。そのように見れば、今自己の発展完成であるという善とは、自己の実在の法則に従うという意味だ。すなわち自己の真実在(統一的或者)と一致するのが最上の善ということになる。すると道徳の法則は実在の法則(統一的或者の法則)の中に含まれるようになり、善とは自己の実在の真性から説明が出来ることとなる。いわゆる価値的判断の本である内面的欲求と実在の統一力(統一的或者の分化発展の力)は一つであり、二つあるのではない。存在と価値を分けて考えるのは、知識の対象(存在)と情意の対象(価値)を分かつ抽象的作用(理解力)からくるので、(意識現象という)具体的真実在においてはこの両者は元々一つであるのだ。すなわち善を求め善に還るというのは、つまり自己の真(自己の法則、本性)を知ることになる。合理論者が真と善を同一にしたのも一面の真理を含んでいる。しかし抽象的知識(真)と善は必ずしも一致しない。この場合における「知る」とはいわゆる体得の意味でなければならない(理解力による抽象的概念ではない)。これらの考えはギリシャにおいてプラトー、またインドにおいてウパニシャッドの根本的思想であって、善に対する最深の思想であると思う(プラトーでは善の理想が実在の根本だ。また中世哲学においても「すべての実在は善なり」という句がある)。

第十章 人格的善
 前に、まず善とはどのようなものでなければならないかを論じ、善の一般の概念を与えたのだが、これから我々人間の善とはどのようなものであるかを考究し、この特徴を明らかにしようと思う。我々の意識は決して単純な一つの活動ではなく、様々な活動の総合であることは誰にも明らかな事実だ。そうして見ると、我々の要求というものも決して単純ではない。様々な要求があるのが当然だ。ならばこれらの様々な要求の中で、どの要求を満たすのが最上の善であるのか。我々の自己全体の善とはどのようなものであるのかという問題が起こってくる。
 我々の意識現象には一つも孤独なものがない。必ず他との関係の上において成立するのだ。一瞬の意識でもすでに単純ではない。その中に複雑な要素を含んでいる。そしてこれらの要素は互いに独立したものではなく、互いの関係上において一種の意味をもったものだ。一時の意識がこのように組織されてあるのみではなく、一生の意識もまたこのような(統一的或者が分化発展した)一体系だ。自己とはこの全体の統一(統一的或者の分化発展の全体)に名付けたものだ。
 そうしてみると、我々の要求というのも決して孤独に起こるものではない。必ず他との関係上において生じてくるのだ。我々の善とはある一種または一時の要求のみを満足するというものではなく、ある一つの要求はただ全体との関係上において(体系的に)初めて善となることは明らかだ。例えば身体の善はその一局部の健康ではなく、全身の健全な関係にあるのと同一だ。活動説から見て、善とはまず様々な活動の一致調和あるいは中庸ということとならねばならない。我々の良心とは調和統一の意識作用ということになる。
 『調和が善であるというのはプラトーの考えであった。氏は善を音楽の調和に例えている。英のシャッフベリなどもこの考えを取っている。また中庸が善であるというのはアリストテレスの説であって、東洋においては中庸の書にも表れている。アリストテレスはすべて徳は中庸にあるとなし、例えば勇気は粗暴と臆病の中庸で、節倹(節約)は吝嗇(ケチ)と浪費の中庸であると言った。よく子思の考えに似ている。また進化論の倫理学者スペンサーの如きが、善は様々な能力の平均であると言っているのも、つまり同一の意味だ』
 しかし、単に調和であるとか中庸であるとかいったのではまだ意味が明瞭ではない。調和とはどのような意味においての調和であるか、中庸とはどのような意味においての中庸であるか。意識は同列な活動の集合ではなく、統一された一体系(統一的或者の体系的な分化発展)だ。その調和または中庸ということは、数量的な意味ではなくて体系的秩序の意味でなければならない。ならば我々の精神の様々な活動における固有な秩序はどのようなものであるか。我々の精神もその低い程度においては動物の精神と同じく単に本能的だ。すなわち目前の対象に対して騒動的に働くので、完全に肉欲によって動かされるのだ。しかし意識現象はいかに単純であっても必ず観念の要求を具えている。意識活動がいかに本能的と言っても、その背後に観念活動(理想、目的観念)が潜んでいなければならない(動物でも高等なものは必ずそうであると思う)。どのような人間でも、決して純粋に肉体的欲望を以って満足するものではない。必ずその心の底には観念的欲望が働いている。すなわちいかなる人も何らかの理想を抱いている。守銭奴が利を貪るのも、一種の理想からくるのだ。ゲーテの菫(すみれ)という詞に、野の菫が少なき牧女に踏まれながら愛の満足を得たというようなことがある。これがすべての人間の真情であると思う。観念活動(理想、目的)というのは精神の根本的作用であって、我々の意識はこれによって支配されるべきものだ。すなわちこれから起こる要求を満足するのが我々の真の善であると言わなければならない。ならばさらに一歩進んで、観念活動の根本的法則とはどのようなものであるかといえば、すなわち理性の法則ということとなる。理性の法則というのは観念の間の最も一般的でかつ最も根本的な関係を言い表したもので、観念活動を支配する最上の法則だ。そこでまた理性というものが我々の精神を支配すべき根本的能力で、理性の満足が我々の最上の善である、何でも理に従うのが人間の善であるということになる。シニックやストイックはこの考えを極端に主張した者で、これが為に全て人心の(理性以外の)他の要求を悪として排斥し、理に呑み従うのが一つの善であるとまで言った。しかしプラトーの晩年の考えやアリストテレスでは理性の活動から起こるのが最上の善であるが、また理性から他の活動を支配し統御するのも善であると言った。
 『プラトーは有名な「共和国」において人心の組織を国家の組織と同一視し、理性に統御された状態が国家においても個人においても最上の善と言っている』
 もし我々の意識が様々な能力の総合から成っていて、その一つ(この場合理性)が他を支配すべきように構成されてあるものならば、活動説における善とは右に言ったように理性に従って他を制御するにあると言わねばならない。しかし我々の意識は元々一つの活動だ。その根底にはいつでも唯一の力(統一的或物の分化発展の力)が働いている。知覚とか衝動とかいう瞬間的意識活動にもこの力が現れている。さらに進んで思惟、想像、意志というような意識的活動に至れば、この力が一層深遠な形において現れてくる。我々が理性に従うというのも、つまりこの深遠な統一力に従うという意味に他ならない。そうでなく抽象的に考えた理性というものは、かつて合理説を評したところで述べたように、何らの内容なき形式的関係を与えるに過ぎない。この意識の統一力(統一的或物の分化発展の力)というものは決して意識の内容を離れて存在するのではない。かえって意識内容はこの力によって成立するものだ。もちろん意識の内容を個々に分析して考える時は、この統一力を見出すことはできない。しかしその総合の上に厳然として動かすべからざる一事実として現れるのだ。例えば絵画に現れた一種の理想、音楽に現れた一種の感情のようなもので、分析理解すべきものではなく、直覚自得すべきものだ。そしてこのような統一力(統一的或者の分化発展する力)をここに各人の「人格」と名付けるならば、善はこのような人格、すなわち統一力の維持発展にあるのだ。
 ここで言ういわゆる人格の力とは単なる動植物の生活力というような自然的物力を指すのではない。また本能のような無意識の能力を指すのではない。本能作用とは有機作用から起こる一種の物力だ。人格とはこれに反し、意識の統一力だ。しかしこのように言っても、人格とは“各人の表面的意識の中心とされる極めて主観的な様々な希望のようなもの”を言うのではない。これらの希望は幾分かその人の人格を現すものであろうが、かえってこれらの希望を没し、自己を忘れたところに真の人格が現れるのだ(ここは西田の参禅経験から導かれた直覚的思想と思われ、参禅経験のない人には分かりづらいと想像する。かく言う筆者も直覚的に分かったと言えない)。さらばとてカントの言ったような完全に経験的内容を離れ、各人に一般的な純理の作用というようなものでもない。人格はその人その人によって特殊な意味を持ったものでなければならない。真の意識統一というのは我、我を知らずして自然に現れ来る純一無雑の作用であって、知情意の分別なく主客の隔離ない、独立自全な意識本来の状態だ。我々の真人格(統一的或者)はこのようなときにその全体を現すのだ。ゆえに人格は単なる理性にあらず欲望にあらず、況や無意識衝動にあらず、あたかも天才の神来のような各人の内から直接に自発的に活動する無限の統一力だ(古人も道は知、不知に属せずといった)。そしてかつて実在の論に述べたように意識現象が唯一の実在であるとすれば、我々の人格とは直ちに宇宙統一力の発動だ。すなわち物心の別を打破する(主客が合一している)唯一実在が事情に応じある特殊な形において現れたものだ(我々の意識現象という実在は、宇宙統一力そのものであり、しかも各人により個性を持つものだ)。
 『我々の善とはこのような偉大な力の実現であるから、その要求は極めて厳粛だ。カントも我々が常に無限の耽美と畏敬を以ってみるものが二つある。一つは上にかかる星斗爛漫なる天と、一つは心内における道徳的法則であると言った』

第十一章 善行為の動機(善の形式)
 上に論じたことを総括していえば、善とは自己の内面的要求を満足するものを言うので、自己の最大な要求とは意識の根本的統一力すなわち人格の要求であるから、これを満足する事、すなわち人格の実現というのが我々にとって絶対的善だ。そしてこの人格の要求とは意識の統一力(統一的或者が分化発展する力)であるとともに実在の根底における無限な統一力の発現だ。我々の人格を実現するというのはこの力に合一するという意味だ。善はこのようなものであるとすれば、これから善行為とはどのような行為であるかを定めることができると思う。
 右の考えからまず善行為とは、人格を目的とした行為であるということは明らかだ。人格はすべての価値の根本であり、宇宙間においてただ人格のみ絶対的価値を持っているのだ。我々にはもとより様々な要求がある。肉体的要求もあれば精神的要求もある。従って富、力、知識、芸術等、種々貴ぶべきものがあるに相違ない。しかしいかに強大な要求でも高尚な要素でも、人格の要求を離れては何らの価値を有しない。ただ人格的要求の一部または手段としてのみ価値を有するのだ。富貴、権力、健康、技能、学識もそれ自身において善であるのではない。もし人格的要求に反した時にはかえって悪となる。そこで絶対的善行とは人格の実現(統一的或者の体系的な文化発展)そのものを目的とした、すなわち意識統一そのものの為に働いた行為でなければならない。
 『カントに従えば、物は外からその価値を定められるのでその価値は相対的であるが、ただ我々の意志は自ら価値を定めるもので、すなわち人格は絶対的価値を有している。氏の教えは誰も知るように汝及び他人の人格を敬し、目的そのものとして取り扱え、決して手段として用いるなかれということであった』
 ならば真に人格そのものを目的とする善行為とはどのような行為でなければならないか。この問いに答えるには人格活動の客観的内容を論じ、行為の目的を明らかにしなければならないのだが、まず善行為における主観的性質、即ち「動機」を論じることとしよう。善行為とは自己の内面的必然から起こる行為でなければならない。前にも言ったように、我々の全人格の要求は、我々が今だ思慮分別しない直接経験の状態においてのみ自覚することができる。人格(統一的或者)とはこのような場合においての心の奥底から現れ来って、徐々に全心を包容する一種の内面的要求の声だ。人格そのものを目的とする善行はこのような(統一的或者の分化発展の)要求に従った行為でなければならない。これに背けば自己の人格を否定したものだ。至誠とは善行に欠くべからざる要件だ。キリストも天真爛漫嬰児のような者のみ天国に入るを得ると言われた。至誠が善であるのは、これから生じる結果の為に善であるのではない。それ自身において善なるのだ。人を欺くのが悪であるの言うのは、これから起こる結果によるよりも、むしろ自己を欺き自己の人格を否定する故だ(自己の人格が要求する内面的必然に背くが故だ)。
 自己の内面的必然とか天真(純粋な性質)の要求とかいうのは往々誤解を免れない。ある人は放縦無頼、社会の規律を顧みず自己の情欲を束縛しないのが天真であると考えている。しかし「人格の内面的必然すなわち至誠」というのは知情意合一の上の要求だ。知識の判断、人情の要求に反して単に盲目的衝動に従うという意味ではない。自己の知を尽くし情を尽くした上において初めて真の人格的要求、すなわち至誠(人格の内面的必然)が現れてくるのである。自己の全力を尽くしきり、ほとんど自己の意識が無くなり、自己が自己を意識しないところに、初めて真の人格を見るのだ。試しに芸術の作品について見よ。画家の真の人格、すなわちオリジナリティはどのような場合に現れるか。画家が意識の上において様々な企図をなす間は未だ真に画家の人格を見ることはできない。多年苦心の結果、技術が内に熟して意至り筆自ら随うところに到って、はじめてこれ(真の人格)を見ることができるのだ。道徳上における人格の発現もこれと異ならないのだ。人格を発現するのは一時の情欲に従うのではなく、最も厳粛な内面の要求に従うのだ。放縦惰弱(わがまま。気まま。また、気ままに振る舞うこと)とは正反対であって、かえって艱難辛苦の事業だ。
 自己の真摯な内面的要求に従うということ、すなわち自己の真人格を実現するということは、客観に対して主観を立し、外物を自己に従えるという意味ではない。自己の主観的空想を消磨しつくして、完全にものと一致したところに、かえって自己の真要求を満足し真の自己を見ることができるのだ。一面から見れば各自の客観的世界は各自の人格の反映であるということができる。いや、各自の真の自己は各自の前に現れた独立自全な実在の体系(意識現象=実在=統一的或者の体系的な分化発展の過程)そのものの外はないのだ。それでどのような人でも、その人の最も真摯な要求はいつでもその人の見る客観的世界の理想と常に一致したものでなければならない。例えばいかに私欲的な人間であっても、その人に多少の同情というものがあれば、その人の最大要求は、必ず自己の満足を得た上は他人に満足を与えたいということであろう。自己の要求というのは単なる肉体的欲望と限らず理想的要求ということを含めて言うならば、どうしてもこのように言わなければならない。私欲的なればなるほど、他人の私欲を害することに少なからざる心中の苦悶を感じるのだ。かえって私欲ない人にして初めて心を安んじて他人の私欲を破る(害する)ことができるであろうと思う(例えば、子供が虫を平気で殺すのは、殺生に罪悪感を持たないから)。自己の最大要求を満たし自己を実現するということは、自己の客観的理想を実現するということになる。すなわち(自己という主が)客観と一致するということである。この点から見て善行為は必ず愛であるということができる。愛というのはすべて自他一致の感情だ。主客合一の感情だ。人が人に対する場合のみでなく、画家が自然に対する場合も愛だ(画家は自然と一致して絵を描く)。
 『プラトーは有名な「シムポジュール」において愛は、欠けた者が元の全き状態に還らんとする情であると言っている』
 しかし更に一歩を進めて考えてみると、真の善行というのは客観を主観に従えるのでもなく、また主観が客観に従うのでもない。主客相没し物我相忘れ、天地唯一実在の活動あるのみに至って、初めて善行の極致に達するのだ。物が我を動かしたのでもよし、我が物を動かしたのでもよい。雪舟が自然を描いたものでもよし、自然が雪舟を通して自己を描いたものでもよい。元々物と我との区別があるのではない。客観的世界は自己の反映と言い得るように、自己は客観的世界の反映だ。我が観る世界を離れて我はない(実在第九章、精神を参照せよ)。天地同根万物一体である。インドの古賢はこれを「それは汝である」といい、パウロは、もはや余(私)生けるにあらずキリスト余に在りて生けるなりといい、孔子は心の欲するところに従って矩をこえず(自分の心に思う事をそのまま行なっても、まったく道徳の規範から外れることがない)といわれたのだ。

第十二章 善行為の目的(善の内容)
 人格そのものを目的とする善行為を説明するについて、まず善行為とはどのような動機から発する行為でなければならないかを示したが、これからどのような目的を持った行為であるかを論じてみよう。善行為というのも単なる意識内面の事にあらず、この事実界にある客観的結果を生じることを目的とする動作であるから、我々は今この目的の具体的内容を明らかにしなければならない。前に論じたのはいわば善の形式で、今論じようとするのは善の内容だ。
 意識の統一力であってかねて実在の統一力である人格は、まず我々の個人において実現される。我々の意識の根底には分析のできない個人性というもの(統一的或者)がある。意識活動はすべて皆個人性(統一的或者)の発動だ。各人の知識、感情、意志はことごとくその人に特有な性質を具えている。意識現象ばかりでなく、各人の容貌、言語、挙動の上にもこの個人性(統一的或者)が現れている。肖像画が表そうとするのはこの個人性である。この個人性は、人がこの世に生まれるとともに活動を始め、死に至るまで様々な経験と境遇に従って様々な発現をなすのだ(生まれてから死ぬまで体系的に分化発展し続ける)。科学者はこれを脳の素質に帰すだろうが、私はしばしば言ったように実在(統一的或者)の無限な統一力の発現であると考える。それで我々はまずこの個人性の実現(統一的或者の分化発展の完成)ということを目的としなければならない。すなわちこれが最も直接な善だ。健康とか知識とかいうものはもとより貴ぶべきものだ。しかし健康、知識そのものが善ではない。我々は単にこれにて満足はできない。個人において絶対の満足を与えるものは自己の個人性の実現だ。すなわち他人に模倣のできない、自身の特色を実行の上に発揮するのだ。個人性の発揮ということはその人の天賦境遇の如何に関せず、誰にでもできることだ。いかなる人間も皆各自その顔の異なるように、他人の模倣のできない一あって二なき特色を持っているのだ。そしてこの(個人性の)実現は各人に無上の満足を与え、また宇宙進化の上に欠くべからざる一員とならしむるのだ。従来世人はあまり個人的善ということに重きを置いていない。しかし私は個人の善(個人性の実現)ということは最も大切なもので、すべての他の善の基礎となるであろうと思う。真の偉人とはその事業の偉大なるが為に偉大であるのではなく、強大な個人性を発揮した為だ。高いところに登って呼べばその声は遠いところに達するだろうが、それは声が大きいのではない。立つところが高いからである(個人性の発揮=統一的或者の分化発展の達成により、高いところに登れた)。余は自己の本分を忘れいたずらに他のために奔走した人よりも、よく自分の本色を発揮した人が偉大であると思う。
 しかし私が個々に個人的善と言うのは私利私欲(利己主義)ということとは異なっている。個人主義と利己主義とは厳しく区別しておかなければならない。利己主義とは自己の快楽を目的とした、つまりわがままということだ。個人主義はこれと正反対だ。各人が自己の物質欲をほしいままにするということはかえって個人性を没することになる。豚が何匹いてもその間に個人性はない。また人は個人主義と共同主義は相反対するように言われるが、私はこの両者は一致するものであると考える。一社会の中にいる個人が各々十分に活動してその天分を発揮してこそ、初めて社会が進歩するのである。個人を無視した社会は決して健全な社会ということはできない。
 『個人的善に最も必要な徳は強盛な意志だ。イブセンのブラントのようなものが個人的道徳の理想だ。これに反し意志の薄弱と虚栄心は最も嫌うべき悪だ(共に自重の念を失うより起こるのだ)』
 右に言ったように真正の個人主義は決して非難すべきものではない。また社会と衝突すべきものでもない。しかしいわゆる各人の個人性というものは各々独立で互いに無関係な実在だろうか。あるいはまた我々個人の本には社会的自己というものがあって、我々の個人はその発現なのだろうか。もし前者ならば個人的善(個人性の発揮)が我々の最上の善でなければならない。もし後者ならば我々には一層大なる社会の善があると言わなければならない。私はアリストテレスがその政治学の始まりに、人は社会的動物であると言ったのは動かすべからざる真理であると思う。今日の生理学上から考えてみると我々の肉体がすでに個人的なものではない。我々の肉体の本は祖先の細胞にある。我々は我々の子孫とともに同一細胞の分裂によって生じたものだ。生物の全種族を通じて同一の生物と見ることができる。生物学者は今日生物は死せずと言っている(おそらく、全種族が滅びることはないという意味)。意識生活について見てもその通りだ。人間が共同生活を営むところには必ず各人の意識を統一する社会的意識というものがある。言語、風俗、習慣、制度、法律、宗教、文学等はすべてこの社会的意識の現象だ。我々の個人的意識はこの中に発生しこの中に養成されたもので、この大なる意識を構成する一細胞に過ぎない(第一編三章に、個人というのは意識体系の一小範囲に過ぎない、とある)。知識も道徳も趣味もすべて社会的意義を持っている。最も普遍的な学問すらも社会的因習を脱しない(今日各国に学風というものがあるのはこれが為である)。いわゆる個人の特性というものはこの社会的意識という基礎の上に現れ来る多様な変化に過ぎない。いかに奇抜な天才でもこの社会的意識の範囲を脱することはできない。かえって社会的意識の深大な意義を発揮した人だ(キリストのユダヤ教に対する関係がその一例だ)。
 右のような事実は誰も拒むことはできないが、さてこの共同的意識というものが個人的意識と同一の意味において存在するもので、一つの人格と見ることができるか否かに至っては種々の異論がある。ヘッフディングなどは統一的意識(共同的意識)の実在を否定し、森は木の集合であってこれを分かてば森というものはない、社会も個人の集合で個人の外に社会という独立した存在はないと言っている。しかし分析したうえで統一が実在しないから統一がないとは言われない。個人の意識でもこれを分析して、別な統一的自己というものを見出すことはできない。しかし統一の上に一つの特色があって、様々な現象はこの統一によって成立するものと見做さねばならないから、一つの生きた実在と見なすのだ。社会的意識も同一の理由によって一つの生きた実在と見ることができる。社会的意識にも個人的意識と同じように中心もある連絡もある立派な一つの体系だ。ただ個人的意識には肉体という一つの基礎がある。これは社会的意識と異なる点だが、脳というものも決して単純な物体ではない。細胞の集合だ。社会が個人という細胞によって成っていると違うところはない。
 このように社会的意識というものがあって我々の個人的意識はその一部であるから、我々の要求の大部分はすべて社会的だ。もし我々の欲望の中からその他愛的要素を去ったならば、ほとんど何も残らないくらいである。我々の生命欲も主な原因は他愛にあるのをもって見ても明らかだ。我々は自己の満足よりもかえって自己の愛するもの、または自己の属する社会の満足によって満足されるのだ。元々我々の自己の中心は個体の中に限られたものではない。母の自己は子の中にあり、忠臣の自己は君主の中にある。自分の人格が偉大となるにしたがって、自己の要求が社会的となってくるのだ。
 これから少し詳しく社会的善の階級を述べよう。社会的意識には種々の階級がある。その中で最小であって、直接なものは家族だ。家族とは我々の人格が社会に発展する最初の階級と言わなければならない。男女相合して一家族をなす目的は、単に子孫を残すというよりも、一層深遠な精神的(道徳的)目的をもっている。プラトーの「シムポジュール」の中に、元は男女が一体であったのが、神によって分割されたので、今に及んで男女が相慕うのであるという話がある。これはよほど面白い考えだ。人類という典型から見たならば、個人的男女は完全な人ではない。男女を合したものが完全なる一人だ。オットー・ヴァイニンゲルが人間は肉体においても精神においても男性的要素と女性的要素の結合からなったものだ、両性が相愛するのはこの二つの要素が合して完全な人間となる為であると言っている。男子の性格が人類の完全な典型でないように、女子の性格も完全な典型ではあるまい。男女の両性が相補って完全な人格の発展が出来るのだ。
 しかし我々の社会的意識の発達は家族というような小団体の中に限られたものではない。我々の精神的、並びに物質的生活はすべて、それぞれの社会的団体において発達することができるのだ。家族に次いで我々の意識活動の全体を統一し、一人格の発現ともみなすべきものは国家だ。国家の目的については色々な説がある。ある人は国家の本体を主権の威力に置き、その目的は外は敵を防ぎ内は国民相互の間の生命財産を保護するにあると考えている(ショーペンハウエル、テーン、ホッブスなどはこれに属する)。またある個人は国家の本体を個人の上に置き、その目的は個人の人格発展の調和にあると考えている(ルソーなどの説である)。しかし国家の真正な目的は第一の論者の言うような物質的でまた消極的ものではなく、また第二の論者の言うように個人の人格が国家の基礎でもない。我々の個人はかえって一社会の細胞として発達し来ったものだ。国家の本体は我々の精神の根底である共同意識の発現だ。我々は国家において人格の大なる発展を遂げることができるのだ。国家は統一した一つの人格であって、国家の制度法律はこのような共同意識の意志の発現だ(この説は古代ではプラトー、アリストテレス、近代ではヘーゲルの説だ)。我々が国家のために尽くすのは偉大な人格の発展完成の為だ。また国家が人を罰するのは復讐の為でもなく、また社会安寧の為でもない。人格に侵すべからざる威厳があるためだ。
 国家は今日のところでは統一した共同意識の最も偉大なる発現であるが、我々の人格的発現はここに止まることはできない。なお一層大なるものを要求する。それは即ち人類を打して一団とした人類的社会の団結だ。このような理想はすでにパウロのキリスト教において、またストイック学派において現れている。しかしこの理想は容易に実現はできない。今日はまだ武装的平和の時代だ。
 遠き歴史の初めから人類発達の後をたどってみると、国家というものは人類最終の目的ではない。人類の発展には一貫した意味目的があって、国家は各々その一部の使命を満たすために興亡盛衰するものであるらしい(万国史はヘーゲルのいわゆる世界的精神の発達だ)。しかし真正の世界主義というのは各国家がなくなるという意味ではない。各国家が益々強固となって各自の特徴を発揮し、世界の歴史に貢献するという意味だ。

第十三章 完全なる善行
 善とは一言に言えば人格の実現だ。これを内から見れば、真摯なる要求の満足、すなわち意識統一であって、その極みは自他相忘れ、主客相没するというところに到らねばならない。外に現れた事実として見れば、小は個人性の発展から、進んで人類一般の統一的発達に至ってその頂点に達するのだ。この両様の見解からなお一つ重要な問題を説明しなければならない必要が起こってくる。内に大なる満足を与えるものが必ずまた事実においても大なる善と称すべきものだろうか。すなわち善に対する二様の解釈はいつでも一致するであろうかという問題だ。
 私はまずかつて述べた実在の論から推論して、この両見解は決して相矛盾衝突することが無いと断言する。元々現象に内外の区別はない。主観的意識というのも客観的実在というのも、同一の現象(統一的或者の分化発展の過程)を異なった方面から見たので、具体的にはただ一つの事実があるだけだ。しばしば言ったように世界は自己の意識統一によって成立すると言っても良し、また自己は実在のある特殊な小体系といってもよい。仏教の根本的思想であるように、自己と宇宙とは同一の根底を持っている。いや直ちに同一物だ。これ故に我々は自己の心内において、知識では無限の真理として、感情では無限の美として、意志では無限の善として、皆実在無限の意義を感じることができるのだ。我々が実在を知るというのは、自己の外のものを知るのではない。自己自身を知るのだ。実在の真善美は直ちに自己の真善美でなければならない。ならばなぜにこの世の中に偽醜悪があるかの疑いが起こるだろう。深く考えてみれば世の中に絶対的真善美というものもなければ、絶対的偽醜悪というものもない。偽醜悪はいつも抽象的に物の一面を見て全体を知らず、一方に偏して全体の統一に反するところに現れるのだ(実在第五章において言ったように、一面から見れば偽醜悪は実在成立に必要だ。いわゆる対立的原理から生じるのだ)。
 『アウグスチヌスに従えばもともと世の中に悪というものはない、神より作られたる自然はすべて善だ、ただ本質の欠乏が悪だ。また神は美しき詞のように対立を以って世界を飾った、影が絵の美を増すがごとく、もし達観するときは世界は罪を持ちながらに美だ』
 試しに善の事実と善の要求が衝突する場合を考えてみると二つある。一つはある行為が事実としては善であるがその動機は善でないというのと、一つは動機は善であるが事実としては善でないというのだ。まず第一の場合について考えてみると、内面的動機が私利私欲であって、ただ外面的事実において善目的に合しているとしても、決してそれが人格実現を目的とする善行とは言えまい。我々は時にこのような行為をも賞賛することがあるであろう。しかしそれは決して道徳の点から見たのではなく、単に利益という点から見たのだ。道徳の点から見れば、このような行為はたとえ、愚かであっても己の至誠を尽くした者に劣っている。あるいは一個人が己自身を潔くする一人の善行よりも、たとえ純粋な善動機から出でないとするも、多数の人を利する行為の方が勝っているというのでもあろう。しかし人を利するというにも色々の意味があって、単に物質上の利益を与えるというならば、その利益が善い目的に用いられれば善となるが、悪い目的に用いられればかえって悪を助けるようにもなる。またいわゆる世道人心を益するという真の道徳的裨益(ある事の助け・補いとなり、利益となること。役に立つこと)の意味で言うなら、その行為が内面的に真の善行でなかったならばそれは単に善行を助ける手段であって、善行そのものではない。たとえ小であっても真の善行そのものとは比較はできないのだ。次に第二の場合について考えてみよう。動機が善くとも、必ずしも事実上善とは言われないことがある。個人の至誠(人格の内面的必然)と人類一般の最上の善は衝突することがあるとはよく人の言うところだ。しかしこういう人は至誠という語を正当に解していないと思う。もし至誠という語を真に精神全体の最深な要求という意味に用いたならば、これらの人の言うところは殆ど事実でないと考える。我々の真摯な要求は我々の作為したものではない。自然の事実だ。真及び美において人心の根本に一般的要素(理想的要素)を含むように、善においても一般的要素を含んでいる。ファウストが人世について大煩悶の後、夜深く野の散歩より淋しき己が書斎にかえった時のように、夜静かに心平なる時、自らこの感情が働いてくるのである。我々と完全に意識の根底を異にするものがあったならばとにかく、全ての人に共通な理性を具した人間であるならば、必ず同一に考え同一に求めねばならないと思う。もちろん人類最大の要求が場合によっては単に可能性に止まって、現実となって働かないこともあるだろう。しかしこのような場合でも要求がないのではない。蔽われているのだ。自己が真の自己を知らないのだ。
 右に述べたような理由によって、我々の最深な要求と最大の目的は自ら一致するものであると考える。我々が内に自己を鍛錬して自己の真体に達すると共に、外に自ら人類一味の愛を生じて最上の善目的に合う様になる。これを完全なる真の善行というのだ。このような完全な善行は一方より見れば極めて難事のようだが、また一方から見れば誰にもできなければならないことだ。道徳のことは自己の外にあるものを求めるのではない。ただ自己にあるものを見出すのだ。世人は往々善の本質とその外殻を混じるから、何か世界的人類的事業でもしなければ最大の善ではないように思っている。しかし事業の種類はその人の能力と境遇とによって定まるもので、誰にも同一の事業はできない。しかし我々はいかに事業が異なっていても、同一の精神を持って働くことはできる。いかに小さい事業にしても、人類一味の愛情から働いている人は、偉大なる人類的人格を実現しつつある人と言わねばならない。ラファエルの高尚優美な性格は聖母においてその最も適当な実現の材料を得たかもしれないが、ラファエルの性格は聖母においてのみではなく、彼の描きしすべての絵に現れているのだ。たとえラファエルとミケランジェロと同一の画題を選んだにしても、ラファエルはラファエルの性格を現し、ミケランジェロはミケランジェロの性格を現すのだ。美術や道徳の本体は精神にあって外界の事物にはないのだ。
 終わりに臨んで一言しておく。善を学問的に説明すれば様々な説明はできるが、実地上真の善とはただ一つあるのみだ。すなわち真の自己(統一的或者)を知るということに尽きている。我々の真の自己は宇宙の本体だ。真の自己を知れば人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのだ。宗教も道徳も実にここに尽きている。そして真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみだ(この考えは西田の参禅経験が強く影響したものだと思われる)。そしてこの力を得るのは我々のこの偽我を殺し尽してひとたびこの世の欲から死して後蘇るのだ(マホメットが言ったように天国は剣の影にある)。このようにして初めて真に主客合一の境に到ることができる。これが宗教道徳美術の極意だ。キリスト教ではこれを再生といい仏教ではこれを見性という(禅宗ではこれを悟り、見性体験などと呼ぶ)。昔ローマ法王ベネディクト十一世がジョットーに画家として腕を済めすべき作を見せよといってやったら、ジョットーはただ一円形を描いて与えたという話がある。我々は道徳上においてこのジョットーの一円形を得ねばならない。

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