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秋と蕎麦とリコと

知る人ぞ知るお蕎麦屋さんなのです

山道を車で走行している僕は気分がいい。
だって木漏れ日が挨拶をしてくれるのだから。
そんな秋晴れの休日はまだ始まったばかり。

山道を走ること20分。
そろそろだ。

左側前方にのぼりが………。

砂利の駐車場にはすでに8台の車が停まっていた。
ここは古民家を改装したお蕎麦屋さん。
僕は車を降りると、天に向かって伸びをした。
「あっ…」
お尻から異音を発してしまったけど、誰も気づいていない。
普段は並んでまで食事はしないけど、ここだけは別だ。

並んでいると、鳥のさえずりが出迎えてくれた。

入店すると、ちょうどカウンター席が空いていた。


鴨せいろの大盛りを注文

そば茶を一口飲んだ。
美味しい。
僕の鼻腔までそばの香りが届いた。
他のカウンター席も埋まっていて、和室はカップルや家族連れで埋まっている。
開店から5分。
11時35分で満席だ。

「そば茶どうぞ」
茶髪の店員さんが急須に入ったそば茶を注いでくれた。
「ご来店ありがとうございます」
店員さんの言葉は柔らかいけど、ちょっと目つきが鋭い。
声質から年齢は20代前半と推定。
格式ある水色とピンク色の合わさった着物が、この子に着られて泣いているように僕には見える。
右胸のネームプレートに、「リコ」と記入されている。

「すみません、お冷もらえますか?」
「お、オヒヤですかあ?」
リコの声が裏返った。
「あ…水です」
「あぁ………すぐに持ってきます」
残念ながらリコの接客用語は、飲食店の及第点には遠く及ばない。
ってか、お冷って、もはや死語なのだろうか…。


期待を裏切らない美味しさに歓喜

温かく鴨のあぶらが染み込んだおつゆに、冷たい蕎麦をつけて一気にすする。
「うまいウマい美味いUmai」
僕は右手でガッツポーズをつくった。
お蕎麦のコシは勿論、鴨出汁が美味しい。
もちろん、鴨肉とネギも美味だ。
片道1時間、山道をうねうねと走行してきた労力は瞬時に吹き飛んだ。

「オヒヤをどうぞ」
リコが空のグラスに注いでくれた。
カフェで言うところの、中間サービスだ。
咀嚼中だった僕は、小さく頷いた。
先ほどよりリコの雰囲気が柔らかくなったような気がする。
僕は注ぎ終わったリコに、感謝を込めてウインクをしてみた。
瞬時に視線を逸らされた。
僕の体中が熱くなった。


最後にわが耳を疑う事態に………

わずか5分で鴨せいろ大盛りを平らげてしまった。
天ぷらの盛り合わせも注文したかったけど、そうすると税込み3000円になってしまう。
昼食に3000円は、僕には高すぎて心と懐が痛む。
こういう時でさえ、尻込みをしてしまう自分が悲しい…。

「オヒヤどうぞ」
またリコがやってきた。
これで4回目だ。
僕のグラスにはまだ半分以上残っている。
「もう大丈夫です」
リコは座敷に移動して行った。


「オシヤどうぞ」
うん?
僕の聞き違いか?
確かに「オシヤ」って聞こえたし、言ったのはリコだ。
誰も何も反応していないので僕もスルーした。

僕は伝票を持ってレジに移動した。

「オツヤどうぞ」
僕はドキッとして振り返った。
リコが空いたグラスにお冷を注いでいた。
「おねえちゃんも、オツヤ飲むぅ?」
小さな子供にもオツヤを進めるリコ。

オヒヤとオツヤ。

お冷とお通夜。

天と地の差があるではないか。
それにオツヤどうぞって………。
もしかしたらリコは、お通夜の意味も理解していないのかも知れない。
「それはオヒヤでしょ?」
4人でテーブルを囲んでいた母親が言った。

店内が一瞬にして緊張感に包まれた。

「でも………さっきそう教わったんです」
リコが振り返った。
僕とアイコンタクトした。
僕は先ほどリコにウインクしてスルーされた時と同様に、僕もすぐに首をレジに戻した。
確かにオヒヤと言ったの僕だ。
でも僕は間違っていないのだから、何も焦る必要もない。
だけどこの状況下になると、いくら僕が間違っていなくても心理的に焦ってしまう。
単なるリコの言い間違えなのに。
それを店内で知っているのは僕だけ。
つまりこの状況下では、どう考えても僕が不利なのだ。

僕は財布から1万円札を出した。
こんな時に限って万札しかないとは………。
「すいませーん。あの、オツヤでしたよね?」
リコが、ふすまの横から僕に聞いてきた。

四方八方から視線を感じる。

リコがサンダルを履いてこちらに向かって来た。
ってか、僕に聞くなよ。
ってか、他の店員さんに聞いてくれよ。女将さんとかさ…。

「あっ…」
僕は動揺のあまり、お釣りの小銭を床に落としてしまった。
「大丈夫ですかあ? ってか、教えてくださいョ」
リコが小銭を拾いながら聞いてくる。
「オツヤではなく、オヒヤですよ」
僕は小声で答えた。
「えっ…リコはさっき何て言ってましたあ?」
「オツヤって言ってました」
「ガチ?」
「が、ガチです」
黙ったリコは、床のタイル目をじーっと見つめはじめた。

確かにリコは言い間違えたけど、お通夜の意味は理解しているようだ。
普段使い慣れていない言葉だから、無理もないか!?
でも僕の席に4回も中間サービスに来るくらいだ。
オヒヤとオツヤくらい間違えずに言って欲しい。

僕は床にまき散らした小銭を全て回収した。
するとリコが、小さなため息をついてから言った。
「リコ………頑張り過ぎかな?」
リコがトラフグのように両頬を膨らませた。
それを見た僕は吹き出しそうになった。
リコが面白すぎる。

僕が立ち上がると、リコも立ち上がった。

僕は出入り口に向かった。
「ありがとうございます~」
店員さんたちの声を背中に受けながら、僕は出入口のドアを開けた。

「オツヤどうぞぅ~」

リコの大声が聞こえた。


【了】

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