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【番外④】やっと縫わせてくれたボタン

以前、「美人ファーマーの飴玉」という文章を書いたことがある。人と接点が多くない統合失調症の男性が珍しく実習生に飴玉をあげたという話だ。本人の意思で一切の服薬を中断しているため日ごろからヒヤヒヤしながら見守っている私と裏腹に、緊張している実習生に対して安心の味がする飴玉をあげた孝雄さん(仮名)。彼はもちろん今も医療を再開などせずに1年と4か月が経過している。生活のリズムが崩れたり、親戚との付き合いのストレス等で調子を崩しやすい年末年始をもろともせずに、年明けも穏やかに事業所に通所している。今日は再度この孝雄さんとの関わりについて言葉にしておきたい気持ちになったのでここに記しておく。


 孝雄さんが服薬を中断してちょうど一年の頃、そう確か去年の秋の話だ。一人で笑ったり、厳しい目つきになったり、ベンチに足を上げて怖い表情で座っていたり、座り込んで壁を一心不乱に拭き続けたり、辺りをキョロキョロと見まわしたりという行動も見られ、いよいよ状態が悪化してきたかと腹をくくった。前回も、措置入院をした過去の出来事がよみがえりびくついてしまうことを書いたが、今回もやはりそういった反応をする私がいた。孝雄さんは何回も書いているが、無口な方だ。自ら何かを話しかけてくるということはまずない。こちらから話しかけても上の空で「うん」や「あー」と返すことが多い。孝雄さんが何を考えて、どんな世界で暮らしているのかを想像することも難しかった。

 以前、陸上が好きだと知って、月に数回陸上競技場に散歩に行くということをしていた。本人も散歩が好きだったし、陸上の練習を見ることができるため自然に導入できた。孝雄さんの歩調に合わせ、本人独特の時間の流れに合わせて過ごすことができる散歩の時間は、私にとってもとても心地の良い時間であった。3か月程継続したが、やがて暑さを理由に中断することになりその後再開には至っていない。陸上以外に本人が好きなことは、朝の連続テレビ小説である。本当は最後までドラマを見てから送迎場所に行きたいが、途中で消して家を出ないといけないという事を言っていたので送迎時間を調整し、しっかり最後まで見られるようにした。このように、できるだけ本人の好きなことを生活の中で保障し、少しでもリラックスした状態で事業所に来てもらうことを意識していた。しかし、本人の好きなことの把握もこれ以上は進まず、手詰まり状態であった。生活のことやテレビのこと、昔のこと等の話題を振ってはみるが、手ごたえを感じる答えはなかった。そのうち、私も挨拶程度になってしまい関わりそのものも薄くなっていた。そんな関係の中で厳しい表情が増え、スタッフの作業への指示にも反発するようになっていたので、これはもう打つ手なく状態が悪化してくこともあるなと思っていた。同時に、次第に関わり自体を積極的に探そうとしなくなっている私自身に対する危うさも感じていた。

 前回も引き合いに出したが横田の言葉をまた引きたい。横田は慢性化をさせてしまう関わりについて以下のように述べている。

--- 慢性化する患者さんは「動揺してやまない」心身状態にあり、それは「精度をあげないと」見えてこない。精度をあげるとはどういうことだろうか。幻覚、妄想、思考障害のような病的体験、統合失調症に比較的特異的な症状にのみ着目するのではなく、以下のような非特異的な面に注意を向けることである。①体温、脈拍、血圧、排便、食欲。②姿勢、歩き方、寝方、食べ方、たばこの吸い方、衣類の着方。③舌の状態、足底のひびわれ、足の爪など。こういう面に注目することによって、ことばの少ない患者さんも動きの少ない患者さんも実は単調で変化がない人ではなく、日々豊かなメッセージを伝えている人として見えてくる。そしてまたこういう面への着目とそれに基づいたかかわりの継続が、慢性病態からの回復につながる。これが「とりかかる点」である。「とりかかる点」は治療者がその気になって精度を上げて見ようとすれば、いくらでも見つけることができる。逆に見ようとしない治療者のもとで統合失調症は「慢性化」する---

①横田泉 「統合失調症からの回復」精神医療のゆらぎとひらめき 日本評論社 2019

 まさにその通りであると思う。私も口数の少ない孝雄さんの「とりかかる点」と探そうと努力し、陸上競技場での散歩等を行ってきたが、そのうち現状の精度ではこの「とりかかる点」が見えなくなったので、そのままにしてしまっていたのである。今の精度で見つからないなら、私の精度を上げないといけないという事に気付かされた。支援者として関わっている私の精度を上げずに、「とりかかる点」を見出さず、状態悪化を招いてあたかもそれを病気のせいにしてしまうことはあってはならないと自ら言い聞かせた。それからというもの、孝雄さんの歩き方、タバコの吸い方、水の飲み方、食事の食べ方、姿勢等、言葉にならない孝雄さんを観察するようになった。横田が言うように、自分の精度を上げれば生活の中でいくらでもメッセージは発せられており、関わりの幅は広がった。反応があるものもあれば、無いものもあったが、その中で手応えを感じたものがある。去年の秋からこの年明けまでの変化を少し書いてみよう。

 孝雄さんは身なりに気を使わない(ように見える)。365日裸足にサンダル、ズボンはジャージ。上着も年季が入ったものが多い。ある日、デニム地でできた上着のボタンが外れ、お腹が見えるようになっていたので注意したことがある。この服はお腹が見えるので別の服を着るようにしてくださいねと。上の空で「うん」と答えた孝雄さんであったが、2週間後に再度お腹が見えるそのデニム地の服を着てきていた。同じことを再度言うもの気が引けたので、私にボタンをつけさせてくれと言った。すると孝雄さんは「いや、いいよいいよ。もう着ないよ」と言った。やっぱりとは思ったが、その後も月に2回程はそのデニム地の服を着てきた。そして今日もその日であった。送迎車から降りた瞬間服が風になびき正月料理でまるまるに膨らんだお腹がずっと見えている。今までは2つのボタンがない状態であったが、今日はついに3つにまで進行していた。髪は2年ほど切っていないので肩まで伸びている。髪も服も風になびかせながら車から降りる姿は、かっこよさを感じる程堂々としていた。はだけ具合がロック歌手のようになっていたので、少し笑いそうになった。私はいつものように孝雄さんにボタンが取れていてお腹が見えてみっともないので事業所にある貸し出し用のシャツを今日は着てくださいとお願いした。本人は手で服の両端を重ねて「ん?大丈夫よ」と言いすぐに目をそらした。着る服がないわけではないのに、どうしてこの服をずっと着続けるのだろうか。もうボタンは真ん中の二つしか残っておらず、服の役割をどれだけ果たしているのか疑問である。本人にとってそれほど大事なのか、また着心地がいいのか。考えても分からないが、何回注意しても着続けていることには何らかの強い意志を感じた。私は、この服を着ないように注意することはやめ、どうにかこの服を心地よく着てもらえないか考えた。今まで何度もボタンを付けさせてくれと頼んだこともあったが、孝雄さんはそれを許してくれなかった。でも、今回はなぜか強い気持ちでボタンを付けようと思った。100均で裁縫セットとボタンを購入し、作業の休憩時間にベンチに座っている孝雄さんの隣に座り、「ボタン付けますね。どのボタンがいいですか?」と聞いた。本人は少し戸惑った様子だったが「いいの?ありがとう。これでいいんじゃない?」と言ってボタンを選んだ。服は着たまま下二つのボタンを縫い付けた。私も慣れていないので糸の始末がうまくできずに、見栄えが悪く仕上がった。「慣れていないので、変な仕上がりになってしまいました、すいません」と言うと「いいよいいよ、大丈夫、ありがとう」と最近は聞いたことない長い言葉と少し笑ったような表情が返ってきた。

 今までボタンを付けさせてくれなかった服を今回は触らせてくれたのは何だったのか。あのデニム地の上着は、単に着る物としての服ではなく、本人の一部になっていたように思う。服に触る、服に手を加えることは、孝雄さんにとっては自分自身を変えられてしまうことのように思えていたのかもしれない。私も服に対して最初は、もうこの服を着ないようにと指導していた、少しずつ孝雄さんが気持ちよく着れるように工夫しようという提案にしていった事が関係性や信頼関係につながり、ボタンを付けることに同意してくれたのではないか。

 横田は信頼回復についてこう述べている。

--- 最初は緊張と抵抗が強かった人も、徐々に差し出すものを受け入れるようになり、この過程を通して援助する人が危険な存在ではないことを理解するようになる。そしてそれが、世界全体への信頼回復の糸口となってくるのである。私は以前「統合失調症は人間的な病である」と書いたことがある。治療の転機となるような場面で、医療技術を超えた人間としての自分が問われていると感じることがしばしばあった。そのような経験から、統合失調症の治療には医療技術以上に人間的な力が必要であると思うようになった。簡単なようで難しいこれらの援助行為こそが人間的な力であり、これなくしては統合失調症の柔らかな回復は望めない。---

②横田泉「統合失調症と衣・食・住」統合失調症の回復とはどういうことか 日本評論社 2012

 口数の少ない孝雄さんに近づくには精度を上げた視点が必要であり、さらにそこから柔らかい回復に発展させるには「とりかかる点」を基軸にした人間的関わりが必要になる。精度とは何か、人間的関わりとは何かと問われれば客観化できるものではなく、言語することも難しい。むしろ言語化できるように枠組みをつけてしまうとその価値が薄れてしまうものなのかもしれない。そもそも関わりに決まった方程式などなく、ただただその人を大切にするということなのかもしれない。孝雄さんが大切にしている服を私も大切にする。そしたら孝雄さんも私を大切にしてくれる。結果的にみればこんなシンプルな構造だ。柔らかい回復を目指す関わりは、相手にも自分にも優しい、人を大切にする関わりだ。

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