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【番外②】星座を紡ぐ分裂病のチカラ



 最近星を見ていないと思い、子ども達を連れて夜の海に行った。満点の星空が広がっていて、流れ星も見えた。一応「綺麗だねー」と言ってはみたが、本心は少し怖かった。子ども達の手前なぜかありきたりな言葉を選んでしまった。しばらく浜辺に寝そべって星空を眺めていて、頭に浮かんできた疑問がある。規則性なく無数に点在している星々を昔の人はどうやって結び、星座を作ったのだろうか。まったく何の形にも見えない星空にどんな物語を重ね合わせていたのだろうか。むしろ、今私が感じているように昔の人も怖かったから、夜空に星の地図と物語が作られたのではないだろか・・・

 夜空は無限で自由だ。その枠組みのなさは時に恐怖と不自由を生むと感じた。人の心も似たようなところがあるように思う。本来は無限で自由なはずだが、言語的、社会的、文化的枠組みがないと方向も分からないし、判断もできなくなる。

横田[1]は以前私との話の中で、

統合失調症の世界は星座がなく脈絡のない星空が迫ってくるようなものだと表現していた。

また、著書『精神医療のゆらぎとひらめき』において

「本来は何のつながりもない星々をヒトがつなぎ合わせて星座ができているように、あるいは本来は光の連続体である虹をヒトが七色に区切るように、ヒトは独自の切り取り方で世界を分節する。そして一旦そのような区切り方が成立してしまうと、その区切り方を離れて新たな区切り方を個人が独自に作る事はほとんど不可能である」ヒトは自由無限な星空に文脈をもたらしたが、逆にそこから逃れられなくなっていると述べている[2]。

横田のこの2つの話を統合すると、現代社会は先人の創造した文脈の中で営みが続いており、そこから新しい文脈を創り出す事はほぼできない。しかし、統合失調症の方は少なくとも一度成立した星座を「解体するチカラ」を持っている。という事は、統合失調症の方は、既存の価値を解体し新たな価値を見出すヒントを与えてくれていると言えまいか。そのように考えながら当事者の方と接していると、もしかすると統合失調症の方の中には、星座の解体だけに留まらず、星々を結び直し「新しい星座を紡ぎ直すチカラ」を持っている方も多いのではないかと思うようになってきた。

 カズミさん(仮名)は50代前半の小柄でやせ型の女性である。統合失調症を発症し20年程経過している。彼女は週に3回、私の勤務する就労支援事業所に通所している。私は、いつも彼女との会話の内容に深く引き込まれる。どうやって理解したらいいかと一生懸命考えながら話を聞くのだがとても難解なのだ。まず、朝に目が合うと挨拶代わりに「昨日、お父さんにかかと落としされて目が痛い」と言ってくる。寝ているカズミさんに対して80代のお父さんが、目をめがけてかかと落としをすると言うのだ。初めて聞いた時には虐待されているに違いないと思い、とても焦った。しかし、よくよく観察してみるとアザになっている様子も、打ち身になっている様子もない。関係者に聞いても、その事実はないと思うと言う。でも、カズミさんはこの手の話題を毎回するのである。他者から攻撃を受けるバリエーションはいくつかあって、「昨日訪問看護にお尻叩かれた」、「昨日お姉さんが来てビンタされた」等だ。次に多いのは海の生物で、「昨日、海行ったらサメにお腹かじられたさ」、「昨日、シャチと遊んできた」等だ。いつも表情は真剣なのだが、なぜか緊迫感はなく穏やかに淡々とこういった話をするのだ。言葉にとてもインパクトがあり、グッと彼女の世界に引き込まれる。

何の事を叩かれた、かかと落としされたと表現しているのか。その時の状況を詳しく訊いてみる。お父さんにかかと落としされるのは、決まって夜で、お父さんが酒を飲み始めてからだ。その時間になにが行われているかお父さんにも尋ねてみた事もあるが、酒を飲み始める時間という以上の事は現段階では分かっていない。訪問看護にお尻を叩かれたというのも、訪問看護にその時の様子を確認すると、カズミさんと一緒に買い物に出たが看護師が次の訪問に行くのに時間が迫ってきたから、少し急かしたと言う事だった。もしかすると、急かされる感じ、自分のペースを少しでも崩される時には叩かれるくらいのダメージを受けているのか、急かされる事がそれだけ脅威なのかなと想像した。そう考えると、お父さんはカズミさんに家事をするように言うという事を思い出した。夕ご飯が終わって、晩酌を始める頃はちょうどお父さんがカズミさんに食器洗いをしなさいと言うタイミングだ。カズミさんの言う、お父さんにかかと落としされると言うのはもしかすると、家事についての指示を受けている状況の事なのかもしれないと思った。いずれにしても自分の予期していない事が起きた時、自分の予定にない事をするように言われた時、何か攻撃を受けているような恐い文脈になるのかもしれない。

 それでは、サメにお腹を食いちぎられる話は何であろうか。サメだけではなくシャチも出てくる。怖い海の生物になぜ狙われているのだろうか。これに関してはさっぱり分からない。この話題に関しては質問してもその後は教えてくれないのだ。しかし、海にまつわる話題でおもしろいのは、これだけ自分を攻撃してくるものに満ちているカズミさんの世界で珍しく優しい生物が出てくるのだ。私は直接聞いた事はないのだが、カズミさんと仲の良い女性の支援員はサメやシャチに食べられていると、イルカが助けてくれて陸に連れて行ってくれると言う話をたまに聞くそうだ。なぜ私にその話をしてくれないのかも分からないのだが、こういった優しいキャラクターも存在しているようである。

横田は「人との信頼関係が回復し、もはや孤立しないでもよいようになると、幻覚、妄想はおのずとお役御免になっていく。あるいはまた、穏やかなものに形を変えていく。責める声が助ける声、励ます声になった人もいる。豊かでやわらかい回復状態を得ている人では、幻覚・妄想は消えたのではなく、その人の希望や理想に形を変えて、ひっそりと保たれている事が多いように思う」と述べている[3]。

 サメやシャチに食べられそうな世界観が消える事はないが、優しいイルカの登場は、横田が言うようにカズミさん本人の今のありようを表現しているようにも思えた。若しくは、仲の良い女性の支援員をイルカに重ねて、この環境の中で救われているよという事を伝えているのかもしれない。管理者である私とは形式ばった話が多いので、私にはイルカの話をしない事もそう考えると納得がいく。

 女性支援員が時折聞く話は他にもある。おっぱいの話題だ。母乳の味の話題を唐突にすると言うのだ。ある日は作業後の昼食前の時間にいきなり「お姉さんが無理やりおっぱいを飲ませてくる」と言い始めた。支援員もビックリしてどうしたのかと問うが、そこからはよく分からない事を言って自分で笑っているのだという。最初は、おかしな話題だと思ってむしろカズミさんに、そのような話題を事業所でしないようにと注意をしようとした。しかし、なんとなくこのおっぱいの話題にも重要な意味があるように思えてきた。

横田は「事務所のコーヒーおっぱいよと言うA子の言葉は、端的に飲む、食べることに秘められたholdingの側面を象徴している。幼児が周囲からの侵襲によって妨げられることなく母乳を飲むことに専念できる。そのような安全な状況と、授乳に伴うその機能がholdingと呼ばれるのであるが、A子は、事務所でコーヒーを飲む事を通じて、いままで得られなかったholdされている感じをはじめて体験したとはいえまいか。その結果、この言葉に続くようにA子は優しさを伴った人との交流をいみじくもおっぱいと表現するようになったのである」[4]と述べている。

おそらく、カズミさんの母乳を飲まされた話も、事業所や家庭を含めたカズミさんの世界で何らかholdingの感覚があることを示していると思われる。しかし、単に安心安全を感じているのではなく、母乳を強制的に飲まされているように、一方的にholdingされている感覚を持っているのではなかろうか。サメやシャチにかじられる程の危険な感じではないが、過保護に抱きしめられているために少し息苦しいという感じ。現に親や兄弟はカズミさんに対してやや過干渉気味である。工賃収入を増やし、自分で使うお金は自分で稼ぎたいと希望するカズミさんに対して、親や周りの支援員も病状悪化のリスクがあるとして否定的である。希望は分かるがあなたのためを思ってみんな反対しているのという意見は、なんとなく強制的におっぱいをのまされている感覚と近い感じがする。しかもその母乳はカズミさんいわく「まずい」らしい(笑)。

 かかと落としや、シャチに腹を食いちぎられる、おっぱい等、カズミさんの選ぶ言葉はとても力強い。「殴られる」ではなく「かかと落とし」なのはなぜか、90年代に一世風靡したK1のアンディーフグの時くらいしか聞かなかった単語である。それを小柄な女性が真顔で毎朝言うというのは、私にとっては中毒性のあるシチュエーションとなっている。

 今回は、彼女の言葉の断片から少し世界を覗き見ようとしてみたが、もちろんこれは何の根拠もない私の想像である。ただ、この想像が正しいか間違っているかではなく、こうして彼女の世界を積極的に感じようとする事自体に意味があると考えている。

横田は「自分でも用意していなかった問~中井久夫先生から学んだ臨床作法」において次のように述べている。「丸山圭三郎は、第一次言語と第二次言語を制度化された言語と本質言語などのことばで言語の二面性を挙げている。前者(第一次言語:制度化された言語)はすり減った紙幣のように、交換の仲立ち・コミュニケーションの道具としては役に立つが、一方で私達の日常の生活を支配し規制する。ことばはヒトが作ったものであるにも関わらず、ヒトが作ったはずのそのことばに規定された形でしか、物を見ることすらできない。制度化されたことば、沈殿したことばに囲まれて私たちは生きており、このようなことばを離れては、コミュニケーションはおろか思考も認識も困難である。個人の力で、言語の支配の外に出ることは不可能である。しかし、ことばは本来そういうものだけではない。ことばの成り立ちにさかのぼればそこには常に、新しい価値、新しい意味の創造が伴っていたはずである。丸山の挙げた後者のことば(第二次言語:本質言語)はそういうことばを示している。(中略)人の心に届くことば、心に響くことば、直球、オリジナルなことばなどと表現してきたベースチェンジを引き起こすことばは全て丸山の言う第二次言語である。」[5] 

カズミさんが発する言葉はまさに第二次言語である。インパクトがあり、ヒトを引き付ける力がある。統合失調症の方は、時にこのようなグっと人を引き付ける言葉を発する。これは、星座の解体だけに留まらず、そこから新しい星座を再構成した時にできる力なのではないか。第二次言語はすり減った紙片の役割は果たさないので、コミュニケーションのツールとしての意味合いは薄くなる。これを意思伝達の手段としての言語として聞いてしまうと「意味が分からない」となってしまう。しかし、これを第二次言語として捉えその世界を感じる事を大切にすると、新しい価値や意味合い、関係性を見出せる事もある。第二次性言語は最初の1回しかその効果を発揮しないと言う。毎日のように第二次性言語を発し続けるカズミさんはまるで、一瞬のきらめきで心を奪う流れ星が同時に多く存在する流星群のような存在なのかもしれない。星の輝きでも魅了してくれるが、さらに、星座を紡ぎ直すチカラでシャチ座やかかと落とし座という私が見たこともない星座も見せてくれる。

 カズミさんが自分の世界で紡ぎ直した星座について語る時、私達は教育の過程で刷り込まれてきた既存の星座ではないという事を理由にそれを「妄想」と呼ばない事だけは意識しておきたい。


[1] 横田泉 医師 オリブ山病院筆頭副院長
[2] 横田泉 「自分でも用意していなかった問 ‐中井久夫先生から学んだ臨床作法」『精神医療のゆらぎとひらめき』日本評論社 2019年
[3] 横田泉 「統合失調症者のニーズを汲むということ」『統合失調症の回復とはどういうことか』日本評論社20121
[4] 横田泉「統合失調症と衣・食・住」『統合失調症の回復とはどういうことは』日本評論社 2012
[5] 横田泉 「自分でも用意していなかった問‐中井久夫先生から学んだ臨床作法」『精神医療のゆらぎとひらめき』日本評論社 2019

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