見出し画像

【番外①】カレーライスと分裂病


1、はじめに
 年末も差し迫った時期に携帯電話が鳴った、何年か前に沖縄で統合失調症臨床研究会を開催した時に電話番号を交換してそれっきりであった日本評論社の編集者からだ。私に統合失調症治療における作業療法について「統合失調症のひろば」に原稿を書けという用件であった。ひろばは私が敬愛してやまない横田Dr(オリブ山病院副院長)が編集員として参画している雑誌である為に、この上ない話であったが、なんせこの領域に勤めて十余年作業療法を意識した事が皆無に等しい私に、そのテーマは重すぎた。

 私がこれまで統合失調症を持つ方々と行ってきた活動が作業療法の名にふさわしいかどうかまったく自信がないので、作業療法をメインテーマで書く選択肢はすぐに消えた。しかし私の精神科医療観を変えてくれた横田Drとその患者さん達と過ごした日々、そして私が今でも大切にしているエピソードをどこかではまとめておきたいという思いもあった為に今回の原稿を引き受ける事にした。

 作業療法士として働く中で作業療法に嫌気がさし、少し偏った方向で臨床を続けている時に横田Drに出会った。そこから非科学的ではあるが、非常に人間的な関わり方を教わった。それは今でも私の価値観の大半を占める大切な経験である。図らずとも、今回提示する2例は関わりの中心に作業活動が大きく存在する。そのことを作業療法的理論において説明する事はできないが、作業を介する関わりという事において読者それぞれがなにかを感じて頂ければ森編集長の意にも沿うのかと思う。

 全く学術的でもなければ、作業療法についてでもない、誰かの役に立つ記事でもないと思うが、トイレの友としてでも読んで頂ければ幸いである。



2、作業療法士になった私

 特に崇高な想いを持って作業療法士になろうと思っていたわけでもなく、精神科領域にすごく熱い想いを燃やしていたわけでもないが、養成校の最終学年時にある臨床実習において、高知県のとある病院にて2か月を過ごす事になる。その実習中に私がやった事といえばずっと患者さん達とソフトボールの練習をし、みんなで一緒にお風呂に入って背中を流し合うというような毎日を送るだけであった。それはそれは非常に楽しく毎日を過し単位を得る事ができた。そして、「これで仕事になるんだったらこんな楽しい仕事はない」と思い、楽しい実習期間を過ごしたその病院に懇願し枠を設けてもらって入職することとなった。昭和2年開設の病院で古い体制も残っていたが、開放化や処遇改善の意識が高まっていた時期でもあり、メディカルもコメディカルも勢いがあった。高知県の女性の事をハチキンと称するが、その理由は男に2つしかない金が8つある、つまり男4人分という意味らしい。まさにハチキンを絵に描いたような強い女性が作業療法課のトップ3に君臨していた。ハチキンが3人もいるので合計24金である。もうその勢いと、言葉を選ばない指導には入職してすぐに苦労した。実習中には楽しく過ごす事ができたその病院でも就職すると「責任」という沖縄育ちの私には聞いた事のない恐ろしい言葉に付きまとわれ、たちまち不適応を起こす事となる。500床近いベッド数がある病院で行われる作業療法は大集団のレクが中心であった。そのレクも病棟に、祭りの出店が使用するような本格的たこ焼き器を持ち込んで焼いて食べるとか、ジューサーを持っていって、フルーツをその場で絞って飲むとか、とにかく準備に労力を要すレクばかりであった。材料も多いが、器具も多く、これが毎月各病棟であるのでその運営で頭が一杯になっていた。私は、計画的に何かをする事ができずこのようなレクの準備や段取り、当日の運営をするのがとても苦手であった。そして必ずと言っていいほど何か足りないものがあり、その度に容赦ない指導が繰り返された。年も変わり、後輩が入ってきた。私よりも段取りのよい後輩達は上司からの評価も高かった。様々な感情が渦巻き「良い作業療法士って何だろう」という疑問が浮かぶようになった。

 ちょうどそのころ、大型免許を持っているという理由によりデイケアに異動の辞令が出た。これも一つの転機だったと思う。デイケアに初めて配属される作業療法士という事で、私も何ができるかを一生懸命考えた。そしてついに一度も自ら開いた事のなかった山根寛先生の教科書を開く事となる。入職3年目の夏であった。今でも鮮明に覚えているが、山根先生の教科書を広げるといつも活動していた苦痛でしかなかった作業療法プログラムの意味がスラスラ入ってきた。そしてこうやって言葉にしたらいいんだという事が分かり始めた為に、言葉そのをそのままデイケアで他職種スタッフに語るようになった。PSWの上司も、作業療法士が来てくれてよかったと評価してくれた。社会人になって初めて評価された嬉しさ、そして居場所を得た安心感から、私はこのデイケアが好きになった。



3、頭でっかちの私

 本から学んだ知識やその言語を用いて話をするうちに、現場で実践する事にも偏りが出始めた。統合失調症という病を治すには、薬物療法、心理教育、認知行動療法、これらを計画的に提供する為のクリ二カルパス。そして彼らが社会参加する為には一般就労を目指す就労支援。と枠にはめるようなプログラム作りに一生懸命になっていたように思う。少しでも治療効果が示されているいわゆるエビデンスレベルの高い事をするのが医療者として必要な事だと思うようになっていた。今思い返すと、患者さんを病気に当てはめ、症状や障害を見つけ、それを本で読んだ通のプログラムに適応させる。そんな事をやっていたんだろうと思う。そんな事をしながらも、患者さんに親しくしてもらっていたのは、彼らがそんな偏った情熱に燃える若者に対して「おおまた来たよ、勝手に燃えているやつが」等と言いながらサラッとかわす術に長けていたのだろう。そういう意味では社会性の高い患者さんが多かったのだろう。私のこの傾向はさらに進み、県内の精神科作業療法士の勉強会の代表を務めたりしながら、さらに多くの理論に惹かれていった。ハチキンの作業療法課の上司からは毎年学会発表する私の演題を見て「あんたの発表はいつもナルシスティックで気持ち悪い」と言われていた事を思い出す。当時は、何を言っているんだこうでなければ!と鼻息も荒く反発していたが、今ではとても恥ずかしくなってしまうような内容である。ハチキン上司の言う通りであった。



4、横田Drと患者さん①

 そうこうしている間に5年間が経ち、地元沖縄に帰る事になった。沖縄の中でも慣れ親しんだ土地に昔からある精神科病院で訪問看護に多職種を配置し機能強化するという話を聞き、その病院に入職する事にした。内地ではその頃、ちょうどACTやIPSというモデルが流行っていた時期で、私もそういう積極的地域支援ができると思って張り切っていた。しかし、当時の病院訪問看護は訪問時間に下限がなくどれだけ短い時間でも算定できていた。さらに多職種加算によりけっこうな報酬が保障されていた。件数をこなす事が優先され、生活の支援にさける時間はほとんどなかった。そんな中、ある男性の担当となった。

 30代の男性で、私が担当になった時には直近の退院から4か月が経過しており、全く服薬しておらず症状は激しく再燃していた。無人島暮らしを10年続けてきた人のように、髪はボサボサ、顔はたばこの灰で黒くなり、服は袖が片方だけちぎられており、裸足で大声を出しながら自宅の前を足早に行ったり来たりしていた。その方の主治医が横田Drであった。彼を通して仕事をしたのが横田Drとの初めての出会いである。横田Drはその方の自宅に週に3回行く訪問看護を処方した。私は彼の自宅へ行くのがとても苦痛だった。それはいつもノックをすると、大声でどなられて、すごい剣幕で迫ってくるからとても怖かったのだ。いつ行っても会話は成り立たず、宇宙規模の何かの理由で怒っていた。玄関のドアが外れていたり、道まで物が散乱する程散らかっていたり、教科書で乗り切ってきた私にはどうしたらいいか全然分からない状態であった。主治医の横田Drに訪問の目的等を質問すると、特にはっきりした答えはせずに「じゃー私が行ってみましょうか」と言ってくれた。横田Drが訪問しても様子は変わらなかった。薬を差し出そうもんなら今にも殴りかかりそうな勢いで顔を近づけて大声を出した。私は、少し安心した。主治医が同行してこの様子を見れば、措置入院なりなにかしら強制的にでも入院をさせて、私のこの先の見えない訪問は終了すると思っていたからだ。それが、帰りの車の中で横田Drは何も言わない。私が「先生今後どうされますか」と問うと、不思議そうに「どうというか、そのまま続けて」と返答した。入院の適応ではないですかと問うと「強制的にという程本人も周囲も切羽詰まっていないんじゃないかな」と答えた。この状況に切羽詰っているのは自分だけなの?と頭が混乱した事をよく覚えている。

 そうして私の怒られ訪問も半年が経過しようとした時、いつものように重たい気持ちを引きづりながら車に乗り込み、見慣れた彼の家への道を走っている時にふと、半年も同じように怒られては帰っている自分が情けなくなった。その日、少し冷静だった私は、家の前に散らかっているガラスを拾って病院に持って帰った。次の訪問時には、玄関前に半年前から放置されているごみを病院に持って帰った。彼と話す事はなく少しずつゴミを持ち帰った。ただ怒られて帰る事が情けなくなって始めたこの行為が、次第に私の気持ちをさらに動かし、今まで殴られるかもしれなくて怖かった彼の事を「彼にだったら殴られてもいいや」と思うようになってきた。

 それからは、すこしずつ掃除する範囲が広がり、ついに家の中まで入る事ができるようになった。もちろん怒る日もあったが「ここの缶だけ集めたら帰るから」と言いながら掃除を続ける事もできるようになった。また、ある日は私が家の中に入っているのを黙って横になりながら見ている日もあった。片付けても片付けてもきれいにはならず、奥に行けばいくほど衝撃的な場面を見る事になるので腹をくくるまでに時間がかかった。初めて彼とコンタクトが取れたのは、カビがはえている漫画本を捨てていいかと問うと「ダメ」と言われた時であった。この時初めて何かの手ごたえを感じた。今まで同じ空間、次元、価値で話がかみ合った事が一回もなかったが、彼にとってどれほど大切なのか分からないが、もう読めなさそうな漫画を捨てていいかという質問に対して、明確にダメと返答があった事はとても嬉しかった。さらにそれからは、彼の好きな野球をしようとグローブを持って訪問するようになった。相変わらず怒られる日が続いたかそんな中でも、グローブを差し出すと受け取って怒りながらキャッチボールを始めた。たばこを一緒に吸う時は「返すからね」と恥ずかしそうに言い私からたばこをもらった。ある温かい日、玄関先で一緒に喫煙をしていると彼が「寝る薬くれんかね」と言った。私はそら来たとここぞとばかりに病院に連れていこうと説得しようとした。するとすぐに妄想的になり大声を出して家の中に帰ってしまった。それからは、また振出に戻ったように掃除から始めた。

 大きなゴミは幾分か片付いていったが、腐った畳やほこりがどうしようもなかった。いたるところに薬が落ちていて、それを広い集めてある日話を聞いてみた。この薬だけけっこう残っているんですけど、嫌いなんですか?と。すると本人より「この薬はよく寝れるから飲みたいけど、これは頭がおかしくなるから飲みたくないんだよ」という話が聞かれた。本人の望む薬だけ処方してくれるように先生におねがいしてみましょうか?と言うと本人は持ってきてくれるならそうして欲しいと伝えてきた。主治医にその事を伝えると、眠剤だけ処方し、横田Drも同行し本人に渡しにいった。本人は怒鳴りはしなかったが、そっけなく薬を受け取って何も言わずに家の中に入っていった。一進一退あったが、訪問開始より一年が経過しようとする時に、本人から入院希望があり、訪問車両で任意入院となった。

 この方との関わりにおいて転機になったのは、怖いという対象から、この人にだったら別に殴られてもいいやと思うようになった自分の気持ちの変化であると思う。私の意識の変化が、関係性の変化をもたらし、結果本人との疎通の機会を得たのだと思う。横田は統合失調症の重さを深さと表し、

「浅いくぼみから回復する例では、一般の精神疾患に近い形での治療アプローチが功を奏す。くぼみが深くなるにつれ「症状」を取り扱うだけではすまなくなり、患者を取り巻く環境・過去の体験に関わらざるをえなくなる。もっと深くなると、私自信の価値観、責任感、倫理性、人間性が避けがたく問われる。そしてその事が治療の成り行きを決めるくらいの重みをもつ」

と述べている。まさに、私の場合も、彼のパーソナルスペースを侵しに週に3回も行く責任をどこかで感じたんだろう。たんに治療者として患者宅に向かうという意識ではいけないと思わされ、掃除という行為になったのかもしれない。これまで統合失調症の方と疎通がとれなくなったら入院しかないと思っていた自分の偏見こそが、彼との関係の溝を埋められずにいたんだと気づかされた。私には怒っているように見えていた彼も、宇宙規模の葛藤の中で一生懸命何かを守ってくれていたのかもしれない。またキャッチボールにおいて彼は確実に私が採りやすい場所に適度な速さで温かい球を投げてくれた。ボールのやり取りや、たばこのやり取り、100円そばのやりとり、言葉のやりとり等、色々な物と思いを交換していく過程で理解がすこしずつ育まれる事を感じた。また今回行った掃除という行為は、ただ侵襲的だった私の訪問を、何か自分の為になる事をやってくれているのかもしれないという思いの転換をもたらしたかもしれない。不用意にパーソナルスペースを侵すことなく、少しずつ掃除をしながら自宅に入る事ができた事も掃除という作業のおかげであったと思う。



5、横田Drの患者さん②
 訪問看護から、急性期病棟の担当作業療法士となった私はますます統合失調症の方の担当をする事が多くなった。特に横田Drの個人作業療法のオーダーが多かった。

 20代の男性の統合失調症の方にも個別作業療法のオーダーがあった。彼は話しかけてもすぐに幻聴の方が勝ってしまい、我々の声はすぐに聞こえなくなってしまうように話が続かない人だった。解放処遇になるとすぐに自宅に帰ってしまい、何回も迎えにいかなくてならなかった。さらに病院に戻るのを嫌がり、暴力的になる事もあった。病棟では電池やたばこを飲みこむ事がしばしばあった。時にはエスカレートして給食のスプーンやカギ、アクセサリー等も飲みこみ、総合病院へ搬送される事が何回かあった。厳しい顔して廊下を歩いていると思えば、酸欠になるんじゃないだろうかという程笑い転げる事を繰り返す。何かを問いかけても無視され、関係を取る切っ掛け作りにも苦労していた。特に切っ掛けなく怒り出し椅子や壁に対して攻撃性を露わにする事もしばしばあった。また家族の面会時には頻繁に暴力が見られた。作業療法の活動にお誘いしても無視される事が多く、一回もプログラムへの参加はなかった。

 そんなある日横田Drから、彼と一緒にカレーを作るというオーダーが出た。彼は特に嫌そうでもなく乗り気な様子でもなく、状況にあまり反応していないように見えた。横田Drは「まーさん(美味しいという方言)カレーの作り方」というA4の用紙にレシピを作成し調理1週間前に彼に渡したていた。そのレシピも興味あるのかないのか、ベッド横の床頭台に置いてあった。そしてついに調理当日、彼はそんな約束全く覚えていないかのように普通に病棟で過ごしていた。本日は横田Drと一緒に調理をする日でしたよねと声を掛けると「そうなの?」と答え私の後についてきた。多めにカレーを作って、病棟スタッフに食べさせようという意図で材料もかなり多かった。

 男三人で不器用に材料を切り始めた。最初は指示に従って集中して材料を切っていたが、5分もたたないうちに空笑が見られ、そのうち包丁を置いて椅子に座ってしまった。それからはいつものように、厳しい顔と激しい笑いを繰り返すようになったのだが、その横で残りの男二人はせっせとカレーの仕込みを行っていた。具材のカットができたらまた彼を呼び、野菜を炒める作業を行ってもらった。彼はその炒める作業は気に入ったのかしばらく集中して行っていた。そして水を入れ、煮て、カレールーを溶かし、ついにカレーが完成した。ちょうどごはんも炊き上がり、まずは三人で食べる事に。横田Drが自信を持って、玉ねぎのみじん切りを飴色になるまで炒めたり、生姜やニンニクも入ったまーさんカレーは、美味しい以外の味はないように思えた。しかし、勢いよく食べ始めた彼は1口食べて大きな声ではっきりと顔をしかめて「まずい」と言った。そんなはずはないと、我々も食べてみると確かに「まずい」と口を揃えてしまった。その瞬間彼と横田Drと私の間に確かなものが生まれた。私と彼の仲で、今までどんな事でも会話がかみ合った事がなかったし、ましてや3人で同時に思いを共有するという事などできるとも思っていなかった。しかしこの「まずい」いは大きな可能性を感じた。その後、声を掛けていた病棟看護師達が入れ替わり立ち代わり調理室にやってきてカレーを食べた。彼の手前なんと言っていいか分からない表情をしている看護師に対して「どう?まずいでしょ」と彼は笑ってみせた。

 その後も、会話が成り立ちにくい状態は続いたが、あの時のカレーはまずかったよねと話すと笑みを見せた。彼と「まずい」を共有できるようになった私達は、毎週彼と外食をするよになった。私も含めて、手持ちがある時は自分で支払をし、厳しい時には横田Drにおごってもらった。そのうち毎回私も彼もおごってもらうようになっていったのだが、ある日近所の食堂で天丼を頼んだ彼は相当うまかったのか、2杯食べた。帰りの車中では「先生、お金あるの?大丈夫ね?母ちゃんに怒られんね」と言い笑った。それからしばらくして彼は自ら作業療法室を訪れ、「先生になにかお礼あげたいから画用紙ちょうだい」と言った。彼は画用紙に水彩絵の具で色を重ねてそれをプレゼントしていた。

 統合失調症が治ったという表現とは異なると思うが、人を寄せ付けなった彼が、「まずい」を経験し人と共有し、気持ちの交換を行うようになったという事は大きな変化であると思う。実際に彼との関係性が深くなるにつれて、彼が電池やスプーンを飲みこむという問題行動は、家族との絆を取り戻そうとする儀式、なにかおかしい世界観を一気に治してやろうという苦行のような意味がある事もわかってきた。そして相互理解が進むにつれそのような問題となる行為は少なくなった。

横田は「統合失調症は人間的なやまいであり、人間的な交流を通して回復する。一見頑固な幻覚・妄想や「問題行動」にニーズが込められており、治療者・援助者がそれを汲み取り共感することにより、信頼関係が回復し、ひいては豊かな回復が望まれる。統合失調症の治療とはそういう営為の繰り返しであると思う」と述べている。

危険物を飲みこむという問題行動を起こさない為に、隔離したりする事が重要なのではなく、その行動にどういう意味合いがあるのかを感じようとする。それには関係性が必要である。横田は統合失調症の世界観を、星座のない星空が迫ってくるようなものだと表現するが、そのような手がかり足がかりの無い世界において他者と安定して関係を持つ余裕ななく、ゆっくりお互いを理解するという事は難しであろう。作業療法では作業による成功体験を積み上げる事も重要視する。しかし、今回の場合はもしカレーが美味しかったらどうであっただろうか。これ程まで強く彼と共有できる思いにはなっていなかったと思う。次元を彷徨う統合失調症である彼に強烈に与えた手がかりがこのまずいカレーだったのであろう。



6、まとめ

 高知県で臨床を行っていた頃は統合失調症を治療対象として、一般的に良いとされる治療法を取り入れる事で自らのアイデンティティーを守ろうとしていた。比較的若い統合失調症の方にはそれでもいいのだろうと思うが、慢性の方や治療抵抗性と言われる方々との関係においては、その限りではないと思う。私が上記の二人から学んだように、関係を作る切っ掛けになる作業を探すまでに時間がかかるし、そこから関係性を築くのにも時間を要す。

横田は「統合失調症の臨床で何より大切なのは、治療者がそこそこ信頼してもらえるようになることではないか。人との信頼関係が回復し、もはや孤立しないでもいいようになると幻覚や妄想はおのずとお役御免になっていく。」と述べている。

それほど、統合失調症の治療においては関係性が大切になってくる。人と人が信頼できる関係を持つためには、それ相応の時間が必要であるのは当然の事だが、現在の統合失調症治療においては各病期における治療法がアルゴリズムにより決まっていて、人として関わる時間がない。病名変更は、そのイメージを変え、医療の敷居を下げ、確かに効果があったように思う。しかし、分裂病と言われていた頃の牧歌的な雰囲気と時間の流れは失われてしまった。柔らかい回復を促すためには、流行の療法だけではなく、症状という表現から何かを感じる事ができる関係性が重要であると考える。

 精神科リハビリテーションにおいて成功体験というキーワードをよく耳にするが、今回のカレーが示したように成功する事だけが治療的ではない。むしろ、成功や失敗という二極化した価値では測れない「共に行う」という事に大きな意味合いがあるのではないだろうか。特に統合失調症の方との関わりように、流れている時間も空間も空気感も異なる世界にまたがった二人が同じ感覚を共有して「楽しかったよね」や「疲れたね」と言い合えるにはそこに作業による共通の体験が必要になる。作業を進める中で交換しあう主観、作業の結果として伴う感情等が彼らと心を通わす為に必要な手がかり、足がかりになるのだと思う。調理という作業においては失敗ともいえる「まずい」は、強烈な手がかりとなり時空の海で溺れている方にとって、寄りかかれる浮き輪として安心感を与えたのではないか。そうした手がかり、足がかりを増やしていくことによって本人が自分で安定して存在する事ができるようになり、他者との関係性ももてるようになるであると思う。計画的に成功体験を積むプログラムも重要であるが、偶発的に生まれるアクシデントも時に状態改善の切っ掛けになる事もあるということを意識しなければならない。

横田は、統合失調症の回復について「回復過程を再開した慢性期患者は、よくも悪しくも揺らぎが増える。硬い回復から柔らかい回復に穏やかに向かう回復過程も中にはあるが、硬い安定から、揺らぎの激しい不安定な時期を経て、ようやく柔らかい安定に向かうケースが多い。とりわけ背負っているものが大きい患者、長い忌避からようやく人との関わりをもとうとするようになった患者では、このような不安定な時期は必然のように思われ、この時期を柔軟に支える事が治療の要になる。」

と述べている。前面に現れている症状を軽減する事だけを目的とした関わりでは、このような回復の過程である揺らぎにうまく関わる事ができず、回復のプロセスが阻害されてしまう場合もある。本人の揺らぎにも歩調を合わせ、共に揺らぐ事も重要であると考えている。症状の軽減のみを意識したプログラムでは、時間的制限の中で教育的な関わりが多くなり共に揺らぐ事がない、そのような環境下では柔らかい回復は望めず、硬い回復になってしまうのだと思う。時に遠回りと思われる関わりに中に、多くの手がかりをつくる時間的余裕があり、その手がかりが多いほど安定した関係性を築くことができる。そのためには治療者自身が、治療というよりは人と関わるという事を意識した礼節や、時空を旅する統合失調症の方の世界観を積極的に感じようとする姿勢、周波数を合わせようと努力する事が必要だと思う。また、そう意識して関わる事は、常識というメガネをかけて世界がアルミ色にしか見えていない我々の世界観を根底から覆し、彼らのフィルターをかりて、非常に色合いにあふれ色彩豊かな世界を垣間見る事ができる。

 私は、このような人との関わり方、周波数合わせのコツ等を横田Drに教えて頂いた。横田Drは一見ふざけたおじさんのように見えるが、考えれば考える程奥深い発言をされる。まるで彼自身が時空の深い海に潜って行っているようだ。まだまだ書きたい事はたくさんあるが、今回はこのへんで稿を閉じようと思う。最後に、私にこのような機会を与えてくれた編集者と、私の大切な価値観を作ってくれた横田Drに感謝する。



※引用文献はいずれも 横田泉 「統合失調症の回復とはどういうことか」 日本評論社 2012

本文は「カレーライスと分裂病」(統合失調症のひろば2015年春号.日本評論社)に掲載したものを編集者に許可を得た上で再編した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?