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昭和のgifted - 83 呪われた誕生日

前回のお話しはこちら

41回目の誕生日がやってきた。

私はこの日、毎年泣いている。

ここ何年かは親からの連絡を無視してるのもあって、誕生日が近づくとまた性懲りもなく連絡をよこしてくるんだろうと気が重くなり、いざ当日がやってくるとただ私の幸せを願うメッセージにありがとうと返せない自分に辟易する。

私からすればそんな祝いの言葉すら無視しないといけない関係性にされてしまったからの結果だと思っているのだが、無視されていても母は今年もメッセージを送ってきた。

多少思うところあるのか今までで一番短い内容だったけど、ご丁寧にLINEとSMSそれぞれから送られてきてることもあり、自分が伝えたいことを押し付けてるだけに見えてしまった。

拒絶されても諦めないで向き合う姿勢は時として大事だと思ってはいる。でも、何度私の気持ちを伝えても自身の態度を改められないでいる母に関しては私のことを考えているというより自分のエゴを押し付けたいだけ(自分は間違っていない前提からの行動)でしかないんだ。少なくとも私にとっては。

子供の頃はそれでもまだ喜べていたと思う。特別な日だから特別なケーキが食べられて、欲しいものがもらえて周りの人が喜んでくれていると感じていたので意味もわからず喜んでいたんだろう。

いつからか私が誰かに送るプレゼントはいつのどんなときのものでも凄く喜んでもらえるのに、私は貰ったものの扱いに困ることが多くて、勝手にちゃんと私のことを思ってもらえていないように感じることが多くなった。

これまで何回「産まれてこなければ良かった」と思ったかわからないせいかSNSで投下されるおめでとうの言葉やズレを感じるプレゼントに対して、相手の気持ちを勝手に重く受け止めて気持ちを汲むべきという強迫観念から「自分が嬉しいと感じるものと違うのに」と素直に喜べない自分を疎ましく思ってきた。

とりあえずSNSとかでリマインダーが届いて脊髄反射的にメッセージを送ってこられて、それにリアクションするのが辛くて誕生日が近づくとプロフィールを非表示にするような時期もあったけど、「何の疑問も持たずとりあえず祝う人たち」には適当に返せるようになったし、近年でもそれをやる人たちは単純に性善説で生きているか完全にルーティン化してるんだなと解釈できるようになった。

言い訳ではないけれど、別にSNSとかでメッセージとかコメントもらうのが嫌な訳ではない。私にとって関係性が大事で、祝ってくれている人がどの程度の距離感なのかって話。SNS上でもそれなりに交流がある人であればいつもの距離感の延長線上だと思えるけど、こちらが認識できていない人とかとりあえず「誰かが産まれた日はめでたいもの」と疑わずに行動できている人に怖さを感じる。

「私じゃ物足りないかもだけど、お祝いさせてね」

と言ってくれる友達も最近できて、彼女は「祝われたことを喜ぶのは義務じゃないよ」とも言ってくれた。

私は多分、環境や突破力については恵まれている方で、多くの人から見れば自信と行動力でいろんなことを成していると思われがちだけど、私が欲っしてそうなった訳ではないから私の誕生日の呪いはまだしばらく解けなさそうだ。

それでもただ耐えるのではなくて、声を上げて足掻いてみたら今までよりも随分無理をしなくて良くなってきてるので、幸運の女神が通りかかることがあるんだったらその前髪引っ掴んで泣かせるくらい追い込んでやろうと心の準備だけはいつでもしているのである。

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