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昭和のgifted - 79 葬送のフリーレンに学ぶ

前回のお話しはこちら

一日千秋。なのかどうかは知らないけれど、ギフテッドの思考のプロセスを私がわかりやすく説明したいときに「精神と時の部屋」(ドラゴンボール的な)という表現をするようになった。

思考回路がショート寸前に毎日なりがちなギフテッドは小慣れてくると「そして考えるのを辞めた」になるんだけど、そこに行き着くまでの時間がわりとかかる。(最近ジョジョの一気見してたのであえてこういう表現)

アニメとか漫画とか、小説、映画。どんなものでも良いのだけれど、「誰かが想像したこと」や「誰かが思っていること」をコンテンツとしてアウトプットすることで、それを見た人が感銘を受けたり、共感したり、理解しようとする礎を比較的簡単に作れる時代になったことはとても良いことなんだと思う。

共通認識は多ければ多いほど良い。

昨今の“多様性認めよう社会”になってきたからこそ、ギフテッドが処理する想像や可能性をアニメのヒーローやヒロインが“そんな奴いる訳ない”設定だとしても演出してくれることで一般の人にも認識しやすくなったのでは?と思うことがある。

『送葬のフリーレン』はアニメになる前から評判が良く気にはなっていた作品だったので、アニメ初回1時間放送という制作側の力の入れ具合も売れる、受けること折り込み済みで満を辞したんだろうなぁと思ってる視聴した。

そしてなんとなくフリーレンの「普通の人間の感覚がわからない」ってのがしっくりきてしまっている。

別にギフテッドじゃなくても才能ある人はたくさんいて、才能というものが誰からも称賛されて褒め称えられて眩いものばかりとは限らない。

本当の意味で多様性を考えるなら誰も目を向けない地味でコツコツしたことができることもそれはそれで才能なんだ。

でもこんなに多様性を謳う時代になったのに「自分ができないことの素晴らしさ」に価値を見出せることのできない人の方が多いというのはかくも皮肉な現実だと思う。

もとい『葬送のフリーレン』の話の中でこんな台詞が出てくる。

「心の支えを必要なのは子供だけじゃない」

そりゃそうなんだよ。

私は仲良くなれた相手にはたまに頭を撫でがちなんだけれど、それって結局私がされて嬉しいことをまずしてみるってことしかできないと思ってるからで(だからといって誰かれ撫でる訳じゃないよ!)でも「大人になってから頭撫でられたことなかったですけど案外嬉しいものですね」と言ってもらったことがあるので必要そうな人をみかけるとつい動いてしまう。

『葬送のフリーレン』でも人を褒めるときは頭を撫でるといった描写が出てくるのでうっかりその辺りも共感してしまった。

あとフリーレンはいつも眠そうな設定というのも共感できる部分だったりする。
歳をとるとずっと寝てられなくなるよ、とよく聞くけれど思考エネルギーが異常だからなのか40歳すぎてもめちゃくちゃ寝る。寝過ぎて腰が痛くなることもある。だけど寝続けることをやめられない。

最近見た話でそりゃそうだよなと思ったのは

「錆びた首飾りを持ってるから資格に興味ない。資格管理する団体って頻繁に変わるから。」

だ。

そうなんだよなぁ、資格ができる前からやってる仕事とかもあって、今さら資格とってもなと思うし、資格があれば信憑性が増す(一般的にわかりやすくなる)ことは明白だと思いはするけれどなくてもきちんと評価してくれる人たちに恵まれたお陰もあって現場で役にたたない「知識を詰め込めば取れる資格」にお金を払うのもアホらしい。

でも盲目的に資格さえあれば、と思い込んで勉強する人も少なからずいる訳だからビジネスとして成り立ってしまう。

資格も専門学校もお金を儲ける手段のひとつとしてあみだされたひとつのビジネスモデルだとわかってしまうからどうしてもそこに乗っかれない自分がいる。

マジョリティに指標を作ってあげること。それは宗教の歴史的にも助かる人が多い側面があるのは理解できるけれども、マイノリティの私は私が私としてきちんと考えたことを間違ってるとは思えないから生きづらくとも我が道を行くしかない。

それでもこうやってnoteに吐き出すことを始めたら参考にしてくれる人や共感してくれる人たちと繋がることができた。

自分の中では当たり前のことが他の人からすれば当たり前ではない世界線で、自分の思いを吐露することは怖くて哀しい現実だろう。

フリーレンのように長寿であったならどこかで諦めや「そもそも違う」と開き直ることもできるかもしれない。

それでも寿命的には普通の人間と同じで、それなのに思考の深度や広がりが普通の人と違ってしまうせいで自分自身を持て余してしまうのは仕方のないことなんだと思う。

だからこそ、ギフテッドであろうがなかろうがその人なりの辛さとかやるせなさを垣間見る瞬間があれば、私は私がして欲しかったことをしてあげることしかできないなと思いつつお節介をやいてしまうのである。

例えそれが裏目に出て「ほら、やっぱり」と思うことになったとしてもアニメや漫画で綴られる理想を現実のものにしようと動いてしまう。

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