松田貴郎の自分史 連載①「生まれたところを遠く離れて」

原病院への入院は1994年11月11日でした。
親元を離れる不安や寂しさはありましたが「仕方がない」と受け入れました。僕も親も数ヶ月もすれば退院できるものと思ってましたが、その見通しは甘かったですね。
初めての集団生活は失敗も多かったです。他の患者用に出されていた高カロリー飲料をおやつと思って飲んじゃったり、朝のトイレ、入浴、ゲームの順番が早い者勝ちだったのは慣れるのが大変でした。

いじめの図式もありました。精神疾患がある患者や個性の強い子がその対象でした。
僕が入院するわずか一週間前には、けんかしてキレた電動車椅子の先輩が手動車椅子の先輩に真横から突進してひっくり返し、頭を強く打った先輩が総合病院送りにされてました。今なら完全な傷害事件です。患者がストレスをぶつけ合う図式がそこにはあったように思います。

当時はまだみんな若く元気でした。
花見の日には昼食で給食が作った特製花見弁当を病棟で食べ、ジュースを持ってみんなで病院内の桜を眺めに行きました。
四月後半の野外レクでは患者、親、職員が協力し合ってBBQして一緒に食べました。僕は気管支炎でまだ病み上がりでしたが、ほとんど治っていたので点滴ぶら下げて参加しました。おおらかな時代でした。
夏休みには学校の体育館を借りて車椅子ホッケー大会がありました。車椅子を使い慣れてない職員チームをボコボコにしてやったのは楽しかったです。
花火大会もありました。
冬にはクリスマス会があり給食の特別食として骨付きの鶏モモ焼きやパエリアが出てきたのはびっくりでした。
今思えば、その頃が食事も行事の規模もピークでした。花見は親の会主催の花見だけとなり、野外レクはO-157の発生に伴い無くなっていきました。
ホッケー大会もなくなり、クリスマス会の催しは続いていきましたが特別食はグレードが徐々に下がっていきました。

最初の外泊は大晦日から1月4日まででした。
父親は仕事で業務用あんこを卸していた露天商の親分に頼まれて、防府天満宮に梅ヶ枝餅を作りに行ってて三が日の昼間は不在でした。
いても飲んだくれるだけなのでいない方が僕は気が楽でした。テレビを観たり、しばらく会えなかったうちのネコちゃんと戯れたり、僕がいない間に兄が買ってきていたプレイステーションで「鉄拳」やガンダムのゲームをしたりして過ごしました。

次回へ続く・・・

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