松田貴郎の自分史 連載③「君が人生の時・・・」

卒業後は体調が悪化した時期でもありました。
当時は「心臓に負担をかけないために水分を取り過ぎないように」と言われていた時代でした。体位ドレナージによる排痰の重要性が今ほど言われてなかった時代でもありました。
そのために痰の塊が気管で詰まってしまい何度か意識を失って死にそうになりました。

年末に集団風邪的なもので発熱や体調不良が相次ぎ、僕もその一人でした。クリスマス会どころではなく「メリー苦しマス」でした。
当時は排痰には背中を叩くタッピングが主流でしたが心臓の悪い患者には負担が大きく、そこそこ元気だった先輩があっという間に心臓を悪くして亡くなったのは衝撃でした。 看護研究で体位ドレナージの研究が始まったのは、そういったことがきっかけだったように思います。

その直後くらいから右肺に黄色い液体が溜まるようになりました。総合病院でCTを撮り、それ以降は今に至るまでその液体に悩まされることになります。
それはおそらく肺の中で炎症は細菌感染を繰り返すことで発生する「浸出性胸水」と思われますが、最近では再発した際に主治医も看護師もそれを「胃液だろう」と言い張って、誰一人として「肺から出ている」という僕の言葉を信じてくれませんでした。
主治医に直談判して後日にCTを撮って肺に空洞ができて液体が溜まっていることが証明されました。「そのまま言いなりになっていたら」と思うとゾッとします。
その時に生じた不信感は「退院して地域で暮らしたい」と本気で取り組む決定打となったのは確かです。

人工呼吸器は高三の終わり頃だったか、まずは昼間1時間の練習からでした。 当時は「頼ると外せなくなる」という理由でなかなか夜間に長く付けさせてもらえず、極度の寝不足で鬱状態になりました。
お気に入りの患者ばかりかわいがるいわく付きの職員によるいじめを受けていた影響もありました。
当時は病院に臨床心理士がおらず、そういったことを学んだ経験のある指導員が話を聞いてくれたりしてくれました。両親にも面会の度に車の中で愚痴を聞いてもらいました。
どうにか主治医が夜間の呼吸器装着時間を延ばしてくれて、精神状態は回復しました。でも職員のいじめはその職員らがいなくなるまで続きました。
そしてある時、僕は言い知れぬ不安感と動悸、「死んでしまう」という恐怖と息苦しさに襲われました。パニック障害でした。
その頃に受け持ちだったベテランの看護師さんが「息を吐きなさい」と教えてくれて、「あなたはいろんなことを賢く考えすぎてるの。馬鹿になりなさい。気持ちが楽になるから」と励ましてくれました。 その甲斐もあって「発作が来ても息を吐けば大丈夫」と思うことができて、コントロールできるようになり収まっていきました。

その後、松江病院から異動してきた指導室主任の発案で三あゆみ病棟にもインターネットのRANケーブルが張り巡らされ、気軽にネットを利用できる時代が来ました。

同じ時期には兄・哲郎(てつお)が肺水腫寸前の状態で入院してきました。すぐに心臓の薬や利尿剤の投薬が開始されて容態は改善していきましたが二年で亡くなりました。
早くベッドに戻る兄のいる病室で夕食をともにし、同じ時間の流れで過ごすその二年は離ればなれになって隔たりを感じていた兄との絆を取り戻すのに十分な時間でした。
面会の時には裏の坂道を上って、駐車場の隅でアウトドアを楽しみました。焼きたてのお肉や揚げたての揚げ物は最高でした。
うちの病棟では許されてなかった年に一度の職員付きでの外出行事「院外療育」の道筋を立ててくれた兄は「やりきった」と満足そうに、それを達成させたその日の夜に亡くなりました。28歳でした。

この頃に八雲病院の呼吸療法に関するビデオを観る機会があり、見よう見まねで舌咽頭呼吸というものを会得しました。それは今でも呼吸や排痰で役に立っています。

原養護の同級生の紹介でシンガーソングライターの風呂哲州(ふろ てっしゅう)さんと知り合いました。何曲か僕のポエムを歌にしてもらいました。一度、ライブに行ったこともあります。その後も病棟で二度ライブを催し、今もFacebook等で関わりが続いています。

その後、日帰り帰宅をしました。少し変化はありましたがやはり故郷は懐かしいものです。

アーチストという心臓の薬を服用し始めました。名前は変わっていきましたが今も心機能を維持してくれてます。

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