松田貴郎の自分史 連載⑥「君と歩いた道」

親父と親交のあった桝屋敬吾衆議院議員に「人手不足で困ってます」と手紙を送ったのをきっかけに、桝屋さんが会いに来られたこともありました。
でも桝屋さんは今はもう引退されましたし、後継の議員さんは科学技術系なので福祉面では桝屋さんほど宛てにはできないと感じています。

長年悩まされていた車椅子でのお尻の痛みが、負荷を分散させる座位保持装置を作成して新しい車椅子にしたことで痛みから解放されました。

Facebookは2016年頃から始めました。
最初はポエムや日々の思いを書いていましたが、次第に右派としての活動に充てるようになりました。
でも最近はバーチャル患者会という別の目的ができたことで、その活動は控えるようになりました。

重度訪問介護制度の外出支援を受けてお散歩に出るようになりました。
月に一、二回ほど病院の周りを散策するようになりました。帰りには必ず外来の喫茶店で飲み物を飲んで帰るのが定番でした。

「散策も飽きたし、福祉タクシーでお出かけでもしようかな」と思い始めた矢先にコロナ禍になりました。
前の年の年末に「中国で謎の肺炎が発生している」という報道はネットで目にしていて「また変な病気が出てるなぁ」と思っていましたが、ここまでになるとは思いませんでした。
外部のヘルパーもボランティアも入れなくなり外出もできなくなりました。面会もできなくなりました。
外の感染状況によって感染対策のレベルをコントロールしていく方針が何年も続くことになりました。

そんな中、好きな看護師が辞めてしまい、喪失感から躁鬱状態になりました。人生で初めて本気で「死にたい」と考えました。
その状態は二ヶ月続き、胃薬に頼る日々でした。
その間は中島みゆきの「時代」、長渕剛の「HOLD YOUR LASTCHANCE」「STAY DREAM」の歌詞を支えに自問自答しながら泣いてばかりいました。
ある時、「一人でも生きていければ十分だ」と思い、躁鬱は改善していきました。

ある日、指導員がオンライン交流会のチラシを持ってきたので参加してみることにしました。
この行動がなかったら今の僕の活動はありませんでした。
そこでCILや地域移行の存在を知ることにもなりました。最初は野瀬さんが連絡をくれて、他のメンバーも交えて病院の中の問題を相談するようになりました。
そして僕が地域移行に興味を持っていると知った中原さんが「広島県人会+1」というLINEグループを作って僕とCILびんごのみなさんをつなげてくれました。
そこから地域移行に向けたILPへとつながりました

やがて、山谷さんに「語りの夕べ」へのお誘いを受けて、集まったみなさんとともに筋ジス病棟バーチャル患者会を結成することになりました。

いいことも悪いこともたくさんありましたが、これが今の僕を形作った自分史です。

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