松田貴郎の自分史 連載②「青春のヴィジョン」

何もせずに過ごすのもどうなのかということで、入院の翌月から原養護学校に転校しました。(今思えばその時点でずっと入院することが既定路線にされていた)
原は授業を休みがちな心身症の生徒も多く、フリースクールみたいな自由な校風で僕の学年は10人くらいいました。
その反面、教員も自由になりすぎて勤務時間内に組合活動をするような日教組の巣窟でもありました。今思えば彼らの教育は左方向の政治思想を押しつけるようなものも多かったように思います。

体育はあゆみ病棟の生徒のみ(中高合同)、競技は車椅子ホッケーでした。手製のスティックとスポンジボールを使っていました。
僕の役割は割合元気な後輩を徹底マークしてゴールポストへの接近やシュートを防ぐことでした。前の学校は軽度の障害や知的障害が主体だったので、原では自分も活躍できて楽しかったです。
バンド活動や課外クラブにも参加しました。
僕はボーカルでしたが、エレキギター担当の西山君のギターテクニックがかっこよかったです。西山君は一般病棟の生徒だったので直接関わることはそんなに多くありませんでしたが、いつもおしゃれな着こなしをしたバンドマンでした。
土曜の授業は半ドンで、午後に課外クラブ。顧問の教員が迎えに来て、学校のプレイルームでトランプや麻雀、映画を観たりしていました。
正規のクラブは科学クラブに所属。ペットボトルロケットとか太陽熱を利用した熱気球作りが楽しかったです。
生徒会では議長を務めました。
夏休みを利用してアマチュア無線四級の資格を取りました。
学校祭ではバンドのステージでの演奏やペットボトルロケットの実演とかいろいろやらせてもらいました。
卒業式の前頃は痰がらみが多く、卒業式に出られるかどうかというところもありましたがどうにか出ることができました。
卒業生の入場曲は僕が提案してクラスメイトが支持してくれた浜田省吾の「THEME OF FATHER'S SON(遥かなる我家)」にしました。今でもその歌を聴くとその時のことを思い出します。

卒業後は療育活動に参加するようになりました。
一年先輩の伊藤君と短歌やポエムを創作するグループ「ポエムアカデミー」を作りました。
そのうちに後輩が二人加わり、その一人はお父さんが印刷会社を経営していて、そのお父さんにお願いして詩集「四色パステル」を自費出版させてもらいました。
お父さんも息子の頼みとあってかノリノリで親友の伊集院静さんが前書きをしたためてくださいました。その時に伊集院さんが後輩の「届くといいな」というポエムを気に入られて、それを歌詞用に作詞された歌がジャニーズ所属アイドルのユニット「J-FRIENDS」が歌う「Next 100 Years」のカップリング曲「届くといいね」になったのは感慨深いものがありました。
他にも指導員と病棟の中庭の一部を開墾して畑作りを先輩達とやってました。収穫した野菜を格安で職員に売って、そのお金で次の種や苗を買っていました。

病院での活動とは別に後輩達と「PC.HARA」というグループ活動をしてました。
親しかった教員、卒業生、親、友人にボランティアで集まってもらい、マイクロバスで広島市内に遊びに行きました。
春には原養護を借りてBBQをしました。冬にはみんなでチゲ鍋やすき焼きを楽しみました。
僕は参加しなかったんですが、国民宿舎を借りて泊まりがけでリクリエーションしたり、バリアフリーマップの作成に取り組んだりもしていたようです。
教員も転勤などで散り散りになり、親も歳を取り、メンバーも重症化していきました。
学校を借りることもできなくなり、僕等は活動に幕を下ろす決断をしました。
その活動で知り合った広島修道大学の学生さんとは今もFacebookでつながっています。

あの頃は病棟内でもちょっとしたけんかやもめ事が日常茶飯事でしたが、そんなぶつかり合いも今振り返れば「若かったなぁ。懐かしいなぁ」と感じます。

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