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多様性が生む分断

こんにちは。
今日は大学の友人との会話から一つ考えさせられた、多様性について記事を書いていきたいと思います。


多様性とはそもそも何なのか

多様という言葉を聞くと、色んな、とか、様々な、とか、異なるといったような言葉を連想するであろう。
実際に社会学でも、多様性という言葉は

[ある集団の中に異なる特徴•特性を持つ人がともに存在すること]

と定義されている。
従って、多様性を受け入れる、なんていうマジョリティ視点の表現でよく使われる言葉ではあるが、多様な特性を持った人の存在にフォーカスされている単語だということがわかるだろう。

昨今、多様性、すなわちダイバーシティという言葉は、LGBTQコミュニティの人々、また日本で言えば国籍の異なる人々との社会共生をテーマにした議論でよく使われているのではないかと思う。

一昔前までは、女性は男性を愛し、男性は女性を愛することが大前提とされ、男性が例えば男性を好んだ場合には精神障碍者として社会に認識されていた。日本だけでなく、実はドイツの研究者によってそれらは定義付けられ、過去にはヨーロッパ各国でもそう認識された人には刑罰が下されていたこともある。

しかし、ここ最近のヨーロッパでは“同性愛者”や“クィア”に対する人々への理解が無い人は紛糾、軽蔑、理解の無い人間と認識される雰囲気がある。もちろん、表立って彼らも差別的表現をするわけではないが、実際に同年代でもLGBTQへの理解なんて要らない。おかしい。他にも、移民を受け入れるのは普通におかしい。などいう人がいる。社会の分断を垣間見る瞬間がある。



大学での出来事

ある日、友人2人とランチを食べていた。
なんのことを話していたのか、スタート地点は何だったのか記憶にないが、ナイジェリア出身の友人が

“どうしてここの教授は皆ゲイなわけ?どうして彼らが教鞭を持つことができるの?幾つか必須の授業でジェンダーの授業を取らないといけないけど、ほとんどがゲイの研究について。全く面白くない。”

と言い出したのである。(関係ないが別に全員がゲイというわけでもない。)

お~そんなことをいきなり社会言語学専攻の生徒として、この場そしてこのタイミングで発言するなんて、なんて勇気のある人なんだと思いつつも、個人的には彼女の意見には全く賛同していなかった。しかし、彼女が割と熱烈なカトリック信者であること、出身国では同性愛者が犯罪者となる法律があることを考慮すると、その社会環境で生きてきた彼女に、今ヨーロッパでは主流な考えとなっている、“LGBTQの人々を受け入れよう”とか、そもそも“同性愛者と誰が言っても驚かない”とかいうことを、まず理解するのも難しいだろうなと思っていた。

すると、もう一人の友人が、

“今の発言何?あなた、差別主義者ね”

と一言。

するとナイジェリア人の彼女は

“だって私の国では彼らは処罰を受ける人達なのよ?どうやってこの世界をすぐに理解しろっていうの?”

と。

そしてもう一人の友人が

“ナイジェリアがクレイジーな国なだけよ。他の人は皆あなたのことを差別主義者だというはずだわ。あなたがその考え方をする限り、私はあなたと友達でいられるとは思わない”

と言い、去っていったのである。


その場に取り残された私。とにかくナイジェリア出身の彼女の発言は全く良くなかったことと、自身が育った環境や宗教観が全くこの土地と異なることは事実としてあるので難しいのは分かるが、この社会ではその発言は全くタブーたということを説明。

結局時間がなくなんか中途半端な感じですべてが終わってしまった。


友人のどちらが差別主義者なのか?

帰りの電車私は常に、多様性とは。ということについて考えていた。
一見、今のスイス社会ではLGBTQの人々への理解が深い人が多様的な視点を持っているとみなされる。恐らく日本でもそうであろう。しかし、ナイジェリア出身の彼女の意見は無視されていいのであろうか?始めに書いた、LGBTQの人々への理解は要らないという意見は、現代社会の風潮と一致しない為に、ないものとされてしまうのであろうか?

多様性とは、多様な人々に対して、またはこれまでの社会では問題視されていなかったこと、そして新たな考えを皆が受け入れていく、その一方的な方向に常に向かい続けることなのか?

恐らくナイジェリア人の彼女の発言を聞いて気分を悪くする人もいるだろうが、他人の出身国をクレイジーだと言うのを聞くのも、中々聞き手としては気分が悪い。

そして、自分の意見と異なる考えを持つ人がいた場合に、その考えを真っ向から否定してしまうその反応には、多様性があるといえるのであろうか?


個人的には、皆がそれぞれ自分と向き合い、社会に存在するカテゴリ以外の“自分”(例えば男女という生物学的な性別の二分法のカテゴリ分けだけでなく第三の性を見つけるなど)などを見つけて、それこそ自由に個人の意見や思想が尊重される社会になってほしいと願ってやまない。

しかし、人間皆絶対に人一人として全く同じ考えを全方位に持っているということはあり得ない。個人の意見が尊重される社会を目指す人がいる中、個人の意見が尊重されるよりも集団として同じ考えを持っている人々がいたほうが生活しやすい人も中にはいるのである。

自分とは必ず違う、そして反対の考えを持った人が社会には存在する。しかし、その異なる考え方の違いが存在することを多様性と呼ぶのではないだろうか。

なんせ、考え方が卑劣であってもおかしくても、モラルが無くても人間そもそも皆異なるので、いい人もいれば悪い人もいる。みたいな感じで画一的な人間が存在する社会というのは無いのである。
しかし、多様性とう言葉が昨今、新しい現象や風潮を受け入れる人や社会を表す単語として使われるようになってきているのではないかと、ふと思った。

[ある集団の中に異なる特徴•特性を持つ人がともに存在すること]

その異なる存在を受け入れ合うこと。そんな社会が実現すればとても個人的には喜ばしいことだが、やはり、そんなことを謳いつつも、結局社会に分断が生じている現実を見ると、私の考えはかなり楽観的なんだなということも分かる。

人間関係においては、自分と似たような人と関係を築くことが出来るが、社会の一員としてコミュニティに属すると、多様な考えを受け入れなければと思う。しかし同時に、そんなことを思っているのは、もしかして自分だけなのではないかと思うくらいに、人の考えが分断していることにも気づかされる。

でも、そうやって分断しながら人間ってここまで人間の歴史を築いてきたのかもしれないと思いながら、私も自分の意見や思想をちゃんと持ちながらも、しかし人を傷つけないコミュニケーションを取れる方法をもっと学んでいきたいなと思った。


多様性という言葉が今後どんな意味を持つように変化していくのかもとても興味深い。