岡口判事と自由

岡口判事が弾劾裁判で罷免されたとの報。

情報操作
まず、岡口判事のSNS投稿は、故人や遺族を誹謗したものではなく、過去の殺人事件の犯行態様に言及しただけだった件。要は事実を述べたに過ぎない。
「傷つけるから」との理由で、具体的内容を報道せず「誹謗中傷だと言われている」とだけアリバイ的な客観報道やってると、言った者勝ちになる。これは報道各位の再考が要るだろう。

安倍時代の極右ブームにより、犯罪遺族の中にも政治的意図を持って動く人と出くわすのは確率的に十分ありうる。
以前、在外邦人が殺害された時に、遺族が「朝日がぁ、朝日がぁ」を連日投稿して大いにバズったが、アカウントを掘ってみたら、実は自民系のホムペ屋か何かで、被害者とも遠縁に過ぎず、本物の遺族から止められて、ほどなく消えた事態があった。
野党支持者は確率的に居ないが、与党支持者を引き当てる可能性は十分にある。危なくって遺族取材なんか出来なくなるな。だから、我々ネット雀、一般人が「遺族をタテにした情報操作」への免疫を付けるしか対策はない。

弾劾裁判
弾劾裁判は、国会議員が裁判官を裁く制度。
他人を裁く裁判官に非行があった場合、誰がクビにするのか?
国民の代表である国会議員がクビにするわけだ。
会社員が不祥事で懲戒免職になるのとは訳が違う。

もちろん、安倍時代以降の与党議員には、法律と私怨と言論の区別などない。自民党を批判していた奴だからクビにしようザマーミロ程度の知能しか持ち合わせていない。

岡口罷免の総論
岡口判事の弾劾裁判は、安倍時代の自民イケイケ状態でやってみた事が、手続などのタイムラグで今になって成功したに過ぎない。
もちろん、内容的には毎度の「ツイッターでネトウヨが群がって炎上させた」の域を出ていない。
そのレベルで弾劾裁判やって裁判官をクビにしたのは、司法にも政治にもコッ恥ずかしい汚点を刻んだだろう。
だから弾劾制度に問題がある、とか言わないよ。議員は国民の代表なんだから。

ここから本題
もちろん裁判官にも、一人ひとりの思想信条や贔屓球団、性的嗜好などあるだろう。むしろ商売柄それらは厳に守られねばならない。

裁判官だから公正中立=自民党支持でなくてはならない、なんてのは、安倍時代に震災復興費でネット工作の物量作戦やって、日本国民が村八分や相互監視の愚民ムーブを全開にしちゃっただけの話である。

こうした状況を憂い、司法の独立や、組織の風通しの面で、裸一貫、挑んでいったのだろう白褌判官は。
司法の形骸化なんて酷いもんで、ありゃぁ冤罪も生まれるだろと思う。
自由を担保するための地位が、世襲的上級国民と、その一員から外れないための腐敗しか生んでいない。

で、私は思うのだが。

「勇気ある人」考
「本質的にかくあるべき」という究極的理想を目指すのか?
「現状から1段マシな状態」へと段階的な闘争を行うのか?

裁判官の貴族化やブラックボックス化に危機感を持って、法の定める通りの自由を行使してみたわけだ岡口判事は、つまり究極的理想形の実行。

裁判所の腐敗っぷりだと、理想形とは何段もの差がある。
一足飛びに理想形に行かず、手近な改善を行う選択肢は無かったものか?

手近な改善。
これを行ったところで、理想形からは程遠い。
歴史の中で、腐敗時代に腐敗していた一人として人生を終える。
それなら理想形を目指して討ち死にした方が、名前が残る。

僕はどっちかというと「手近な改善」を好む。
同じ能力があったとしたら、理想形を目指して短期間で討ち死にするより、手近な改善を続けていく方が、より多くの陣地を奪えると考える。

「理想を目指して討ち死に」と「腐敗の一員として改善を積み上げる」
判断の差は、自意識じゃないかと思うんだわ。

エリートで来た人は、自分には一定の能力があって、死ぬまでに、この社会に何が出来るか、どう名前を残すか、といった発想があると思う。
凡人は、自分の名を残すことなど思いもよらないので、記録に残らない努力も続けられる。

  功名心←               →継続性

体 白褌判官              (空白域)
制 ジャーナリスト

体 与党政治家             ネトウヨ兵

  高知能←               →低知能

会  白褌判官             左翼運動家


欲  官僚                IT社長  

エリート階級の自意識高い件。
権力批判勢力が狂信的になって個人崇拝ばっかりやってる件。
ネットで信者商売が可能になり、極論の方が人気出る件。
それらを合わせて。
「自分の職場で、地道に、正義を積み上げる」人があまり居なくなった感がある。

まぁ、職場で、中途半端に正義感を発揮していれば、職能的に「無能」との烙印を押されて、出世できないだけだ。自分のプライドは傷つく。
それより、社外で「勇気ある」発言を繰り返し、会社に居られなくなったら殉教者として信者商売に走った方が、お手軽だしお得だ。

「組織内改革者」としての生き方は、それを標榜しながら腐敗していった人が多かったので、昨今は評判が悪い。
ネットが出来てからは、新規に選択する人が減ったのではないか?
辞めてニッチ層を相手にした方が、正義漢として歴史に名が残る。

地道に、自分の職場で、戦後民主主義のルールが崩されないように奮闘してみても、職業上は無能との評価が下され、外部から殉教者として応援されることもない。
家族を飢えさせないよう、その職場の最低評価を維持するだけでも、なかなか知恵が要る。そうして際どく職業人を全うしても、何の名前も残らない。
生えては枯れる草のように、自分も長い歴史の中の一部品だと捉えていなけりゃ、自分の職場で損な努力は続けられないと思う。

理想形と目先、どっちを目指すのか。
こういうのも車の両輪であって、どっちも必要なんだと俺は思う。
だが、ニッチにリーチ出来るとか、自己顕示欲を刺激されるとか、ネットというものが出来てからは、簡単に理想主義を唱える方へ傾き、与えられた場所で、四面楚歌のなか、奮闘する努力をしなくなったのではないか?

ネットと絡めた論評は、「SNS中傷で初の処分」とか「ネット中傷で重大な結果」といった、萎縮効果ねらいが多いが、それよりも、通好みな提案として、正義感の粘りの無さ、を問題視しておきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?