「北宇治高校」考

アニメの舞台として名高い架空の高校。
検索するとモデルは莵道高とも東宇治高とも。
京都の東南西北高校について、ちょっと書いてみます。

のどかだった京都の高校

戦後の民主化の一環として、高校3原則というのができた。
「男女共学」「職業科併設」「小学区制」

つまり。
・男子校・女子高がなく共学
・工業高や商業高がなく、〇〇高校普通科、〇〇高校商業科に
・住所で自動的に高校が決まり、学校間格差がない

日本の民主化のために、エリート高を作らない、という考え方ですな。
これはすぐに取りやめられたのですが、京都府は1950-78年の28年間、蜷川革新府政、つまり終戦直後から30年近く共産系知事だったので「高校3原則」を守っていたのです。

戦前の旧制中学から続く高校も、新設の学校も、名門化しないよう、京都府立高校は、単純な地名だけの校名になりました。

受験は「京都府立高」という形で、府下全域で一括して行われた。
概ね、競争率は1.08~1.1倍、ヤンキーたちは試験をフケるので、まぁ名前さえ書けたら全員が入れる。
合格発表時に、自分の行く高校が分かる仕組み。といっても、住んでる町で決まるので、町外れの奴が、どっちになるかな?ぐらいで、保育園から持ち上がりで幼馴染と一緒です。

こういう、のどかなシステムだったのです京都の府立高校は。
保守陣営はこれを攻撃し「京都の子が京大に行けない」と訴えて制度改革を行いましたが、教員には共産党が強かったもんで、掃討に3、40年を要した。
完全に他県同様の制度になったのは、ごく最近です。
今は、府立高校の間にもランクが出来ていますが、進学実績はむしろ悪化していますね。

僕も昔の府立高校の出身ですが、偏差値30-40の高校を出て、偏差値70ぐらいの大学行ってるから、だいたい2倍ですw
府立高校では、京大目指してガリ勉やってる奴も、まだ九九やってる奴も同じクラスにいた。
運の良い奴は国立大に潜り込んで、のどかで平等すぎて、他県の進学校出身者を激怒させる。府立高校には、こういう独特の文化がありました。

東南西北高校

いくら平等主義といっても、京都市内の高校や、市の1軒目の高校は、その地域にOBがゴマンといて議員とか文化人もいる。校舎は古びていて部活にも部室があるし、行事がある。
人口増加によって新設された2軒目高校は、校則が厳しく、行事が無く、部活が乏しく、制服が改変防止に変な色のブレザー、府教委が思いのままに出来る対象です。

一言でいえば「青春がない」。府立高校の合格発表時に2軒目に振り分けられていると、女子は嘆くこと大でした。
旧市街の地主の子は自由、新興住宅地の転入者子弟は管理教育。京都は左寄りといわれても、その中にジンワリとしたカーストがあるのが京都らしい点ですw

こういう2軒目高校は、東南西北の付いた校名になりました。
北嵯峨、洛西、西乙訓、南八幡、西城陽、西宇治、東宇治、東稜、北稜。
焼き印を押されてるようなもんですw
(洛北は旧制1中、北桑田や舞鶴は地名自体に東西南北)
(東西南北命名は83年の西城陽、南八幡が最後)
(西宇治や南八幡は統廃合で消滅)
(洛西は、京都一番の進学校「洛星」と混同されやすく、いつも詫びていたw)

なお、宇治市は、府立が城南高校、私立が宇治高校で、後で出来た府立が東宇治、西宇治でした。中学は東西南北そろってたんだっけか?

モデル校は?

作中のモデルは東宇治とも莵道とも検索で出ました。
東宇治は、後発府立の中では古く、勉強も部活も活発な印象がありました。
莵道は、府教委が左翼掃討を始めた頃の新設高校の一つなので、力を入れて、東西南北ではなく難読地名を使った2文字校名になってんでしょう。その後、京都府立では私学風の校名が流行りました。府教委の私学コンプ凄いwww

アニメには詳しくないので、架空校名に東西南北を充てた経緯は存じませんが。
校名に東西南北が付いていると、いかにも宇治市、いかにも府下、京都であって京都でない、パッとしない、青春は無いものの全体的にユルい、他人に語るほどでもない高校生活。といった印象を、地元中年は抱くわけです。

アニメ好きな方、どんな作品でしょうか?

もしも、漫画チックな活気あふれる高校生活が描かれていたなら、そういう青春が無かった人が、自分の母校にあてつけにした可能性もあるでしょう。
並みの青春ドラマであるなら、東西南北を充てることで「宇治らしさ」を醸し出した可能性もありますね。
いまいちパッとしないけど、その中にもそれぞれの青春があるという描き方だったとしたら、府立東西南北高校への愛情あるレクイエムだと思います。

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