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気にしないよう気にしない練習をする


イヤホンというシールド


突発性難聴で右耳が聞こえなくなって一年がたちます。

それまでは外に出るときは必ずイヤホンで何らかの曲を聞いていたのですが、難聴になってからはイヤホンをつけていません。(難聴との関係性を疑うオットがイヤホンを嫌がるため)。そうなって思ったのは、わたしにとってイヤホンは外との“シールド”だったのかも、と。思い返すと、外からの刺激(目に入るもの、耳から聞こえるものなど)を受けると、自分の感覚や思考がそちらに向かってしまうことが多かった気がします。自分の心の視線、ベクトル、が自分の外側に多く向かっているイメージ。自分が考えたいことから気が散りやすくなり、自分以外のことや、外から見た自分を意識せざるを得なくなる。イヤホンはそれを最小限にするための“シールド”の役割をしていたのかもしれません。

それがなくなった代わりに得たのは、右耳が聞こえないこととクラクラ感。三半規管に影響があったのか、頭を動かすとクラクラします。最初の何日かは部屋がビックリハウスのように回って見えるので、目が開けられない、立てない、歩けない、吐き気がひどい、というありさまでしたが、わりとすぐ慣れました。慣れましたが、今も常にフラフラ、クラクラしてはいて、でもそれが、そうなる前よりも気持ち的にラク、という自分を発見しました。それまでも「ちゃんと」や「しっかり」を手放しつつはあったんですが、さらにもっと「ちゃんと」「しっかり」しなくていいのかもとホッとしている自分がいました。

シールドというと、マスクにもそれと似たものを感じています。普段の、そんなに密集していない道を歩いているだけならマスクの必要性はないというのが持論ですが、付けているとこれまた気がラク。なので、日中は外に出るときは付けています。メガネも同じくわたしにとってはシールドです。


気にしないように気にしない練習をする


先日、HSP/HSC 専門 国家資格キャリアコンサルタントの皆川公美子さんのブログ記事で紹介されていた又吉直樹さんの動画を見ました。

こだわりのお店に入ってしまうと出づらいのでつい演技をしてしまう、買い物かごに入れたものでおかずを推理されそうでお店を分けて買う、夢中になって周りを見ていないときがあるから繊細さんと名乗ると「そんなのは繊細さんじゃない」と言われそうで怖い、列に並んでいると不安になる、カラオケで店員さんが入ってきて中断すると「自分が入ってきたから中断した」と思われるのがイヤであえて中断しない、ボーリングでいい点を出して振り向いたとき仲間よりその先にいるスタッフさんの冷ややか(と思われる)視線でうれしいポーズが取れない、などめっちゃわかるんですが、という感じでした。

あくまで想像、妄想だとはわかりつつ、この人はこう思ってるのでは?といちいち、つい思ってしまうんですよね。お店の人や警備員さんに「この人毎日ここ通るよね」「すぐ引き返してきたけど忘れ物かな」とか思われないように違う道を通るとか、「いつも何も買わずに見るだけだな」と思われたくないのでそんなに買いたくないものを買うとかもわたしのあるあるです(でした。過去形)。これ、わたしが逆に店員さんだったらそう思っちゃうんですよ。一日に何十人、何百人の人を相手にしていても、いちいちそういうことをわたしなら考えてしまう。だからお客さんの立場になってもそう思われてるんだろうなと思ってしまう。自分にとってはその人の心の声が聞こえている状態。それを気にする自分がイヤなんです。その反動で、一切のことを無視できるよう大胆な行動に出る練習を今も続けています。「大胆な行動」というのは人の視線を気にしない行動、たとえば、曲がってくる車がいても横断歩道をゆっくり渡る、今日のおかずを推察されてもいいから同じ店でいかにも晩ごはんはカレーだとわかる材料を買うなど。ちっせえ、と思うんですよ自分でも。けれど、そういうことのひとつひとつに引っかかって、積もり積もってストレスになる。「気にしなければいい」という言葉はごもっともだと思うので、だからこそ「気にしない」練習をしているのです。気質だから治らないのかもしれませんが、少しでもマシにはなればいいなと思っています。


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