ハッテン場に行った話

「ハッテン場(発展場)」
 1970年代に創刊されたゲイ雑誌などにより広く使われだした表現で女性関係や酒場などでの交友関係が広く盛んな人を指す「発展家」と同語源という説もあるが定かではない。
 主に同性愛者の男性が匿名的に不特定多数の人間と性交渉、あるいはそれに近しい行為を行う場の事を指す。
 
 
 週末になると私は潮回りのいいタイミングを見計らって趣味の一つである釣りに出かける。
 釣り竿を片手に水辺をフラフラ散歩するだけでも気分転換になるし(アラサーとしては運動不足の解消にも繋がることを願ってもいる)、程よい距離感で自然を感じられるのも良い。
 私が主に狙っているターゲットはシーバスだ。和名では「鱸(スズキ)」といい、江戸前では高級魚ともされていたとかなんとか。私のまわるポイントの多くでは寄生虫も多く、匂いもきつい為持ち帰って食べることは殆どない。所謂キャッチ・アンド・リリースというやつだ。
 この魚は中々面白いもので運河の結構上流なんかでも釣れたりするし、水深が1メートルも無いような小場所でも4〜50センチほどの大きさのものが食ってきたりもする(上手い人だとランカーサイズと呼ばれる80センチ台のシーバスを釣っていたりもする)。幅広いフィールドで大きな魚を釣ることが出来るなかなか楽しい人気のターゲットだ。
 しかしながら、人気な魚であるが故にそれを狙う人間も多い。一つの場所を攻略しようと足繁く通っているとすぐにどこからともなく人が湧いてくる。その為、ある程度ポイントをローテーションしながら釣れそうなポイントを都度探すことになる。
 
 そんなポイントの一つにとある公園がある。そこは海辺に面するそこそこ大きな公園で夜間でも駐車場を解放している為、夜釣りをメインとしている私としては大変有り難い。また、トイレも完備されており自動販売機もある。ただいかんせん公園そのものが大きい為、トイレまでの道のりが長く自分の限界を見誤ると地獄を見ることになる。
 公園は展望台を中心に円形に広がっておりその殆どが芝生広場になっている。広場には所々現代アートじみたモニュメントがそびえており夜に見ると中々異様な光景だ。
 
 その日も、私はシーバスを求めてフラフラと放浪していた。秋になると気温も落ち着き、カラッとし始めた夜風が気持ちがいい。日中はまだまだ暑い日が続くが夜には心地よい風が吹き抜け始める。

 釣り歩く岸壁から見える対岸では工場の明かりが煌びやかに輝いている。同時に微かに鼻を突く酸化した工場油の匂いが幻想と現実を繋ぐ。
 岸壁沿いにはおそらく先客達が残したであろう空き缶やタバコの吸殻、絡まった糸などが所々散らばっていて地元の民度の低さが垣間見える。昨今のアウトドアブームの副産物だ。それらを見る度に普段は真っ当な人間です、といった顔して生きている人達も、人からの目が向けられていない場ではどこまでも自分勝手でどうしようもない存在になりうるという事実が浮き彫りになる。そこから人間に対しての諦めと同時に妙に愛おしさすら感じる。
 

 秋、シーバスは産卵に向けて荒食いシーズンへと突入する。タイミングとポイントさえかち合えば毎投魚からの反応が見られる最高に楽しい季節だ。
 1時間ほど釣りを楽しみ、反応がなくなったところでそろそろ帰ろうか、と車に荷物を置いたところで尿意を催した。
 正直、家までそんなに時間もかからないし、急を要する程の尿意ではない。冷静に、かつ大人しくまっすぐ家に帰れば何の問題もない。
 そんな折、私の脳の奥底からいつか聞いたとある噂を思い出した。「あの公園、心霊スポットになってるんだよね」というものだ。ふと思い立ってインターネットで検索してみた所、そこは「子供、中年男性、女性の幽霊が目撃されており、自殺者や事故死なども起きている」ということだった。WAO!!
 これは面白いことになってきた。そういうわけで私は用を足しつつ少し公園を散策してみようと思い立った。
 
 駐車場から公園へと続く階段は長く、シャツの下には薄っすらと汗が滲む。日々の喫煙習慣の代償として失われた心肺機能のせいで酸欠状態に近づく。早くも自分の行った選択を後悔し始めたが謎の義務感に駆られて足を踏み出す。
 そしてやっとこさたどり着いた公園のトイレは想像以上に暗く、汚かった。釣り用のヘッドライトを車に置いてきてしまった事を悔やみながらスマホのライトで照らしながらトイレへと入る。片手でスマホを掲げている為、もう片方の手でなんとか用を足す。何度もバランスを崩しかけ、大惨事になるところだったが無事に終えることが出来た。
 さて、ここからだ。
 
 海辺を筆頭に水辺というものにはどうやら霊が集まりやすいらしい。
 国内外、時代問わずそういった類の言い伝えのようなものが多く見られる。その理由として「不浄霊は乾きを覚えている」「水そのものに陰の気が宿っているから」「そもそも異界に近いから」といったものを見るがこれらは何を元に生まれた言葉だろうか、といつも思う。
 誰がどういう経緯で言い出したのだろう。水辺によく見られたからこのような理由を付け、意味を持たせたのか。あるいは水辺の危険から子どもたちを遠ざける為に作られたものが人々の共通認識となり、「霊が出る」という概念を含んだフィルター越しに見るがゆえに”実際に見えてしまった(見えた気になった)”ということだろうか。
 どちらであったとしても、我々は何かと水辺に吸い寄せられる。夏になればこぞって海や川に出かけるし、京都は鴨川沿いを歩けば水面を眺めるアベック点在している。季節が巡り冬の夜には海辺で肩を寄せ合い”永遠”語らう。そしてそれをSNSに投稿する。
 本当に霊というものが存在したとして、その霊とやらの元となる我々が水辺が好きなのだから霊になってからも水辺が好きというのはなんとなくうなずけるような気もする。
 
 公園は人っ子一人おらず、虫のざわめきが奏でるハーモニーに私の芝を踏みしめる音が交じる。
 私は霊という存在を全面的に信じているわけではない。「もし居たら愉快だがきっと居ないんだろうな」というスタンスだ。霊の存在を信じるには些かばかり根拠が薄い。にも関わらず暗い公園を一人で歩いていると妙にゾワゾワと、死とかそういった具体的なものに抱くそれとは毛色の大きく異なった恐怖心が沸いてくる。しかしその恐怖を感じながらも展望台へと向けて歩みを進める。

 これは「対抗恐怖」という心理作用が働いているのだろうか。対抗恐怖とは恐怖を感じている自分に対しての不安を払拭する為に敢えてその状況下に身を置く心理作用のことだ。それは「ジョジョの奇妙な冒険第一部」でのツェペリさんの名言を彷彿とさせる。
「人間讃歌は勇気の讃歌。人間のすばらしさは勇気のすばらしさ」
 人気作品の名言だけあって多くの人が引用するフレーズだ。これも私の人間讃歌か。
 
 展望台の入り口は潮風と経過した年月により受けて然るべき損傷が見られる。中はおそらくかつては白かったであろう壁に所々ヒビが走っていて螺旋階段を囲んでいる。明かり一つ無い階段を登り始きると空気の淀みを感じる展望スペースになっていた。
 薄汚れたガラス越しに見る景色は古い映画の一コマの様にくすんで見える。ピクシーズの「where is my mind」でも流したらそれっぽくなりそうだ。もっとも横にマーラシンガーは立っていなし爆発も起きないが。
 微かに外から差し込む光で暗闇の中にベンチが2つぼんやりと浮かび上がっている。うちの一つに誰かが横になっているのか見える。ゾクッとしてゆっくりと後ずさりする。
 よく見ると私の正面にもう一つの影が見えた。窓と窓の間、壁になっているところに男が仁王立ちしているのが分かる。
 私はそのまま階段を足早に降りて車まで競歩の勢いで戻った。
 
 道中、私が見たものは何だったのかと反芻する。噂にあった中年男性の霊だろうか。いや、ヒグマで言うところの「穴持たず」という類の特定の家を持たない人間だろうか。秋の天気は気まぐれだ。きっと雨風を凌ぐ為に利用していたに違いない。
 そう自分の中で納得し、私は帰路についた。
 
 翌日、友人とチェスに興じている最中。友人の口から驚くべき事実を告げられた。
 その友人の勤め先に趣味が釣りという男が居り、彼が言うところによると昨日私が釣りをしていた公園はハッテン場になっていて先日そこで釣りをしていた際、トイレで怪しい人の動きを見てからそのポイントに行くのをやめた、という。
 人生、それなりに生きているとこういったタイムリーな、運命論者であればすぐに奇跡という言葉を引っ張ってきそうな事象に出会うことがある。
 あそこはハッテン場だったのか。ネット記事などで見るものの自分の生活圏にあるなんて知らなかった。文化として存在を認知していてもそれが自分の生活圏にあると思いもしなかった辺り、私の認知も些かばかり甘かったようだ。
 
 実際に「ハッテン場 〇〇公園」で調べてみると本当に出てきた。
 そういう専門の匿名掲示板に時間とやりたいプレイ、細かい場所や目印などの書き込みがされていた。なにより驚いたのは他にも24時間営業のスーパーのトイレなども同じ様な用途で使われていた事だ。今まで何度も利用したことがあったがまったく気が付かなかった。
 そういった書き込みの他に昨今のアウトドアブームの兼ね合いか、釣り客のトイレやゴミ箱などの使用時のマナーの悪さを指摘する声もその掲示板では上がっていた。
 私としてもその声には同意するし、釣りをする人間として恥ずかしい限りだ。今まで私はトイレをハッテン場として利用する人間により実害を受けた事は無いが釣り客が捨てたゴミで実害を受けたことがある為、個人的にはどちらのほうが迷惑かといえばマナーの悪い釣り人の方が迷惑だ。
 
 社会的にはそうったハッテン場(その場の本来の目的から逸脱した類のもの)は良しとされるものではない。しかし、同性愛者であるという事を隠して生きている方々からしたらそういった匿名での出会いが果たせる場というものは大切なものなのだろう。
 私としてはその界隈の当事者達の間のみで完結し、それが外部に対して大きな影響さえ与えなければまぁ、好きにしてくれて良いや、というスタンスである。ただ掲示板に書き込みがされていた「トイレでわかりやすく待ってます」というのは偶然鉢合わせた時に怖いのでそこは当事者間で他の人には分かりづらい形で待っていてほしい。私から願うのはそこだけだ。
 
 と、私の中で完結しかけた所で一つの疑問が浮かんだ。昔、オカルト系の記事で読んだことがある「幽霊は性的なものや下品なものが苦手」というものである。昔流行った「びっくりするほどユートピア」という除霊法もこの類に分類されるだろう。
 しかし、件の公園においてそれは矛盾が生じては居ないか?というものだ。
 ただそれは、性的なものや下品なものというのは恐怖とはある種、対極にあるものである為に緊張感が薄れ、恐怖が和らぐという心理効果を狙ったものだという見方も出来る。だとすると霊を退ける、という効果は無いわけだからハッテン場と心霊スポットの同居が起きてもおかしくない。

 しかし、もしそうでなく、本当にそこが本物の心霊スポットで純粋に霊が性的なものを嫌う傾向があったとしたらハッテン場となることによりそこは心霊現象からは身を守れるという事実に繋がるのではないだろうか。
 もしかすると彼らが人知れず霊から我々を守っていてくれていたのかもしれない。だから私や私の周りの釣り人は心霊現象に出会っていないというのも納得いく。
 あるいは霊なんていうものは今回関係なく、心霊スポットの情報が公園をハッテン場として利用したい人間が人払いの為に流していたという可能性もある。しかしながら、よしんばそうだとしても私としては釣りとして変わらず利用し続ける(人払いがだとすれば人が減るわけだから釣りがしやすい)し、後から本当に心霊スポットとなりうる事件が起きたとしても霊からは彼らが守ってくれるという訳だ。
 図らずも「Win-Win」な構図が出来上がった。 
 
 霊が居てそれを彼らが退けていても釣りしやすいし人払いだとしても人が減って釣りがしやすい。どちらに転んでも私としては得である。
 
 もしかしたら私が展望台で見た二人分の人影はハッテン場として利用していた人間のものかもしれない。仁王立ちしていた彼は視点を変えてみれば霊がこの場に近づかない様にそびえ立つ”御神体”のメタファーだったのかもしれない。
 彼の昼間の姿は世を忍ぶ仮の姿で、夜になるとブルース・ウェインよろしく怪異から公園を守るダークヒーロー的な存在になるのかもしれない。たしかにその立ち姿を思い出してみるとゴッサムシティのビルの上に立つバットマンの様に見えなくもなかった気がする。
 私から見ればそれはヒーロー的な行為になりうるが本人にとっては自己の欲求を満たしているだけ、という点においてもダークヒーローらしさが感じられる。
 
 彼らは彼らで、私は私で、各々が自分の欲の為に同じ公園を別の目的で使う。そこに我々は間違いなく共存しているが相互理解はない。互いに踏み込むことはないが共存が(おそらく)成立している。人間が平和に暮らす為にはこういったぼんやりとした側面というものが大切なのかもしれない。
 
 そういうわけで私はこれからも変わらずそのハッテン場へと通うだろう。私は釣りで、彼らは彼らなりの理由で。隔てるものはなにもない。


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