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#03 Happy birth day to me

小さい頃は、誕生日が待ち遠しくて、10月に入るとその日を指折り数えていました。

実家はあまり裕福ではないので、欲しいものを必ずプレゼントしてもらえるわけではありません。

小学1年生のときのプレゼントは、無料で発行できる地域の図書館の貸し出しカードだったし、3年生のときは、八つ橋で有名なおたべの空箱を近所のデパートの包装紙で包んでくれました。

じゃあ、何が楽しみだったの?

誕生日の夕飯は決まって、こくまろカレーの辛口と二段熟カレーの中辛をブレンドしたカレーライス。

それとレタスの上にシーチキンが乗ったサラダ。

デザートには、ホールケーキ。

「ふーちゃん おたんじょうびおめでとう」のネームプレート。

年の数だけのろうそくを刺して、火をつける。

Happy birth dayの歌を家族で歌う。

歌が終わると、姉弟で競うあうように火を吹き消す。

5つに切り分けたケーキは、一番大きい分をわたしのお皿に乗せてくれる。

何かをプレゼントしてもらう、ということよりも、わたしのためだけの時間を家族がつくってくれることが、当時のわたしにとっては何よりも楽しみだったのだと思います。

日常に少し色をつけたような、地味な誕生日が毎年楽しみでした。

それでも、中学生ごろになると、誕生日に親から「おめでとう」と言われるのが面倒に感じるようになりました。

わたしのためだけの時間?

楽しみの時間?

他にももっと、楽しいことがあるのだから、そっちに使わせてよ。

もったいない、もったいない……

気が付けばホールケーキは無くなって、カットケーキに。

Happy birth dayのうたは歌わない。

ろうそくはどこへいったのか。

ケーキを見た弟から「今日、誕生日だったの?」と聞かれるように。

それは年齢が上がっていくごとに、だんだんと。

地味で楽しみな誕生日がふつうの日になっていきました。

社会人になったときは特にそう。

周りの人はふつうに働いている、ふつうの日で、誕生日で浮かれている自分が恥ずかしくなってきました。

そして、だんだんと自分の誕生日を忘れてしまうのです。

スマホに表示された日付をみて、「そういえば、今日誕生日だったんだ」とつぶやくこと。

その感覚がふつうなのだと思い込んでいました。

誕生日は、書面上1つ年齢を上げるタイミングであって、他人にとってはなにもないふつうの日。

大人になったわたしは、そのふつうで毎年の誕生日を形式的にすごしていました。

今年の誕生日は久しぶりに実家に帰ることができました。

「よく来たね」と言って迎え入れてくれる、両親。

カレーは無かったけれども、ケンタッキーのチキンと餃子とシュークリームが並ぶテーブル。

弟たちからのプレゼント。

弾む会話。

恥ずかしいし、なんか悔しいから、絶対に家族には言わないけれども、涙がでそうになりました。

何年振りにあたたかい、小さい頃に楽しみにしていた誕生日を過ごすことができて、嬉しかった。

わたしのためだけの時間を家族がつくってくれたことが、最高のプレゼントになりました。

大切な人が増えると、自分のことを置き去りにしてしまうように思います。

自分の誕生日も同じで、大切な人が増えれば増えるほど、後回しになってしまうのです。わたしはそうでした。

小学生のときの世界は自分が中心にいました。いちばんはわたし。

中学生になると、世界が広がって仲間ができました。

社会人になると、信頼できる同僚や上司に恵まれ、自分の役割を果たすことで仕事が楽しくなりました。

でも、自分にとって大切な人がいるということは、誰かにとっても自分は大切な人になっているわけで。

誰かに想ってもらえているから、わたしは大切な人を大切にできたり守ったりできるのだと思います。

今年の誕生日では、実家の家族と主人に大切にしてもらっているな、と感じたし、わたしも大切ににたいなと思える日になりました。

12月にはひとり家族が増えます。

きっとその子はわたしにとって大切な人になるはずです。

わたしはまた誕生日を忘れてしまうことでしょう。

それでも、誕生日をわすれてしまう程のふつうに感謝して過ごしていきたいです。

ふーちゃん

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