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ジャコデス

とりとめない浮遊した会話、国境なき医師団。これらに無く、取り巻くトーラスに有るもの。わたしには、どうにも苦手なことがある。

それは目的だ。
苦手というか、苦手に在る。
夏休みの宿題のなかに読書感想文なるものがあった頃、所謂課題図書が提示されるのだが、とくに嗜好もないわたしはただ、与えられたものを読んでいた。

問題は、それらを読んだ感想文にある。
幾つの頃だったか、あれは伝記というものの感想文だった。ナイチンゲールだったか、野口英世だったか、そんなありふれた偉人たちの伝記だ。しかし、

わたしの書いた感想文は、なぜか隣の犬のはなしだった。かいつまんで言えば、隣の犬への弔辞だ。
 
 
 
隣の犬、それはタカハシサンというお宅で飼われていた雑種の中型犬だった。毛色は黒みを帯びた赤黄色で、名前は忘れてしまった。どうして亡くなったのか、いつ亡くなったのかすら定かにない。ただ、隣の犬は毎日そこにいた。「そこ」とは、タカハシサンのお宅の庭だ。タカハシサンの庭は通りに面していて、グリーンフェンスという名の植え込みで囲われているものだった。その植え込みの隙間からいつも通りを眺めるのが、隣の犬の日課だったのだ。そして、

ある日を境にその姿は消えてしまった。
わたしは、それをタカハシサンに尋ねることもなく。ただ、隣の犬は死んだのだと、どこかで理解していた。
 
 
 
伝記とは、ひとの生涯を書き綴ったものだと当時のわたしは知っていたように思う。しかしそれがなぜ死への弔いと変換されたのかは、今のわたしには知る由もない。しかし、

当時のわたしが理解できなかったことを今のわたしなら理解できることがある。なぜ偉人の伝記を読んで隣の犬の弔辞を綴ったのか。それは、隣の犬の伝記がなかったから。
 
 
感想文という目的は、本を読めば事済む。
感想文の意味とは、感銘でも感嘆でもない。

所感にある。
わたしは、毎日隣の犬を見ていた。
 
 
 
当時、わたしの担任だったまだ若い先生は、それらを読んで静かにわたしの頭を撫でた。
 
 
 
 
 
 


「ジャコデス。」
その主張に目的はない。

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