珈琲なき珈琲時間

冬の朝ははやく、カーテンを開けば白む窓には露が落ちる。やかんに白湯を点て、未明の過ぎた身体を温める。珈琲を淹れる日課はない。珈琲は好きだ。ただ、珈琲の好き嫌いがある。

若い時分暮らしていた町で知り合った、珈琲店を営むご夫婦を思い出す。彼らは、大きくはない町のなかに珈琲の香りを広げることに夢を広げていた。
 
 
ご主人は、よく外国から葉書をよこした。葉書には、日焼けした彼の笑顔と背に広ぐ珈琲農園。このとき初めてわたしは、コーヒーノキを知ったと思っていたが、思いの外低木であることに少々驚いた記憶がある。恐らく既に何処かでみた微かなものが脳裏に点滅を起こしたのだろう。それは後に彼が、あれは剪定を繰り返し出来たものだと教えてくれる。

奥さんのほうは、彼の在、不在に関わらず来る日も来る日も珈琲を淹れる日々を過ごしていた。わたしは、ある日彼女に尋ねた。

毎日、珈琲ばかり淹れて飽きませんか。

愚問と知る愚鈍。実は、この奥さんは結構なメイクアップアーティストと呼ばれるひとだった。それを知っての疑問だ。彼女は、毎日珈琲を淹れていた。

わたしは、毎日その店の前を通っていたので単純に不思議だったのだ。わたしは、彼女の作品も知っていたし、当時テレビや雑誌のなかで彼女の作品を見ない日はなかった。
 
 
 
珈琲は飲まないのよ。彼女はそう云っていた。わたしは、このご夫婦から珈琲が好きとも、嫌いとも聞いたことがない。

珈琲は飲まない。そうだとしても不思議はない。彼女は珈琲を淹れる。珈琲に夢をみる。コーヒーノキとご主人を想っている。わたしは彼女の淹れる珈琲が好きだった。
 
 
 
いつか、彼女の指南のもとに自宅でも何度か淹れてみたが、それは彼女の淹れた珈琲の特別を再認識する出来上がりだった。

彼らは今も珈琲に夢を広げているだろうか。
わたしは、いまも珈琲を淹れない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?