流体力学

 大学の頃に付き合っていた相手が「アルファ・ケンタウリ星人」を自称していたという話は、少なくとも飲み会で披露するネタとしてはまず滑らない。そして明らかにくだらない冗談だとしてすぐに笑いと酒に流してくれるので深く追求されることもなくていい。けれど青春の思い出を冗談みたいに扱うこと、そこにちょっぴりの後ろめたさもあった。
 そのアルファ・ケンタウリ星人、之淵緒川とは10年前にあの日空港で別れたっきりだ。成人した男が泣いているのを見たのはあれが最初で最後。
 3年くらいはだらだらと文通を続けたけれど、博士号のために彼が研究に忙殺されるようになって、いつのまにかか細い関係はたち消えた。
 といっても文通を止めたのは私の方。手紙は書いたけれど、既に一回のやり取りに月単位で感覚が空くようになっていて、だから次に送ったらもう二度と返ってこないような気がした。ほんの一度、メールの送信ボタンを押すのがたまらなく恐ろしい感覚がわかるだろうか。この先に進むには闇を湛えたトンネルを抜けていかないといけない、でもそれはどこまで続いているのかわからない。そんな感じ。
 それでついに出さずじまいになってしまった。
 彼の方も催促するようなことはしなかった。
 というか私は、仕事や行事の連絡の度にであっても過去のメールが目に入ってしまうのを精神が拒否するようになってしまった。そうなると立ちくらみみたいに目がチカチカしてきて、呼吸のしかたがわからなくなって、吐き気が止まらなくなってしまう。だからアドレスを変えてしまった。
 それでおしまいだ。
 アドレスを変えてからはもう症状も出なくなったし、昔のこととして飲み会で話せるくらいには回復している。
 まるで彼との日々を呪いみたいに感じているのだな、と感じることもある。べつに最悪な別れ方をしたわけじゃない。もっともっとクソッタレな破局があの後も何度も私に降り掛かっている。むしろ彼との青春は、とても綺麗な終わり方をした方だろう。指揮者の手を握る仕草に合わせてピタリと演奏がおしまいになるみたいに、あの楽しい日々はもう限度いっぱいのクライマックスを終えて終幕となっただけだ。
 カーテンコールはない。人生は続く。
 それは戻らざる青春の残り香なり。我は老いさらばえる墓碑銘。さらば遥か遠きアルファ・ケンタウリ、というわけ。
 さりとて現在に不満足なのではない。大学を出てから、望んでいたマーケティング系の企業に就職を果たし、まあ語るほどでもないいろいろがあって、私は二児の母となった。子供たちは父親に似て利口で、私に似てかわいい。本当に。育児は日々これ戦争と言うけれど、戦場にも花は咲くもので、なんとかやっている。本当に疲れている時に、長男がじっと私を見つめて、笑う。「ママ、おつかれ」
 そういう時間の中に幸福というものは潜んでいるのだと、学生の頃には知らなかった感覚を知ることもしばしばだ。社会的に妥当な、生物的に順当な状態を良しとする、ただのつまらない人間になったのかもしれない。これがつまらないなら、べつに私は面白い人間になろうとは思わないが。
 そんな昼下がり。世界は驚くほど平和な時を刻んでいた。きっとなにかが起こりそうなこんな日を無為に過ごすのも悪くはない。今頃子供たちは幼稚園でお花の絵を描いているだろうか。カミツレ、あるいはカモミール、ロシア語ではロマーシカと呼ばれる白い花を。
 ふと思う。
 なぜ子供は絵を描くのだろう?
 世界の一部を抽象化して、その思考を出力すること、表現という人間の特質を示そうとするみたいに、子供たちは競って絵を描く。そして気がつくと描かなくなる。言語による世界の細分化が進むと、もう「おひさま」「そら」「じめん」「ぼく」「ぱぱ」「まま」あと「ちょうちょ」「おはな」くらいで抽象化しきれる世界ではなくなってしまうのかもしれない。
 私は想像する。イメージする。世界に私と、子供たちと、夫と、太陽しかない世界を。抽象化された食料が大地には自生していて、花粉を媒介する四枚の幾何学図形から構成された蝶がひらひらと飛び交う。そこにある存在はみな笑顔を崩さない。永劫に平和で、戦争もなく、受験もなく、いじめもなく、暴力もなく、ドラッグもなく、セックスもなく、なにもない。それが子供たちの世界。
 子供たちは子供のまま、私は私のまま。パパはパパのまま。
 長男がクレヨンを持つ手を振るうと、そこに我が家のワンボックスカーが本当にただの一つの箱みたいな姿で出現する。長女がいっぱいのロマーシカを抱えて私に差し出す。けれどそれだけなぜか抽象化されていなくて、ぐずぐずの絵柄の私の頭にロシアからきた白い花が飾られる。
 四人家族が手をつないで車に乗り込むと、エンジンをかけていないのにそれは勝手に走り始める。子供たちはまだ内燃機関を理解するには幼すぎたんだ。きっといつか、大学で教わるかもしれない。
 けれど「じめん」をどこまでも進んだところでなにもありはしない。地平線をぬっと超えて破滅を巻き起こす醜悪な巨人が出現したりはしない。
 時間だけが経つ。いつのまにか子供たちは眠ってしまう。 
 にこにこ笑顔の太陽が沈むと、不格好な三日月がのぼる。やっぱりそこにも笑い顔が貼り付いていて、しかもどこか遠くを見つめている。少なくとも地上を見ているのではない。
 では、なにを?
 私は三日月の視線の先を見やる。きらめく星々はクエーサーのような鋭い光を放つひし形で、白というよりは黄色く煌めく。白い画用紙に白い線は引けない。
「おい、よせ!」
 誰かが叫ぶ。それが夫の声だと気がつくまでに少し時間がかかる。振り返ると、彼はやっぱり笑っているが、ゾッとする印象を受ける。
「どうしたの、パパ。そんなに怖い顔をしたら子供たちが怖がるでしょう」
「いいから、車にもどろう。子供たちが起きたら、それこそ寂しがるよ」
「さっきたくさんはしゃいだんだから、すぐには起きないわ」
「さあ、早く」
「待って、あの月の先に」
「よせってば!」
 夫は私の肩をつかもうとするけど、抽象化された手の先に指はなく、丸い手先は虚空をきる。それが決定的な一瞬だと知る。
 私は黒いクレヨンでぐりぐりと塗りつぶされた荒々しい夜空の、その一点、月の視線の先を吸い込まれるようにして見た。
 あれがアルファ・ケンタウリの光だなんて、私にはいやというほどわかりすぎていた。
「大丈夫?」
 私は裸で横になっていて、目線のすぐ下に膨らんだコンドームが落ちていた。下腹部にじんわりとした熱が広がっていて、息が上がっている。
 あんなに平和な日には、そういうことが起きるんじゃないかと思っていた。だから、私はそれほど驚きもしなかった。
「緒川くんでしょ、あなた」
 出し抜けな問いかけに彼は眉をひそめた。それはそうか。
「頭でも打った?」
「打ったかもね」
「まずったな、君が新しい姿勢でやろうなんて言うから」
「ああ、そんなこともあった。若いってバカだよね」
「なに?」
「べつに」
 しいて言えば、タイミングの問題。私がどうしようもなく彼に恋い焦がれて苦しんだあの日々には、けしてこんなことは起こりはしないだろうって確信があった。けれど一転、どうしようもなく平和で、愛すべき子供たちにさえ恵まれたからこそ、私は全てを失うわけだ。
 腹の底から笑いがこみ上げてくる。汚いゴムをゴミ箱に叩きつける。そういう人を侮辱するようなことが起こるのが人生だ。まったく不真面目だ。まだ出会って一年経っていない、猿みたいにヤリまくったあの夏に焼きまくる前の白っちろい背中をばしばしと叩く。
「なに、大丈夫? マジで」
「子供作ろっか」
「ごめん、救急車呼ぶよ。当たりどころが悪いってあるもんだな。大丈夫、アルファ・ケンタウリには行けないけど頭の傷くらいなら現代医療は治してくれる」
「言うとおりにしてよ」
「あの、ちょっとまって本当に。君ってそういう人だったっけ? メンヘラっていうの? 愛された証がほしいとか、そういう感じかな。納得はできないけど、理解は出来るよ。それでぼくは、少なくとも君のことを裏切ろうなんてつもりはないんだってことをまず把握してほしくて、だからね」
 哀れな緒川くん。哀れな私。哀れな子供たち。哀れなパパ。
 私は手早く服を着る。ずいぶん腰回りのサイズが小さいしセンスも若々しい。それで、呆然と見上げている彼を置いたまま、私はホテルを飛び出した。
 ようするに、と私は寒空の下を歩きながら考える。まだ身体が火照っているのが鬱陶しい。
 で、これが俗に言うタイムリープというやつなのだろう。時間が戻ってしまう現象、というかフィクション。それがどうしてだか私の身にふりかかったのかもしれない。
 つまり、諸々の苦労の末に幸福にたどり着いた私の意識は、どういうわけか昔の男とヤってる最中に引き戻されたと。それくらいのことは状況を詳しく分析するまでもなく明らかだった。最低最悪なセンスだ。寒さのためだけでなく鳥肌が立つ。長男と長女の顔が脳裏に浮かぶなんて当たり前だろう。手近な電柱を蹴りつける。タイツを履いてこなかったままの素足だからか、直に痛い。
「おい待てったら、ちょっと!」
 痛む足のためにうずくまっている私。追いつく彼。特に話すこともないのだけど。
「ごめん、あのさ、なんかぼくが変なこと言ったのかな。いや変なことを言ってるのはいつもかもしれないけど。あ、自覚あるんだって思った? でもアルファ・ケンタウリ星人ってのはマジで、あの、大丈夫? 駅までタクシーつかまえようか」
「財布、忘れてきた」
「ちゃんと持ってきたって。でも、まあ、タクシー代くらいは払うよ」
 声を発すると急にどっと疲れがきて、私はそれに従った。

 しばしば言われることとして、時間が巻き戻せたらどうするか? なんていうのがある。
 それで出した私の答えは「なにもしない」だった。正確には「なにもしたくない」。
 最後まで状況を理解させてもらえなかったかわいそうなアルファ・ケンタウリ星人に別れを告げてから、私は長崎の実家に戻った。これで時間が巻き戻る前に両親が死んでいたりしたら感動の再開ということになるんだろうけど、彼らはなんのことはなくピンピンしていたし、むしろ大学時代の両親は更年期もあって一番近寄りがたい時期だったことが気を重くさせた。
 両親は当然の対応として、突然に大学を辞めた私を質問攻めにしようとしたけれど、よほど私が並々ならない険悪さをまとっていたたらしく、追求もそこそこに居間へと引っこんでしまった。
 それで、降って湧いた孤独を埋め合わせるために、私は高校時代の旧友の一人である白鴉河白砂に声をかけたところ、彼女は定職についていなかったので、その日のうちに地元の小さな酒場で落ち合えた。子供の頃は怪しい雰囲気が漂っていて入れなかったお店、今は何ということもない、ただの品揃えの頼りない飲み屋でしかなさそうだ。
 それでも週末の小さな酒場は喧騒と副流煙でごったがえしていた。
 お通しを頼りの世間話もそこそこに、私は自分の体験を彼女に打ち明けた。普通の人間ならこっちの頭がおかしくなっただろうと思うはずだが、白砂はオタク女子の最右翼のような存在だったのでさしたる緊張感もなかった。
「タイムリープなんてさ、オタクの夢みたいなもんじゃん。なんだってそんなに雑な感じで巻き込まれちゃったわけ?」
「そんなことは私が聞きたい」
「まずタイムリープが起きた場合はさ、通行人に『今は西暦何年の何月何日ですか』って聞かなきゃダメじゃん」
「状況から判断するのがあまりに容易だった」
「で、次に死んだ両親に会うのが恐ろしくて実家の前でウロウロしているうちに、父親が帰ってきてぼろぼろ泣く。そして誰も信じられないと思ってたけど両親だけは味方してくれる」
「だから、うちの両親は死んでなかった。ピンピンしてたよ」
「そして、やっぱり信じてもらえないんじゃないかとおもいつつかつての一番の友人に秘密を打ち明ける」
「打ち明けた」
「希ちゃん緊張感ゼロだったでしょ」
「そりゃそうでしょ」
「私の日頃の行いのせいで希ちゃんの貴重なタイムリープ体験をつまらなくさせてしまった、か……」
「ねえ、まじめに話聞いてる?」
「聞いてるけど、希ちゃんはそれをどうしたいわけ? 前の時間軸に戻りたいの?」
「なに、時間軸って」
「あー、オタクじゃない人って時間軸って概念を理解出来ないの? てかバック・トゥ・ザ・フューチャーくらいオタクじゃなくても見るでしょ。で、まあ簡単に言えばパラレルワールド? つってもわからんか」
 真面目に聞いていなさそうだった。心なしか彼女の眼鏡のレンズが輝いているような気がする。アルコールのせいもあるけれど、どうにも肩の力が抜けそう。
「ようするにさ、その子供と夫さんのいる家庭の中に帰りたいのかってこと」
「そんなの当たり前でしょ」
「なら、その方法を探そうよ。タイムリープもののお約束だよ、前の時間に帰る方法を探す! あ、未来を変える系のやつは別ね」
「なんか無理な気がする」
「どうして?」
 どうして、と問われても自信がない。ただ、感覚的な話でしかないから。
 つまり、この時間の変化は不可逆なんじゃないか、という感覚があった。そもそも不可逆であるはずの時間をさかのぼっておいて変な話だが、これが可逆的な現象なら、そもそも発生する意味がなさそうに思えた。そのような、意地の悪い悪意の籠もった現象に違いないという確信がある。単なる逆恨みかもしれないけれど。
「まあ希にその気がないなら、私にゃどうすることもできんなあ。もとに戻る気ないなら、せめてせっかく若い頃に帰ってきたわけでしょ、なんか未来人っぽいことしなよ」
「なに、未来人っぽいことって」
「宝くじ当てるとかね。これもお約束の一つだけど」
「おぼえてないよ、そんなこといちいち」
「たしかにな。でも次のアメリカ大統領選挙の結果とか、十年以内に起こる大災害とか、そういうのならわかるでしょ? ネットでエセ未来人ごっこ、ああ本当に未来人か、とにかくそれで話題になってテレビ出て楽に暮らそうぜ」
「あのさあ白砂、深刻にとらないでくれるのは嬉しいけどさ、ちょっとはしゃぎ過ぎじゃない?」
「だって希ちゃんあんまり悲しそうじゃないし、その程度のものだったんじゃないの、前の未来って」
「おまえな……」(未完)


https://note.mu/kuragetotuki を台無しにしてみたくて書いたけど、ちょっと描写があっさりしすぎてるしやっぱつまんねーと悟ったので没になった

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