君に、月が無くなる前に。 (仮題)

君に、月が無くなる前に。(仮題)
#砂糖透子  

 片手でマッチの火をつける方法を知ってるか? 勿論、擦るだけじゃなく取り出す所からさ。
 まず、小指、薬指、人差し指でマッチ箱を挟み込むようにホールド。箱は表向きだ。内箱は、火薬付きのマッチ棒の先端がこちらを向くようにセットしておく。リンの使われた茶色い側面は小指の方にある。
 次に、空いている親指で器用に中の箱を押し出す。どれだけ押し出すかはそれぞれの手の大きさに拠る。開いた状態で、柔軟に指のスナップを利かせて、小箱を360ぶんの90度だけくるりと回転。箱が手のひらに向けて直角に、地面に対して水平になるように、今度は人差し指の代わりの親指と小指薬指で箱を覆うように持つ。
 自由な人差し指と中指は用の無い時も多い。だが無駄な力を排する方が格好良い。例えばこの場面で意味もなく微量の力をこれらの指に込めていると、これからマッチ棒を取り出してやろうと待ち構える二本の指はまるでナメクジやカタツムリの触角のようだ。カタツムリの格好良い硬い殻から伸びた触角ならまだしも、優雅なマッチ箱に節くれだった二本の触角はまるで似合わない。
 二本指で取り出したらあと少しだ。二本指はマッチ棒を先端に挟み込み、もう点火までその状態を保つのみでよい。薬指、もしくは親指を用いて箱を閉める。箱を裏返すと、今度は親指の付け根(「母指丘」という)と小指、薬指で側薬の面を上にしてマッチ箱を強く支える。
 最後。マッチ棒を二本指で直角に持つ。リン薬の面に、85度くらいの角度で、二本指を駆使して細い木の棒を突き立てる。1ヘルツでも狂ってはならない楽器の弦を張るような微妙さで力を調整したらそのまま手指の筋肉を緊張させ、固め──一気に、親指で弾く。広い広いコンサートホールの舞台上にたった一人、最初の一音を響かせる時のような緊張感。ただ異なるのは空中へ弾き出されるその音色だ。ピンと一音、同時にシュと擦れる控えめな音、なければ音楽が成り立たないのに忘れられがちな空白の間がほんの一拍そこへ置かれてから、まるで秘密ごとを囁くような神聖さで明るく揺らめく炎が灯る。

      *  *  *

 「やあ、お仕事大変そうですな」
 何気ない仕草でビルの壁面に凭れてタールもニコチンも入っていない〈シロップ〉を吸う俺に気安い声がかかった。何で染まったのか全体が酷く灰がかって大きくひびの入ったその廃墟ビル周辺には、似たような廃ビルとおとなしい見た目をした現役のビルや反対に派手派手しく装飾された店がひしめきあいながら同居している。俗にいう繁華街──最も半世紀前に比べ随分廃れてしまったようだが──ではこうして声を掛けられることが日常茶飯事だ。
 「ええ、佳境続きでして。なにぶん安定しない仕事なもので」
 答えつつ目をやると、人の良さそうな皺を顔面に刻んだ男が、同じく〈シロップ〉を吸いながら壁に背中を預けて首だけをこちらへ向けていた。素早くその格好から属性を読み取ろうとするが、大量生産の衣服で固められた装束は何も伝えてこない。必要以上の警戒も無防備さも、こんな世界では何を刺激し身を滅ぼすかわからない。無礼にならない程度に浮かべた好意を示す笑顔はやはり社交上のものでしかなく、信用するに足らない。だが殺伐としているからこそ、大きな恩を売るよりも些細な気遣いが相手の懐に入り込む最上の手段となる。
 「そちらは? お仕事のほう」
 「仕事ったあ、私は大したことをしていませんからねえ」
 「それはそれは」
 ふう、と二人吐き出した〈シロップ〉の薄桃色をした煙が筋雲の張り付いた昼間の空へ高く立ち上る。
 「しかし、なかなか拘ったグラスを使っているようですが」
 グラスとは〈シロップ〉を入れる本体と燃焼部及びその吸い口から成る吸煙器具の名称で、この良し悪しにより〈シロップ〉の味はいかようにでも変幻すると言われている。デザインも材質もさまざまで、無骨なスチール切り出しのものからガラスを用いて繊細なレリーフが施されたもの、格安のチープなプラスチック製、強化された紙を用いたものまである。
 「私もなかなか、グラスに凝るような金銭的余裕がなく。失礼ながら、お使いになられているのは半世紀……いや一世紀程前のアンティークもの、トルコ産かとお見受けします」
 ゆっくりと、区切るように喋る。そう、個人情報の一切廃されたこの男にあって唯一かつ絶対的に目立つ所持品がグラスだった。独特な風合いを帯びて一目で年代物とわかるガラス製の本体は、一般的にはただの筒状であるところをタツノオトシゴのような形に曲げられているが、ただの曲線ではなく幾何学模様を取り入れた意匠だった。当時の手練れの職人でなければできない細やかな装飾。今や滅多に見かけることのない金細工がガラスに纏わるように織り込まれ、吸い口にはアラビア文字が書き込まれている。
 「ほう」
 年かさの男は目を細めた。
 「そうか。君もこだわらないとは言っても電子加熱式ではない、燃焼式のグラスをいまだに使っている稀有な人種だな。これは結構」
 ふう、とまた吐く。飲食店の排気が混ざりぬるいビル風が男の白煙を揺らす。
 「お名前も知りませんが。よければ火を。もう消えかけなのではありませんか」
 「おや気の利く。君のような若い者はなかなか珍しいよ。ではお願いしよう」
 これを狙っていた。煙が薄桃から白色になれば火種の尽き掛けている証拠だ。上手くすればこの男から〈町〉について聞きだせることだろう。部外者にはこのような手段しか残されていない。俺は、幾度となく繰り返し慣れた手つきで、左手のグラスを手放さないままに上着からマッチ箱を取り出して火を点けてみせる。青い炎。それをグラスの足された火種部分に近づけるとすぐに燃え移り、グラス本体に渦巻く煙は徐々に薄桃色を取り戻していく。
 「時に、お名前も知らない人。こうしてお近づきになったのも何かの縁ということで、一服終わりましたら、よろしければ何か軽いお食事でもいかがですか」
 「よかろうね。君は見かけない顔だが、なにぶん好感を抱いている。もう少し話をしようじゃないか」
 「ありがたいお言葉です」
 俺の役目は、一つにはこの街の実情をありのままに世に問うこと。政府から見捨てられた元繁華街、あらゆる意味で植物の蔓延る町。これまで訪れてきた災害に遭った多くの田舎町らとは別格の異世界。暴徒や生きがいをなくした死人ではなく、生あるままに異なるルールが支配する旧市街。しかし元よりここに辿り着くためにこれまでを生きてきたのだ。絶対に失敗することは許されない。男の足元、汚い地面を見つめ固く決する。その時、男が口を開いた。
 「一服終わるまでにまだかかるな。そこで雑談なんだが、さっきの片手でマッチを灯す芸はなかなか悪くないものだ。私にも教えてくれないかね」
 「ええ……もちろんです」
 俺はジャケットから再び箱を取り出す。
 「まず、このように人差し指と小指で箱を」
 「ああ……。俺な、小指無いんよ」
 背筋がすくみ上った。俺は、初めからとんでもないタロットを引いてしまったのでは無いか?
 「……いえ、でしたら薬指でも」
 「おお、困ったな、ワシな。薬指もないんよな」
 そうして男は、今までポケットに突っ込み隠していた右手をひらりと見せてみせた。手には鳩の足のように指が三本しかなかった。これは下手なジョークだろうか? 俺は苦笑いしかできない。
 「……そしたら、ちょっと難しいかもしれませんね」
答えた俺に、
 「つまらんねえ」
 悠々と返事する男は、俺が火を灯した〈シロップ〉を天に向け吐き出してはまた吸い続けている。タールか、灯油か、ラードで濡れたような路地に広がる白桃色の煙。詰まった換気ダクトから無理に排出される不健康な脂の匂いを押し退ける甘い香り。目前の無個性な小屋、背後の瓦礫のような廃屋。俺は動揺を決して悟られないように動悸を押さえつけながら、腰上に挿して服で隠した改造拳銃〈リベレーター〉を、そっと凭れた壁越しに感じた。


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