流星夜のヴィーナス 二日目(仮)

 流星夜の二日目。相変わらず地に堕つ星々は盛況だ。
 僕らはと言えば、この狭い星を廻るにもすっかり飽き飽きしてしまっていた。
 だって宿泊施設とスペースポートくらいしかないんだもの。その他は全部湿地だ。まあ、肉食のサンジュウアゴヌマワニとか、猛毒のクスミススケハチモドキとかと戯れたいなら、そっちに遊びに行くのもいいかもしれないけど。
 ぼくは嫌だね。
 なけなしの無人土産屋で買った七色にひかるキノコのストラップ、それをじゃらじゃらとつけたカバンをホテルの床に放り投げる。もちろんぼくのじゃなくて彼女のカバンだよ。ガクセーカバンってやつだ。中に何が入っているのかは永遠の謎。ブラックホールの向こう側さえ数万年前に調べ尽くされ終えたというのに、未だ征服されざる謎なんだ。もしも勝手に開けようとすれば、ぼくは義体の機能を止められかねない。
「あっそんな乱暴にしないであげて……!」
 がばりとベッドから起き上がって彼女が叫ぶ。
「最初から自分で持てばいいじゃないか」
「重い!」
「ぼくだって重いよ」
「モンクイワナイノ、オトコノコデショ!」
 芝居っ気たっぷりに口をとがらせて、甲高い声で。
 なんだそれ、地球ジョークかい。
 そう突っ込んであげたいのは山々だったけど、ぼくはもう荷物持ちで十分に疲れ切っていたから、彼女に付き合うのもそこそこにベッドに倒れ込むことにしたんだ。いやあ、簡易休息機も悪かないけど、やっぱり整えられたマットレスとシーツに抱きかかえられるのと比べちゃ見劣りするんだね。
「あれ、もう寝ちゃうの」
「もう寝ちゃうよ……おやすみ」
 ぐい、襟首を掴まれた感覚。ぼくの上半身を持ち上げようとしているのがわかる。けどぼくの身体は人間のそれよりずっと重いから、持ち上がる気配は少しもなくて、どんどん衣服がぼくの首に食い込んでいくだけだった。
 生身じゃないから死なないし苦しくもないけど、これじゃ眠れない。
「なんだい」
「『流星夜のヴィーナス』まだ話終わってない」
「明日でいいんじゃないか。今日は疲れた」
「ダメなの! このお話は流星群の夜の間しかしちゃいけないって昔から決まってるんだから」
「昔ってどれくらい」
「金星があったくらいかなあ」
「そんな大昔の決まり、とっくに時効だよ」
 もちろん彼女にそんなこと言ったって通じないよ。けっきょく最後にはぼくのほうが姿勢を正してベッドの縁に座ることになるんだ。だってそうしてやると彼女は、散歩に連れて行かれる犬みたいに満足げな表情を見せるんだからね。
「えっとー……どこまで話したっけ」
「ロビンとジャネットの出会った日まで」
「そうそう。じゃあ、その翌日、二人が金星におさらばする日のことからお話しましょう!」
 なんとなく窓の外を見た。また一つ、星が落ちていった。

 ○

 ジャネットにとっては久々のベッドだった。白いシーツ、柔らかなマットレス、シワもなく、洗剤の匂い。昨夜はそれだけで涙が出そうになったが、なんとなく、そんなことで泣いてしまってはまたロビンがいろいろ気を利かせ始めるだろうという気がして我慢した。
 大人が私のために走り回るのって気分悪いのよ。
 窓の外では朝日が昇っている。硬化ガラスのドーム越しに煤けている赤色の空。この星は日中、どの時間だって同じ色の空だ。それでも太陽のことを朝日と言ったり、夕日と言ってみたりする。それは、たしかに間違ってはいないけれど。
「ん、もう起きたのか。まだ寝ていてよかったのに」
 隣の部屋のインターホンを鳴らすと、顎にあわあわをいっぱいにつけたロビンが顔を出した。似合わないバスローブ。中途半端な長さの茶髪を首の後で乱雑にまとめている。まるで浮浪者。
 これが私のヒーロー?
 思わず湧いて出る感情を頭の中から追い出す。ジャネットは人に失望することに慣れすぎていた。信じることより疑うことから始める癖。一つずつ直していこう。
 けれど、いずれこの人にはもっと私のヒーローらしくしてもらうわ。
「あなた、私がルームサービスだったらどうするつもりだったの? そんな格好で」
「そんなもん頼んじゃいないから平気だ」
「不慮の事態ってものもあるでしょう」
「うん、まあ、その時は恥かくだけだな」
「バカねえ……」
「あ、おい、勝手に入るんじゃない!」
 ロビンの部屋は手狭だ。ベッドと立体テレビ、シャワートイレ、それくらいしかないはずだった。もっともそれは、初めおさえていたスイートをジャネットに使わせたせいだ。
「同じ部屋でいい」というジャネットの言葉は、彼女にもまあそうなるだろうとわかってはいたが、にべもなく突っぱねられた。
「絶対にダメだ!」数時間前も同じやり取りをした気がすると思いつつ、彼女はさっさと諦めてスイートのキーコードを受け取った。もし同じ部屋にしてくれと食い下がったら、この星から連れ出してくれる約束ごと反故にされそうな勢いだったからだ。
 それは、なんのかんのと言っても自制する自信がないからなんだろう。ジャネットの誘惑に強く反発する男はみなそうなのだ。初めのところで拒まないと、もうあとは自分の性欲と心中してしまいそうな予感。これが仕事なら、そういう砂上の楼閣を押しつぶすのは訳のないことだけど。
 それについて、彼女はべつに失望しない。
 ロビンは中年と言うにはまだ若いし、聞いた限りではパートナーもいないらしい。年増好きだなんてふざけていたけど、同性愛者でもなければ、私の体に思うことがあるのが自然のはずだわ。別に彼が望むなら拒みはしないけれど、あえて押し隠そうと言うのならそれでもいい。
 元よりそれは良いも悪いもないことだ。当然の摂理。そういう生理反応を折り込みにして人々は異性同士で言葉を交わし、何事もなく日々を過ごす。部下を相手に性欲をたぎらせながらも立派な人間として振る舞えていた者が、この使い捨ての娼婦の前で恐ろしく変貌するあの現象。それはただ、仮面を外しただけ。なにも本質は変わっていないんだ。そういうことをジャネットは嫌という程に理解している
 回想からさらに深い記憶の底へ。沈みかけていたジャネットの憂鬱を、突然に開かれた現実が吹き飛ばす。あわててすっ飛んできたロビンが彼女の両目を覆い隠そうとするのを軽いステップで避けた。
「なに……これ……」
 直感的にジャネットの脳裏に浮かんだのは「カオス」という言葉だった。そして、ろくに国語教育も受けたことがない彼女だが、概ねその表現は適切であった。
「いや、あー、ジャネット、これはだな」
 まずもって、露出している床の面積がそうでない部分に比べて圧倒的に少ない。その時点で彼女には驚異的な事態だった。
 着替えの類や大小の鞄類、ビニール袋なんかは用途がわかるだけまだマシだろう。
 書類の類。これは彼女も見たことがある。ほとんどアンティーク趣味だが、ペーパレス技術を嫌う客に教えてもらったのだ。嫌な客だったが、知識はあった。だから嫌なのだ。
 大量のドリンク容器。栄養剤だろうか? 一度だけ店のオーナーに勧められたことがあるが彼女に味覚には合わなかった。ジュースの三倍近い値段がするのにその半分の量もないのもいただけない。
 充電器、安物なのかコードレスじゃない。そして明らかに使われた形跡がない。用意するだけ用意してしまい忘れたのかもしれない。
 さらに参照すべき重要な事実としてこの部屋にチェックインしたのは昨日の午後のはずだ。今や彼女の心底の呆れは遥か亀を追い越して超銀河の果にまですっ飛びそうな勢いである。
「宴会でもしたみたい……」
 やっとのことでそれだけ言うので精一杯だった。そしてふと気がつく。ロビンが頑なに相部屋を拒んだのは、ひょっとしてこれを見られないため? そんなバカなことってある?
「いや、あのな、輸送船の中は掃除ボットが面倒見てくれるんだが、その癖がなかなか抜けなくてなあ」
「ううん、そんなの絶対に関係ないわ。これって凄い、たぶん才能よ。一週間もいたってんならわかるけど、一晩でこれは、なんて言ったらいいのかしら……」
「そんなに引くほどのことじゃないだろう。どうせチェックアウトまでには片付けるんだから」
 その言葉は、もうすっかり三ヶ月分の驚きは消費し尽くした気分でいたジャネットを再度驚かせるには十分だった。彼女の中で何かが爆発する音がする。
「チェックアウト11時よ!? あと一時間しかないってわかってるの!?」
「15分もあれば終わるだろ」
「うそ、ウソ、嘘! 全部燃やすつもり!? ていうかトランク空っぽじゃない! なんで中身全部出すのよ! 一泊しかしないのよ!?」
「一番下に財布入れてたから」
「どーして一番使うものを一番下に入れてんの!? マジで信じられない! 貧民街の子供だってもうすこし常識ってもんがあるわ! 不潔を通り越してバカよ! ほんとーーーーーーーーーーーーーーーーーーにバカ!」
 自分の半分も生きていない少女の気迫にすっかり圧倒されているロビンを余所に、ジャネットは改めて決意を固める。「絶対にこいつをヒーローらしくしてやる!」
 それは宣誓に近かった。彼女は神を信じてはいなかったが、信じていたらこの巡り合わせを用意してくれた神に、ありったけの皮肉と怒りを込めてそう誓っていったところだ。
 そしてもう、遊牧民を導く神がかった巫女のような予知能力さえ必要なく、彼女にはこれからこの男がやろうとしていることがはっきりと予測できた。眼前の混沌の渦巻を全て、あの大口を開けたトランクケースに食らわせる気なのだ。少しの整理もせずに。なんて恐ろしい悪行。そのことを思うと脳裏から血の気が引いていく感覚さえする。
 絶対に阻止しなければ。やはり、彼女は決意を新たにする。まだ朝日の顔を拝んでから三十分と経っていないのに大忙しだった。そしてこれからもっと忙しくなる。
「なあジャネット、チェックアウトしてからのことなんだが」
「黙って! まずはこのカオスを退治するのが先!」
「カオス……?」
「ロビンは何もしないで! 絶対に! ていうかはやく髭剃っちゃって!」
「なんで怒ってるんだ」
「怒ってない!」
 反論する余地さえ与えずに彼をシャワールームに追い払う。バタン! 音をたてて扉を閉める。
「怒る気にもならないわよ……」
 それからは、長い戦いだった。
 これまでにジャネットの経験したことのあるどんな掃除よりも困難であるように思えた。
 けれどやっぱり、父親の飲み散らかした酒瓶をそれで殴られた手で片付けたり、さっきまで自分の体に入っていた避妊具を捨てたりするのに比べれば何のこともなかった。
 むしろ楽しい仕事。掃除を楽しいと思ったことなんて初めてだ。
 だけどやっぱり、長い戦いにはなった。ようやくロビンを解放してやれたのは、もうチェックアウトの十分前のことだった。
 タイムマシンから降りてきた彼に片付けられた部屋を披露してみせる。急いでやったからすっかり息があがってしまっていたけれど、彼女には心地よい疲れに思えた。目いっぱい自慢げに微笑む。
「どう? これでボーイから恨まれなくても済むでしょ」
 ロビンが清潔になった顎をさする。髭を剃るのだけはうまいらしい。もう服もバスローブじゃなくて、昨日会ったときのようなワイシャツを着ていた。くたびれてはいるけど、さっきまでの浮浪者然とした雰囲気はない。
「中に入ってる間に別の部屋につながっちまったみたいだ」
「それ、最初に部屋に入った時に私も思った」
 彼が笑う。彼女も合わせて破顔する。
 ああ、素敵。楽しい。まだ金星から出てもいないのに、こんなに人間みたい。
 けれどジャネットの笑顔はすぐに引っ込んでしまった。ロビンがトランクの中を確認し始めたからだ。それは当然の行為。あの中には彼の仕事道具も入っている。彼女がしまい忘れたものがないか、調べないほうが不自然だった。
「凄い。ボットがやったよりもきれいだ」
 それは別に構わない。
「なんだこれ、飲みかけのだぜ。こんなものまで律儀にしまいこんで。捨てちまって構わないのに」
 私だって同じ立場ならそうするわ。
「なあ、このパンツまだ洗ってなかった気がするんだが……」
 そして、きっと見つけるはず。
「ふうん、物理書類をまとめるのが上手いじゃないか。秘書を雇ってもそんな酔狂には付き合えないってんで逃げられちまうんだよ。ジャネットに事務仕事はやってもらおうか……」
 荷物を漁る彼の手が止まった。ジャネットの心臓が、一瞬動きを止めたみたいに痛む。昨夜買ってもらった浅葱色のワンピース、そのポケットの口を無意識に手が覆い隠す。店の売り物を盗んだときだってこんなに嫌な気分にはならないのに。
 彼が顔を上げる。その口が開かれて、また閉じる。言うべき言葉を探しているらしかった。そういう仕草を彼は隠そうとしない。たぶん生まれつきなのだろう。
「君は行かなくてもいいんだ」
 それが彼の選んだ言葉だった。
 なんてひどい人なんだろう。私は。罪の意識と、焦げ付いた思い出と、これからのことで目眩がする。
 ロビンがゆっくりと立ち上がる。ジャネットが後ずさる。けれど彼は、そもそも彼女の方に近づいてこなかった。かわりに、自分も一歩さがって窓際の椅子に腰掛けた。
「俺がうっかりしていた。君が見てしまう前に、さっさと昨日のうちに言ってしまえばよかったかもしれない」
 彼が懐からシガレットを取り出す。ホテルのAIがそれを感知して素っ気ないブザーが鳴った。ここは禁煙区域。
「私は! 戸籍には存在しない人間なのよ! どこの星の星民でもなければ、誰の子供でもない!」
 ジャネットが叫ぶ。ロビンはばつが悪そうに首を横に振った。
 トランクから抜き取られていた一枚の書類。それは昨夜、ロビンがエージェントAIに命じて調べさせた彼女の両親のデータを物理紙面に印刷したものだった。フルクトゥスは金星では一般的な性だから分母は相当数居たが、彼女の特徴的な頭髪、黒から白銀へとグラデーションする遺伝子を持つ者はごく限られていたためにすぐに見つかった。
 それによれば、確かに彼女の母親らしき人物は14年前に病死していた。そして父親は惑星開発事業の労働者として雇われていたようだが、金星の地球化(テラフォーミング)がほぼ完了した15年前に失業している。それ以来の職歴はノーデータ。日雇いの仕事を転々としているのか。そしてこの夫婦に子供はいない、ということになっている。
「だから、君は行かなくていい。俺が少し話をするだけだ。もちろん君が金星から出ていこうとしていることも言わない。本当に君の話したとおりの男だったなら、それで終いだ。確かに世の中には親の資格なんてないやつがごまんと居るからな」
「嘘なんてついてない」
「そんなこと言っちゃいない。君がたとえ嘘をつけないピノキオだったとしても、俺は同じようにするつもりだ」
「あんなクズ男に会うだけ無駄よ」
「例えどんな両親でも、ジャネットへの印象が変わったりはしないさ」
「そんなことするなんて思ってない! でもあいつの直感は野生動物並みなの。絶対に、あなたが私を連れ去ろうとしてることを感づくに違いないわ。唯一の金づるを手放すまいとして、もしかしたら、あなたを殺そうとするかもしれない!」
「自衛手段はいくつも心得てる。職業柄な。宇宙海賊に脅されたことだってあるんだ」
 ああ、もう、どうしてそうバカなの。そんな話百万回されたって何の意味もないのに。
 けれどジャネットにできることはなにもなかった。部屋を掃除することは許されても、こういったことの決定権は彼女にはない。ロビンの信じる善のために彼の行為が偽善になってしまうということを伝える、なんて、ただの腹いせにしかならないと彼女にはよくわかっていた。そんなこと、わからないほうがずっとよかった。こういうときこそ少女らしく箍を外して泣きわめいてわがままを言って……無駄な妄想。だいたい、彼にとってはジャネットの存在そのものが途方も無いわがままでしかないのだ。
「私も行く」
「やめとけよ。それこそ危険が増すだけだ」
「あいつがロビンを殺そうとしたら、私があいつを先に殺してやる」
「俺は君を殺人者にするために出向いていくんじゃないんだぞ」
 せめて、それがジャネットにとっての譲れない最後の一線だった。せっかく掴みかけた道、こんな初めのところで邪魔される訳にはいかない。そうなったとしても、せめて自分の意志の介在できる場でなきゃダメだ。
「いいだろう、わかったよ。だが危なくなったらさっさと逃げろ。俺一人ならいくらでも見を守れるが、ガキの面倒見ながらじゃ無理だ。それは約束してくれるか」
「約束なんてしない。誰も約束なんて守らない」
「……そうかい」
 話は終わりだというふうにロビンが立ち上がった。
「ねえ」
「さっさと支度しろ。俺の部屋なんて片付けてないで――」
「荷物なんてない。私が持ってるのはこの体だけ」
「ああ、そうだったな。すまない」
 謝ったりなんてしなくていいのに。
 最後の最後の抵抗として、彼女は口をへの字に曲げた。そんなの彼は見ちゃいなかった。

 ○

 彼女が一礼する。そんなのぼくは見ちゃいなかったけどね。じゃなんで叙述できるのかって、そんなの決まってるさ。
「尺的にここまで!」
 だってこの部分は、あとでさっぱり削除されるんだから。そういうのも、まあ、悪かないよ。
 ぼくは嫌だけど。
「次回をお楽しみに!」
 彼女がカメラに向かってピースして言う。設定上は美少女。絶対に詳しく描写してやったりなんてしないけど。
 で、そう、実はここ、そういう空間なんだ。今だけね。

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