全血縁がカルト信者の話 その6

・全血縁がカルト信者だとどんなことになるのか ~大学生編~

 大学生になり、大阪で一人暮らしを始めます。大学在学中は3回くらい人格がガラッと変化しました。

~1回生~
 高校までの無理がたたって故障箇所が複数&慢性的になったこと、不安障害で試合が難しくなったことから卓球部には入りませんでした。かといって新しく何かを始める元気も浪人で使い切ったため、卓球はサークルに入ってゆるーく継続します。一方で何かほかのことをやりたい気持ちもあったので、3歳頃からやっていた合気道をこれまたサークルで再開します。
 1回生で問題だったのは勉強面でした。少しでも手を抜くと全くついていけません。なんということでしょう。かしこい私はここでようやく気が付きます。入試に費やしたのと同程度の努力を卒業まで続けなければならないことに…
 以降、「実家」で食事・睡眠をすることに恐怖を感じるようになるまでは(後述)、テスト期間後這う這うの体で岡山に帰り、一人暮らしをしている友達の家に転がり込み、MPを回復してから大阪に帰るという学生生活を送ることになります。

~2回生~
 ダダでさえ勉強ですごいことになっているところにサークル運営なる魔物が襲い掛かってきます。バイトさえできません。幼少期より「実家」で醸成された「滅私奉公」が悪く作用します。思い出したくないので詳述はしません。2回生後半から謎の体調不良に自律神経失調症という語が付き始めます。

~3回生~
 サークル運営から解放されるものの、コース分けの生存競争や、1年限定だから実行できていた浪人期の努力と同程度の努力の蓄積、相変わらずな「実家」、当時交際していた人間の闘病などストレスがどんどんインフレしていきます。同科の友人、サークル、恋愛、いろんな「場」を手にする代わりに、それぞれのストレスを抱え、しかしながらそれらを吐露できる「場」が新しく増えない。このような言い方ができる1年だったと思います。

~4回生~
 とうにストレスなど身体から溢れていますが、夏には院試が待ち構えています。交際相手が就活を終えたらちょっと助けてもらおうかなーなんて思っていた矢先に振られます。しょうがないにぇ~。幼児みたいに泣きじゃくってました。ただ如何せんタイミングが悪い。崩壊の起爆剤になってしまいました。
 それまで身近に気に掛けるひとが居るから、と思いとどまっていたことをどんどん実行していきます。あっという間に部屋は酒で埋まり、体は傷だらけになり、首にはラッシングベルトの跡が付きました。このような自傷行為は約一年続きます。
 はて、それでも院試は待ってくれません。何とか正気を保とうといろんな人に連絡を取っていました。その中の一人が保険医をしており、学校の保健センターを予約してくれました。これが今後の人生における神の一手になります。まぢ卍。予約された保健センターを訪れ、まずは心理士と面談をします。面談といっても、発声を促されてからは時間いっぱいまで、堰を切ったかのように言葉と涙が流れ続けました。相槌をしたい彼女はそれに同情的な態度を示し続けます。一通り話し終わった後、午後から精神科医との面談を進められ、承諾します。私が退室する際に
「こうして○○さんは1歩踏み出してくれたんですね!」
ハッキリと覚えています。コピー用紙のような言葉を口にしました。
 午前の同情的な心理士とは打って変わって、午後はとても落ち着いた精神科医が面談を始めました。先と同じようなことを先と同じように話した気がします。精神科医からはとても整理された自分の情動や喫緊の問題点が返ってきました。非常に納得し、落ち着いたことを覚えています。この医師とは3年後の卒業まで、半月に1回の面談を重ねていくことになります。
 同時期、研究室の教授もあまりのおかしさを気にかけ、話を持ち掛けてきます。全部話し終えて私に語り掛ける教授は1筋だけ涙を流していました。自分の昔と何か重なることがあったのだろうかと思ったことを覚えています。

 こうして面談、服薬をしながら院試対策を進める私ですが、院試当日に事件が起きます。
 受験の準備をして、玄関に向かったまでは覚えています。気が付いたら玄関前で倒れていました。院試はとうに始まっています。急いで原付にまたがり、会場に向かいます。入場時間は過ぎていましたが、なぜか入室させてもらえました。それまでに何度か教授会の話題に挙げていただいていたようで、その影響かもしれませんし、全身生傷だらけの風貌に動揺したのかもしれませんが、まあ真相はわかりません。
 1日目の日程をこなすだけこなし、試験教室で一人泣いていました。
 もう限界であると悟った私は担当教員と教授に相談に行き、即時休学を決めます。この後、臨時の教授会が開かれ、休学が承認されます。本来は院進を確定させた上で戦略的に休学を挟み、3年ほどで修士を卒業するプランでした。あっけなく将来の展望はなくなりました。2日目は将来受けるであろう院試の予行演習と言われ、受験だけしました。
 結果として院試は合格点数でしたが、仮に受かっていても卒論を終わらせられる状況でもなし。4回の後期から休学生活に突入します。

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