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怪文書についての話

怪文書という存在について前回少しだけ触れたが、"インターネット怪文書"と呼ばれる投稿が存在する。
現実世界での怪文書とは毛色が違い、誹謗中傷・誰かを貶めるという意味合いは薄い。
そのあたりの定義はニコニコ大百科の該当ページを参照したい。
本稿で触れるのは上記ページの1・2に該当する。

この怪文書というネットミームがぼくのツボにかなり刺さる。刺さりすぎて時には書き手として投稿し、好評あるいは不評されるのを楽しんでいる。
しかしながらこの怪文書、快作を世に送り出すのはとても難しい(ぼくの怪文章力が拙いことも大いにある)

捻りに捻った怪文書は大概の場合は不発に終わることが多く、ひらめきと勢いだけで綴った怪文書こそがクリティカルヒットとなり得る。
所謂「降りてくる」という感覚に近いのだろう。自分が匿名で投稿した怪文書が広く読まれればやはり嬉しいし、また次も快作(正しくは怪作と呼ぶべきかもしれない)を練り上げたいという気持ちになってくる。
そこに一切の利益は生じないし、ただ純粋に怪文書が好きという気持ちだけで投稿している。

ここで大切にしているのは匿名性だ。ハンドルネームを付けた瞬間に冷めてしまう。
同じコミュニティ内で投稿を続ければ、もちろん文体や話の方向性で「ああ、またあの人の投稿だろうな」と、ある程度推測はできる。
しかし匿名であれば確信は持てないままだ。この確信が持てないという状況が非常に面白いと感じている。

匿名であるのに有名と書くのはおかしい気もするが、ある程度名が広まっていくと方向性を真似たコピーキャットのような投稿も散見される。
Aという怪文書がA'という怪文書を産むのだ。ぼくはこの拡がり方が非常にネット的で好きなのである。

好き嫌いの感情論ではあるが、上記のような理由で怪文書作家には匿名性を重要視していただきたいと考えている。
もちろんハンドルネームを付けて、あるいはどこかのアカウントで怪文書を投稿して楽しむという行為は完全には否定できない。趣味の範疇でのスタンスの問題であると考える。

匿名性の問題点も確かにあるのだ。
誰が書いたのか分からないが故に作者を騙り、承認欲求を満たすような者も少なからず存在する。
少し前にもネット発の単語の起源をプロ作家が騙った事件などが良い事例だ。
このあたりは怪文書愛好家のモラルに委ねられるであろう。

この"インターネット怪文書"という文化は、良くも悪くも誰が書いたか分からないという点で他の文章と圧倒的な差別化ができていると思う。
だからこそ個人的には匿名性を保ったまま続いていって欲しいと切に願う(了)

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