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アナウンスは私の魂

声に出して読むのが好きです。
別にそれは自分の声が好きだからってわけじゃあないです。

目の前の文章を読むこと―それは、自分の言葉ではないのに自分の言葉のように操る感覚があります。言語化するのがあまり得意でない私にとって、読むことは心の洗濯と化していました。

中学生の頃、超漠然としながらも「声優」を夢見た時期がありました。
毎週のジャンプや手元の漫画本を台本代わりにカセットで録音して、それを聴いては自分の声に落胆していました。
(これでも少年ボイスを練習していた身です。うわー恥ずかしい!!)

自分の時間は専ら某掲示板の声優板や声優のラジオにかじりついていました。掲示板のスレに書かれてあるソース不明の真実っぽいものを露骨に信じて「この業界で生きていけない」と悟りだしたのが懐かしいですね。
今はそこまで聴くことは無くなりましたが、文化放送目当てに遠距離受信を試みたあの頃を思い出すとすごい執念だなと思います。
そこから「アナウンサーになろう!」と進路変更したのはある意味必然だったのかもしれませんね。

声優は役者そのもの。対してアナウンサーは自分自身です。
メディアを通して誰かに伝えること…例えそれが「用意された文章」だとしても、「自分の言葉」として液晶・スピーカー越しに話しかけてくれる存在が尊い―そのくらい、私にとってアナウンスは神聖なものなのです。
高校放送部で初めて発声練習をしたとき、上手く出来なかった悔しさよりも将来のワクワクさを感じました。

大会では言うほど強くはなかったけれど、それでもアナウンスは楽しかったし、続けたかった。
だから、間接的ながらも一人ひとりに言葉をかけられるアナウンサーになりたかった。
それだけに、アナウンスが宝の持ち腐れになるのはとても悔しかったのです。

私は今、ナレーターの活動をしています。といっても仕事はさほどなく、せいぜい「note朗読」で人様の文章を読ませていただいている程度です。

けれど、文章を声に出すのは仕事といえども一番楽しいです。
アナウンスの名の下に生まれたから?必要とされていることに満足感があるから?

そうではありません。
何故ならアナウンスは「文章に命を宿す作業」だからです。
自分の言葉は命があります。他人の言葉を自分の言葉として言うのはとても簡単ですが、伝えるためには話すための技術が欠かせません。
この基本技術こそが、心の洗濯になっていたわけです。

アナウンスは人生の一歩を踏み出してくれた恩人です。
ナレーター以外の仕事をしていても―やっぱり私は文章読みを捨てられませんでした。

私の大切なもの:アナウンス

このnoteはなっちゃんさん主宰企画「#私の大切なもの(#大切なものコンテスト)」応募記事です。

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