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一部の人から見れば、私はサイコパスかも

いわゆる「ヤバい人」から直接被害を受けたことがない(被害がないとは言っていない)もので、実際にヤバい人が勝ち誇っている姿を見たことがありません。
多分私が(無意識に)ヤバい人の鼻をへし折っているからなのでしょうが、ヤバい人もヤバい人でもう少し私に対して親近感や好意を持って欲しいと思うことがあるのです。

noteやTwitterXなどを見てみるとヤバい人からの被害談がわんさかありますよね。見ていると「あー大変なんだな」と思うこともあれば「SAN値皆無のときにさらなる削減を求めるんじゃない」とイラつくこともあります。
自衛するしかないんですけど、自傷行為しないと自分を保てないってのがあるらしく、ついパンドラの箱を覗き見してしまいます。
誰かが言っていましたが、怒りは創作の原動力になりますし、ネタにしやすいんですよね。特にコラム・エッセイ物だと世の中の不条理に対する意見を通せますし、その分共感も得られやすいです。その上デリケートな問題だとヤバい人が釣られる確率が高くなりますし、ある意味創作そのものがパンドラの箱製作に近いのかもしれません。

いろいろ見たり人と交流したりする中で、物を言いたくなる場面があります。前までは平気で引用して自分の意見を書いていましたが、今は自重しています。
ネット全盛だからこそ言論のぶつけ合いは活発に行うべきだと私は考えています。しかし、ぶつけ合いが元で誹謗中傷(に見えるように相手の精神をグチャグチャにさせる)などのトラブルに発展することも簡単にできてしまいます。このあたりが厄介なもので、大抵裏にはヤバい人が絡んでいるんですよね。

問題によっては誰も悪くないケースもあります。
他人の人格はそれまで歩んだ人生経験によって形成されますから、そりゃあ相容れなくて当たり前なことも平気で起きますよ。
例えば、リーダーが定めた方針に対して「それは違う」と声を出すのは方針そのものに問題があるからで、輪を乱すつもりは毛頭ないわけです。ところが見方を変えると、リーダーが言う事為す事に対して文句ばかり言っている人は「リーダーに不服なのでは?」と見えることも。
当人同士で指摘し合ってもお互いにピンと来なければお互いに鼻をへし折る展開になりますし、それこそプロレスを超えた殺し合いにもなりかねないのです。

相容れない人から見たら、私はサイコパスを認定されてもおかしくないと思っています。
事実、理論や思考はめちゃくちゃです。それは否定しようがありませんし、自分自身でさえも疑い続けています。
多分ヤバい人が近づいてこないのって、本能レベルで「虹倉は危険」と判断するからなのでしょう。近づいたら最期ネタにされ続けますし、静かになったかと思えばまた復活するからかも。
それに近いことを母に言ったら「幸せなことなのでは?」と言われました。
我が強いのも悪くはないですね。

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