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 ラファエル・アリギエーリ陸軍少佐は退屈だった。銀色の面白くもない壁と床、独房のように無機質なパイプベッドと机、椅子、それに洗面台。窓からの景色は組織の建物ばかり見え、情緒がない。こんな部屋にずっといたら気が狂いそうになる、いや、もうなっているかもしれない。彼はつまらない部屋を見渡した後、自動扉を解錠すると自室を後にした。
 所在地不明――一部によるとドイツ南部の山地に作られたとも噂される連合軍"特殊"基地はとてつもなく広かった。まだエルネストやラファエルは、その全貌を把握していない。彼らだけではなく、ここに属している多くの人間がそうだろう。隔離された空間であるにもかかわらず、彼らが生活に困ることはなかった。ライフラインも食糧も完璧なこの施設で困ることといえば……娯楽ぐらいか。尤も、ここで遊んでいる暇はない。
「酒、酒が飲みたい。」
 彼は軍属されてから酒を一切口にしていなかった。煙草は外の売店で電子式のものを手に入れられたが、酒を取り扱っている施設を見たことがないのだ。マップで見るとバーが存在するようだが、それはラファエルの部屋からかなり遠い場所にあった。そのため、わざわざ出向く気にならなかったのだ。だが今日は週に一度しか無い貴重な休みだ。もしバーに立ち寄ったらワインでも飲もう、と彼は歩みだした。

 つや消しした銀色の廊下がひたすら続く。部屋側の窓には、時折実験室のような光景が映ることもあれば、訓練の様子が見えることもあった。昔とは違う。マフィア時代にいたナポリは景観の華やかさとゴミで溢れたワクワクする混沌さがあった。喧嘩もしたし、男も女も騙して遊んでいた。自由だったのだ。それがどうだ。今の自分は、この無機質な廊下を歩く、見えない鎖で繋がれた権力の犬になっている。ここで己を鍛え憎きテロリストを倒して活躍すれば、金も名誉も貰えるかもしれない。だが、それでは《つまらない》のだ。友人はできたが、一人を除きガラの悪い自分からある程度距離を取っていた。
「エルネストと飲もうと思ったが、あいつは演習で疲れて寝てるしな」
 エルネスト・ロダン。価値観も出自も大きく異なる彼だが、どういう訳か彼と話をする回数が一番多かった。その理由について、ラファエルは、深くは考えなかった。馬が合うのだろう。海軍少佐の彼は、昨日トンキン湾で行われた演習から帰ってきたばかりだ。起こすのも悪いと遠慮した。遠慮?昔の自分にそんなものはなかった、感化されたか?彼は自嘲しつつも、施設の外へ出た。まだ昼だ。まだ暑さの残る日差しが、ここの季節がかろうじて秋であることを教える。そこに見覚えのない、否、見知らぬ人などラファエルにはごまんといるのだが……少女の影があった。
「こんなところに子供?」
 ツインテールの小さな人影。気になって影の元を探すと、いた。
「だれ?」
 赤い縁の眼鏡をかけ、茜色の目の少女がうさぎのぬいぐるみを抱えて立っていたのだ。服装は、ラファエルらと同じ白い軍服。違うところは、スラックスではなく膝上のスカートで、ネクタイの代わりに赤い蝶ネクタイをしているところだろうか。
「軍の関係者だ」
「私もよ」
 あまりにもあっさりと返されてラファエルは拍子抜けした。このチビが?確かに、ここは子供がやすやすと入れる空間ではないので迷い込んだとは思えないが、軍部だぞ。そう思った。
「なんでここに」
「日向ぼっこ」
 少女のにんじん色のツインテールが、ゆらりと動いた。噛み合わない会話に呆れるラファエル。
「そうじゃなくてどうしてなんでこの組織に……まぁいい、ガキの考えていることはよくわからん」
「わからなくてもいいよ。だけど、貴方こそこんなところでなにしてるの?もう13時32分よ。」
 は、そんなの人の勝手だろうと返そうとして腕時計を確認する彼は軽く驚く。少女は正確に時刻を当てていたのだ。
「おひさまの位置から、時間が分かるの。」
 どうしてと訊く前に少女は付け足す。こいつはただのチビではないと確信したラファエルは、思い切って尋ねた。
「……ひょっとしてお前も改造人間バイオニクスか?」
「ううん、私は人造人間ホムンクルスよ。"おまえも"ってことは、貴方はバイオニクスなのね」
 ホムンクルス。聞き慣れない言葉に、ラファエルは首をかしげる。何が違うのか、と彼は質問した。
「貴方は1から10になるけど、私は0から10になるの」
 抽象的な表現に、解釈を委ねられて困ったラファエル。
「つまり、なんだ。卵の段階から改造されたとでもいうのか?」
「そう。一種のデザイナー・ベビー」
 よく見ると7、8歳ぐらいの少女から、そんな言葉が出てくるとは。やはりこの組織は狂っている、彼はそう思いながらも口には出さなかった。自分の親はクズだったが、彼女は試験管生まれだから親すらいないのだ。彼が複雑な顔をして考え込んでいると、今度は少女が質問をした。
「貴方は、何番目?」
 それが何番目の改造人間かを尋ねていると察したラファエルは、答えた。
「セカンドだ。」
「じゃあ、ラファエルさんだね」
 ぬいぐるみの耳を軽く引っ張る少女。名前を当てられて、狐につままれたような顔をするラファエル。なんとなく不服だったので、質問を返す彼。
「お前も名乗れ」
「そんな事言わなくても、言おうとしたのに。……ヴァネッサ。ヴァネッサ・エンフィールド」
 姓はどこから来た、と言おうとして、やめる。
「引き止めて悪かった」
「そちらこそごめんなさい。何か用件があったんでしょう」
 柄にもなく謝り酒場へと足を進めたラファエルを気にもせず、再び一人になったヴァネッサは"日向ぼっこ"を再開した。
「貴方が陸の子なら、私は空の子。海の子と一緒に、未来をつくるんだ。」
 その茜色の瞳は、何を見ていたのだろうか。

「ドクター・ヴィニャーナ、兵器開発プロジェクトの最新版です」
「ドクターなんて仰々しいなあー……ちょっとうれしいけどね。どうら、見せてくれ」
 精霊ヴィニャーナという渾名を持つ博士が、カンボジアの首都プノンペンにある、とある雑居ビルで、複数の男たちが渡した書類に目を通していた。しわくちゃな白衣を着て、コピー用紙に書かれた設計図を眺めていた。
「よし、この技術なら悪路も歩けるし、いいんじゃないかなあー。」
 間延びした声で同意する博士。穏やかに笑顔を向ける彼もまた、
「相手は徹底的に殺さないといけないから、地の果てまで追いかけなきゃねー。」
 テロリストであった。
「わかりました。それと別件が。……"影"の方のメンテナンスを」
「あー、それ、僕の管轄外だからなぁー……」
「申し訳ないです、メンタル面のカウンセリング担当者が、ハイフォンで射殺されて」
「嗚呼、そう。」
 書類をヴィニャーナに渡した男が謝る。仕方ないなあと、ため息をつく博士。納得はしたが、
「あとね、物扱いはだめだよう。大事にしなきゃ。僕と同じ、"4つの命"となる人なんだから」
 その紫色の目は、鋭く輝いていた。背筋の凍る男たち。
「まー、僕も候補だし、完全に決まったことじゃないけど、そういう流れなんだろう?」
 後ろで手を組み、背もたれ付きの椅子により掛かる彼。アメンテスは確実に、
「"魂"と"名前"もはやく決まると良いね」
 組織を強固なものにしようとしていた。

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